平民に転落した元令嬢、拾ってくれた騎士がまさかの王族でした

タマ マコト

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第20話 「花の咲く場所へ」

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 春の王都は、紙の匂いがする。
 民議会の掲示板は新しい釘で支えられ、読み上げ隊の子どもたちが順番に声を合わせる。粉屋の裏庭には机が増え、洗濯場の隅には簡易な黒板。祈祷堂の軒先には「字の教室 午后」の札。
 ――あの日から、季節はいくつも巡った。

 私とカイルは、王宮の書庫で仕事を終えるたびに庵の村へ通った。王都に新しい小さな学校を開いたあと、次に開くのは村だと決めていたからだ。
 村の道は石畳ではなく、踏み固められた土の柔らかい感触。焚き火の煙は甘く、パン生地を焼く匂いが風に混じる。あの庵の跡地は、今は小さな校舎になった。窓は低く、戸は軽く、机は子どもたちの背丈に合わせて作られている。壁には字の練習の紙が花のように貼られていて、窓辺には本当に花が咲いている。誰かがこっそり植えたのだ。多分、子どもたち。あるいは、あの老婆だ。

「先生、今日の詩はこれ!」
 テオが紙を掲げる。王都の少年だった彼は、いつの間にか村の子どもたちの兄分みたいになっていた。
「いいね。じゃあ、みんなで一緒に」
 私は黒板にゆっくり書く。
 《火は渡る。言葉も渡る。》
 子どもたちは声を揃え、音が教室の木の梁にやわらかく跳ね返る。

 放課後になると、カイルは決まって外で薪を割る。王都では“議長”の彼も、ここではただの“カイル”だ。額の汗をぬぐい、斧を置き、子どもたちに「手を挟むなよ」と笑う。斧の音が途切れると、風の音が聞こえ、遠くの畑で鈴の音が鳴る。
「王都は?」
 私が水を差し出すと、彼は一口で半分飲んで、息を吐いた。
「民議会、とうとう“読み上げの順番”の取り合いになった」
「健全な喧嘩だね」
「そうだな。剣よりよっぽどいい」
 彼は、昔より少し、よく笑うようになった。肩の力が抜け、目の奥の硬さが薄くなって、でも真ん中の芯は変わらない。
 私はそれが嬉しくて、嬉しいと言葉にするのが照れくさくて、かわりに花壇の小さな芽を指差す。
「もうすぐ花祭り。――今年も花冠、作る?」
「去年より、上手に」
「それ、いつも言う」
「練習は裏切らない」
「先生みたいなこと言う」
「先生の言葉を盗んだ」
 私たちは笑い合って、風の匂いを嗅いだ。土の匂い、木の匂い、パンの匂い。世界は思ったより大きくなくて、でも十分に広い。

 その夜、村の集会小屋で小さな会議があった。読み上げ隊の村支部、学校の当番、祭りの飾り付け、そして――「いつするんだ」の小さな声。
 老婆が杖でこん、と床を叩く。
「いつ、ってのは、決めないと決まらない」
「何のこと?」と私がとぼけると、誰もがわざとらしく目をそらす。
 テオが耐えられずに笑い出した。
「先生とカイルの、結婚式だよ!」
「お前……」カイルが耳まで赤くなる。
 老婆はにやりと笑い、片目を細めた。
「王都で盛大にやるのもよし。けど、あんたらの火はどこで一番温かかった?」
 私は答えられなかった。喉は答えを知っているのに、胸の中で言葉がもつれる。
 代わりに、カイルが私の手を探して握る。
「ここで。――この村で」
 言い切った声が、土間にきれいに落ちた。
 その音で、やっと私の口も動いた。
「ここで、お願いします」

 決まってしまえば、準備は早い。村の結婚式は、飾りすぎない。パンを焼き、スープを煮て、花を編む。衣も豪奢なものはいらない。白い布と、清潔な手。それで十分だ。
 エリオットは王都から来ると言って、結局、当日ぎりぎりの馬で駆け込んだ。泥だらけの靴、口元に笑い。
「間に合った」
「遅刻よ」
「仕事だった。半分は祝福、半分は監視」
 彼はいつものように肩をすくめ、私の手を取っておどけて頭を下げる。
「先生、おめでとう。……君が生きる場所を選んでくれて、ありがとう」
「こちらこそ。半分はあなたが運んだ道だから」
「じゃあ、俺にもスープ半分」
「一杯あげる」
「やった」

 王都からは礼式監も来た。場違いなほどきちんとした正装で、村の土間に足を踏み入れ、空気に戸惑い、最後には腕まくりをした。
「手を貸す。リボンの結び目は得意だ」
「礼式監、万能」
「礼をわきまえる者は、ほどける結び目を嫌うものだ」
 彼は真顔で言って、子どもの花冠の結びを直した。
 老婆はというと、相変わらず杖でこん、とやっては「襟、立ってるかい」と私に尋ね、私がうなずくと満足げに顎を引いた。

 式は陽が落ちきる前に始める。夕暮れの金色が畑を横切り、庵の校舎の白い壁をやわらかく照らす。花冠は子どもたちが編んでくれた。少し歪んでいて、だからこそ美しい。
 村の人たちが輪になり、真ん中に小さな板台。神官はいない。代わりに、読み上げ隊の最初の青年が板書を持って立つ。
「本日の読み上げ:誓いの言葉」
 テオが胸を張って、声を出した。
「『火は渡る。言葉も渡る。人は並ぶ。――信じる』」
 その合図で、私は一歩前へ出て、カイルの前に立った。彼は外套ではなく、村のシャツ。私も白い布の簡素なワンピース。青い宝石の指輪は、あの日のまま、光を小さく返す。

「アメリア」
 カイルが私の名を呼ぶ。王宮では“ミリア”で通すことも多かったけれど、今日は最初の名で。
「俺は王でなくていい。……でも、君の隣で、逃げない。火が弱くなった夜は薪を割り、言葉が乾いた朝は水を汲む。君が笑うと、俺の火は消えにくくなる。君が泣くと、世界に腹が立つ。だから――君を守る。王冠のためじゃなく、俺のために。そして、君のために」
 胸が熱くなった。何度も聞いた告白なのに、何度でも形を変えて、同じ場所に降りてくる。

「カイル」
 私も真っ直ぐ、彼の目を見た。
「私はレオンハルトの娘で、“ミリア”で、そして、ただのアメリア。字で生きる人。あなたが“王でなくてもいい”と言った夜、私は救われた。あなたが“王でなくてはならない夜には剣を持つ”と言った朝、私は世界を好きになった。……だから、並んで生きる。怒りには紙を、絶望には声を、寒い日には薪を。私も、逃げない」
 風が、私の髪を少し持ち上げて、花の香りの方へ押した。

「指輪を」
 エリオットが板の向こうからそっと差し出す。
「仕事は監視だが、役回りは友人だ」
「ありがとう」
 カイルは私の左手を取り、青い宝石の指輪を、ゆっくりと薬指に戻す。ぴたりと収まる小さな重み。
「返すんじゃない。改めて、預ける」
 今度は私が彼の指に、細い銀の輪をはめる。
「返すんじゃない。改めて、一緒に持つ」

 読み上げ隊の青年が、紙をめくる。
「誓い、完了。――結び目は、ほどけないように」
 礼式監が思わず咳払いして、口を挟む。
「結び目は、ほどけないよう“毎日”結び直すものだ」
 村の笑いが、円を描くように広がる。

「キス!」
 誰よりも早く叫んだのは、テオだった。
「テオ!」
「だって、みんな待ってる」
 私は顔が熱くなるのを誤魔化すように、深呼吸を一つ。カイルは目を細め、ほんの少しだけ首を傾ける。
「――儀礼として」
 彼の額が私の額に触れ、それから、そっと距離が縮まる。
 花の匂い、パンの匂い、焚き火の煙、彼の肌の塩。
 唇が触れる瞬間、世界が一度だけ静かになり、次に、拍手と笑いと、子どもたちの歓声で満ちた。

 夜が落ちると、村の広場に焚き火が灯る。
 スープの鍋がぐつぐつ鳴り、パンが割られ、誰かが古い楽器を持ち出して、下手くそな旋律を始めた。下手でも、いい。みんなが笑っているから。
 老婆が私の隣に腰を下ろし、湯気を鼻で吸った。
「襟、立ってるかい」
「はい」
「なら、幸せだ。襟が立たない人生は、肩が冷える」
「名言」
「年寄りは、時々うまいことを言う」
 老婆は満足そうに頷いて、湯飲みを両手で包んだ。

 私は焚き火に手をかざし、反対の手でカイルの袖を掴む。
「王都が恋しくない?」
「少しはな。でも、こっちの方が空が広い」
「あなた、王様より農夫が似合うって言ったの覚えてる?」
「覚えてる。君も“先生”より“ミリア”が似合う」
「じゃあ今日は、アメリアでもミリアでも、どっちでもいい」
「どっちも、君だ」
 焚き火の先で、子どもたちが輪になって踊る。花冠がずれて、笑い声が風に転がる。
 音楽が、ぎこちなく、でも温かく続く。
 私はふと空を見上げた。星はよく見える。王都よりずっと多い。
 あの夜、私は「もう誰も信じない」と誓った。あの言葉は風にほどけ、今はもう、私の中にいない。
 代わりに、灯りがある。小さくて、消えにくい灯り。私と彼が分け合う灯りで、村の焚き火に似ている。

「アメリア」
「なに」
「ありがとう」
「どういたしまして」
「この一年と、これからの全部を、君と一緒に過ごせる」
「うん。……これからの全部は、長いよ」
「長くていい。練習は裏切らない」
「またそれ?」
「事実だろ」
 私たちは笑い、肩を寄せる。焚き火の火の粉がふわりと舞って、夜の中に消えるたび、誰かが「わ」と声をあげた。

 少しして、エリオットが杯を片手にやってきた。
「新郎新婦。規則上、乾杯を提案する」
「規則上?」
「心の規則。――幸福に」
 彼は真顔で杯を掲げ、それから少しだけ小声で付け足す。
「そして、俺の仕事が減りますように」
「減らないよ」
「知ってる」
 私たちは杯を合わせ、喉に温かさを流し込む。
 王都のこと、民議会の議題、学校の畑、粉屋の新しい手伝い、洗濯場の物干し――話題は尽きない。世界は複雑だけれど、目の前のやることは意外と単純で、ひとつずつやればいい。

 夜更け。
 焚き火が少し落ち着き、楽器の音が遠くなって、村の中心に静けさが降りる。
 校舎の壁にもたれて、私は青い宝石の指輪を指で撫でた。
 星明かりに小さな光が走る。
「ねぇ、カイル」
「ん」
「明日の授業、何から始めよう」
「花の名前」
「いいね。じゃあ、午後は詩」
「最後に、薪の割り方」
「字の教室よ」
「……実技もいる」
「却下」
 くすくす笑いながら、私は彼の肩に頭を預ける。彼の体温は焚き火よりも安定していて、呼吸は私の呼吸とすぐに歩調を揃えた。

 ふと、遠くの道に、小さな灯りが揺れた。
 王都へ続く道。
 ここからあそこへ、あそこからここへ、火は渡る。言葉も渡る。
 私たちの結婚式は、王宮の記録には小さな文字でしか残らないかもしれない。でも、それで十分だ。
 私たちは、大きな物語の端っこで、毎日小さな物語を重ねていく。焚き火の薪みたいに。ひとつずつ、軽いのから。時々、重いのを。

「幸せ?」
 カイルが問う。
「幸せ」
「俺も」
「じゃあ、確認」
「何を」
「――キス」
 私が言うと、彼は目を細め、ほんの少し困ったふりをした。
「儀礼として?」
「私的に」
「規則違反」
「努力します」
 私たちは笑って、もう一度、そっと唇を重ねた。
 村の夜はそれを祝福するみたいに、風をやわらかくした。花の匂いが濃くなり、遠くの犬が一度だけ吠えて、すぐに眠った。

 ――こうして、私たちの物語は、ここで一度、区切りを迎える。
 王ではなく、人として。王妃ではなく、先生として。剣ではなく、言葉で。
 火は渡り、言葉は渡り、私たちは並んで進む。
 襟は立っている。
 そして、手は離れない。

 おやすみ、世界。
 おはよう、明日。
 私とあなたの小さな国は、今日もちゃんと、あたたかい。

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