追放された私の代わりに入った女、三日で国を滅ぼしたらしいですよ?

タマ マコト

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第16話「青炎の選択」

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 夜は、骨の奥に入ってくる。青い灯を最低限に絞った街は、呼吸を忘れない程度の明るさで、眠るふりをしていた。私は外套の襟を指先で整え、広場の端から“中枢”へ降りる階段に足をかける。石段は冷たく、靴底を通して静脈に触れてくる。奥へ行くほど、街の歌が低くなる。唸る第五、軋む第七——腐蝕の低音が、まだ生きている。

 「——行くのか」

 背からアシェルの声。粉と鉄の匂いのままで、音だけが夜仕様に落ちている。

 「行く」

 短い返事。私の声は氷みたいに薄く、割れていない。割らないで運ぶには、この薄さが都合がいい。アシェルは並んで降り、手すり代わりの岩に触れて温度を測る。温度は、まだ持つ。持つけれど、このまま朝を迎えたら“静かな腐蝕”は再び起き上がる。眠りは浅い。浅い眠りの上で人は悪夢を見る。

 「支える。支えて、叱る」

 「役割の多い護衛ね」

 「お前の役割の多さに比べたら可愛いもんだ」

 石段の最後の踊り場で、三つの足音が待っていた。カミラが掲示板用の板札を胸に抱え、ミレイユは髪を布でまとめ、ヨエルは笛ではなく麻痺符の束を帯に差している。少し遅れて、杖の乾いた先でリズムを刻みながらバスクが降りてきた。五人——輪を作るには十分だ。輪は孤独を薄める。代わりに、重さを分け合う。

 「配置は?」とカミラ。

 「方位に意味が出る。北にアシェル、火の性。東にカミラ、言葉の性。南にヨエル、身体の性。西にバスク、耳の性。——中央に私」

 「私は?」ミレイユが身を縮めないで問う。目はまだ脆いが、逃げる角度を知らない。

 「輪の外、一歩だけ。灯の持ち手。揺れを見て、揺れを歌に戻す」

 彼女は小さく頷き、青いランタンを二つ持って、私たちの輪の外側に立った。

 中枢は、地下の大空洞だ。石の肋骨に見える支柱が弧を描き、中央には整流の節が巨大な心臓のように鎮座している。透明化術式の下層、共有しなかった“裏の回路”が、今はむき出しに脈を打っていた。そこに、私の“種”がある。名を与え、条件を縫い、眠らせ、起こし、また眠らせた——私のもう一つの手。

 「最後の確認」バスクが杖で石を二度叩く。「手順、告げよ」

 私は頷き、手の甲に刻んである順序を読み上げる。

 「一、逆相の呪。腐蝕と同位相の“裏返し”を重ねる。二、燃焼の変換。腐蝕を熱に、熱を“青い炎”に。三、代償の捧げ物——“魔力”と“記憶”。四、封の縫合。殻の外に“枠”を作る。五、監視の委譲——耳を分け合う」

 「記憶を、何にするの」とカミラが聞いた。声は揺れていない。だが、揺れない声ほど、私の骨に響く。

 「……王城の廊下の朝の光。拍手の音。私に向けられた“救い手”って言葉の最初の色。——それから、復讐を最初に“定義した夜”の温度を、少し」

 アシェルが目だけで抗議する。言わない。言わない代わりに、私の手首を一度、握り、離す。握った跡が、脈に印を残す。

 「やめない」と私。「必要だから。刃を磨くためじゃない。刃を布で包むため」

 ヨエルが短く頷いた。「俺は、殴らないで眠らせる。今日も、ここで」

 輪ができる。四方に立った彼らの呼吸が、石の肋骨に反響して、遅い拍になった。私が中央へ進む。整流の節の頂に、薄く“殻”が見える。見えるというより、触れる前から指先にわかる。冷たい。理屈で作った冷たさ。私の字で書かれている。やけに綺麗な字。綺麗な字ほど、心から遠い。

 「——始める」

 私は右手を殻に置き、左手を自分の胸骨に当てる。逆相の呪は、言葉にすると良い。だが、声には出さない。出せば、街が聞く。街に聞かせるためではない。私が聞くためだ。舌の裏、口蓋の奥、喉の壁——黙ったままの言霊を、骨に擦り込む。

 (落ちるものを、裏返す。腐るものを、燃やす。切るものを、つなぐ。名づけて、手放す)

 殻の表面に、毛細のひびがゆっくり広がる。次の瞬間、脈が吸気と拮抗して、時間がわずかに膨らんだ。青い灯が二つ、いっせいに呼吸を忘れ、すぐ思い出す。その間に、私は代償の箱を開けた。

 魔力は、血みたいに温かい。温かいものを捧げるのは簡単だ。難しいのは“記憶”だ。記憶を抜くとき、人は自分の骨を削る。削った粉は光らない。私は目を閉じ、最初の記憶の輪郭を指で縁取る。

 ——王城の回廊。朝の光。磨かれた石の床に光がつくる帯。彼女の笑い声。ミレイユ。誰もが褒めて、拍手して、彼女はもっと笑う。私の指は配管の壁に触れ、耳は街の歌を聴き、背には“救い手”という単語がひやりと当たる。私は、その単語の“最初の色”をひと掬い取り、殻の中へ落とす。

 胸がきしむ。私の中で、光の色が一階層分、淡くなる。次の記憶——“定義した夜”。怒りを“定義”にすることで、刃が鞘を得た夜。飢饉の季節の匂い、焼けた匂い、拍手の匂い。私はその夜の温度から、半分だけ切り取り、殻へ滑らせる。怒りが少し、音を失う。音を失って、形を残す。形は布になる。

 「持ってけ」アシェルの声。手が私の背を押さえる。押さえ方がうまい。倒れない。倒れたくもない。

 「セレス、呼吸」とカミラ。彼女の声は、列の高さらしい正確さを持つ。「吸って、吐く。拍手じゃなく、自分の音で」

 ヨエルが足を広げ、影を輪の外へ押す。「外から来る“顔”の気配、切った。——ここは、俺たちの場だ」

 バスクが杖を横に倒し、耳で音の層を識別する。「第七、沈黙に戻りつつある。——続けよ」

 殻が薄く裂け、内側から冷たい煙が滲んだ。煙は黒くない。青い。火になる前の青。私は掌を押し込み、腐蝕の流れを“燃焼”へ変換する符を差し込む。符は紙じゃない。骨でできている。私の骨の端を少し削って、形にした符。指が痺れ、痛みが頭蓋に花の形で広がる。花は嫌いじゃない。痛みの花は、燃料になる。

 「——燃えろ、腐り」

 言葉は声にならず、しかし熱になる。腐蝕が、火を覚え始める。錆の味が熱の味に変わり、金属のざらつきが舌に残らず、代わりに肺の奥がひりりと清潔に痛む。青い炎が、殻の縁でひとつ、またひとつ生まれ、音を立てずに広がる。破壊の火ではない。再生の火。水を嫌い、灰に恋をしない火。青は低温ではない。冷静な高温。ものを焦がさず、形を保ったまま、毒だけを焼く。

 「綺麗……」輪の外、ミレイユが息を漏らす。「光じゃない。火。でも、明るい」

 「見るな、見過ぎるな」アシェルが制した。「目は焼ける。心の目だけで見ろ」

 青炎が私の腕を舐め、肘の内側まで上がってくる。皮膚は焼けない。血が熱を覚え、魔力が音を出し、記憶が薄く解ける。——長年冷凍保存していた怒りが、中から音を立てて溶け始めた。シャラ、シャラ、と氷砂糖が水に落ちるみたいな音。甘くない。けれど、喉を塞いでいた固さがほどけていく感触は、たしかに“飲める”感じだった。

 怒りは、冷やしておけば永遠に硬い。硬いまま、形を保ち、刃を研ぐ台になる。私はそれに頼ってきた。頼ることで、街を冷たく救ってきた。今、氷が溶ける。溶けた怒りは、水になる。水は重い。重いものは、低いほうへ行く。低いほう——街の骨へ。骨が飲む。骨が、少し重くなる。重さは、倒れにくさだ。

 「セレス、目」アシェルの囁き。私は開ける。世界は青い。火の青ではなく、空ではなく、夜の青でもない。再生の青。刃の布の色。私の瞳に灯ったその青は、空洞を埋めない。埋めないけれど、縁を縫う。

 「封、入るぞ」バスクが合図をくれる。「殻、閉じる準備」

 「カミラ、言葉」私は呼ぶ。

 カミラは板札を掲げ、短い文を読み上げる。「——“顔より仕組み。列より歌。歌より呼吸。呼吸より、今。”」

 単純な宣誓。呪文とは別の層で、場に重しを置く言葉。ヨエルが弦のない琴みたいに胸板を軽く叩き、拍を調える。ミレイユがランタンの炎をそっと高くした。アシェルが私の背に額を当て、熱を受け持つ。

 私は最後の符——“枠”を殻の外へ縫い付ける。枠は檻ではない。泳ぐ魚に泳ぎ方を教える輪っかだ。開いたり閉じたりできる柔らかい金具。街の“耳”が交代でそれを見張る。私一人の耳ではない。委譲。手放すための構造。

 封が閉じる。青炎は内側に収束し、腐蝕の黒い粒を食べ尽くしたところで、舌を巻いて消えた。消える火は、匂いが良い。焦げない匂い。寝かせた粉の匂いに似ている。中枢の歌が“まあよし”の音階に落ち、井戸の苦さがひとつ、街の底へ沈む。

 私は掌を殻から外し、膝をついた。床が硬い。硬さが、現実を返してくれる。アシェルの腕が肩を支え、ヨエルの手が背を払って埃を落とし、カミラが布で額を押さえ、バスクが耳で私の拍を数え、ミレイユがランタンを低くして眩しさを遠ざける。

 「……大丈夫?」カミラ。

 「すぐには、ね」私は笑おうとして、笑いの手順だけ思い出し、実行はしなかった。「記憶が、少し減った。朝の廊下の光の帯の、端のほうが薄い。怒りの夜の温度は、半度弱い」

 「もどってこない?」ミレイユが問う。

 「戻らない。代償は、返さない。返らないから、意味がある」

 「それで、良かったの?」

 アシェルが答えず、私を見る。答えは私のものだ。

 「良かった、にする。——今、選んだんだから」

 膝に残っていた震えが去り、足の裏に地面が戻る。私は立ち上がり、殻に手をかざす。冷たくない。冷たくないということは、熱くもない。中庸。私が嫌いすぎて、必要すぎる温度。

 「監視は分配。配圧は再調整。井戸はあと三日は煮沸。灯は二つ、間に紙。——掲示する」

 「はい」カミラが即答し、板札に手早く記す。ヨエルが「巡回、交代制」と唱え、バスクが弟子の名を呼び、ミレイユが「“次の先頭”は私」と笑わずに言って桶を持つ。輪が解け、役割が街へ散っていく。

 最後に残ったのは、私とアシェル。彼は言葉を選び、選び疲れて、短くした。

 「戻ったな」

 「戻った。全部じゃないけど」

 「全部はいらない。戻る場所が、ある」

 彼は私の額に指を当て、汗ではなく、目に見えない煤を払った。「怒り、どうだ」

 私は胸に耳を澄ます。冷凍庫の扉が開きっぱなしになっている。中の氷砂糖は、半分以上溶けて、底に澄んだ水が溜まっていた。氷が擦れ合う音は、もうしない。代わりに、水の上に小さな波の立つ音。——静かで、強い。

 「溶けた。音が止んだ。水になった」

 「飲めるか」

 「飲める。刃を洗える」

 「なら、上出来だ」

 中枢を出る前に、私は殻へ最後の印を置いた。“この枠は、誰でも触れて良い。だが、独りでは閉じられない”。透明の文字が一瞬だけ青く光り、石の肋骨に吸い込まれていく。街の耳は、私の耳より多い。多い耳に、私はやっと仕事を渡した。

 地上へ戻る階段は、来るときより短い。空気が軽い。青い灯が路地の角で眠そうに瞬き、人の家の窓に薄い光の四角を作っている。扉の隙間から漏れる声——子どもの寝息、鍋の蓋の軽い鳴り、誰かの笑いの前段階の息。拍手はない。拍手がない夜は、良い。

 広場に出ると、掲示板の前でカミラが紙を貼り終え、ヨエルが腕章を外して伸びをし、バスクが弟子のひとりの背を叩き、ミレイユが空になった桶を逆さにして水滴を振り切っていた。彼らの動きは疲れていて、しかし迷っていない。迷いは私が負う。迷いの分だけ、私は軽口を忘れる。

 「戻ったら、パンがある」アシェルが言う。「“最後の先頭”の皿に置いてある。お前が食わないなら、俺が二個食う」

 「食べる」

 「なら、半分ずつだ」

 青い灯が、脈の合図でふくらみ、すぐ細くなった。朝はまだ遠い。けれど、夜の底はもう硬くない。足の裏で、土がしっとりと息をしているのがわかる。私はひと呼吸、深く吸い、吐いた。吸う音が、街の脈に重なって、消えた。

 ——選んだ。救うほうを。刃は布に包んだ。怒りは、水になった。今夜だけは、それで足りる。

 足を一歩、前に出す。火口の縁から、街の床へ。背中には、輪がある。前には、掲示板と、窯と、井戸と、歌と、眠り。私は歩き、彼らも歩く。再生の青い炎は、地中で静かに燃え続け、街の骨を温め、私の骨を温めた。長い夜のあいだずっと。朝の最初の脈が鳴る少し前まで。
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