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第6話 『竜骨の森で聞こえた声』
しおりを挟む干ばつの村を発った朝、空の色は少しだけ深くなっていた。
村の井戸から汲み上げられる水の音を、背中で聞きながら。
エリーナは、最後にもう一度だけ振り返る。
井戸の周りで、子どもたちが水をかけ合って笑っている。
村長は、それを目を細めて見守りながら、エリーナたちに深々と頭を下げた。
「竜の主様。あんたと、その竜と、その……」
「研究員です」
「そう、その研究員殿のおかげで、この冬を越せる」
「研究員“殿”って呼ばれたの初めてだなあ」
カイが苦笑しながら頭を掻く。
エリーナは少し照れくさくなって、マントの裾を握りしめた。
「また……様子を見に来ます」
「うむ。そのときまでに、もう少しマシな料理を用意しとこう」
「十分おいしかったですけど」
「それでもだ」
村長は、皺だらけの顔ににっと笑みを浮かべた。
別れの挨拶を終えると、エリーナはアークヴァンの背に乗り、カイは馬車の屋根にひらりと飛び乗った。
白い翼が、大地の上で一度だけ大きく風を起こす。
『主』
「なに?」
『あの村の匂い、覚えておこう』
「……うん」
乾いた土と、新しく掘られた井戸の冷たい水の匂い。
人々の汗と、焚き火の残り香。
それら全部が、胸の奥に小さく沈殿していく。
きっと、何度も思い出す場所になる。
◆
干ばつの村から半日ほど北へ進むと、景色が変わり始めた。
土の色が、じわじわと濃くなる。
草は増えているのに、不思議と“生き物の気配”が薄い。
「このあたりから先が、“竜骨の森”の領域だね」
カイが、手元の地図を覗き込みながら言った。
「竜骨の森……」
エリーナは、その名前を反芻する。
森そのものの正式名称は別にあるらしい。
けれど、今は誰もそっちの名前で呼ばない。
古い竜の白骨が眠る場所。
竜魔法の研究者や、竜素材を狙うハンターたちが時々出入りする、危うい森。
『気に入らぬ名だ』
アークヴァンが、低く言った。
『竜の骨を“見世物”にするような呼び方は』
「アークヴァンにとっては、あまり気持ちのいい場所じゃないよね」
『当然だ』
白銀の翼が、わずかに震える。
『だが、竜の骨が放つ魔力は強い。その周囲には、竜魔法の記憶も残りやすい』
「だから、行きたい」
エリーナは、ぎゅっと手綱代わりの鱗をつかんだ。
「竜魔法のこと、もっとちゃんと知りたい。わたしが何を抱えていて、これから何ができるのか……できるだけ知っておきたい」
王宮の大広間で暴走しかけた力。
干ばつの村で空回りしかけた魔法。
どちらも、自分が“よく分からないまま”使っている力だ。
その無知が、いちばん怖い。
『主が望むなら行く』
アークヴァンは、短く答えた。
『だが、警戒は怠るな。この森は──』
「竜の記憶が濃すぎる、でしょ?」
『ああ』
竜の記憶。
それは、血の奥底に沈んでいる“古い夢”みたいなもの。
それが濃く漂っている場所に、竜の主が入るということは──
他人の夢の中に、わざわざ飛び込んでいくようなものだ。
◆
森の入口は、拍子抜けするほど普通だった。
大きな木が密集しているわけでもないし、魔物の気配が濃いわけでもない。
ただ──静かだった。
不自然なほどに。
「……鳥の声、ほとんどしない」
エリーナは、足を止めて辺りを見回した。
風は吹いているのに、葉擦れの音が妙に低い。
虫の羽音も、どこか遠くから聞こえるだけだ。
空気が、少し重い。
胸の紋章が、かすかにきゅっと縮む。
『主』
アークヴァンが、森の上空をゆっくり旋回しながら言った。
『この森には、“生きた竜”ではなく、“眠った竜”の気配が満ちている』
「眠った竜……」
『骨だけになっても、竜は大地と空に痕を残す。その痕が、風を浅くし、音を鈍くしている』
「……怖い?」
『我が、か?』
「ううん。わたしが」
エリーナは、胸の上に手を当てた。
鼓動が、ほんの少しだけ早い。
『怖いなら、ここで引き返してもよい』
「……怖いけど」
その言葉は、嘘じゃなかった。
「怖いけど、知りたい」
竜のこと。
竜魔法のこと。
“竜の主”という存在が、本当は何なのか。
『ならば進め』
アークヴァンの声は、いつもと同じ静けさだった。
『我が上から見ておる』
「うん」
エリーナは、深呼吸をひとつしてから、森の中へ足を踏み入れた。
「緊張してる?」
隣を歩くカイが、少しからかうように聞いてくる。
「してないって言ったら嘘になる」
「だろうね。顔が“わくわくとびびり半々です”って言ってる」
「表情口が軽すぎる……」
でも、その軽口に、少しだけ肩の力が抜けた。
◆
竜骨の森の中は、音の代わりに“匂い”が濃かった。
湿った土と、古い木の匂い。
どこか、焦げたような、焼けた石の残り香。
足元には、白く乾いた破片が、ところどころに混ざっている。
人の骨にしては大きすぎる。
魔物の骨にしては、形が整いすぎている。
「……これも、竜の骨?」
「末端のほうの小さい骨かな。指とか尾の先とか」
カイが、しゃがみこんで破片を観察する。
「魔導院の資料でしか見たことないな。実物は、思ったより……」
「思ったより?」
「静かだ」
骨から、何かが襲いかかってくるわけじゃない。
呪いのような気配も、今のところない。
ただそこに、“残骸”としてあるだけ。
それが逆に、奇妙な生々しさを帯びていた。
『奥に、大きいものがある』
アークヴァンの声が、頭上から降ってくる。
『主、少し右にそれ。あの木の列を抜けた先だ』
「分かった」
エリーナは、指示された方向へ歩を進めた。
木々の間を抜けると──そこに、それはあった。
「……わ」
声が、自然と漏れた。
大地から突き出した巨大な白い弧。
何本もの柱のような骨が、空に向かって伸びている。
肋骨。
その一本一本が、馬車を縦に並べてもまだ余る大きさ。
半ば苔や蔓草に覆われてはいるが、その形ははっきりと残っていた。
地面には、崩れ落ちた脊椎の一部と、折れた翼骨。
少し離れた場所には、半分土に埋もれた頭蓋骨の一部が見える。
「これが……古代竜……」
エリーナは、思わず近づいていった。
白い骨は、陽の光を受けて鈍く光る。
冷たい石みたいに見えるのに、目を離せない。
胸の紋章が、じくじくとうずいた。
『主』
アークヴァンの声が、少し強くなる。
『あまり近づきすぎるな』
「大丈夫。触ったりしないから」
『触らなければいい、という問題ではない』
竜の声は珍しく苛立ちを含んでいた。
『その骨は、“竜の時代”の残り香だ。そなたの紋章は、それに反応しやすい』
「……竜の、時代」
その言葉に、妙な重みがあった。
今の世界とは違う、“竜が空と大地を支配していた頃”の記憶。
エリーナは小さく笑って、骨から少し距離を取ろうとした。
──けれど、足が鉄でできたみたいに、その場に張り付いて動かなかった。
(触れたい)
理性とは別のところで、そんな欲望がむくりと顔を出す。
この骨が何を見てきたのか。
どんな空を飛び、どんな地を踏んだのか。
それを、指先で、掌で、ほんの少しでいいから感じてみたい。
「エリーナ?」
カイが怪訝そうに呼ぶ。
「ごめん。ちょっとだけ」
自分でも声が震えているのが分かった。
「ほんの少しだけ、触れてみてもいい?」
『主──』
止める声と、自分の衝動とがぶつかる。
「もし、変なことになりそうだったら、すぐ離れるから」
それが、どれほど約束になっていない約束か、分かっていながら。
それでも、エリーナは手を伸ばした。
白い骨に、そっと指先を触れさせる。
ひんやりとした感触。
石よりも滑らかで、でもどこかざらりとした“残滓”がある。
次の瞬間。
ざあああああああああ——
音が、頭の中に流れ込んできた。
風の音かと思った。
でも、それは風ではなかった。
無数の声。
叫びとも、囁きともつかない、ざらざらした竜語。
『──……主……』
『……翼が燃える……』
『……我らの時代……』
『空は……黒く……』
意味の断片だけが、砂嵐の中から拾われるみたいに耳に届く。
「っ……!」
エリーナは、頭を抱えた。
脳が直接掻き回されるような感覚。
視界が、ぐにゃりと歪む。
「エリーナ!」
カイの声が遠く聞こえた。
膝が砕けるように、地面に落ちる。
骨に触れていた手は、ずるりと滑り落ちた。
『主!』
アークヴァンの声が、今度ははっきりと響く。
『離れろ! その記憶は、そなたのものではない!』
「……声が……」
唇が、勝手に動く。
「聞こえる……。竜の、声……」
『“古竜”の残響だ。過去の傷と怒りと、滅びの記録だ』
アークヴァンの声にも、微かな震えが混ざっていた。
『それは、既に終わった時代のもの。今の主が背負う必要はない』
でも、エリーナは、耳を塞ぐことができなかった。
胸の紋章が、外からの声に反応して、勝手に“門”を開けてしまう。
『……主……』
誰かが、呼んでいる。
『……竜の主は……』
『世界を……』
砂をかむみたいに、断片が流れ込む。
「世界を……?」
エリーナは、歪んだ視界の中で、言葉だけを追いかけた。
『選ぶ者……』
そこで、声がぷつりと途切れた。
音の洪水が、ぱきん、とガラスが割れるみたいに消える。
残ったのは、激しい頭痛と、胸の奥にざらざらと残る言葉だけ。
――竜の主は、“世界を選ぶ者”。
「……っ」
激しく息を吐く。
視界がゆっくりと元に戻っていく。
カイが、すぐそばにいた。
肩を支えられて、自分がどれだけ崩れ落ちていたのかを知る。
「無茶しないでって言ったよね」
怒っているのか、心配しているのか、自分でも判別がつかない声で、カイが呟いた。
「ごめん……」
一言だけ、それだけ絞り出す。
「でも……聞こえたの。何か、大事なことを言ってる気がして」
「だからって、頭抱えて崩れ落ちるまで聞く?」
「……反論できない」
エリーナは、苦笑しようとして、痛みに顔をしかめた。
『主』
アークヴァンの声が、いつもより低くなる。
『今の言葉を、繰り返してみろ』
「……“竜の主は”」
エリーナは、額を押さえながら呟いた。
「“世界を選ぶ者”」
口にした瞬間、胸の紋章が弱く脈打った。
何かが反応している。
『……やはり、その言葉か』
「知ってるの?」
『記録に、少しだけ残っている』
アークヴァンは、慎重に言葉を選ぶように話した。
『遥か昔、竜が空を支配していた時代。
竜と人との契約は、“世界をどちらに傾けるか”を決める儀式でもあった』
「どちらに……?」
『竜の時代を延ばすのか、人の時代を早めるのか。
荒廃へ向かうのか、繁栄へ向かうのか』
アークヴァンの声に、古い傷の匂いが混ざる。
『竜の主は、その岐路に立つ者とされた』
「……そんな大それた役割、聞いてないんだけど」
エリーナは、乾いた笑いを漏らす。
「わたし、そんな“世界”とか選びたくて契約したわけじゃないよ? 森で泣いてたとき、“ひとりにしないで”って願っただけで──」
『分かっている』
アークヴァンは、優しく遮った。
『今の世界は、もうあの時代とは違う。
竜の主が“世界をひとりで決める”ような時代ではない』
「……だといいけど」
胸の奥に残るざらつきは、簡単には消えそうにない。
世界を選ぶ者。
その言葉が、妙に重く心に沈む。
「ねえ、カイ」
「うん」
「もし、本当に“竜の主が世界を選ぶ”なんて役目があるとして……」
エリーナは、まだ少しふらつく視界の中で、彼を見た。
「わたしが、変なほう選びそうになったら、止めてね」
真面目な声だった。
「自分で“正しいと思ったから”って暴走して、誰かを傷つけそうになったら」
王宮の夜が、頭をよぎる。
「わたし、目の前のことでいっぱいいっぱいになると、視野が狭くなるから」
「自覚あるの、偉いけど悲しいね」
カイは、苦笑を浮かべた。
「でも、止めるよ。全力で」
迷いのない声だった。
「君が“世界を選ぶ者”かどうかは分からないけど、少なくとも、目の前の世界を壊しそうになったら──俺は“それは違う”って言う」
「……約束」
「約束」
ここに、ひとつ、小さな契約が結ばれた。
竜との魂の契約とは違う。
もっと人間くさい、したたかで弱い、でも温かい約束。
◆
竜骨の森を後にしようとしたとき、エリーナは背筋にひやりとしたものを感じた。
「……今、誰か見てなかった?」
振り返る。
木々の間。
暗い幹と幹の隙間。
何かが、そこにいるような気がした。
でも、目を凝らしても、影の形は見えない。
「気のせい、じゃないか?」
カイが言う。
確かに、視界の中には何もない。
ただ、胸の紋章が、ほんの一瞬だけぴくりと反応した。
『……嫌な匂いがする』
アークヴァンが、遠くから低く呟いた。
『鉄と、血と、油の匂いだ』
「鉄……?」
『“竜を狩る人間”が纏う匂いだ』
その言葉に、エリーナはぞくりとした。
竜狩り。
竜の骨や鱗、血を素材として狙う傭兵団たち。
竜骨の森は、彼らにとっては宝の山だ。
『今は、深追いせぬほうがよい』
アークヴァンの声は、珍しく慎重だった。
『主の頭と心も消耗している。戦うなら、万全のときにだ』
「分かった」
エリーナは、森の奥に一礼だけしてから、踵を返した。
「帰ろう。今日は、もう十分だよね」
「十分すぎるくらいだね」
カイも頷き、エリーナの肩を軽く叩いた。
竜骨の森の空気は、最後までざらざらとしていた。
足元に残る白い欠片。
木々の間に潜む、かすかな視線。
それら全てが、「また来るか?」と試すように、背中を見送っている気がした。
◆
森の奥。
大きな朽ちた切り株の影。
そこに、ひとりの男が腰を下ろしていた。
レザーの軽鎧。
腰には大きな弓と、竜素材で作られたナイフ。
彼は、木陰から去っていく白い影と、少女の小さな背中をじっと見つめていた。
「……本当に、いたな」
低い声が、静寂を切り裂く。
「白竜と、その主」
男は、口の端を持ち上げた。
「団長にいい土産話ができた」
彼は、胸元の小さな水晶に触れる。
「こちら、斥候一番。報告。白竜アークヴァン、および竜の主と思しき少女を確認。竜骨の森北側から離脱中」
水晶が、微かに光る。
『追うか?』
くぐもった声が、水晶の中から返ってきた。
「今は距離を保つ。竜骨の森のすぐ外で仕掛けるのは、さすがに愚策だ」
男は肩をすくめる。
「でも、そう遠くないうちに、また会えるさ。──獲物は、“自分から目立つ道”を歩いてる」
森の空気が、ひやりと震えた。
彼らの追跡が、すでに始まっていることを。
エリーナも、カイも、まだ知らない。
ただひとり、空高く飛ぶ白竜だけが、遠くの地平線の向こうを睨みつけていた。
『……臭うぞ、人間ども』
低く、冷たい声。
『主よ。世界を選ぶ前に、まずは“そなたの背”を狙う者たちから、目を離すな』
竜の黄金の瞳が、ゆっくりと細くなる。
竜骨の森で聞こえた声。
“世界を選ぶ者”という言葉。
それらはまだ、エリーナの胸の片隅で静かに燻っているだけだ。
けれど、その小さな火種が、この先どんな風を呼ぶのか──
誰もまだ、知らなかった。
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