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第7話 『竜狩りの傭兵団と、初めての本気の戦い』
しおりを挟む竜骨の森を抜けると、空気が一気に軽くなった。
森の中にあった、あの粘りつくような静寂はもうない。
風はちゃんと木の葉を鳴らし、遠くから鳥の声も聞こえる。
「……はぁ」
エリーナは、知らず知らずに詰めていた息を、長く吐き出した。
「外に出ただけで、こんなに楽になるんだね」
「そりゃ、“竜の記憶のサウナ”みたいな場所から出てきたんだし」
「サウナって言い方やめて」
「“竜の悪夢詰め合わせ箱”?」
「もっとやだ」
カイの軽口に、エリーナは思わず笑ってしまう。
笑える。
それだけで、だいぶ違う。
竜骨の森の入口から少し離れた場所で、アークヴァンが低く一度だけ咆哮を上げた。
それは、森に眠る古い竜たちへの、黙礼にも似た挨拶のようだった。
『……行くぞ、主』
「うん」
白銀の翼が一度大きく羽ばたき、エリーナの髪が風に煽られる。
街道までは、森の縁を少し歩けばいい。
そこから先は、リューン王国北側へと続く大きな道だ。
「次の街まで、どれくらい?」
「徒歩だと一日と半分。竜で飛ぶと、まあ……」
「三時間、くらい?」
『二時間半だ』
「正確な訂正入った」
そんな会話を交わしながら、一行は森の影を背に歩き出した。
まだ、このときは。
この先で“初めての本気の戦い”が待っていることを、誰も実感していなかった。
◆
街道に出た瞬間、空気が変わった。
人と物の匂い。
馬の蹄の跡。
車輪の擦った跡。
人の移動の痕跡が、土の上に幾重にも重なっている。
「お、ちゃんとした道だ」
カイが安堵したように笑う。
「森の獣道、足にくるからね」
「街道のほうが、襲われなさそうって感覚がもう甘い気がする」
「そんな不穏なこと言わないで?」
エリーナが半眼でカイを見る。
──そのときだった。
ふと、竜の気配が揺れた。
『主』
アークヴァンの声が低くなった。
『止まれ』
命じる声に、エリーナの足が反射的に止まる。
「どうしたの?」
『……鉄と油の匂いが濃くなった』
竜骨の森の奥で感じた“嫌な匂い”。
『それと、今度は“獣の血”も混ざっている』
「獣の血……?」
カイも、眉間に皺を寄せて周囲を見回した。
街道は、一見普通だ。
曲がりくねった土の道の先には、かすかに別の荷車の影も見える。
ただ──
「……静かすぎる」
カイが呟いた。
「この時間帯なら、もっと商人の喧騒とか聞こえてもいいのに」
風が、砂埃を少し巻き上げる。
その砂埃の向こうから、かすかな呻き声が聞こえた。
「た、助け……」
エリーナとカイは、顔を見合わせてから駆けだした。
曲がり角を抜けると、そこには──
「……!」
ひっくり返った馬車。
倒れた馬。
荷物が路肩に散らばり、布袋から干し肉や布がこぼれ落ちている。
路上には、男がひとり、うつ伏せに倒れていた。
背中に血がにじんでいる。
「大丈夫ですか!」
エリーナが駆け寄ろうとした瞬間。
「──そこまで」
別の声が、空気を凍らせた。
乾いた靴音が、土の上を叩く。
街道の両側から、影がすっと現れた。
皮鎧。
金属プレート。
いくつもの刃物と、魔導具と、見慣れない形の矢。
十人ほど。
いや、木陰の影も含めればもっといる。
彼らを見た瞬間、アークヴァンの黄金の瞳が細くなった。
『……竜狩りだ』
その一言に、エリーナの背筋がぞわりとした。
竜狩りの傭兵団。
竜の鱗や血を売りさばく、非合法ギルド。
表向きは魔物退治の傭兵。
裏では“竜殺し”として恐れられている人間たち。
「おや」
隊列のひとりが、口の端を上げた。
「本当に、噂通り白竜が空から降りてきた」
その声は、驚きよりも、興奮に満ちていた。
彼は、一歩前に出た。
浅黒い肌。
短く刈った髪。
口には皮肉めいた笑み。
両肩には、竜の鱗を加工したと思われる肩当てを付けている。
「竜骨の森の外で張って正解だったな。おい」
倒れていたはずの男が、すっと立ち上がる。
背中にあった血は、よく見れば乾いた赤い染料だ。
「……偽装」
エリーナが息を呑む。
あからさまに襲撃の罠だった。
「“助けてください”って顔で、助けに飛び込んでくる竜の主を、狙わない理由がねえよな」
男は、愉快そうに言った。
「自己紹介は必要か?」
「いらない」
カイが、一歩前に出て、エリーナの前に立つ。
「どうせ、“竜狩りの傭兵団”って言えば十分だ」
「まあ、そのとおりだ」
リーダー格と思しき男は笑った。
「竜狩り傭兵団《オルクリフ》。お前らの国だと、“竜殺しのオルクリフ”って呼ばれてたっけな」
アストライアの噂が、ふと頭をよぎる。
“竜を狩って王家に売った傭兵”。
その名が、古い記憶と重なった。
「で、だ」
オルクリフは、エリーナに視線を向けた。
「そっちの白竜も価値があるが──」
その目が、じっと彼女の胸元を見た。
「竜の主。お前はもっと高く売れる」
「売れる……?」
「そう。“研究材料”としてな」
笑いながら言う言葉の冷たさに、背筋がぞわりとした。
「王侯貴族に売りつけてもいい。竜魔法の研究者どもにバラしてもいい。竜の主の血も骨も、今の世界じゃ希少品だからな」
エリーナの指先が、ぎゅっと震えた。
「そんなこと、させない」
「させないよ」
カイが、重ねるように言った。
「魔導院の研究員として言わせてもらうけど──生きてる人間をバラして研究材料にするのを“研究”って呼ぶの、やめてもらっていい?」
「生きてるか死んでるかなんて、金には関係ねえさ」
オルクリフは肩をすくめた。
「まあ、安心しろ。お前は“そこそこ”の値で売れるだろうが──」
顎をしゃくって、空を飛ぶ白竜を指す。
「白竜アークヴァン。そっちは桁が違う」
黄金の瞳に、炎が灯る。
『人間』
アークヴァンの声が、遠雷みたいに低く響いた。
『今、誰を値踏みした』
「竜を値踏みするのが、俺たちの仕事でね」
オルクリフは、まるで巨大な獲物を前にした猟犬のような顔をした。
「“王宮を吹き飛ばした”って噂の白竜。あれを仕留めて解体して売れば──」
口の端が、いやらしいほどに吊り上がる。
「一生分、いや、それ以上稼げる」
その言葉に、周りの傭兵たちが喉を鳴らした。
欲望。
羨望。
興奮。
それらの匂いが、空気に混ざる。
『主』
アークヴァンの声が、鋭くなる。
『危険だ。下がっていろ』
「……でも」
『戦うのは我だ』
竜の黄金の瞳が、オルクリフたちを射抜いた。
『主の血を狙う者は、皆殺しにしてやる』
その声には、冗談の欠片もなかった。
◆
次の瞬間。
アークヴァンが、空から落ちてきた。
翼を折りたたみ、重力のままに。
白銀の巨体が、一直線に地面へ向かう。
空気が悲鳴を上げる。
地面が近づく。
そして──
ドン。
轟音。
街道が、縦に揺れた。
白竜の爪が、土を抉って着地する。
衝撃で土煙が舞い上がり、傭兵たちの足元がぐらつく。
「ひっ──!」
「う、うわっ!」
その迫力だけで、兵の半数近くが腰を抜かした。
圧倒的な質量。
竜の咆哮が、空気を震わせる。
『我が名はアークヴァン』
ズシン、と一歩踏み出すたび、地面が鳴る。
『主を狙う者よ、お前たちは、今、自分の命の値段を決めた』
「ひ、ひぃ……!」
「聞いてねえぞ、こんな近くで……!」
前衛の数人が、武器を取り落として後ずさる。
竜の殺意を真正面から浴びれば、普通の人間は立っていることすら難しい。
エリーナも、竜の背に乗っていたときとは違う、地上から見る“本気の竜”に、思わず息を呑んだ。
(……やっぱり、アークヴァンは、怖い)
その怖さを、理解できるからこそ。
(この力を、“破壊”だけにしたくない)
胸の奥で、小さな決意がきゅっと固まる。
「落ち着いて」
カイが、小声で囁く。
「君まで殺意マシマシの顔になってる」
「なってない」
「なってる」
短い会話で、ほんの少しだけ心がほぐれる。
その隙を、見逃すような相手ではなかった。
「怯むな!」
オルクリフが、一歩前に出て怒鳴った。
「竜は、“最初の一歩”がいちばん怖いだけだ! 一度拘束具を掛ければ、こっちのもんだ!」
彼が手を上げると、後衛の何人かが、一斉に魔導具を構えた。
淡い光を帯びた鎖。
見たことのない形の、魔力の輪。
「……竜専用の拘束具」
カイの表情が険しくなる。
「魔物じゃなくて、“竜”を相手にしてきた連中だ」
『主、下がれ』
アークヴァンが膨大な魔力を滲ませる。
『奴らの鎖は、竜の魔力に反応して絡みつく。そなたまで巻き込まれる』
「巻き込まれるのもやだけど、アークヴァンが縛られるのはもっと嫌」
『……主』
「一緒に戦うって、そういうことでしょ」
エリーナは、おそるおそる足を踏み出す。
その肩を、カイが支えた。
「俺が前を支えるから」
「え……?」
「君は、竜との魔力の流れを整えて」
目が合う。
カイの瞳は、驚くほど冷静だった。
「竜魔法は、“竜の力”と“君の制御”の両方がかみ合って発動するんだろ?」
「……うん」
「だったら、今は“制御”に集中して」
彼は、腰の杖を抜いた。
いつもは研究用にしか使っていない、魔導院仕込みの杖だ。
「前衛の妨害と、防御は俺がやる。君は、アークヴァンと繋がってる“魔力のライン”を安定させて。暴発させないように」
「できるかな……」
「君だからできるんだよ」
今それ以外の答えが、彼にはなかった。
「さっきも言ったけど、“暴れる竜”と“暴れる竜の主”を同時に相手にするのは、さすがに俺でもきついからね」
「本音も混じってる……」
思わず笑みがこぼれた。
怖い。
手が震えている。
それでも──
この二人となら、踏み出せる気がした。
◆
「行くぞ!」
オルクリフが合図をすると同時に、後衛の傭兵たちが拘束具を投げた。
光る鎖が、直線的な軌跡を描いてアークヴァンの脚へと伸びる。
『ふん』
アークヴァンが、爪で一本を弾き飛ばす。
鎖は地面に突き刺さり、火花を散らして消えた。
だが、数が多い。
「奴の動きを止めろ! 脚を狙え!」
「頭は狙うな! 殺されたら俺たちが死ぬ!」
鎖がさらに放たれ、今度はアークヴァンの後脚と翼の付け根を狙った。
「エリーナ!」
「分かってる!」
エリーナは、胸の紋章に手を当てた。
竜魔法のライン。
アークヴァンと自分を繋ぐ見えない糸。
そこに意識を集中し、彼の動きに合わせて魔力の流れを少しだけ変える。
鎖の魔力に対抗するように、白い力を沿わせる。
「“竜障(ドラグ・ヴェール)”!」
淡い光の膜が、アークヴァンの脚の前に展開される。
鎖がそれに触れた瞬間、火花が散った。
「ちっ。防御膜持ちか!」
傭兵のひとりが舌打ちする。
「だったら──こっちだ!」
別の男が、地面に符を叩きつけた。
薄い紙片が、風に乗って舞い上がる。
書き込まれた魔術文字が、にじむように光る。
「魔法封じの符!」
カイが叫び、杖を振るった。
「“散じろ(ディスペル・ガスト)”!」
風の刃が走り、符の半分を吹き飛ばす。
それでも、いくつかはエリーナのほうへと飛んできた。
「う──」
反射的に身をひねる。
符が肌に触れた瞬間、ぞわりとした冷たさが走った。
魔力の流れが、一瞬だけ乱れる。
『主』
アークヴァンの声が、僅かに揺れた。
『今のは──』
「ちょっと、魔力の手が痺れただけ!」
エリーナは、必死に意識を持ち直した。
魔法封じの符。
それは、術者の魔力回路を一時的に鈍らせる。
完全に封じられたわけではないが、繊細な制御が難しくなる。
「くそ……厄介なもの持ってる」
カイが歯噛みする。
「やっぱり、“竜狩り”ってだけあって、竜魔法対策の道具は一通り持ってるね」
その間にも、鎖は増えていく。
一本、また一本。
アークヴァンが爪と牙で弾き返しても、数の暴力は重い。
やがて──一本が、後脚に絡みついた。
『……っ!』
アークヴァンが、低く唸る。
鎖の魔力が、竜の魔力を吸い上げるように絡みつき、じわじわと締め付ける。
「今だ! さらに掛けろ!」
オルクリフの合図で、別の鎖が翼の根元にも伸びた。
白銀の翼が、一瞬だけ動きを止める。
(まずい……!)
エリーナの心臓が跳ねた。
竜の動きが封じられれば、その場で袋叩きにされるのは目に見えている。
『主!』
アークヴァンが呼ぶ。
『鎖を焼き切れ!』
「分かった!」
エリーナは、両手を鎖に向けた。
竜魔法の線を、炎の魔力に変換して、鎖に沿わせる。
「“竜焔(ドラグ・フレイム)”!」
白い炎が、鎖を包んだ。
金属が悲鳴を上げる。
魔導具の表面に刻まれていた術式が、焼き切られていく。
「ちっ──!」
傭兵たちが焦りの声を上げる。
しかし、彼らも経験豊富だ。
「魔法封じ、もっと投げろ!」
「竜の主を先に止めろ! 竜は後でいい!」
紙片が、さらに舞う。
今度は、エリーナを狙って集中していた。
「まずい……!」
エリーナが身構えた瞬間、視界の端でカイが動いた。
「させない!」
彼は、エリーナの前に飛び出し、杖を地面に叩きつけた。
「“風壁(ウィンド・ウォール)”!」
透明な風の壁が、エリーナの前に立ち上がる。
符の紙片が壁に当たって弾かれ、地面に落ちて効果を失った。
「前は俺が見るって言ったでしょ」
振り返りもせず、カイが言う。
「だから君は、竜と自分の魔力だけ見てて」
その背中は細いのに、不思議と大きく見えた。
エリーナは、歯を噛みしめた。
「……分かった」
恐怖が、消えたわけじゃない。
手の震えも、止まっていない。
それでも──
自分の場所が分かる。
自分が“すべきこと”が、はっきりする。
エリーナは、竜魔法のラインに意識を戻した。
アークヴァンの脚に絡みついた鎖。
吸い取られかけた魔力。
そこに、自分の魔力をそっと送り込む。
竜の魔力だけでは鎖に吸われる。
でも、人の魔力を混ぜれば、“味”が変わる。
「……こんなもの」
少しだけ口角を上げた。
「竜と人間、両方まとめて味わえるほど、贅沢な道具じゃないでしょ」
鎖の術式が、違和感に軋む。
竜専用に調整された“魔力吸収”の回路が、混ざり物を拒絶して、うまく働かなくなっている。
『主、賢いな』
「たまにはね!」
エリーナは、竜魔法の炎をもう一度起こした。
「“竜焔・断(ドラグ・ブレイク)”!」
鎖に沿って走った炎が、術式の接合部を狙って燃え上がる。
金属が、悲鳴を上げて裂けた。
『ふん』
アークヴァンが、拘束の解けた脚を勢いよく振り払う。
その衝撃で、近くにいた傭兵の数人が吹き飛ばされた。
「ぐあっ!」
「うわ──!」
悲鳴が街道に響く。
「てめえら、怯むな!」
オルクリフが怒鳴る。
「王都を吹き飛ばした竜が、あの程度で本気出してねえのは見りゃ分かるだろ!」
その言葉に、エリーナの胸がきゅっとなった。
“王都を吹き飛ばした竜”。
そのフレーズは、いまだに、彼女の罪悪感を抉る。
『主』
アークヴァンの声が、低くなる。
『怒っていいか』
「ダメ」
『まだ何も言っておらぬ』
「顔が完全に“皆殺しモード”なんだよね」
エリーナは、竜の黄金の瞳を見上げた。
そこには、明確な殺意がある。
自分の主を狙う人間たちを、“害虫”としか見ていない目。
『主を売ると口にした』
「うん」
『主の血を研究材料にすると言った』
「うん」
『我が許すと思うか』
「……許さないでいい。でも、“全部壊したい”って思ったときは──わたしのこと、思い出して」
エリーナは、胸元をぎゅっと押さえた。
「王宮……吹き飛ばしたときの気持ち、また味わいたくない」
あのとき、確かに“全部壊れてしまえ”と思った。
その結果が、今も胸に刺さっている。
「この力を、“ただの破壊”にしたくないんだ」
声が震える。
「わたしが、“竜の主”として生きていくなら──
それは、“守るために”本気になる力であってほしい」
『…………』
アークヴァンは、一瞬だけ目を伏せた。
殺意は消えない。
けれど、その向きが少し変わる。
『分かった』
竜の声が、低く響く。
『主が望むなら、我は“守るために”怒ろう』
それだけで充分だった。
◆
「話し合いは終わったか?」
オルクリフが、つまらなさそうに肩を回す。
「竜と人間の情緒的な会話には興味ないんでね。こっちは仕事だ」
彼は手を叩いた。
「矢を用意しろ。“竜よろい割り”を使う!」
後衛のひとりが、大きな矢筒から特別製の矢を取り出した。
矢じりに、黒い金属と赤い魔石が埋め込まれている。
「竜の鱗を割るための矢だよ」
カイが、眉をひそめる。
「こっちも、竜素材で竜を殺そうとするあたり、非常に人間らしい発想だね」
「皮肉言ってる場合?」
「ちょっと言いたくなった」
冗談を挟む余裕は、ギリギリ残っている。
だが、矢は冗談では済まない。
「狙え! 翼の付け根と、目だ!」
オルクリフの指示で、複数の矢が一斉に放たれた。
空気を切り裂く音。
矢が、まっすぐアークヴァンの頭部と翼を狙う。
「アークヴァン!」
『任せろ』
竜の翼が、風を巻き起こす。
しかし、数が多すぎる。
いくつかは、竜の鱗の隙間を狙って飛んでくる。
「させない!」
エリーナは、地面に掌を叩きつけた。
竜魔法の流れを、空ではなく、大地へ。
「“竜壁(ドラグ・ウォール)”!」
地面が低く唸り、土が盛り上がる。
彼女と傭兵団の間に、分厚い土の壁が立ち上がった。
矢が、その壁に突き刺さる。
ドス、ドス、と鈍い音。
一部の矢は、土を貫通しかけたが、完全には抜けない。
「ちっ……!」
オルクリフが舌打ちする。
「竜魔法で土壁まで立てるのか。厄介な……!」
土煙が舞う中、エリーナは息を荒げた。
(……重い)
土の壁は、空の魔法よりも“実体”がある分、魔力の消費が大きい。
腕が痺れる。
膝が笑う。
それでも──
矢は、アークヴァンの目に届いていない。
『主』
竜の声が、少し柔らかくなる。
『よくやった』
「まだ、倒してない」
『ならば、倒すとしよう』
アークヴァンが、口を大きく開く。
白い光が喉奥に集まり始めた。
世界が、一瞬だけ白黒に見える。
「まずい、まずいまずい!」
オルクリフが、叫んだ。
「全員、伏せろ! 正面に立つな!」
『“竜咆・衝(ドラグ・ロア)”』
咆哮。
音というより、圧。
空気そのものが殴りつけてくるような衝撃波が、傭兵団に襲いかかる。
土壁が、かろうじて前方への被害を抑えてくれている。
それでも、間に合わなかった者たちは、耳を押さえて転げ回った。
「ぐおっ!」
「耳が──!」
路上の石が吹き飛び、木の枝が折れる。
オルクリフも、さすがに顔をしかめて地面に片膝をついた。
「……これが、“王都を吹き飛ばした”咆哮の片鱗かよ」
唇を噛む。
「だが──」
彼は、まだ目の光を失っていなかった。
「こっちは仕事だ。退くぞ!」
その一言に、エリーナは目を見開いた。
(逃げる……?)
全滅するまで戦うのかと思っていた。
でも、彼らは「儲けの計算」ができる。
「今は、まだ旨味が少ない」
オルクリフが、白竜を睨みつけながら笑った。
「竜の主と白竜が、このあたりをうろついているって情報だけでも、“十分な前菜”だ」
「待ちなさい!」
エリーナが、一歩前に出る。
彼は、ちらりと振り返った。
「ひとつ忠告しておいてやるよ、“王宮を吹き飛ばした竜の主”」
彼の目は、笑っているのに冷たい。
「お前とその竜は、“歩くだけで金になる獲物”だ。
今日みたいな連中は、これからいくらでも湧いて出る」
「…………」
「そのとき、全部『守るため』だけに力を使いきれるか?」
言葉が、喉に刺さる。
「“世界を選ぶ者”とかなんとか──竜骨の森の奥で、何か聞いたろ?」
そのフレーズに、背筋が凍った。
(……聞いてた?)
竜骨の森の奥で聞いた声。
“竜の主は世界を選ぶ者”。
「俺は興味ないけどな。世界なんてどうでもいい。俺が欲しいのは、“目の前の金”だけだ」
オルクリフは、ひらりと手を振った。
「だから、せいぜい派手に飛んでくれ。お前らが暴れれば暴れるほど、俺たちの稼ぎ口は増える」
その言葉を最後に、傭兵団は森の影へと消えていった。
追うべきか。
追えるのか。
エリーナは、足を一歩踏み出しかけて──止まった。
膝が、笑っている。
土壁を維持していた負荷。
竜魔法の連続使用。
身体が、限界を訴えていた。
「……っ」
手が震える。
握りしめても、止まらない。
『主』
アークヴァンの声が、いつもより柔らかい。
『追うな。今の主では、倒しきれぬ上に、我をも制御できなくなる』
「……分かってる」
歯を食いしばる。
風が、静かに街道を撫でる。
さっきまでの喧騒が嘘みたいに、世界が静まり返っていた。
◆
土壁が、ゆっくりと崩れていく。
エリーナは、その場にへたり込んだ。
「はぁ……はぁ……」
肩で息をする。
身体の震えが、止まらない。
「エリーナ」
カイが、膝をついて彼女の顔を覗き込んだ。
その手が、彼女の手をそっと包む。
「手、冷たい」
「震えてるだけ」
「冷たくて震えてるって、かなりアウト寄りだよ」
冗談を言いながらも、カイの目は真剣だった。
「……怖かった」
エリーナは、ようやく言葉を吐き出した。
喉の奥に詰まっていたものが、そこから零れ出る。
「すっごく、怖かった」
竜狩りたちの目。
アークヴァンの脚に絡みついた鎖。
自分を値踏みする視線。
「わたしが捕まったら、どうなってたんだろうって考えたら──」
「うん」
「アークヴァンがあの鎖に全部絡まれたら、どうなってたんだろうって考えたら──」
「うん」
「もう、怖くて、怖くて」
涙が、こぼれそうになる。
ここで泣いたら、また“泣き虫”って言われる。
そう思うのに、堤防が持たない。
「……ごめん、また泣きそう」
「いいよ」
カイは、あっさり言った。
「泣きたいときは泣いていいって、前も言ったでしょ」
「それ、逃げ台詞にしてない?」
「してないよ」
彼は、エリーナの震える手を、さらにぎゅっと包んだ。
「さっきも言ったけど、“怖いって言える人”のほうが、魔法を暴走させないから」
「…………」
「怖いって感情、ごまかさないでちゃんと自覚してる人のほうが、止まり方を知ってる」
戦場で、“怖い”を感じなくなるのは危ない。
それは、研究資料にも書いてあったし、実戦経験者の話でも繰り返し出てくる。
「君が、“怖い”って言えるのは、俺は安心材料だよ」
「安心材料……」
「うん。“あ、この人まだ踏みとどまれるな”って分かるから」
エリーナは、ふっと笑った。
「なんか、褒められてるのか分かんない」
「めちゃくちゃ褒めてる」
カイは、真面目な顔で頷く。
「怖いって言える人のほうが強いよ。
“怖くない、平気だ”って言ってる人のほうが、だいたいどこかでぽきっと折れる」
「……それ、誰か見てきた?」
「ちょっとね」
彼の表情が一瞬、遠くを見るように曇った。
そこに、何か別の記憶があるのだろう。
「だから、怖かったって言ってくれて、ありがとう」
「なんでお礼言われてるんだろう」
「“俺はあんなの平気だぜ”って顔されるより、よっぽど助かるから」
エリーナは、笑いながら涙を拭った。
泣きたいような、笑いたいような、妙な感情の渦。
『主』
アークヴァンが、そっと近づいてくる。
巨大な頭を、彼女たちの少し後ろに下ろした。
『怪我はないか』
「うん。魔力がちょっと痺れてるだけ」
『そうか』
竜の黄金の瞳が、エリーナとカイの手元に向いた。
二人の手が、しっかりと握り合っている。
そこに、複雑な感情が湧き上がる。
安堵とも、嫉妬ともつかない、妙な熱。
『……人間』
アークヴァンは、カイに声を向けた。
『主を守ったな』
「できる範囲で、ね」
『悪くない』
それだけ言って、竜は視線を空に戻した。
(……なんだ、この感覚は)
主が、自分の鱗ではなく、人間の手に支えられているのを見て。
ほんの少しだけ、胸の奥がざわついた。
けれど、そのざわめきの正体を、まだ竜は知らない。
◆
戦いの跡を、風がそっと撫でていく。
ひっくり返った偽装馬車。
散らばった荷物。
鎖の残骸。
矢じり。
それらは、やがて別の誰かに見つかるだろう。
「……これから、こういうのが増えるのかな」
エリーナが、ぽつりと言った。
「“竜の主と白竜が、この辺りをうろついてる”って情報、完全に広まったよね」
「うん」
カイは、正直に頷く。
「でも、どのみち隠しきれるものじゃないと思う」
白竜が飛べば、空を見上げれば誰でも分かる。
竜の主の紋章が光れば、誤魔化せない。
「だからこそ、“どう広まるか”を、少しずつ選んでいくしかない」
「選ぶ……」
「うん。“世界を選ぶ者”って言葉、さっき言われたろ?」
エリーナは、はっとする。
「聞いてた?」
「竜骨の森の奥で、君が膝ついたときのことは分からないけど──オルクリフがさっきわざわざ口にしてくれたからね」
「完全に煽られてない?」
「煽られてる」
カイは苦笑した。
「でも、その言葉に振り回される必要はないと思う」
「……どういうこと?」
「“世界の全部”を選ぶなんて、誰にもできないよ」
灰色の瞳が、優しく揺れる。
「でも、“目の前の選択”なら、できる」
干ばつの村に立ち寄るかどうか。
竜骨の森に入るかどうか。
竜狩りから逃げるか、踏みとどまるか。
「そういう一つ一つを選んでいくうちに、結果として“世界のどこかが変わる”だけだよ」
「……」
「もし君が“世界を選ぶ者”なんだとしたら、多分、それは“全部まとめて決める人”じゃなくて、“たくさんの小さい現実を、ちゃんと選び続ける人”なんじゃないかな」
「……それなら」
エリーナは、少しだけ笑った。
「まだ、わたしにもできそう」
「でしょ」
カイは、安心したように微笑む。
「だから、今日の選択も、間違いじゃない」
「逃がしたけど?」
「敵を全滅させるのが“正しい”わけじゃないよ。
君が今、限界ギリギリだったのも分かってる」
彼は、土壁の残骸を指さす。
「これだけやって、まだ立ってるだけで十分すごい」
「……褒めすぎ」
「竜魔法研究者としての評価です」
「お金取れそうな褒め方しないで」
エリーナは、笑いながら立ち上がった。
足はまだ少し震えている。
でも、歩ける。
「行こうか」
「どこへ?」
「とりあえず、次の街。……あと、人目のあるとこ」
「そうだね」
竜狩りがまた襲ってくる前に、情報と人の多い場所へ。
それが、今取れる“現実的な選択”だ。
アークヴァンの背に乗りながら、エリーナは空を見上げた。
さっきまで戦いがあったとは思えないほど、空は青い。
(怖かった)
胸の奥で、もう一度だけ、その感情を確認する。
(でも──)
隣で手を持ってくれる人がいて。
上から守ろうとしてくれる竜がいて。
震えても、泣きそうでも。
それでも前に進めるなら。
「……まだ、やれる」
小さく、誰にも聞こえないくらいの声で呟いた。
その呟きは、風に乗って、遠くへ流れていく。
その風が運ぶのは、不安か、希望か。
いずれにせよ、“白竜と竜の主がこの辺りを飛んでいる”という噂は、確実に世界へ広まりつつあった。
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