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第11話 『竜の見る夢、孤独の記憶』
しおりを挟む山は、世界から少しだけ切り離された場所みたいだった。
人の声はない。
街の灯りもない。
聞こえるのは、風が岩肌を撫でる音と、遠くの獣の鳴き声、焚き火のはぜる小さな音だけ。
国境の城塞を脱出した一行は、人の少ない山岳地帯の一角に身を潜めていた。
昼は岩陰に隠れ、夜は星の下で息を潜める。
追撃の気配がないか、カイが魔術で定期的に探り、アークヴァンが上空から範囲を確認する。
それを、数日間、繰り返した。
肉体は少しずつ落ち着いていく。
けれど──エリーナの心だけは、妙な波を打ち始めていた。
◆
その夜、エリーナは、また、あの夢を見た。
視界が、高い。
空を飛んでいる。
けれど、いつもの青い空ではない。
赤い。
焼けただれた空。
焦げた風。
黒い煙が、地平線から立ちのぼっている。
下を見下ろすと、大地が赤く光っていた。
火の色ではない。
血の色だ。
折れた翼。
捻じ曲がった首。
冷たくなった竜の身体が、いくつも、いくつも、地面に転がっている。
空にも、“何か”が飛んでいる。
竜ではない。
金属と火と、ぎらぎらとした光でできた“なにか”。
それが竜の翼を撃ち抜いて、墜ちていく。
空気が、焼けている。
肺が、熱で裂けそうだ。
誰かが叫ぶ声がした。
『逃げろ──!』
竜の叫び。
それが途切れる前に、視界が真っ赤に染まる。
赤。
赤。
赤。
世界が、血と炎で塗りつぶされる。
自分の翼も──
折れて。
墜ちていく。
◆
「や……っ!」
息を吸い損ねたみたいに、エリーナは勢いよく上体を起こした。
胸が痛い。
喉が焼ける。
肺が、空気を求めてひゅうひゅうと鳴る。
頭の中に、まだ赤が残っている。
「……はぁ、はぁ……!」
夜の空気は冷たくて、でもそれが逆に、熱でぎゅうぎゅうになっていた胸の中に流れ込んでくる。
額には汗。
手は震えている。
「……また、これ」
自分の声が、ひどくかすれていた。
ここ数日、ずっとだ。
目を閉じるたび、あの“赤い夢”がどこかで待っている。
最初は断片的だった。
血の匂いだけ。
折れた翼の感触だけ。
でも、日を追うごとに、少しずつ長く、鮮明になっていく。
「……夢、なのに」
本物みたいに、五感が全部巻き込まれる。
視界。
匂い。
熱。
風の重さ。
そしてなにより──
(“この高さ”)
夢の中で、自分は人間の身長じゃない。
翼がある。
身体が大きい。
地面が遠い。
──竜の視点だ。
「エリーナ」
静かな声が、闇の中から届いた。
振り返ると、焚き火の向こうにカイがいた。
寝袋から半身を起こし、心配そうにこちらを見ている。
「また、うなされてた」
「……ごめん」
「謝ることじゃないよ」
彼は、火のそばに置いてあった水の皮袋を手渡してくれた。
エリーナは、それを両手で受け取り、喉に水を流し込む。
冷たい水が、喉を通っていく感覚が、やけにリアルだ。
「夢、また同じ?」
「うん……」
言うか、言わないか。
少し迷ってから、エリーナは正直にうなずいた。
「赤い空。焼けた大地。折れた翼。……血、いっぱい」
自分の声で、自分が気持ち悪くなるレベルの描写。
でも、誤魔化すことはできない。
「“竜の高さ”から見てる感じで」
「……竜の高さ、ね」
カイは、焚き火の炎を見つめた。
「アークヴァンの視点、みたいな?」
その名前が出た瞬間、風の向きが変わった。
『主』
低く、よく知っている声。
エリーナが背後を振り向くと、少し離れた岩の上に、白銀の竜が静かに座っていた。
月光を浴びた鱗が、淡く光っている。
「アークヴァン……」
『また、夢を見たか』
「うん」
エリーナは、竜の黄金の瞳を見つめた。
「やっぱり、“また”ってことは、気づいてたんだね」
『主の寝息が乱れたときは、分かる』
「観測しないでっていつも言ってるんだけどなぁ」
口ではそう言いながら、その観測に、どこか安心している自分もいる。
でも、今日の夜は、それだけじゃ終わらなかった。
「ねえ、アークヴァン」
『うむ』
「たぶん──あれ、“あなたが見たもの”だよね」
焚き火の音が、一瞬だけ止まったように感じた。
風が、一瞬だけ凪ぐ。
カイが、息を呑む気配。
アークヴァンは、少しだけ間を置いてから口を開いた。
『なぜ、そう思う』
「高さが、あなたと同じだから」
エリーナは、自分の胸に手を置いた。
「飛んでるときの、“地面の遠さ”。
体の重さ。
翼を広げたときの風の掴み方」
それは、自分の身体ではない感覚だった。
「わたし、“竜として飛んだこと”なんてないのに、あの夢の中だと、当たり前みたいに分かるの」
たとえば、風向きを変えれば、どう身体を傾ければいいか。
この角度なら、どれくらいの速度で落ちていくのか。
そんなこと、頭で考える前に、身体が知っている。
「それにさ」
エリーナは、少しだけ笑った。
「落ちるとき、“わたしの”恐怖じゃないんだよね」
『……どういう意味だ』
「“あぁ、またか”って声が、一瞬だけ混ざるの」
墜ちる瞬間。
世界が赤く染まる瞬間。
そこにあるのは、「死ぬかもしれない」という恐怖より──
(“これで、また誰かが消える”)
そんな諦めに近い感情。
「初めてのことじゃない、っていう感じ。
何度も何度も、同じ光景を見てきた人の感情」
それは、自分の人生には存在しない種類の絶望だった。
「だから、たぶん──あれは、“わたしの”夢じゃない」
エリーナは、まっすぐに言った。
「“あなたの過去の断片”が、わたしのほうに流れ込んできてるんだと思う」
アークヴァンは、じっと彼女を見つめていた。
その黄金の瞳の奥で、何かが静かに揺れている。
『……主は』
「うん」
『嫌ではないのか』
「嫌、だよ」
即答だった。
正直、あの夢は気持ちいいものじゃない。
胸が苦しくなるし、目が覚めたあとも、しばらく赤が消えない。
「でも、“嫌だ”って理由だけで、目を逸らしていいものかどうかは、分からない」
『…………』
「あの夢の中にいる竜たち、みんな“誰か”でしょ」
顔はぼやけていても、気配はある。
仲間。
同胞。
家族。
「アークヴァンにとっては、“現実”だったんだよね」
竜は、ゆっくりと目を伏せた。
その仕草が、痛いくらいに静かだった。
◆
「アークヴァン」
焚き火の赤が、月光の白に揺れる。
「ねえ。わたし、聞いてもいい?」
『何をだ』
「“昔のこと”」
エリーナは、膝の上でぎゅっと手を握りしめた。
「昔、竜がもっとたくさんいた時代があったんでしょ。
そのとき、何があったのか。……“あなたが、なにを見たのか”」
聞きたい。
でも、本当は、聞きたくない。
矛盾した感情が胸の中でぐちゃぐちゃになる。
それでも、聞かずにはいられなかった。
だって──
(“ひとりで抱えてた”って思うと、もっと苦しくなるから)
夢で一部だけ見せられて、そこで終わりにするほうが、もっと残酷な気がした。
『……主は、本当に』
アークヴァンが、深く息を吐いた。
『厄介な主だな』
「褒めてる?」
『半分は』
竜は、岩の上からそっと地面に降りた。
焚き火の光が、白銀の鱗を照らす。
『よいだろう。少しだけ話そう』
それは、竜が自分の喉元を自ら開くような、危うさのある言葉だった。
◆
『かつて、この空には、もっと多くの翼があった』
アークヴァンの声は、いつもより少し低く、遠くを見ている。
『赤い竜。黒い竜。小さな竜。大きな竜。
空は狭く、大地は彼らの影で暗かった』
「……そんなに?」
『そうだ』
アークヴァンの視線は、星の散らばる夜空に向いている。
『竜は、空と、大地と、海の力を喰らう存在だ。
その数が多すぎれば、世界はそれだけで均衡を失う』
そこに、「人」が関わってきた。
『人と竜は、昔から互いを恐れ、互いを羨んだ』
「羨んだ?」
『竜は、人の“短い時間”を羨んだ。
人は、竜の“長い力”を羨んだ』
竜の時間は長い。
けれど、その長さは、ときに退屈と孤独を運ぶ。
人の時間は短い。
その短さは、ときに鮮烈で、眩しくて、危うい。
『やがて、人は竜に近づきすぎた』
アークヴァンの言葉に、カイがわずかに身じろぎする。
『竜と契約し、“竜の主”となる者が増えた。
竜の力を借りて、国を作り、戦をし、世界を書き換えようとした』
それは、一見して、栄光の時代のように聞こえる。
でも──
『近すぎた関係は、“境”を曖昧にする』
竜と人。
どこまでが竜で、どこからが人なのか。
『人は、自らの欲を竜に流し込み、竜は、その欲で世界を焼いた』
赤い空。
血の大地。
エリーナが夢で見た光景が、そこに繋がる。
『ある時期を境に、竜と竜の主たちは、互いを“敵”と認識し始めた』
「互いに……?」
『ああ』
竜の声が、少しだけ軋む。
『人は、“竜を制御できる者”と“制御できない者”を、線引きした』
制御できる竜は「戦力」。
制御できない竜は「脅威」。
『竜は、“人に従う竜”と“従わぬ竜”を、線引きした』
従う竜は「同族の裏切り者」。
従わぬ竜は「誇り高きがゆえに、狙われる者」。
『そうして、戦は始まった』
竜対竜。
竜対人。
人対人。
境目が、全部ぐちゃぐちゃに混ざった戦い。
『空は、炎と血で染まった』
アークヴァンの黄金の瞳に、赤い残像がよぎる。
『翼は、折れた』
夢の中の感覚。
自分の身体が引き裂かれるような痛み。
『仲間は、墜ちた』
大地に、重いものが落ちる鈍い音。
『人は、竜の骨を積み上げて城壁とし、竜の血を魔導具に封じた』
竜骨の森。
血を吸い込んだ土。
『竜は、人の国を焼き払い、海を沸かし、山を崩した』
その結果、なにが残ったのか。
『我にとって、あの時代は、“長い悪夢”だ』
アークヴァンは、そう言った。
淡々とした口調。
でも、その淡々さの奥に、冷え切った時間の重さがある。
『多くの名を覚えている。
共に飛んだ竜たち。
共に墜ちた竜たち。
その背に乗っていた人間たち』
「……」
『だが、その名を、今ここで全て語るつもりはない』
言葉を重ねれば、記憶も呼び起こされる。
『主が、あの夢で見ているのは、そのほんの一部だ』
「……“一部”で、あれなんだ」
『あれ以上を見せるつもりはない』
アークヴァンの声が、わずかに硬くなる。
『主は、主の時代を生きればよい』
「でも──」
『主』
竜の目が、エリーナを射抜いた。
『これは、我の“後悔”であり、“罪”であり、“記憶”だ』
竜にも、罪悪感はある。
自分が焼いた街。
自分が落とした炎。
その下で泣いていた人々。
『それを、今の時代の人間に背負わせるつもりはない』
なんでもないことのように言う。
『主も、人間の研究員も』
「……カイも?」
『ああ』
カイは、驚いたように目を見開いた。
「俺も、ですか」
『お前は、“竜の過去に人間がどれだけ関わっていたか”を知りたがるだろう』
図星だ。
「……まあ、否定しないです」
研究者としての好奇心は、確かに疼いている。
「でも、知れば知るほど、“人側の罪悪感”も増えそうだな、とは思ってました」
『増やす必要はない』
アークヴァンは、はっきりと言った。
『今の人と、昔の人は違う。
今の竜と、昔の竜も違う』
同じ種であっても、時代が違えば、存在も変わる。
『我が今見ている人間は、“あの時代の人間”ではない』
「……それでも、竜から見れば、“人は人”なんじゃないですか」
『人間から見れば、“竜は竜”だろう?』
「それは……」
言い返せない。
だからこそ、アークヴァンははっきりと言う。
『だから、線を引くのだ』
「線」
『過去と、今の線だ』
竜の声は、静かで、揺るがない。
『我は、あの時代を“長い悪夢”と呼ぶ。
だが、その悪夢から覚めたあとに見た“森で泣いていた少女”は──悪夢とは違う』
エリーナの喉が、きゅっと鳴った。
『“ひとりにしないで”と泣いていた主は、我の記憶の中で、唯一“長い悪夢じゃない”景色だ』
森の冷たい空気。
血を流した卵。
震える小さな手。
『だから、あの記憶だけは、悪夢に混ぜたくなかった』
「……ひとりで」
言葉が、喉からこぼれ落ちる。
「そんなの、ひとりで抱えてたの?」
声が震える。
視界が滲む。
『抱えていたというより、ただ、“残っていた”だけだ』
「同じでしょ……」
エリーナは、思わず立ち上がった。
焚き火の前まで出て、アークヴァンの前に立つ。
「そんなの、ひとりで抱えるっていうんだよ」
赤い夢。
折れた翼。
墜ちていく仲間たち。
「誰にも言わないで、“長い悪夢”って言って終わりにするの、ずっと、ひとりで抱えてるってことだよ」
『主』
「わたし、嫌だよ」
涙が、ぽろぽろと落ちる。
自分でも驚くくらい、涙が止まらない。
「だって、わたし、“ひとりにしないで”ってお願いしたんだよ?」
森で。
まだ何も知らなかった頃。
「アークヴァンに、“わたしをひとりにしないで”ってお願いしたんだよ?」
『ああ』
「なのにアークヴァンは、自分のことずっとひとりぼっちにしてたってことじゃん」
それが、悔しくて仕方ない。
自分が、“ひとりにしないで”って言った相手に、ずっとひとりで悪夢を抱えさせていたなんて。
「そんなの、いやだよ……」
ぽつり、とこぼした言葉は、子どもの我儘みたいで。
でも、そこに込めた感情は、決して軽くなかった。
アークヴァンは、少しだけ目を見開いた。
『主』
「なに」
『それは、“主が泣くこと”ではない』
「泣くよ」
エリーナは、即答した。
「だって、アークヴァンのことだもん」
『……主』
「アークヴァンが、“長い悪夢”を見てきたなら、わたしもその端っこくらい、一緒に見るのが筋でしょ」
全部を見たいとは言わない。
全部を背負いたいとも、言わない。
でも、端っこくらいなら、手を添えたい。
「わたし、“竜の主”なんだよ?」
『そうだ』
「だったら、“竜の悪夢”にも、ちょっとくらい口出す権利あるでしょ」
涙声で、精一杯の強がり。
カイが、焚き火の向こうで小さく笑った。
「エリーナ」
「なに……」
「それ、多分、“竜の主”っていうより、“エリーナ・カルヴェルト”としての権利だと思うよ」
「うるさい……」
でも、その指摘が、妙に腑に落ちる。
竜の主として、じゃなくて。
ひとりの人間として。
自分が大事だと思う存在の過去に、「ひとりで抱えないで」って言いたい。
『……主』
アークヴァンは、長く、深い息を吐いた。
白い吐息が、夜の冷気に紛れる。
『お前は、本当に、厄介だ』
「褒めてる?」
『今度は、八割方』
「おお、記録更新」
カイの軽口が、少しだけ場を和らげる。
『……分かった』
アークヴァンは、静かに告げた。
『あの夢の“端”くらいなら、主に見せてもよい』
「端」
『全てを見せれば、主の心が擦り切れる』
それは、竜の確信だった。
『だが、何も見せぬまま、“長い悪夢”という一言で済ませるには、主は賢くなりすぎた』
「それ、褒めてる?」
『褒めている』
「やった」
エリーナは、涙を拭いた。
泣きながら笑うのは、体力を使う。
『ただし』
アークヴァンは、釘を刺した。
『これは、“共有”ではない』
「……?」
『竜の過去は、我のものだ』
竜の声が、低く響く。
『主は、自分の過去と、自分の今と、自分の未来を、ちゃんと見ていろ』
「……うん」
『我の悪夢に飲まれて、“今の主”が見えなくなるのは、本末転倒だ』
それは、竜なりの線引き。
『主が“ひとりにしない”と願ったように、我も、“今の主をひとりにしない”』
「……アークヴァン」
『だから、過去に沈みすぎるな』
その言葉に、エリーナは、喉の奥で笑った。
「ねえ」
『なんだ』
「それ、今ちょっとだけ、カイと同じこと言ったよね」
『そうか?』
「“目の前の選択をしろ”って言ってた人、ひとりいたなーって」
「俺のセリフ盗まれた気分だなぁ」
カイが、肩をすくめる。
「竜と研究員が同じこと言うなんて、世界終わらないよね?」
『終わらぬ』
「なら安心だ」
さっきまで赤でいっぱいだった胸の中に、少しだけ、他の色が戻ってきた気がした。
◆
焚き火が、小さくはぜる。
山の夜は冷たい。
でも、三人の間に流れている空気は、どこか温かかった。
「カイ」
「うん」
「さっき、“竜の過去に人間がどれだけ関わっていたか”って顔してた」
「そんな顔してた?」
「してた」
『していたな』
「二対一で証言取られた」
カイは、少しだけ真面目な顔になった。
「……正直、動揺したよ」
「うん」
「竜の数が減ったのも、竜が“長い悪夢”って呼ぶ時代になったのも──人が、かなり深く関わってたんだなって」
研究者としては、興味深い。
でも、人間としては、胸が痛む。
「“あの時代の人間と今の人間は違う”って、アークヴァンは言ってくれたけど……」
『事実だ』
「それでも、“同じ種族”であることには変わりなくて」
罪悪感は、血に乗って伝わるものではない。
でも、認知としては、どうしても繋げてしまう。
「俺たち、人間は、“竜の悪夢”を作った側でもあるんだなって思うとさ」
「うん……」
「“竜魔法の研究者です!”って胸張るの、ちょっとだけ怖くなるよね」
それは、素直な本音だった。
『人間』
アークヴァンが、カイを見つめる。
『お前が“竜魔法の研究者”をやめたいなら、止めはせぬ』
「やめないですよ」
即答だった。
「そこは、やめない」
『……そうか』
「ただ、“何をしないか”だけは自分で決めときたいなって思った」
カイは、焚き火の炎を見つめながら言う。
「竜を“道具として解析しない”。
“過去の戦争を再現しない”。
“竜を縛る鎖の理論に手を貸さない”」
それは、研究者としての自分への戒め。
「その代わり、“今の竜と竜の主が、どうやったらこれ以上傷つかずに済むか”だけを見たい」
『……人間』
アークヴァンの声が、少しだけ柔らかくなる。
『それは、“悪くない研究”だ』
「よかった」
「なんか、認可されたね」
エリーナも、ほっと胸をなでおろした。
竜と人と。
どちらも過去に傷を持っている。
でも、その傷をなかったことにはできない。
だからこそ──
せめてこれからは、“同じ傷を増やさない”ように選びたい。
◆
その夜。
エリーナはもう一度、夢を見た。
だけど、今度は少し違っていた。
赤い空。
折れた翼。
血の大地。
そこまでは同じ。
でも、視界の端に、小さな光があった。
白い。
柔らかい。
凍りついた空気の中で、ぽつんと灯る小さな灯り。
そこに、あの日の森の光景が重なった。
血を流した卵。
暗い木々の間。
ひとりで泣いていた少女。
『ひとりに、しないで』
あのときの自分の声が、夢の中に響く。
赤い世界の中で、その声だけが、妙にはっきりと聞こえた。
エリーナは、夢の中で、そっと手を伸ばした。
誰の手かも分からない。
どこに触れるかも分からない。
でも、その手は、確かに“誰か”に届いた気がした。
目が覚めたとき、胸はまだ痛かった。
けれど、涙はさっきほど止まらなくなかった。
「……おはよう」
朝焼けの空の下。
エリーナが身を起こすと、そばにはアークヴァンとカイの気配があった。
『どうだ、悪夢は』
「うん、悪夢だけど……」
エリーナは、空を見上げた。
「ちょっとだけ、“夢”になってきた気がする」
『……意味が分からぬ』
「いいの。わたしの中だけの話だから」
赤と白と青が混ざった空。
その下で、竜と人とが、同じ焚き火を囲んでいる。
竜の見る夢は、長い孤独の記憶だった。
でも、そこに“ひとりにしない”と願った少女の手が伸びたことで、少しずつ、形を変え始めていた。
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