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第10話 『国境の城塞と、竜を縛る鎖の提案』
しおりを挟む国境の城塞都市は、まるで大地から生えた鉄の花みたいだった。
石と鉄で編まれた高い城壁が幾重にも重なり、その外側には深い堀と、魔力を帯びた杭がぐるりと打ち込まれている。
遠目からでも、そこが「戦うために作られた街」だと分かる。
「うわぁ……」
エリーナは、街道の先に広がるその光景を見て、思わず息を呑んだ。
門の上には、竜避けの魔術紋がびっしりと刻まれている。
空にも、薄く結界の膜が張られているのが見えた。
「さすが、国境の最前線って感じだね」
隣でカイが、やや苦い笑みを浮かべる。
「竜にも魔物にも、“ここから先はただじゃ通さない”っていう意思表示だよ」
「アークヴァン、大丈夫かな」
『我は常に大丈夫だ』
空高くを飛んでいたアークヴァンが、軽く旋回しながら答える。
『あれは“拒絶の結界”だが、今は主が“客人”として入るのだろう? ならば、我は少し離れていればよい』
「そう、だね」
城門に近づくにつれ、兵士たちの視線が鋭くなる。
白竜の姿に気づいた者たちが、慌てて笛を吹き、合図旗を振り始めた。
「おい、あれ見ろ!」
「白竜だ! 本当にいたのか!」
「落ち着け! 敵意は見せていない!」
怒号とざわめき。
魔導砲台が、わずかに角度を変えてこちらを狙う。
『主』
アークヴァンが、声を潜めた。
『ここから先は、我は空の上で待つ。必要とあらば、すぐ降りるが』
「うん。あんまり近づいたら撃たれそうだもんね」
『撃たれても平気だ』
「平気かどうかじゃないの!」
思わずツッコミを入れる。
こういうところ、本当に竜と人間の感覚が違う。
「アークヴァンは、城塞の外の丘に降りてて。連絡は紋章で取れるから」
『分かった』
白銀の巨体が、ゆるやかに高度を上げていく。
兵士たちは、竜が遠ざかるのを確認してから、ようやく息を吐いたようだった。
◆
城門での通行審査は、普段の町とは比べものにならない厳しさだった。
身分証の提示。
荷物の確認。
魔力の検査。
エリーナが胸元の紋章を隠しきれないことは分かっていたので、カイはあらかじめ言葉を用意していた。
「リューン魔導院・研究員、カイ・レーン。竜魔法の観測と実地研究のため、“アストライア王国より亡命してきた竜の主”と同行中です」
兵士たちがざわめく。
「やはり……本物か」
彼らは躊躇いがちに、エリーナの胸元の紋章を見た。
白銀の紋が、薄く光を帯びている。
「お、恐れ入りますが……城塞指揮官様にお目通りを願いたいのですが」
兵士の一人が、緊張した声で言う。
「竜の主に関しては、我々の判断を超えます」
「分かりました」
カイは、穏やかな笑みを崩さずに頷いた。
(ここまで来たら、隠しようがないしね)
彼の目は、どこかで既に計算を始めているようだった。
ほどなくして、門の上から豪奢な軍装の男が現れた。
銀糸で縁取られた軍服。
胸にはいくつもの勲章。
背筋の伸びた姿勢と、勝手に周囲を従わせる雰囲気。
「リューン国境城塞司令官、アードルフ・リューンハルトだ」
男は名乗りながら階段を降りてくる。
「君たちが──白竜の主か」
「……エリーナ・カルヴェルトです」
エリーナは、一歩前に出て礼をした。
王都で何度も教え込まれた、貴族式の礼。
身体が勝手に動く。
「アストライア王国、カルヴェルト伯爵家の……元令嬢、でした」
「ふむ」
アードルフはエリーナをまっすぐ見つめた。
その視線には、好奇心と警戒と、ほんの少しの計算が混ざっている。
「よく来てくれた。国境の最前線に、竜の主の来訪とは──心強いことだ」
言葉は歓迎。
その裏に、“利用価値”を測る光が見える。
エリーナの背中に、薄い寒気が走った。
◆
城塞都市の中は、外観以上に軍事的だった。
街路は真っ直ぐで、どこからでも城壁に素早く向かえるように設計されている。
家々の壁には、簡易的な防御陣が刻まれていた。
子どもたちでさえ、木の剣を振るっている。
誰もが「いつでも戦える」ように暮らしている街。
「すごいところだね……」
「うん」
カイも、周囲を見ながら小さく頷く。
「ここは、リューン王国が他国に“本気だぞ”って見せつけるための顔みたいな街だからね」
城塞の中心には、高い塔がいくつもそびえている。
その中でもひときわ高い塔の上には、大きな魔導核が埋め込まれているのが見えた。
淡く脈打つ光。
魔力の結晶体。
「魔導核……?」
「うん。この城塞全体の結界と、砲台の制御の中心だよ」
カイの言葉の端に、少しだけ緊張が乗る。
(嫌な予感)
エリーナは、胸元の紋章がじわりと熱くなるのを感じた。
◆
その晩、エリーナは晩餐会に招かれた。
いや、正確には「招かれた」というより、「半ば強制的に準備された」に近い。
「さ、こちらへ。お嬢様」
城の侍女たちが、慣れた手つきで彼女を迎え入れる。
軽く抵抗しようとすると、「将軍閣下のご命令ですので」と笑顔で押し切られる。
脇の部屋に通されると、そこには見覚えのあるものが待っていた。
鏡。
整えられた化粧品。
ハンガーにかけられた、絹とレースのドレス。
「……やだ」
思わず、本音が漏れる。
王都で何度も着せられた、あの「役割」の服。
きれいに見えるように、貴族らしく見えるように、王太子の隣に立つ“装飾”として用意された服。
「お似合いになりますよ、きっと」
侍女は、悪気なく微笑む。
エリーナは、鏡の中の自分を見つめた。
旅の間に少し日焼けして、頬の線が引き締まった自分の顔。
(戻りたくて旅に出たわけじゃない)
でも今、こうして鏡の前に座らされていると──
王都時代の自分が、がらがらと引き出されてくる。
「エリーナ様?」
「……大丈夫。着るよ」
断ろうと思えば断れたのかもしれない。
でも、「拒絶の理由」をここで説明する余裕はなかった。
代わりに、自分の中で一つだけ線を引く。
(ドレスは着てもいい。でも、“前と同じ自分”には戻らない)
侍女に髪を整えられながら、何度もそう繰り返す。
◆
晩餐会は、城塞の大広間で開かれた。
長いテーブルに並ぶ料理。
軍人たちと、その家族と思しき人々。
壁にはリューン王国の紋章旗と、いくつもの武勲の証が飾られている。
エリーナが入室すると、一瞬、空気が揺れた。
見慣れないドレス姿の少女。
胸元に薄く光る紋章。
彼女が「誰なのか」を分かっている者は、息を呑む。
「竜の主、エリーナ・カルヴェルト嬢だ」
アードルフが、手を広げて紹介した。
「遠くアストライアから、白竜と共に我が国へ来てくれた客人である」
拍手が起こる。
形式的で、どこか硬い拍手。
エリーナは、微笑だけを浮かべて軽く頭を下げた。
(王都の夜会と、同じ)
足元が急に冷たくなる。
視線が注がれる感覚。
何を言っても「王太子の婚約者」として解釈されていたあの頃。
(でも、もう違う)
あの頃、彼女は王都から出ることすら許されなかった。
今は、自分で足を選び、空を飛び、旅を続けている。
それだけは、確かに違う。
◆
晩餐が終わりかけたころ。
人々が少し酒に酔い、空気が柔らかくなったタイミングで、アードルフが動いた。
「エリーナ嬢」
「はい」
「少し、個人的に話をしてもよいかな」
笑顔のまま、彼はエリーナを別室へと誘った。
豪華ではあるが、兵棋や戦略図が広げられている部屋。
将軍の個人執務室らしい。
カイも当然一緒についていこうとしたが、「すまないが、これは竜魔法に関する繊細な話でね」とやんわりと止められた。
「……分かりました」
カイは一度眉を寄せたが、引いた。
その退き方が、「後で必ず確認する」という意思表示にも見えた。
◆
部屋に案内されると、アードルフは上機嫌にワインを注いだ。
「飲めるかね?」
「……少しだけなら」
エリーナは、グラスを両手で受け取り、口をつけるふりだけをした。
身体のどこかが、ぴんと張りつめている。
アードルフは、窓の外の城塞を見やりながら口を開いた。
「ここは、リューン王国にとって最も重要な盾だ」
「……はい」
「他国との緊張は、決して消えない。竜も魔物も、隙あらばこの国境を破ろうとする」
その言葉に偽りはなかった。
「我々は、ずっと足りないものを埋めるようにして戦力を整えてきた。
魔導砲。結界。騎竜。優秀な魔導士たち」
アードルフは、ゆっくりとエリーナを振り返る。
「だが、君と白竜が現れたことで、“本当に欲しかったピース”が見えた気がするのだ」
その笑みは、礼儀正しくもどこか鋭い。
「竜の主。君の力は、ここにとってあまりに魅力的だ」
エリーナの指先が、グラスの縁をきゅっと掴む。
嫌な予感が、形になっていく。
「もちろん、いきなり“国に従え”と言うつもりはないよ」
アードルフは、あくまで柔らかく笑った。
「君にも白竜にも、旅の目的があるのだろう。
だからこそ、こちらから提案したい」
「……提案」
「そう」
アードルフは、机の引き出しから小さな箱を取り出した。
細工の施された銀の箱。
その中には、淡い光を帯びた指輪が一つ、収まっている。
「これは、“安定の指輪”と呼ばれる魔導具だ」
エリーナの呼吸が止まる。
「竜魔法のような強大な力を、人の器に合わせて整えるための補助具でね。
君のように感情と魔力が直結するタイプには、特に有効だ」
「……どういう、仕組みなんですか」
自分でも驚くほど静かな声で尋ねる。
「簡単な話だ」
アードルフは、指輪の内側を指でなぞった。
「この指輪を通じて、君の魔力を城塞の“魔導核”とリンクする。
魔導核は、膨大な魔力を安定させるための“器”だ。
君の龍魔法の出力も、その器を通すことで、より安定して制御できるようになる」
「……魔導核と、繋げる」
「そう。君一人の器で抱え込むのではなく、城塞そのものの“器”を使うんだ」
響きだけ聞けば、合理的な提案に聞こえる。
でも。
(魔導核に繋げるってことは……)
そこに、自分の魔力の“根”を差し込むことで、城塞の結界や砲台の出力にも影響を与えられる。
逆に言えば、魔導核の状態に自分が左右される。
なにより──
(“繋がったら、切るのが難しくなる”)
アストライア王家のアレクシオンが使おうとしていた「禁術」の話が、頭をよぎった。
竜を王家の血筋に縛り付ける術。
竜と主を、特定の系譜に固定する鎖。
目の前の指輪は、あれほど露骨ではない。
しかし、本質はよく似ている。
「もちろん、これは一方的な拘束ではない」
アードルフは、さらりと言う。
「君の許可なく、魔導核が君を縛ることはない。
むしろ、君が“魔導核の加護”を受ける形だ」
言葉の選び方が、巧妙だった。
加護。
安定。
補助。
どれも、耳に優しい言葉。
「君がここにいる間だけでもいい。
国境の防衛に、君の力を貸してほしい」
アードルフの目が、少しだけ細くなる。
「竜魔法の制御に不安があるのだろう? 先日の“傭兵団との騒ぎ”の噂も、耳に入っている」
「……」
心臓が、どきりと鳴る。
「ならば、この指輪は君自身を守ることにもなる。
“災厄竜の娘”などという不名誉な噂を、“国境の守護竜の主”に変えることもできる」
そのフレーズは、あまりにも魅力的だった。
(“災厄”じゃなくて、“守護”……)
一瞬だけ、自分の胸が揺れる。
噂を塗り替える。
力を正しく使う。
そのための“安定の指輪”。
理屈では、悪くない。
でも──
「……指輪を外したら?」
エリーナは、静かに尋ねた。
「魔導核とのリンクを、切りたいと思ったときは」
アードルフの指先が、一瞬だけ止まる。
「……外すことは可能だ」
すぐに、笑顔で答えが返ってくる。
「ただし、魔導核の出力調整には再調整が必要だし、一時的に城塞の結界に負荷がかかる。
だから、“何度も付け外しするようなものではない”」
「──つまり」
エリーナは、グラスを机に置いた。
「付けるなら、半永続的に“ここに魔力を預ける”覚悟をしろ、ってことですね」
アードルフの笑顔が、ほんの少しだけ固くなる。
「言葉が過ぎるぞ、竜の主」
「ごめんなさい。性格があまり貴族向きじゃないもので」
エリーナは、表情だけは柔らかく笑った。
本当に分かりやすい。
王都で、何度も見てきた顔だ。
“丁重な言葉”と“鎖の提案”がセットになった顔。
「……一つだけ、はっきりさせておきたいことがあります」
「なんだね」
「この指輪を付けたら、わたしとアークヴァンは、リューン王国以外のために力を使ってもいいんですか?」
アードルフは、少しだけ目を細める。
「それは──」
「例えば、干ばつの村があったら、そこに行って井戸を掘るために竜魔法を使うとか。
竜狩りの傭兵団が別の国の街を襲ってたら、そこに飛んでいって守るとか」
エリーナは、静かに続けた。
「魔導核と繋がったままでも、自由に飛べますか?」
将軍の顔から、笑みがゆっくりと薄れていく。
代わりに、冷たい貴族の顔が滲み出る。
「……君は、賢いな」
「賢くなったんだと思います」
エリーナは、自嘲気味に笑った。
「王都で、“鎖をかけられそうになった”経験があるので」
王太子アレクシオン。
王家の禁術。
竜を王家に固定しようとしたあの夜。
「わたしは──」
息を吸い込む。
「誰かに縛られるために旅に出たわけじゃありません」
声は震えていなかった。
むしろ、驚くほど静かで、透き通っていた。
「“竜の主として”、誰のために力を使うのかは、わたしが選びたいんです」
その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が凍った。
アードルフの目が、真っ直ぐにエリーナを射抜く。
その瞳には、もはや笑いはない。
「……君は、分かっているのか」
低い声。
「ここがどれだけの血と資源を費やして、この国境を守っているのか」
「分かってるつもりです」
「ならば、なぜ“この国に力を貸す”ことを、そんなに嫌がる」
「嫌がってるわけじゃないです」
エリーナは首を振った。
「力を貸すかどうかは、“わたしが決めていい”ことだからです」
誰かに命令されて、鎖で繋がれて、仕方なく力を使うのではなく。
「わたしが、“ここを守りたい”“この人たちを守りたい”と思ったときに、その選択を自分でしたいんです」
「……理想論だな」
アードルフの声には、軽蔑と、ほんの少しの羨望が混ざる。
「世界はそんなに甘くない。
君がどれだけ綺麗事を並べようと、君の力はもう、“各国にとって危険因子”なんだ」
「それは、分かってます」
「ならば、自ら“秩序の鎖”に繋がれるのも、一つの賢い選択だ」
「“秩序の鎖”……」
聞き慣れない言葉。
でも、その本質は、“管理しやすい竜の主”を作るということだ。
「……ご提案、ありがとうございます」
エリーナは、深く礼をした。
「でも、お断りします」
きっぱりと。
「では──」
アードルフは、グラスを机に置き、姿勢を正した。
「友好の証として、しばらくこの城塞に滞在してもらう。
“竜の主”がこの城塞にいるということ自体が、他国への抑止力になるからな」
それは、丁寧な言い回しをした「軟禁」だった。
「もちろん、待遇は最大限に配慮しよう。
研究員殿にも、城の図書室や研究施設の使用を許可しよう」
(外の鍵は、あっちが持つってこと)
エリーナの背筋に、ひやりとした汗が流れた。
「……検討させてください」
「いいだろう。答えは急がない」
アードルフは、表情を崩さなかった。
ただ、その瞳の奥で、「逃がす気はない」という意思が静かに燃えていた。
◆
部屋を出て廊下に出ると、カイが壁にもたれて待っていた。
「どうだった?」
「……鎖、だった」
エリーナは、短く答えた。
カイの目が鋭くなる。
「やっぱり」
「“安定の指輪”って名前の、魔導核リンク用の契約具。
つけたら、ここに半分魂置いていくことになるやつ」
「“安定”って言葉、どこも好きだよね」
カイは低く笑った。
「王家は、“繁栄のための禁術”。
こっちは、“国境防衛のための安定具”」
「言葉は違うけど、本質は」
「似てるね」
二人は、しばし黙って歩いた。
廊下の窓からは、夜の城塞都市が見える。
灯りのともった家々。
巡回する兵士たち。
遠くに見える魔導核の光。
「エリーナ」
「うん」
「ここに“滞在してほしい”って言われた?」
「うん。“友好の証として”だって」
「それ、だいたい“出るな”って意味だよ」
「分かってる」
エリーナは、苦笑した。
「だから、逃げるなら早めがいいよね」
「……うん?」
思わず足を止める。
「今、“逃げる”って言った?」
「うん」
カイは、さらりと頷いた。
「他の選択肢もあるかもしれないけど、とりあえず“逃げるプラン”は考えといたほうがいいかなって」
「そういうの、もっと悩んでから言うものじゃないの?」
「悩んでるよ?」
「悩んだ上で“逃げる”なんだ」
「だって、君が“鎖は嫌だ”って顔してるから」
カイの言葉は、妙にあっさりしていた。
でも、その軽さに、エリーナの胸がじんわりと温かくなる。
「……ありがとう」
「まだ何もしてないよ」
「考えてくれるだけで、ちょっと楽になる」
視線が合う。
その一瞬に、心臓がまた忙しく打ち始めた。
◆
夜。
城塞の塔の上。
冷たい風が、石の床をなでていく。
エリーナは、塔の縁に腰を下ろして、足をぶらぶらと揺らしていた。
見下ろせば、城塞の街の灯りが、小さな星みたいに瞬いている。
遠くの城壁の上には、見張りの兵士たちの影。
「……また、同じだ」
ぽつり、と口から零れる。
王都の夜会。
貴族たちの笑い声。
王太子の隣で、笑顔を貼り付けていた自分。
あのときは、ただ「そこから出たい」と願っても、扉は開かなかった。
今もまた、「ここにいろ」と言われる場所で、同じような提案を受けている。
『主』
背後から、風に混じって低い声が聞こえた。
「アークヴァン」
振り返れば、塔から少し離れた屋根に、白銀の竜が身を伏せていた。
人間たちに見つからないギリギリの距離と角度。
『ここは、主に似合わぬ匂いだ』
「似合わない、って?」
『鎖と、鉄と、恐れの匂いだ』
アークヴァンの黄金の瞳が、城塞を見下ろす。
『だが、前とは違う』
「……前?」
『王宮だ』
短い言葉。
『前回は、“鎖をかけられそうになって、逃げられなかった”』
あの夜。
王太子に禁術を示され、アークヴァンの怒りが爆発し、王宮が崩れた夜。
『主は、抗おうとしたが、状況に押し潰された』
「…………」
その記憶は、今も胸の奥に刺さっている。
『だが今回は、主が“自分で拒んだ”』
アークヴァンは、ぐっと近づいてくる。
『断ったのだ、“安定の指輪”とやらを』
「……怖かったよ」
エリーナは、笑いながら吐き出す。
「断ったら、“ここにいさせない”って言われるかもしれないって。
“災厄竜の娘”って噂をもっと悪くされるかもしれないって」
『そうだろう』
「それでも、“嫌だ”って言っちゃった」
『それが違いだ』
竜は、はっきりと言った。
『前は、“嫌だ”と言う前に爆発した。
今回は、“嫌だ”と言ってから、そのあとを考えている』
「……それ、褒めてる?」
『褒めている』
あまりにも真面目な声だったので、エリーナは吹き出しそうになる。
『主は、自分で自分を過小評価しがちだ。
だが、“嫌だ”と言えることは、決して弱さではない』
「アークヴァン」
『うむ』
「ありがと」
『礼を言われるほどのことはしておらぬ』
「ううん」
エリーナは、そっと竜の鼻先に手を伸ばした。
冷たい鱗。
それでも、内側には確かな熱。
「“前と同じだ”って思いかけてたから。
“違う”って言ってもらえて、ちょっと救われた」
『主は、前と同じではない』
アークヴァンは、静かに言った。
『あの頃の主は、“守りたいもの”が曖昧だった。
今の主には、“守りたい顔”がある』
カイのことを言っているのだと、すぐに分かってしまう自分が、なんだか悔しくて、でもちょっと嬉しい。
「……言わなくていいことまで観測されてる気がする」
『主の心の動きは、竜魔法の揺れにも影響するからな』
「それ、研究者としてのコメント?」
『竜としての観察だ』
竜と人間のくすぐったいやりとりに、少しだけ心が落ち着いた、そのとき。
「ここにいたんだね」
塔の階段から、足音がした。
カイが、息を整えながら姿を見せる。
「勝手に上がってきてごめん。見張りの兵士には、“星の観測をするから”って言っといた」
「星の観測……」
「半分は本当」
彼は、エリーナの隣に腰を下ろした。
夜風が、三人の間を抜けていく。
◆
「脱出プラン、聞く?」
唐突に、カイが言った。
「……やっぱり考えてたんだ」
「うん。君の顔見て、“ここに長居したら死ぬな”って思ったから」
「そこまで?」
「精神的な意味でね」
カイは、塔の縁から城壁のほうを見下ろす。
「この城塞、確かに強いけど、完璧じゃない」
「……どういうこと?」
「魔導核を中心に結界が張ってあるでしょ。
だから、核から距離が離れれば離れるほど、“出力は弱くなる”」
彼は、指で空中に簡単な図を描く。
「特に弱いのは、“外側の下部”。
上空と正面は砲台と結界で固めてるけど、真下の岩壁にはそこまで魔力を割けない」
「つまり……」
「“城壁の一部ぶち破って飛び出す”なら、“下から外へ”がいちばん成功率高いってこと」
さらりと言う内容が、割と物騒だ。
「アークヴァンなら、できる?」
『問題ない』
竜は、あっさり答えた。
『この程度の城壁、爪の先で砕ける』
「頼もしい……」
エリーナは、同時にぞわりとした。
自分が今いる場所が、「竜にとっては壊せるもの」として見えていることに、妙な現実感がある。
「ただし」
カイが続ける。
「脱出の瞬間、間違いなく“敵対行為”とみなされる。
魔導砲も騎士団も、全力で追ってくるはず」
「だよね」
「だから──」
彼は、真剣な目でエリーナを見た。
「これは、“ここを敵に回してもいいか”っていう選択でもある」
リューン王国。
その国境を守る城塞。
ここで縁を切れば、この国に二度と簡単には戻れない。
それは、今後の旅にも影響を及ぼす。
「もし君が、“それでもここに留まる”って選ぶなら、俺はここに残るよ」
静かな声。
「魔導院の研究員として、“竜の主との交渉役”って立場でね。
君の自由が少しでも確保できるように、ここで動くこともできる」
その選択も、きっと重い。
魔導院との関係も、城塞との政治も、全部背負うことになる。
「でも」
カイは、少しだけ微笑んだ。
「君が『行く』って言うなら──」
その先の言葉に、エリーナの心臓が早鐘を打つ。
「俺は何を失っても、ついてくよ」
あまりにも、あっさりと。
でも、冗談は一切含まれていない声で。
「魔導院の立場も、研究者としてのキャリアも、ここでの安全も。
全部失うことになるかもしれないけど」
彼の灰色の瞳には、迷いがなかった。
「“君と一緒に空を飛ぶ”って選択のほうが、今の俺にはずっと大事だから」
胸が、ぎゅっと締め付けられる。
さっきまで、災厄だの鎖だのと、重い言葉でいっぱいだった胸の中が、別の痛みで満たされる。
じんと熱い。
苦しいのに、嫌じゃない痛み。
(ああ、これ、多分──)
恋に似た痛み。
ようやく、その名前を心の中で認める。
「……ずるい」
エリーナは、笑いながら言った。
「そういうこと、さらっと言うの、ほんとずるい」
「そう?」
「そうだよ」
視界が滲む。
さっきまで泣き疲れたと思っていたのに、まだ涙が出る。
「だって、そんなふうに言われたら──」
喉が詰まる。
「行くって、言うしかないじゃん」
震えた声で、それでもはっきりと告げる。
「わたし、行く」
塔の外。
夜空の向こうを見つめる。
「鎖をかけられたまま、“ここにいれば安全ですよ”って言われる場所に、これ以上いたくない」
「……うん」
「災厄って呼ばれてもいいから、自分で選びたい」
その言葉に、アークヴァンが低く喉を鳴らした。
『よく言った、主』
竜の黄金の瞳が、夜の中で光る。
『では、我は“主の選択”のために暴れよう』
「暴れすぎはダメだよ」
『必要な分だけだ』
アークヴァンが、翼を大きく広げる。
『乗れ』
塔の縁に身を寄せ、白い背中が近づいてくる。
エリーナとカイは、互いに一度だけ目を合わせ、同時に頷いた。
「行こう」
カイが手を差し出す。
エリーナは、その手をぎゅっと握った。
恋の痛みも、災厄の重さも、鎖の記憶も。
全部抱えたまま。
三人は、夜空へ飛び出す準備を始めた。
◆
城壁の下部。
結界の薄い地点を、アークヴァンは正確に見抜いていた。
『ここだ』
白い爪が、岩壁に突き立つ。
竜魔法が爪先に集中し、石の構造を内側から砕く。
「アークヴァン、“必要な分だけ”だからね!」
『分かっておる』
轟音。
城壁の一部が、内側から弾け飛んだ。
爆発ではない。
「押し広げて壊す」力。
その瞬間、城塞全体に警報の鐘が鳴り響く。
「侵入――いや、脱出!? 城壁が破られたぞ!」
「白竜だ! 白竜が壁を抜けた!」
「砲台準備! 魔導士、結界に魔力集中!」
怒号が飛び交う。
エリーナは、アークヴァンの背にしがみつきながら、振り返った。
城塞の灯りが、ざわざわと揺れている。
(ごめん)
小さく、心の中で謝る。
でも、ここで謝るべき相手は、本当は別の場所にいるのかもしれない。
「エリーナ!」
背後から、魔力の波が迫る気配。
城の塔の上から、光の弾がいくつも放たれていた。
「魔導砲、来る!」
『任せろ』
アークヴァンが、翼を鋭く傾ける。
白銀の身体が、夜空を斜めに切り裂くように飛ぶ。
光の弾が、さっきまでいた位置をかすめて爆ぜる。
「わぁ──!」
熱風が頬を撫でた。
耳の奥が、じんと痺れる。
「カイ、しっかり掴まって!」
「うん、分かってるけど、竜のスピードって人間基準じゃないよね!」
『落ちるなよ、人間』
「落ちる予定はないよ!」
半ば叫ぶような声の中でも、互いの言葉ははっきりと聞こえた。
アークヴァンは、城塞の魔導核からできるだけ遠ざかるように、斜め上へと飛ぶ。
追撃の光が、何度も飛んでくる。
エリーナは、胸元の紋章に手を当てた。
「“竜障・翼守”!」
アークヴァンの翼の縁に、薄い光の盾が展開される。
砲撃の一部が、それに弾かれて軌道を逸らす。
「防げてる!」
『主、うまいぞ』
「褒めてる余裕ある!?」
『ある』
竜と主と人間の声が、夜空で交錯する。
やがて、城塞都市の灯りが、少しずつ遠ざかっていった。
追撃の光も、次第に届かなくなる。
『ここまで来れば、ひとまず大丈夫だ』
アークヴァンが、速度を少し緩めた。
エリーナは、ようやく肩の力を抜く。
手の震えが、止まらない。
でも、その震えには、恐怖だけじゃなくて、奇妙な高揚も混ざっていた。
「……逃げちゃったね」
「うん」
カイが、隣で息を吐く。
「完全に、“国境の城塞”を敵に回した」
「ごめん」
「なんでエリーナが謝るの」
「だって、カイの立場とか、魔導院とか──」
「さっき言ったでしょ」
カイは、エリーナの手をそっと握った。
「“君が『行く』って言うなら、俺は何を失ってもついていく”って」
「……うん」
「今、それが実行されただけ」
笑いながら言うから、余計に胸が痛い。
恋に似た痛みが、また胸の奥でじんわりと広がる。
『主』
アークヴァンが、空を見上げながら言った。
『これで、完全に“追われる旅”になったな』
「……そうだね」
『だが、悪くない』
竜の声は、どこか楽しそうだった。
『主の選んだ“自由”は、簡単な道ではない。
だが、その分、空は広い』
「アークヴァン」
『なんだ』
「わたし、たぶん──」
言葉を飲み込む。
“恋してる”なんて、今ここで言えるほど、自分は強くない。
代わりに、別の言葉を選ぶ。
「わたし、たぶん、自分で選んだことなら、どんなに怖くても、後悔しないと思う」
『そうだろうな』
竜は、迷いなく頷いた。
『主は泣き虫だが、諦めが悪いからな』
「そこは変わらないんだ……」
「変わらなくていいところだと思うけどね」
カイが笑う。
三人の笑い声が、夜の風に溶けていく。
国境の城塞。
竜を縛る鎖の提案。
それを拒んで飛び出した夜。
この瞬間から、彼らの旅ははっきりと「追われる旅」へと変わった。
同時に、エリーナの胸の中で、小さな恋の決意が、確かに芽吹き始めていた。
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