続・無魔力の令嬢、婚約者に裏切られた瞬間、契約竜が激怒して王宮を吹き飛ばしたんですが……✩✩旅を選んだ娘とその竜の物語

タマ マコト

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第9話 『災厄と呼ばれる名前』

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 その宿場町は、きれいに言えば「活気に満ちている」、正直に言えば「うるさい場所」だった。

 街道の分岐点にあるだけあって、人と馬と荷車が、狭い通りにぎゅうぎゅうに詰まっている。
 香辛料の匂い、干し肉の匂い、獣の汗の匂い、酒と油の匂いがごちゃ混ぜになって、鼻の奥をくすぐってくる。

「うわぁ……」

 エリーナは、通りに足を踏み入れた瞬間、思わず声を漏らした。

「人、多い……」

「だよね」

 隣で歩くカイも、苦笑しながら辺りを見渡す。

「旅人、商人、兵士、情報屋。こんなにいろんな人種が一気に見られる場所、そうそうないよ」

「情報屋って、そんなさらっと言うものなの?」

「いるよ? こういう宿場町には必ず。“どこどこの城壁が崩れただの”“あそこの村に怪しい竜の影が見えただの”、噂を集めて売る人たち」

 軽く言っているが、その説明の中に、エリーナの胸に引っかかる単語が混じっていた。

「……城壁」

「ん?」

「今、城壁って……」

「あー」

 カイは、ほんの少しだけ心当たりありげな顔をした。

「最近、“竜絡み”の話題、多いからね」

「竜絡み……」

 その響きだけで、胸の奥がざわつく。

(……アストライアのこと、かな)

 王宮の崩壊。
 白竜の咆哮。
 吹き飛んだ壁と天井。

 あの夜の出来事は、きっととっくに海を渡って噂になっている。

 ――そう、思っていたのだけれど。

 この宿場町で流れていた噂は、それだけではなかった。



「でねでね、聞いた? 白竜の話!」

 宿場町の真ん中にある、屋台兼酒場。

 昼間から酒を出しているその場所には、行商の話声や馬商人の愚痴が飛び交っていた。

 エリーナとカイは、とりあえず空腹を満たすために、その屋台の隅のほうに腰を下ろした。

 焼いた肉と、固めのパンと、野菜のスープ。
 旅人用のシンプルな食事。

「……おいしい」

「だろう?」

 カイは、エリーナの反応を見て満足そうに笑う。

「こういうとこのスープはね、味より“あったかいこと”が正義なんだよ」

「分かる……」

 あったかい食べ物が胃に落ちると、張り詰めていたなにかが少し緩む。

 そんなふうにひと息ついたところで、隣のテーブルから飛び込んできた言葉が、エリーナの耳を刺した。

「でさ、あんた。聞いたかい?」

 酒気を含んだ女の声。

「白竜が現れた地域、また城壁が壊れたって話!」

「え、またかよ」

 男の声が続く。

「なに? 今度はどこだ?」

「リューン南部の小砦さ。詳しい名前は知らないけど、国境見張ってるとこよ。
 一週間ほど前に、“空に白い影が見えた”って騒ぎになったと思ったら、その数日後に、“風が暴れて城壁の一部が崩れた”ってさ」

「おいおい、物騒だな」

「でもってさ」

 女は、さらに身を乗り出した。

「その白竜が現れたって噂が出た場所、他にもあるんだと。
 王都のほうには“王宮を吹き飛ばした”って話もあるだろ?」

「あるある。あれだろ、“王太子の婚約者だか誰だかが竜をキレさせた”ってやつ」

「やっぱり話、広まってるんだ……」

 エリーナの手が、スープの器の上で止まる。

 隣のテーブルの会話は、容赦なく続く。

「それだけじゃないんだよ」

 今度は別の男の声。

「竜の主が通った村がな──その数日後に、魔物の群れに襲われたんだってさ」

「魔物?」

「おっかねえな。竜の気配に引き寄せられたのかね」

「分かんねえけどよ、誰かが言ってたぜ。“あの女と白竜が通ると、運命がかき乱される”って」

「“災厄竜の娘”だってさ」

 笑いながら囁かれるその言葉に、エリーナの心臓がぎゅっと縮んだ。

 災厄竜の娘。

 耳慣れない二つ名。

 けれど、そこに込められている意味は、簡単すぎるほど簡単に分かる。

(……災厄)

 アストライア王宮の崩壊。
 干ばつの村。
 竜骨の森。
 竜狩りの襲撃。

 そのすべてに、自分とアークヴァンの影がある。

 事実と、誇張と、勘違いと、偶然。
 それら全部がごちゃ混ぜになって、“竜の主が来ると何か起きる”という雑な結論にされている。

 その雑さが、逆にリアルだった。

「……エリーナ」

 向かい側で、カイが小さく名前を呼ぶ。

 エリーナは、スプーンを持つ手をぎゅっと握ったまま、俯いた。

 視界の端で、パンのかけらがスープに沈んでいく。

(わたしが動いた場所で、問題が起きてる)

 干ばつの村は、水を手に入れた。
 それは間違いなく事実だ。

 でも──噂では、その近くの森に魔物が増えた、とか。
 増えた魔物が別の集落を襲った、とか。

 本当に自分たちのせいなのかは分からない。

 分からないのに、“災厄竜の娘”という言葉は、やけにしっくりと心に絡みついてくる。

「……トイレ、行ってくるね」

 エリーナは、席を立った。

 カイは止めなかった。
 止めない代わりに、彼女の表情を一瞬だけじっと見て、なにも言わなかった。



 宿場町の宿は、二階建ての木の建物だった。

 ぎしぎしと軋む階段。
 廊下に漂う、床板と古い布団の匂い。

 部屋は狭かったが、窓があるだけありがたかった。

 エリーナは、自分にあてがわれた小さな部屋の扉を閉めると、そのまま窓辺まで歩いて行った。

 ガラスは入っていない。
 木の窓枠を開ければ、外気がそのまま入ってくる。

 夕焼けが、街道を赤く染めていた。

 人の声が、下からかすかに上がってくる。
 馬の嘶き。
 鍋の音。
 笑い声。

 世界は普通に回っている。

 その中で、自分だけが、変な名前を乗せられている。

「……災厄、竜の娘」

 口に出してみる。

 声が、少しだけ震えた。

「やだなぁ、その名前」

 笑おうとしたけれど、うまくいかなかった。

(でも)

 完全に間違いとも言い切れない。

 王宮を吹き飛ばしたのは、たしかに自分たちだ。
 干ばつの村に雨を呼ぼうとして、森のほうに大雨を落としたのも、自分たちだ。

 竜骨の森では、過去の記憶を引っかき回して、竜狩りの傭兵団を引き寄せた。

(わたしが動けば動くほど──)

 誰かの運命に、波紋が広がる。

 それが、本当に“よい波紋”と言えるのかどうか、自信がない。

「……わたし、もしかして」

 窓枠に手を置く。

 指先が、わずかに震えている。

「動けば動くほど、誰かの運命をかき乱してるのかな」

 干ばつの村。
 あの子どもの笑顔。
 村長の涙。

 あれを思い出そうとすると、今度は隣の噂が脳裏に割り込んでくる。

 ――“竜の主が通った村は、数日後に魔物の群れに襲われた”。

「……全部、わたしのせいってわけじゃない、って頭では分かってる」

 風が、髪を揺らす。

「でも、“あの村の近くで”って聞いたら、どうしても結びつけちゃうよね」

 自分の存在が、誰かの不幸とセットで語られている。

 その事実だけで、胸が軋む。

(王宮のときもそうだった)

 “白竜が王宮を吹き飛ばした”。
 “竜の主が災厄を呼んだ”。

 人は、分かりやすい物語を欲しがる。

 罪と罰。
 原因と結果。
 悪役と被害者。

 そこに自分がぴったりはまる形があれば、迷わずそこに押し込めてしまう。

「……やだなあ」

 ぽつり、と零れる。

「そんな、“物語の災厄役”になるために、生きてきたわけじゃないのに」

 胸の奥に、じわりと熱が溜まる。

 目尻が、じん、と熱くなる。

「……あー」

 エリーナは、自分で自分に呆れたみたいに、天井を仰いだ。

「また泣きそう」

 干ばつの村。
 竜骨の森。
 傭兵団との戦い。
 訓練。

 泣いてばかりだ。

「泣き虫、いい加減卒業したいんだけどな」

 言いながら、目の端から涙が零れ落ちた。

 ぽたり、と窓枠に落ちる。

 涙の粒が、夕陽を反射してきらりと光る。

『主』

 低い声が、窓の外から聞こえた。

「……アークヴァン?」

 窓の外には、小さく身体を縮めた白竜の頭があった。

 宿場町の外れ、少し離れた丘に身を潜めているはずの彼が、今だけそっと近づいてきたらしい。

『その名を、気にしているのか』

「聞こえてた?」

『風が運んできた』

 竜の嗅覚と聴覚は、人間のそれよりずっと広く、深い。

『“災厄竜の娘”……か。面白くはない名だな』

「面白いって言われても困るけど……」

 エリーナは、窓枠に額を押し当てた。

「ねえ、アークヴァン」

『うむ』

「もしさ。わたしが、あの干ばつの村に行かなかったら」

 言葉を選ぶ。

「なにも起きなかったと思う?」

『なにも、とは?』

「井戸も掘られなくて、でも、魔物も来なくて。
 ……誰かが少しずつ枯れていくだけで、“災厄”って呼ばれるようなことは起きなかった、みたいな」

『…………』

 竜は少し黙った。

 エリーナは、自分で口にしておきながら、胸がぎゅっとなる。

「なんかね、さっきの噂聞いてからずっと──」

 両手で顔を覆った。

「わたしが動いてなかったほうが、世界は静かだったのかなって」

 干からびた畑。
 痩せた家畜。
 干上がる井戸。

 そこに、自分の影が差し込む。
 井戸が深くなり、水が湧く。

 だけど、そのことで何かのバランスが変わってしまって、別の場所にしわ寄せがいく。

 そんなイメージ。

「わたし、世界のことなんて何も知らないのにさ」

 涙声になりながら、言葉を継ぐ。

「“竜の主”なんて大層な名前をもらっちゃって。
 それで、自分の選択が、“誰かの悪い結果”になってるかもしれないって思うと──」

『主』

 アークヴァンが、静かに呼ぶ。

『質問を一つしてもいいか』

「……うん」

『あの干ばつの村に、行かなければよかったと思うか』

「…………」

 すぐには答えられなかった。

 井戸から湧き出した水。
 子どもたちの笑い声。
 村長の皺だらけの涙。

 あの光景を思い出すだけで、胸が熱くなる。

 同時に、「そのあと魔物が増えた」という噂が頭をよぎる。

(どっちも、本当かもしれない)

 だからこそ、答えにくい。

 それでも──

「……行かなければよかった、とは思わない」

 かすれた声で、エリーナは言った。

「わたしが行かなかったら、あの井戸はもう少し浅いままで。
 きっと、もっと早く水が尽きてたと思うから」

『そうだな』

 アークヴァンの声が、少しだけ柔らかくなる。

『主が動かなければ、あの村はそのまま枯れていただろう』

「……うん」

『それが“静かな世界”というなら、その静寂は、ただの“ゆっくりとした死”だ』

 竜の言葉は、残酷なほどに正確だ。

『主が動いたから、水が湧いた。
 主が動いたから、村人たちは“冬を越せるかもしれない”と笑った』

「……でも」

『魔物の話か』

「うん」

 自分の存在が、魔物を引き寄せているのだとしたら。

 そのせいで、別の誰かが傷ついているのだとしたら。

『主』

 アークヴァンの声が、少しだけ低くなる。

『結果だけを見て、自分を罰するのは賢い選び方ではない』

「…………」

『世界は、竜と人の動きで常に変わり続けている。
 主が動かなくても、主がそこにいなくても、魔物の群れはどこかを襲う』

 言葉は冷静だが、それは責任逃れではなく、ただの事実だ。

『主が動いたことで救われた命もある。
 主が動かなかったことで救われたかもしれない命を数え始めれば、何もできなくなる』

 それは、“竜の時間”の感覚。

 長く生きる存在ほど、「もしも」の数が膨大になることを知っている。

『主よ』

 竜は続けた。

『主は、“誰も傷つけない”選択をしたいのだろう』

「……うん」

『だが、それは不可能だ』

 突き刺すような言葉。

『誰も傷つけぬ選択を探して足を止めるなら、その間に必ず誰かが傷つく』

「…………」

『ならば、主が選ぶべきなのは、“誰も傷つけない選択”ではなく、“誰を守るかを決める選択”だ』

「……誰を、守るか」

『あの村を守ると決めたとき、主は正しかった』

 アークヴァンの声に、確信が宿る。

『たとえ、その後に別の災いが起きたとしても、あのときの主の選択は、“災厄”ではない』

 災厄、という言葉が、少し変形して返ってくる。

『人は、物語のために名をつける。
 “災厄竜の娘”という名も、そうやって生まれた言葉にすぎぬ』

「……“すぎぬ”って言えるほど、軽くないんだけどなぁ」

 エリーナは、鼻をすすりながら笑った。

「でも──」

 涙で滲んだ視界の向こうで、白い額が静かにこちらを見つめている。

「“災厄竜の娘”って呼ばれるの、アークヴァンまで巻き込んでるの、ほんとやだ」

『我は、構わぬ』

 即答だった。

「構ってよ」

『我は元々、“災厄”と言われてきた』

 竜は、淡々と告げる。

『王宮を吹き飛ばした夜から、そう呼ばれ続けている。
 その前にも、“竜は災いだ”と語られることはよくあった』

「……」

『我にとって、“災厄”という名は、ただの人間の言葉だ』

 そこに、自嘲はない。

『だが、主がその名で傷つくのは、あまり愉快ではない』

「……アークヴァン」

『主がそれを嫌うなら、その名を塗り替えればいい』

 竜の目が、細く光る。

『“災厄竜の娘”が、どれだけのものを守ったか。
 “災厄”と呼ばれた力が、どれだけの命を繋いだか。
 それを知る者が増えれば、その名はやがて、別の意味を帯びる』

「別の、意味」

『災いの名は、祝福の名にもなり得る』

 ゆっくりとした声。

『主の選択次第だ』

 選ぶ。
 世界を、ではなく。
 目の前の現実を。

 カイが言っていたことと、どこかで同じ。

「……ずるいなあ」

 エリーナは、涙を拭いながら笑った。

「アークヴァンもカイも、同じこと言うんだもん」

『同じことか?』

「うん。“全部どうにかしようとするんじゃなくて、目の前の選択をしろ”って」

『人間の研究員とは、意外と話が合うのかもしれぬな』

「そこは素直に認めるんだ」

『我は広い』

「さっきまでヤキモチ焼いてたくせに」

『焼いていないと言った』

 竜の声が、少しだけ拗ねた色を帯びる。

 その微妙な温度差が、逆にエリーナの心を軽くした。

「ありがとう、アークヴァン」

『礼を言うのは、我ではなく、主の涙だ』

「……なにそれ」

『泣きたいときに泣ける主であったからこそ、今ここで立ち止まれたという話だ』

 どこかで聞いたようなフレーズ。
 カイが言っていた言葉と、重なっていく。

「……うん」

 エリーナは、窓枠から額を離し、ゆっくりと深呼吸をした。

 災厄竜の娘。
 嫌な名前だ。

 でも、“災厄”で終わるかどうかは、まだ決まっていない。

 これからどう動くかで、きっと意味は変わる。

(だったら──)

 胸の奥で、小さく決意が灯る。

(せめて、自分で自分を“災厄”って決めつけるのはやめよう)

 誰かが勝手に貼ったラベルを、自分でなぞってしまうのは、一番もったいない。

『主』

「なに?」

『カイが、下で悩んでいる』

「……え?」

 エリーナは目を瞬いた。

「悩んでるって?」

『机に向かって、何度も紙を丸めては捨てている』

「あー……」

 なんとなく想像がついた。

「報告書、かな」

『魔導院へのか』

「うん。たぶん」

 エリーナは、窓の外をもう一度だけ見てから、そっと閉めた。

「……泣くの、いったん終わり」

『よいのか』

「うん。さすがに今日は、これ以上泣いたら目が腫れる」

 涙を拭き、顔を軽く叩いて、意識を切り替える。

「カイのほうも、ちょっとだけ気になるから」

『行ってこい』

「うん」



 一階の奥。
 宿屋の主から少し離れた、小さな個室がひとつ。

 カイは、そこに腰を下ろしていた。

 簡素な机と椅子。
 その上には、何度も書き直された紙束。

 魔導院・宛──という文字が、何枚かの紙の端に見える。

「……はぁ」

 カイは、また一枚、書きかけの紙をくしゃくしゃに丸めた。

 インクの匂いがきつい。

(“白竜アークヴァン、竜の主エリーナとの現状報告”)

 それが、この報告書の正式なタイトルになるはずだった。

 竜骨の森。
 竜狩りとの戦闘。
 干ばつの村での竜魔法使用。
 そして、“災厄竜の娘”という噂。

(書かないわけには、いかない)

 魔導院の研究員として、これは貴重な情報だ。

 竜魔法の実例。
 竜と主のリンク。
 それらは、資料として残す価値がある。

(でも)

 筆が、紙の上で止まる。

(どう書くか、で、全部変わる)

 エリーナ・カルヴェルト。
 アストライア王国の元伯爵令嬢。
 王太子の元婚約者。
 白竜アークヴァンの主。

 彼女の名前を、“危険人物”として報告することは簡単だ。

 「制御不能な竜魔法保持者」と書けば、各国の警戒網に引っかかる。
 各国の“対竜戦力”が動き、彼女はあっという間に“捕獲対象”にされるだろう。

(でも、逆に)

 「無害」「脅威ではない」と書けば、今度は対策が遅れる。

 彼女の力は確かに強い。
 制御を誤れば、王都一つ吹き飛ばすことも可能だ。

 それを「問題なし」と報告するのは、研究者としての誠実さに反する。

「危険、ではある」

 カイは、自分に言い聞かせるように呟いた。

 これは、逃げようのない事実だ。

 白竜とその主は、世界にとって“変数”だ。
 存在しているだけで、周囲のバランスを変えてしまう。

 ただ──

「“だから、排除すべき存在”とは、書きたくない」

 ぽつりと、こぼれた本音。

 干ばつの村で泣きながら土を掘っていた少女。
 竜骨の森で頭を抱えてもなお、“選ばなきゃ”と言った少女。
 竜狩りの前で震える手を隠さず、「怖かった」と口にした少女。

(彼女は、“守るために”力を使おうとしている)

 未熟で、泣き虫で、諦めが悪い。
 でも、その方向は、決して“破壊だけ”ではない。

 カイは、空白の紙を引き寄せた。

 ペン先を、インク瓶に浸す。

(だったら)

 バランスを取るしかない。

 危険性を過小評価せず。
 彼女の意思を無視せず。

 その間を綱渡りするように、言葉を選ぶ。

 ゆっくりと、ペンが走り始めた。

『――当該竜および竜の主は、高い潜在的危険性を有する。
 しかし、その暴走は、主の精神状態と外的環境要因に強く依存しており、現状、主本人は「守るために力を用いる」傾向を示している』

 言葉を、噛みしめるように書き連ねる。

『――本観察者の見解としては、当該存在を一方的な“災厄”として扱うのは適切ではなく、むしろ「接し方次第で防御資源ともなりうる不安定因子」と言うべきである』

「……防御資源、ね」

 自分で書いて、自分で苦笑する。

「言い方が、ずるいな」

 それでも、これが今の自分にできる精一杯だ。

 彼女の危険を伝えずに守ることはできない。
 彼女の意志を無視して“ただの兵器”として差し出すこともできない。

(結局、俺も、“世界の全部”を選べるわけじゃない)

 守れる範囲を、選ぶしかない。

 報告書に自分の名前を書く。

 “リューン魔導院 研究員 カイ・レーン”。

 この文面は、いずれ自分自身の立場を揺るがすことになるかもしれない。

 それでも──

「……まあ、いいか」

 ペンを置き、椅子にもたれかかる。

「今さら、“無難な報告”なんて書けないしね」

 エリーナと出会った時点で、自分の人生はもう“無難な線路”から外れてしまっている。

 ならば、その脱線を、きちんと見届ける責任くらいは持ちたい。



 夜。

 宿場町の酒場は、昼間よりさらにうるさくなっていた。

 酔いどれたちの笑い声。
 安い酒の匂い。
 飛び交う他愛のない噂。

「あんた聞いたか、“災厄竜の娘”の話!」

 昼間とは別のテーブルで、別の男が声を上げた。

「おう、さっきも聞いた。白竜連れてるっていうアレだろ?」

「そうそう。国境のほうをうろついてるらしいぜ」

「まじかよ。国境って言ったら、この辺じゃねえか」

「ビビってんのか?」

「ビビるわけねえだろ。ただ、“災厄”だなんだって言われてるもんと鉢合わせしたくはねえだけだ」

「でもよ」

 誰かが、にやりと笑った。

「“災厄竜の娘”を仕留めたら、名も金も、両方手に入るんじゃねえの?」

「俺たちみたいなのが手ぇ出していい相手じゃねえだろ……」

「いや、そこをなんとかするのが腕利きってもんだろ」

 下品な笑い声。

 噂は、もう一人歩きを始めている。

 一枚の噂話が、いくつもの口を経て、形を変えながら広がっていく。

 その網の目の中で、エリーナたちの旅は、静かに「追われる旅」へと変わりつつあった。



「ただいま……」

 エリーナが部屋に戻ると、アークヴァンはすでに気配を引いていた。

 窓から入る風は、昼よりも冷たい。

 ベッドに腰を下ろし、ふう、と長く息を吐く。

 胸の中には、まだ“災厄竜の娘”という言葉が刺さっている。
 でも、その周りには、竜と研究員の言葉が絡みついて、棘を少し鈍くしてくれていた。

(わたしは、“災厄”って呼ばれるかもしれない)

 それは、きっと変えられない。

(でも、それだけじゃ終わらせない)

 干ばつの村。
 竜骨の森。
 傭兵団との戦い。
 今日の訓練。

 その全部が、自分の中の“災厄”と“守りたい”の両方を育てている。

「……カイ、なんて報告書書いたのかな」

 ぽつりと呟いて、苦笑する。

 きっと、彼なりにバランスを取ったのだろう。
 自分の立場を賭けてでも。

「ありがとって、ちゃんと言わなきゃな」

 そう思いながら、エリーナはベッドに横たわった。

 外からは、まだ酒場の喧騒がかすかに聞こえてくる。

 遠くの空の下で、自分の名前がどんなふうに語られているのか。
 どんなラベルを貼られているのか。

 全部を知ることはできない。

 だからこそ、自分で自分に貼るラベルだけは、選びたい。

(泣き虫で、諦めが悪くて──)

 旅を選んだ、ちょっと面倒くさい竜の主。

(それでも、“誰かを守るために”動きたいって思うんだから)

 胸の奥を、そっと撫でる。

「……災厄、か」

 ひとりごとみたいに、もう一度その言葉を口にする。

「いつか、“あの災厄が来てくれてよかった”って言われるくらいになりたいな」

 身の程知らずな願いだ。
 でも、それくらい図々しいことを願わなければ、きっとこの先はやっていけない。

 目を閉じると、白い翼と、黒い瞳が浮かぶ。

 竜と、人と。
 その二人の存在が、“災厄”と呼ばれ始めた旅路に、静かに寄り添っていた。
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