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第2話 拍手の刃
しおりを挟む舞踏会の夜は、いつだって嘘みたいに綺麗だ。
嘘みたいに綺麗で、嘘みたいに残酷。
王城の大広間は、天井から垂れる無数のシャンデリアが宝石みたいに光を落としていた。
その光が人々の髪に、肩に、指輪に降りて、誰もが少しだけ“物語の登場人物”になる。
音楽は波みたいに高く低くうねって、ドレスの裾は海面みたいに揺れ、笑い声は泡みたいに弾けて消える。
「セレフィーナ様、深呼吸を。ほら、吸って……吐いて……」
控室で、侍女のリリアが小さく手を握ってくる。
温度のある手だった。ありがたいはずなのに、そのぬくもりが怖い。
期待しない、って決めてきたのに。手を握られると、心が勝手に期待してしまうから。
「大丈夫よ、リリア」
セレフィーナは自分の声が、ちゃんと“外側の自分”の声になっていることを確認した。
落ち着いている。澄んでいる。
泣きそうな気配も、怒りそうな気配も、ここにはない。
鏡の中には、銀髪をきっちり結い上げた令嬢がいる。
薄紫の瞳は静かで、頬は白く、唇は淡い色。
首元には小さな宝石のペンダント。王家から贈られたものだ。
それは飾りであり、鎖でもある。
「……殿下は、来られますか」
リリアが怖いものを見るように尋ねた。
セレフィーナは頷く。
「王太子だもの。舞踏会の主役はいつも、彼」
主役。
その言葉が、自分の中でからんと乾いた音を立てる。
主役の隣に立つ自分は、何だろう。
王太子妃候補。飾り。正しさの証明。――それ以上でも、それ以下でもない。
扉の外で、靴音が整然と近づいてくる。
侍従の声がした。
「セレフィーナ様、ご入場の準備を」
リリアがドレスの裾を整え、髪の一房を撫でる。
「……何が起きても、私、ここにいます。お嬢さまの味方です」
味方。
その言葉に胸が少しだけ痛む。
味方がいることは嬉しいのに、嬉しいと思った瞬間、失うのが怖くなる。
「ありがとう」
セレフィーナは微笑む“形”を作り、扉を出た。
大広間へ繋がる回廊は、甘い香水と蝋燭の匂いが濃い。
遠くから音楽が押し寄せてきて、鼓動がそれに引きずられる。
――落ち着け。
期待しない。望まない。求めない。
ただ、やり過ごす。
大広間の入口で、侍従長が恭しく頭を下げた。
「セレフィーナ・アルヴェイン様、ご入場」
重い扉が開く。
光と音が、洪水みたいに流れ込む。
一斉に視線がこちらを向くのが分かる。
それは“見る”というより、“品定め”に近い。
セレフィーナは背筋を伸ばし、歩いた。
一歩一歩が、床の冷たさを通して骨に響く。
自分は、今夜何かを失う気がする。
でも、それが何かは分からない。分からないほうが怖い。
中央の壇上には、王太子クラウス・フォン・エーベルハインが立っていた。
淡い金の髪は光を受けて柔らかく見える。
笑顔は完璧で、会場の空気を支配している。
その隣に、白いドレスの少女がいた。
マリア・エルシェ。
聖女。
王都が勝手に作り上げた“救い”の象徴。
彼女は花みたいに儚げで、見る者の「守りたい」を簡単に引き出す。
頬は薄桃色で、瞳は潤んでいて、唇は震えている。
震えているのに、美しい。
震えが“可憐さ”として価値になる世界だ。
セレフィーナが壇上へ近づくと、クラウスが手を差し出した。
形式的なエスコート。
セレフィーナはその手に触れた。冷たい。――いや、冷たいと感じるのは彼の手ではなく、自分の心だ。
「来てくれてありがとう、セレフィーナ」
クラウスの声は、会場に届くように少しだけ大きい。
私的な言葉に見せかけた、公的な演出。
「殿下のお招きですから」
セレフィーナも同じ温度で返す。
このやり取りに、周囲が“よくできた婚約者同士”と満足するのが分かる。
中身なんて、誰も見ていない。
音楽が止まり、会場が静まり返る。
クラウスが一歩前へ出た。
その姿は、まるで演説台に立つ政治家みたいに堂々としている。
「皆、集まってくれてありがとう。今夜、私は国民の前でひとつ、決断を伝えたい」
ざわり、と空気が揺れる。
誰もが、その“決断”を待っていたかのように。
セレフィーナは、自分の指先が冷たくなるのを感じた。
でも顔は動かない。動かせない。
動かしたら、世界が勝手に意味を付けるから。
クラウスの視線が、セレフィーナへ向く。
彼の目は澄んでいて、迷いがない。
迷いがないって、こんなに怖いんだ、とセレフィーナは思った。
「セレフィーナ・アルヴェイン。君との婚約を――ここで破棄する」
一瞬、時間が止まった。
次の瞬間、会場にざわめきが広がり、すぐに拍手に変わる。
拍手。拍手。拍手。
音の壁が、セレフィーナを叩く。
――拍手って、こんなに痛いんだ。
クラウスは続ける。
声音は優しいのに、言葉は刃だ。
「愛のない関係は、互いを不幸にする。君は、いつも心を閉ざしていた。私が手を伸ばしても、君は応えなかった。だから、ここで終わりにしよう」
会場の空気が“正義”の形に整っていく。
「そうだ」「殿下は正しい」
誰かの不幸が、誰かの娯楽になる。正義の皮を被せれば、もっとおいしくなる。
セレフィーナは、ほんの少しだけ息を吸った。
胸が痛い。
でも痛みの正体は、悲しみじゃなくて――納得だ。
ほらね。
やっぱり、そうなる。
期待しなければ傷つかない、って思ってたのに、
納得が先に来るのが、いちばん悲しい。
クラウスは、今度は隣の少女へ視線を向ける。
マリアが小さく頷き、泣きそうな瞳で会場を見回した。
その仕草ひとつで、周囲がざわめき、そして“守る空気”が生まれる。
「マリア・エルシェ。君は聖女として、この国に光をもたらしてくれた。私は君を――」
「殿下……」
マリアの声は小さく震えた。
震えは、武器だ。
この国では、震えが“正しさ”を証明する。
「……私なんて、そんな……」
「謙虚なところも、君の美徳だ」
クラウスがそう言うと、会場の貴婦人たちがうっとりと息を吐く。
男たちは頷き、若い令嬢たちは羨望を滲ませる。
まるで舞台劇だ。
脚本は、“誰かが捨てられ、誰かが選ばれる”。
セレフィーナは、そこでようやくクラウスの目を見た。
一度だけ。
その瞳にあるのは罪悪感ではない。
自己肯定の光。
“正しいことをした”という陶酔。
ああ、とセレフィーナは思う。
この人は、自分の正しさのためなら、私を何度でも切れる。
クラウスが、最後の一押しをするように言った。
「セレフィーナ、君も分かるだろう? これは互いのためだ」
互いのため。
便利な言葉。
誰かを傷つけるときの、柔らかい包装紙。
セレフィーナは、ふっと口角を上げた。
微笑みではない。
痛みを痛みとして認めないための、薄い膜。
「承知いたしました」
声が、驚くほど綺麗に響いた。
自分でも驚く。
喉が詰まると思っていた。泣くと思っていた。
でも出てきたのは、透明な音。
拍手がさらに大きくなる。
まるで、彼女の返事が“正しさの完成”だったかのように。
その拍手の中で、セレフィーナの胸の中に落ちてくるものがあった。
悲しみより先に落ちてくる、“冷たい納得”。
――そうだよね。
――私は、こういう役だよね。
――黙って、切り捨てられて、最後に礼儀正しく退場する。
自分の中で、何かがひび割れる音がした。
でもそれは、派手な破壊じゃない。
氷が、静かに割れる音。
誰にも聞こえない、小さな音。
そして、その瞬間。
空気が、わずかに変わった。
会場の光が、刺々しさを失う。
音楽が再開されたはずなのに、セレフィーナの周りだけ音が遠くなる。
拍手の音が、壁越しに聞こえるみたいに薄い。
人の視線が、突然“重さ”を変える。
――何これ。
セレフィーナは、足元の床を見た。
磨き上げられた大理石の上に、自分の影が落ちている。
その影が、ほんの少しだけ濃い気がした。
まるで、世界が彼女を“存在として”認識し直したみたいに。
リリアが壇上の端で青ざめているのが見える。
彼女の唇が動いた。
「お嬢さま……」
声は届かない。でも、目だけで必死に訴えている。
逃げて、と。
セレフィーナは、ゆっくりとクラウスから一歩距離を取った。
その距離が、想像以上に大きい。
たった一歩なのに、人生が離れる。
マリアが、セレフィーナを見た。
怯え。
罪悪感。
でもそれ以上に、安心。
“自分が選ばれた”という、甘い安堵。
セレフィーナは、その瞳に怒りを向けなかった。
怒るほど、彼女に興味が湧かない。
怒りは期待の裏返しだ。
私はもう、期待しない。
ただ、クラウスの声が耳の奥で反響する。
愛のない関係。互いのため。正しい決断。
そうやって彼は、自分を正義にする。
セレフィーナは、ゆっくりと頭を下げた。
完璧な所作。完璧な角度。
完璧すぎて、逆に切ない。
「これまでのご厚情に感謝いたします。殿下の未来が、どうか幸多からんことを」
形式的な祝福。
それが一番、痛い。
会場からどよめきが起きた。
“捨てられた令嬢”が、取り乱さない。
泣かない。叫ばない。
物語の予定調和が崩れると、人は不安になる。
クラウスの眉がわずかに動いた。
「……君は、本当に」
言いかけて止める。
彼は“冷たい”と言いたいのだろう。
でも今ここでそれを言えば、彼の正しさに傷がつく。
正しさを守るために、彼は言葉を選ぶ。
「……いや。退場していい」
許可。
許可がないと動けないような言い方が、最後まで彼らしい。
セレフィーナは背を向けた。
拍手が、今度は少し遅れて起きる。
“終幕の拍手”。
役者が舞台を降りるときの拍手。
歩き出す。
ドレスの裾が波みたいに揺れて、床に擦れる音が小さく響く。
視線が追ってくる。
「可哀想」
「でも殿下は正しいわ」
「愛のない女だもの」
言葉が、針みたいに刺さる。
刺さるのに、血が出ない。
血が出ないほど、昔から刺され慣れている。
扉の向こうへ出た瞬間、音がさらに遠のいた。
まるで、分厚いガラスが世界との間に降りたみたいに。
廊下の冷えが、足元から上がってくる。
でも、不思議とそれは痛くなかった。
痛みは、もっと内側にある。
「お嬢さまっ!」
走る足音。リリアが追いかけてくる。
息が上がって、目が潤んでいる。
「大丈夫ですか……? 泣きたいなら、泣いて……」
セレフィーナは立ち止まり、振り返った。
リリアの顔が歪んでいる。
その歪みが、セレフィーナの胸をかき乱す。
泣きたい。
泣いていいなら泣きたい。
でも泣いたら、世界はそれを“可哀想な令嬢”の演出に使う。
泣いたら、私はまた役に戻る。
「……泣かない」
セレフィーナは言った。
言葉は冷たい。でも、冷たくしないと崩れる。
「私、泣いたら終わっちゃう気がする」
リリアが唇を噛む。
「終わるって……何が……」
「私の中の何かが。今、ギリギリで形を保ってるの」
自分でも何を言っているのか分からない。
でも、真実だった。
セレフィーナは胸元のペンダントに触れた。
王家の贈り物。
鎖。
冷たい金属が、指先を凍らせる。
そのとき、まただ。
空気が、ふっと柔らかくなる。
廊下の蝋燭の火が、いっせいに静まる。
風がないのに、炎が揺れるのをやめる。
まるで世界が、息を止めて彼女を見ているみたいに。
セレフィーナは眉をひそめた。
「……何これ」
リリアも気づいたのか、周囲を見回す。
「今……火が……」
セレフィーナの胸の奥に、言葉にならない感覚が芽生える。
これは偶然じゃない。
偶然じゃないのに、理由が分からない。
――世界が、私にだけ、反応してる?
そんな馬鹿な、と思うのに、体は否定しない。
むしろ、どこか懐かしい。
前世で“役に立たなければ”と縛られていた自分の気配に似ている。
でもこれは、役に立てと言っているんじゃない。
……守ろうとしている?
セレフィーナは、自分の指先が震えていることに気づいた。
怒りでも悲しみでもない震え。
未知への震え。
「リリア」
「はい……!」
「部屋に戻るわ。今夜は……もう、何もしたくない」
「はい。お嬢さま……」
リリアが寄り添う。
二人で歩く廊下は、さっきより少しだけ暖かい気がした。
暖かい、というより――柔らかい。
背後で、舞踏会の音楽がまだ鳴っている。
祝福の音。正義の音。娯楽の音。
そのすべてが、遠い。
セレフィーナは胸の中で、冷たい納得をもう一度持ち上げた。
落ちてきたそれは、氷の塊みたいで、手のひらを痛くする。
――やっぱり。
――こうなる。
――私は、捨てられる。
でも同時に、もうひとつの感覚がある。
世界が彼女の沈黙を、初めて“拒絶ではなく傷”として認識し始めた、そんな気配。
それは怖いのに、どこか救いに似ていた。
セレフィーナは、瞳を閉じる。
閉じた瞼の裏に、拍手の光がまだ残っている。
まぶしくて、痛い。
そして静かに思う。
――この痛みが、ただの終わりじゃないなら。
――この世界は、どこへ私を連れていくんだろう。
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