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第3話 静養という名の追放
しおりを挟む翌日から、王都は噂で満ちた。
雪よりも早く、風よりも軽く、そして刃よりも鋭く。
「ねえ聞いた? あの氷の令嬢、ついに婚約破棄ですって」
「そりゃそうよ。王太子殿下が気の毒だったもの」
「愛がないっていうか、あの子、人間味がないじゃない」
「でも殿下、かっこよかったわよね。“互いのため”って言い切って……」
「英断よ、英断。王太子にふさわしい決断だわ」
――英断。
誰かの人生が、たった二文字で処理されていく。
廊下の角を曲がれば、声が途切れる。
視線だけが残る。
刺すような、撫でるような、どちらにしても不快な視線。
セレフィーナ・アルヴェインは、慣れているはずだった。
だってこの城の空気は、最初からずっとこうだ。
人を人として見ないで、“役”として見る。
令嬢、婚約者、冷たい女、哀れな捨てられ役。
けれど、舞踏会の翌日の朝は、いつもより胸が重かった。
重いのに、涙は出ない。
涙が出ないことが、さらに自分を嫌にさせる。
自室の窓辺に立つと、中庭の雪が白く光っていた。
雪は何も言わない。
誰も裁かない。
だからこそ、雪の白さがこの城の汚さを浮かび上がらせる。
「お嬢さま……お茶をお持ちしました」
リリアがカップを運んでくる。
湯気が立ちのぼり、紅茶の香りがふわりと広がる。
前世なら、この匂いだけで少し救われたかもしれない。
でも今は、香りも温度も、皮膚の外側をなぞるだけで終わる。
「ありがとう」
セレフィーナが椅子に座ると、リリアは少し迷ってから口を開いた。
「……今朝、王城の廊下で……皆さんが……」
「噂してた?」
リリアが頷く。
「ひどいことを言っていました。お嬢さまが、愛のない人だとか……殿下が正しいとか……」
セレフィーナはカップに指を添えた。
熱い。熱いのに、指先が冷たい。
体の中で、温度がちぐはぐだ。
「ひどい、って思うの?」
「思います! だって……お嬢さまは……」
リリアの目が潤む。
セレフィーナはその涙が、刺さるみたいに痛かった。
守りたいと言われることは、嬉しいはずなのに。
嬉しいと思った瞬間、“守られる自分”に甘えたくなる。
甘えたら、また失ったときに壊れる。
「リリア」
「はい……」
「私、泣かないって決めたの。だから、あなたも泣かないで」
リリアは唇を噛んだ。
「……それ、優しさですか? それとも……お嬢さまが、もう何も感じたくないからですか」
痛いところを突かれた。
リリアは賢い。賢いから、余計に怖い。
セレフィーナは一拍置いて、ゆっくり言う。
「両方」
自分でも驚くくらい正直な言葉が出た。
その正直さに、胸がまた少し重くなる。
そのとき、扉が控えめにノックされた。
「失礼いたします。セレフィーナ様」
執事のオルランドが入ってくる。
年齢は五十を越え、髪は灰色。姿勢は背筋が棒のようにまっすぐで、声はいつも温度が一定だ。
この屋敷で感情を見せるのは、弱点になる。
彼も、その世界で生き残ってきた人間だ。
オルランドは一通の書状を差し出した。
封蝋は王家の紋章。昨日触れた招待状と同じ色。
同じ色なのに、匂いが違う。
昨日は“舞台の始まり”の匂いで、今日は“処分”の匂いがする。
「王宮より。……“静養”の命が下りました」
リリアが息をのむ。
セレフィーナは、書状を受け取った。
紙の手触りは柔らかい。
でも文字は、やっぱり刃物だ。
『セレフィーナ・アルヴェインに告ぐ。
王都の混乱を避けるため、当面の間、辺境領にて静養せよ。
王家はその身の安全を保障する。
なお、帰還の時期は未定とする』
静養。
優しい単語。
傷つけるために選ばれた単語。
セレフィーナは、ふっと息を吐いた。
驚きはない。
納得はある。
冷たい納得は、もう慣れてしまった。
「……実質、追放ですね」
オルランドの眉がほんの少し動く。
「表向きは、あくまでご静養です。お嬢さまのお身体を案じて――」
「案じてるなら、こんな書き方はしない」
セレフィーナの声は淡い。怒りじゃない。
怒りは熱だから。今の彼女には熱が足りない。
オルランドは口を閉ざした。
否定できない。否定したら、彼の立場が危うい。
この世界では真実より、形が大事だ。
リリアが堪えきれず言う。
「殿下は……殿下は、これを望んでいらっしゃるんですか」
オルランドは答えない。
沈黙が答えだ。
セレフィーナは書状を折りたたんだ。
折りたたむと、紙は小さくなる。
でも命令の重さは、軽くならない。
「分かりました。準備をします」
「お嬢さま……!」
リリアの声が震える。
止めたい。止められない。
この世界で令嬢が命令に逆らうことは、死に等しい。
たとえ死ななくても、社会的に殺される。
オルランドは淡々と言う。
「出発は三日後。馬車と護衛を手配しております。荷物は必要最低限に」
必要最低限。
必要最低限の人生。
必要最低限の居場所。
オルランドが去った後、部屋の空気が薄くなった気がした。
リリアが泣きそうな顔で立ち尽くしている。
「……お嬢さま、どうしてそんなに平気なんですか」
セレフィーナは窓の外を見た。
雪が静かに降っている。
王都は、今日も綺麗だ。
だからこそ、醜さが目立つ。
「平気じゃないよ」
「じゃあ……!」
「平気じゃないから、平気なふりをするの。そうしないと、ここで息ができない」
リリアは声を詰まらせた。
セレフィーナはその様子を見て、少しだけ胸が動いた。
動いたことに、驚いた。
自分はまだ、完全に冷たくなれていない。
それが嬉しいのか、怖いのか、分からない。
荷造りは始まった。
屋敷の廊下を、箱が行き交う。
侍女たちは手早く衣類を畳み、宝飾品を布で包む。
家具の引き出しが開閉され、床板が軋み、紙が擦れる音が続く。
そこに混じる人間の態度は、はっきり二つに分かれた。
ひとつは、目を合わせない。
まるでセレフィーナが、厄介な病のように。
「……失礼いたします」
「……申し訳ございません」
言葉は丁寧なのに、視線は床に貼り付いている。
触れたら自分も不運が移る、そんな顔。
もうひとつは、妙に優しい。
必要以上に柔らかい声。必要以上の気遣い。
「お嬢さま、お寒くありませんか?」
「こちら、道中でお使いくださいませ」
「何かございましたら、すぐに――」
優しさのほうが痛い。
遅すぎて、軽すぎて、むしろ彼女を“哀れな役”に固定する。
哀れな役には、哀れみの優しさが似合う。
そういう脚本が、王都にはある。
セレフィーナは、それを受け取る。
受け取って、微笑む“形”を作る。
拒否したら、また物語が生まれるから。
“冷たい令嬢は最後まで冷たかった”という、便利な物語が。
「ありがとうございます」
その言葉が、自分の口から出るたびに、胸のどこかが磨耗していく。
夜。
荷造りが落ち着いた部屋は、どこかよそよそしい。
家具の位置が少し変わっただけで、思い出がズレる。
リリアがベッドの端に座り、セレフィーナの髪を梳いた。
櫛が髪を通る音が、静かに響く。
「……お嬢さま。辺境って、どんなところなんでしょう」
「寒いんじゃない?」
冗談のつもりで言ったのに、自分の声が軽くて、少し救われた。
リリアも小さく笑う。笑いながら泣きそうな顔をする。
「私も……ついて行けますよね」
「もちろん」
その言葉だけは、迷いなく出た。
リリアがいなかったら、たぶん本当に壊れる。
でも、そのことを自覚しすぎると怖い。
依存は、いずれ刃になる。
出発の朝が来た。
雪が降っていた。
静かな雪。
空が灰色で、王都の尖塔が霞んで見える。
馬車は門の前に停められ、護衛の兵が数人、無表情で立っている。
セレフィーナは屋敷の玄関に立ち、最後に振り返った。
ここは彼女の家で、彼女の牢でもあった。
笑わなくていい場所。泣けない場所。
期待しないことでしか生きられなかった場所。
オルランドが頭を下げる。
「道中のご無事を」
「ありがとう、オルランド」
彼の顔が一瞬だけ揺れた。
感情がある。
でも彼はそれを見せない。見せられない。
リリアが荷物を持ち、セレフィーナの外套を整える。
外套の毛皮が頬に触れて、少しだけ温かい。
温かさは、すぐ消える。でも今は、ありがたい。
馬車に乗り込む直前、玄関の上のバルコニーに人影が見えた。
誰かがこちらを見ている。
けれど逆光で顔が分からない。
セレフィーナは目を細めた。
もしかしたらクラウスかもしれない。
もしかしたらただの侍従かもしれない。
どちらでもいい。
今さら、誰の視線も救いにならない。
馬車の扉が閉まり、車輪が雪を踏んで軋む音がする。
窓に白い花が貼りつき、外の景色が少しずつ流れていく。
王都の街並み。
光る塔。
整えられた道。
そこを歩く人々の、整えられた表情。
セレフィーナは、窓ガラスに映る自分の顔を見た。
静かだ。いつも通り。
泣いていない。笑っていない。
氷の令嬢。
「……さようなら」
誰に向けた言葉でもなかった。
クラウスでも、マリアでも、噂を楽しんだ貴婦人たちでもない。
過去に向けた切り捨てだ。
――期待していた自分。
――分かってほしいと思っていた自分。
――愛されたいと思っていた自分。
切り捨てる。
切り捨てないと、また傷つく。
その瞬間、馬車の中の空気がふっと変わった。
リリアが顔を上げる。
「……え?」
窓の外の雪が、一瞬だけ舞い方を変える。
風がないのに、白い粒がセレフィーナの乗る馬車の周りを避けるように流れた。
まるで、見えない膜があるみたいに。
セレフィーナは胸の奥に、あの感覚を思い出す。
舞踏会の夜、拍手の中で、世界が少しだけ柔らかくなったあの瞬間。
「……また」
「お嬢さま、今の……」
リリアの声が震える。
セレフィーナは自分の手のひらを見た。
何も光っていない。魔法陣もない。
でも、確かに“何か”がいる。
空気が、彼女の言葉に反応している。
――私が、過去を切り捨てたから?
――それが、何かの引き金になった?
分からない。
でも分からないことが、少しだけ怖くて、少しだけ――希望に似ている。
王都の尖塔が、さらに霞む。
雪の向こうに沈んでいく。
あの場所が“世界”だった。
彼女を測り、裁き、役割を押し付けてきた巨大な舞台装置。
その舞台装置に、ひびが入った。
たぶん、今。
たぶん、彼女が「さようなら」と言った瞬間に。
馬車は進む。
雪の道を、静かに、確実に。
セレフィーナの胸の中で、冷たい納得がまだ重く横たわっている。
でも、その氷の下で、小さな音がしていた。
――割れる音。
――溶ける音。
――新しい何かが、生まれる音。
彼女はその音を、聞かないふりをしなかった。
今はまだ、名前を付けないまま。
ただ、耳を澄ませた。
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