転生してきた令嬢、婚約破棄されたけど、冷酷だった世界が私にだけ優しすぎる話

タマ マコト

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第9話 泉が目を覚ます

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辺境の森は、昼でも薄暗い。
木々が空を覆い、枝が絡まり合って、光を細く切り刻む。
でもその薄暗さは怖いというより、静かだ。
王都の薄暗さみたいに、何かを隠すためじゃない。
ただ、森が森として息をしているだけ。

「お嬢さま、足元気をつけて。ここ、根っこがめっちゃ出てます」

リリアが先を歩きながら言う。
手には小さなランタン。火が揺れて、影が揺れる。
セレフィーナは外套の襟を少し上げ、冷たい空気を吸った。
薬草の香りとは違う。湿った土、苔、木の皮。生き物の匂い。

今日は、森の見回りに同行していた。
狼の足跡が増えているという報告があって、ユリウスが直接確認する、と言ったから。
セレフィーナは「ついていってもいい?」と聞いて、ユリウスは短く「いい」と答えた。
許可じゃない。
当たり前の承諾。
それが、妙に嬉しい。

ユリウスは少し前を歩いていた。
背中が広い。
剣を腰に下げ、歩き方が迷わない。
戦場の人間の歩き方。
足元を見ながら、同時に周囲を見ている。

「……森って、こんなに匂いが濃いんだ」

セレフィーナが呟くと、ユリウスは振り返らずに答えた。
「生きてるからな」

短い。
でも的確。
王都の庭園は整えられていて綺麗だったけど、匂いは薄かった。
ここは整えられていない。だから匂いが濃い。
つまり、生きている。

歩いているうちに、森が少し開けた。
小さな窪地。
そこに泉があるはずだと、エドガーが言っていた。
昔は村の水源だったが、数年前から枯れてしまい、今は使われていない、と。

セレフィーナはその場所を見て、眉をひそめた。

「……水、ある」

窪地の中心に、透明な水面がきらりと光っている。
枯れているはずの泉。
なのに、今、確かに水が湧いている。

リリアが目を丸くした。
「えっ……ここ、枯れてたって……」

護衛の一人が足を止め、地面を見下ろす。
「昨日の報告では、乾いていました」

ユリウスが泉に近づき、しゃがんで指を水に入れた。
水が指先にまとわりつく。
彼の表情が、ほんの少しだけ変わる。
驚き、というより警戒。

「……冷たい。だが澄んでいる」

セレフィーナは泉の縁に立った。
風がないのに、水面がゆらりと揺れる。
揺れが、呼吸みたいに規則的だ。

――まるで、目を覚ましたみたい。

森の音が少し変わった気がした。
鳥の声が遠くなり、代わりに水の音が聞こえる。
ちょろちょろと、確かに流れている。

「お嬢さま、触ってみます?」

リリアが言う。
セレフィーナは少し迷ってから、指先を水に触れた。
冷たい。
でも痛くない。
指先の冷えが、別の冷えに置き換わる感じ。
嫌な冷えじゃない。
正しい冷え。雪の冷え。

その瞬間、胸の奥がふっと軽くなった。
何かが整う。
そういう感覚。

「……変」

思わず呟くと、ユリウスがこちらを見た。
「何が」

「水に触れた瞬間、息がしやすくなった」

リリアが頷く。
「分かります。なんか……頭がすっきりする」

護衛が首を傾げる。
「気のせいでは……」

気のせい。
王都でよく聞いた言葉だ。
気のせいにすれば、問題は消える。
でもここでは、気のせいにしても現実は消えない。

ユリウスは立ち上がり、泉の周囲を見回した。
土が、湿っている。
枯れていたはずなのに、土が生き返ったみたいに黒い。

そのとき、リリアが声を上げた。
「あっ……見て、お嬢さま!」

泉の近くの痩せた地面。
そこに、緑がある。
細い草が、何本も顔を出していた。
雪の下からでも、春を主張するみたいに。

「……草、こんなに早く出る?」

セレフィーナが言うと、ユリウスは顎に手を当てた。
「普通はない。……この場所は、去年から土が死んでいたはずだ」

死んでいた土。
そこに草。
泉の復活。
おかしい。

その“おかしさ”に、セレフィーナはなぜか恐怖より先に、懐かしさを覚えた。
前世で、夜中に一人で仕事を終えた後、ふと窓を開けたときの空気。
世界は何も変わっていないのに、自分だけが少し救われる瞬間。
理由がなくて、でも確かにある瞬間。

護衛たちが周囲を警戒する。
森の気配が濃くなる。
そのとき、遠くで枝が折れる音がした。

「止まれ」

ユリウスの声が低く響く。
剣に手がかかる。
空気が一瞬で“戦場”になる。

セレフィーナも息を止めた。
リリアが震えながらランタンを掲げる。
影が揺れる。

茂みの向こうから現れたのは――鹿だった。
大きな雄鹿。
角は立派なのに、足取りがふらついている。
後ろ脚に血が滲んでいる。
罠か、狼か。
傷は深そうだった。

鹿は一歩進んで、セレフィーナの前で止まった。
そして――膝を折るように、すとんと地面に伏せた。

眠る、というより降参。
抵抗をやめた生き物の姿。
でも目は閉じない。セレフィーナを見ている。
怯えているのに、逃げない。
まるで「ここなら大丈夫」と言っているみたいに。

「……え」

リリアが声を漏らす。
護衛が戸惑う。
「野生が、人に近づくのは……」

ユリウスは剣から手を離さないまま、慎重に言う。
「動くな。……下手に触ると暴れる」

セレフィーナは動けなかった。
鹿の呼吸が荒い。鼻息が白く、胸が上下する。
血の匂いがする。
生き物の、生の匂い。

セレフィーナはゆっくりしゃがんだ。
怖い。
でも、怖いより先に、放っておけないが来る。
それが自分の中から出てきたことに驚く。

「……大丈夫」

自分でもびっくりするくらい、自然な声だった。
鹿の耳がぴくりと動く。
目が少しだけ柔らかくなる。

ユリウスが低く言う。
「セレフィーナ、近づくな」

「……でも」

「危険だ」

「……分かってる。でも、この子、逃げない」

セレフィーナは鹿の額に、そっと手袋越しに触れた。
熱い。
傷の熱。
痛みの熱。
その熱が、指先に伝わる。

触れた瞬間。
空気が落ち着いた。

本当に、落ち着いた。
風が弱まり、森のざわめきが一段遠のく。
鹿の呼吸が、ほんの少しだけ整う。
セレフィーナの心臓の音も、同じリズムになっていく。

――何これ。

セレフィーナは何かをした覚えがない。
呪文も唱えていない。
祈ってもいない。
ただ、手を置いただけ。
ただ、ここに立っているだけ。

なのに、世界の方が「そうそう、それでいい」って頷くみたいに整っていく。

ユリウスの目が細くなる。
彼は戦場の人間だ。
偶然と必然の区別に敏感だ。

「……止血する。薬草を」

ユリウスが護衛に指示し、手早く動く。
護衛の動きは無駄がない。
血を拭い、草を当て、布で巻く。
鹿は暴れない。
セレフィーナの手の下で、まるで眠るのを許されたみたいに静かだ。

リリアが震える声で言う。
「お嬢さま……鹿、泣いてる……」

泣いてる?
セレフィーナが見ると、鹿の目尻から透明な雫が落ちていた。
痛みの涙なのか、恐怖の涙なのか。
分からない。
でも、その涙が妙に胸を締め付けた。

――痛いのに、声を出せない。
――怖いのに、動けない。
それは、セレフィーナの沈黙に似ていた。

鹿の処置が終わると、ユリウスが言った。
「村へ運ぶ。……このまま森に置くと死ぬ」

護衛が頷き、簡易の担架を作る。
鹿は抵抗しない。
セレフィーナの手が離れるとき、鹿は少しだけ首を動かし、彼女の手を追うような仕草をした。

その仕草に、胸が痛い。
でも同時に、胸の奥が暖かい。
生き物に“頼られた”ことが、こんなに怖くて嬉しいなんて。

帰り道。
森を抜けると、空がまた広がる。
ユリウスが馬を並べ、セレフィーナに声をかけた。

「……おかしなことが続いている」

「泉と、草と、鹿」

セレフィーナが答えると、ユリウスは短く頷いた。
「あなたが来てから、土地の機嫌がいい」

その言い方があまりに不器用で、セレフィーナは笑いそうになった。
土地の機嫌。
土地の話なのに、人間の話みたいに言う。
でも、ユリウスらしい。
彼は人の感情より、現実を言葉にするほうが得意だから。

セレフィーナは口元を押さえた。
笑いそうになる自分に驚く。
笑うって、こんなに勝手に出てくるものだったっけ。

「……機嫌って」

「言い方が悪いか」

「悪くない。むしろ……好き」

言ってから、セレフィーナは固まった。
好き。
軽率だ。
こんな言葉、王都では言ったことがない。
言った瞬間に奪われる気がして。
でも今、出た。
自然に。

ユリウスは一瞬だけ目を見開き、すぐに視線を逸らした。
耳の先がほんの少し赤い気がする。
気のせいかもしれない。
でも気のせいでいい。
その不器用さが、なぜか胸をくすぐる。

屋敷に戻った夜。
セレフィーナは疲れていた。
体の疲れと、心の疲れ。
でも嫌な疲れじゃない。
動いた疲れだ。
生きた疲れだ。

ベッドに入ると、暖炉の火が静かに揺れている。
薬草の香りが薄く漂う。
リリアが灯りを落とす。

「お嬢さま、今日……すごかったですね」

「すごかった」

「泉も、草も、鹿も……」

リリアは言い淀んだ。
言葉にすると怖くなることを、彼女も分かっている。

「……私、何もしてないのに」

セレフィーナが呟くと、リリアは毛布を整えながら言った。
「何もしてない、っていうより……お嬢さまが“いる”だけで、落ち着く感じ、あります」

いるだけ。
まただ。
“見てくれるだけでいい”に似た言葉。
存在そのものが、役に立つなんて。
そんなの、信じられない。
前世も今世も、役に立たなければ価値がないと思ってきたのに。

「……いるだけで、何かが良くなるなら」

言いかけて、セレフィーナは口を閉じた。
その先は危険だ。
“なら、もっと頑張らなきゃ”に繋がる。
前世の呪い。
また自分を削る道に繋がる。

リリアがそっと言う。
「頑張らなくていいですよ。お嬢さまは……もう十分」

その言葉に、胸がきゅっとなる。
十分。
誰かにそう言われたことがない。
前世では常に“もっと”。
今世では常に“足りない”。
だから、十分という言葉が眩しい。

セレフィーナは目を閉じた。
眠気が来る。
だがその眠気の底で、何かが蠢いている。

夢を見た。

王都の大広間。
シャンデリアの光。拍手。
クラウスの声。
「愛のない関係は――」

でも夢の中で、セレフィーナは動けた。
壇上で一礼して去るのではなく、立ち止まった。
そして、クラウスに言う。

「私だって、愛されたかった」

言葉にした瞬間、拍手が止まる。
皆が黙る。
自分の声が、世界を止める。

そこへ、誰かが近づいてくる。
背が高くて、影が濃くて、嘘のない目をしている。
ユリウスだ。
彼が手を差し出して言う。

「こっちへ来い。……無理をするな」

セレフィーナはその手を取ろうとして――
取れない。
指先が届かない。
王都の床が、粘ついた泥みたいに足を掴む。
期待が、足首に絡みつく。

――期待してもいいの?
――愛されてもいいの?
――信じてもいいの?

疑問が渦になり、セレフィーナは息ができなくなる。

そのとき、泉の音がした。
ちょろちょろと、澄んだ水の音。
森の匂い。雪の匂い。
鹿の温かい体温。

夢の世界が、少しずつ辺境の色に塗り替わっていく。
王都の金の光が薄れ、代わりに焚き火の赤が増える。
拍手の音が消え、代わりに薪の爆ぜる音がする。

セレフィーナは、夢の中でようやく息を吐いた。
吐いた息は白く、清潔だった。

目が覚める。
天井。暖炉。薬草の香り。
ここは辺境。
現実。

セレフィーナは胸に手を当てた。
鼓動が早い。
夢の中で言えた言葉が、喉の奥に残っている。

――私だって、愛されたかった。

王都で切り捨てたはずの“期待”が、まだどこかで息をしている。
それが分かってしまった夜だった。

セレフィーナは泣かなかった。
でも、目尻が少し熱い。
涙が出る寸前の熱。
その熱が、嫌じゃなかった。

外で風が鳴る。
森がざわめく。
でも恐怖はない。
今日、泉が目を覚ました。
土が緑を出した。
傷ついた鹿が、彼女の前で伏せた。

――私がここにいることで、世界が少しだけ整うなら。
――その“期待”は、罪じゃないのかもしれない。

セレフィーナはゆっくり息を吸い、
自分の中で生き残っていた期待に、初めて名前を付けずに抱きしめた。
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