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第10話 必要という名の鎖
しおりを挟む辺境の午前は、音が少ない。
雪を踏む音、薪が爆ぜる音、遠くで鳥が鳴く音。
王都みたいに、噂が壁を走ってくる音がない。
だからセレフィーナは、最近ようやく“静けさ”を吸えるようになっていた。
けれどその日、屋敷の空気だけがわずかにざらついていた。
朝の食堂で、エドガーがいつもより硬い声で言ったのが始まりだ。
「だんな様。王都より使者が到着しております」
ユリウスがパンを割る手を止めた。
沈黙が落ちる。
火の音だけが鳴る。
「……誰の使いだ」
「王宮の紋章付きの書状を携えております。名はヴィルヘルム卿。外交官の一人です」
セレフィーナの指先が、微かに冷えた。
王都。
その単語だけで、体が反応してしまう。
まだ残っている。王都の呪い。
呼吸の仕方を変える呪い。
リリアが顔色を変える。
「お嬢さま……」
セレフィーナは大丈夫、と言いかけて、飲み込んだ。
大丈夫じゃない。
でも大丈夫じゃないと言っても、ここでは誰も責めない。
それが逆に、怖い。
ユリウスが立ち上がった。
「通せ」
言葉は短いが、声は冷たい。
冷たいのに、セレフィーナの胸は少しだけ落ち着いた。
ユリウスの冷たさは、刃じゃなく盾だ。
応接間。
暖炉の前に椅子が並び、壁には地図がかかっている。
飾りは少ない。
この屋敷の空気は、生活の匂いがする。
扉が開き、使者が入ってきた。
ヴィルヘルム卿。
年齢は三十代半ば。髪はきちんと撫でつけられ、上等な外套が雪の白を弾いている。
歩き方が違う。
この屋敷の床を“借りている”歩き方。
丁寧だが、馴染もうとしない歩き方。
彼は帽子を取り、完璧な角度で頭を下げた。
礼儀だけは整っている。
けれど、目が違う。
命令を持っている目だ。
「ユリウス・グランディス殿。お目にかかれて光栄に存じます」
「要件を」
ユリウスは挨拶の飾りを削った。
ヴィルヘルム卿は一瞬だけ眉を動かしたが、すぐに微笑みを貼り付ける。
「ご無礼をお許しください。急を要する件でして」
そして視線が、セレフィーナへ移る。
その視線には“個人を見る温度”がない。
あるのは“目的物を見る温度”。
「セレフィーナ・アルヴェイン様。お久しゅうございます」
セレフィーナは椅子に座ったまま、軽く頭を下げた。
立ち上がらない。
王都の礼儀では、身分で立つ順番が決まっている。
そのルールを今ここへ持ち込ませないために。
「……ご用件は」
ヴィルヘルム卿は懐から書状を取り出した。
封蝋は王家の紋章。
金色。
あの金色は、いつも刃物の光をしている。
「王都へお戻りください。国があなたを必要としております」
必要。
その言葉が落ちた瞬間、セレフィーナの胸の奥で、笑いが起きた。
声にならない、乾いた笑い。
必要?
あの拍手の中で、彼らは彼女を捨てた。
“愛のない関係は互いを不幸にする”と正義を語り、
“静養”という名で王都から追い出した。
それなのに今さら、必要?
世界が今さら優しくなるのは、優しさじゃない。
損得だ。
国が困ったから、道具を取りに来ただけ。
セレフィーナはその笑いを、喉の奥で押し殺した。
笑ったら、また物語が生まれる。
“狂った令嬢”という物語が。
「……理由を伺っても?」
セレフィーナが静かに言うと、ヴィルヘルム卿は待ってましたとばかりに言葉を並べた。
「聖女マリア・エルシェ様の加護が不安定で――」
「農地の不作が予測され――」
「民の間に不安が広がり――」
「そして、近頃“あなたに関する不穏な噂”が――」
セレフィーナの指先が、さらに冷える。
噂。
また噂。
王都は、噂が法律みたいな顔をする国だ。
ヴィルヘルム卿は声を落とし、いかにも“あなたのために”という調子で続けた。
「……このままでは、あなたの安全が保障できません。王都へお戻りいただくのが最善です」
最善。
便利な言葉。
“従え”を柔らかく包む言葉。
セレフィーナは息を吸った。
薬草の香りが、肺に入る。
この屋敷の匂いが、自分を今に繋ぐ。
「王都で私の安全が保障される、と?」
ヴィルヘルム卿は微笑んだ。
「もちろんです。王家が――」
「王家は、私を辺境へ送った」
言葉が、予想以上に鋭く出た。
自分で驚く。
でも止められない。
止めたら、また鎖が首に巻きつく。
ヴィルヘルム卿の微笑みが一瞬だけ固まる。
すぐに整え直し、穏やかに言う。
「それは、あなたを守るためでした。王都の混乱を避け――」
「混乱を避けるため、私を捨てた」
セレフィーナの声は淡い。
怒鳴らない。泣かない。
ただ事実を並べる。
事実は、噂より重い。
ヴィルヘルム卿は一歩踏み込もうとする。
「セレフィーナ様。今は感情論ではなく――」
その瞬間、ユリウスが一歩前へ出た。
「感情論ではない」
低い声。
部屋の空気が一段下がる。
剣の柄に触れもせず、ただ言葉だけで守る。
その姿が、戦場の盾のように見えた。
ユリウスはヴィルヘルム卿を真正面から見据える。
「彼女はここで暮らしている。帰す理由がない」
ヴィルヘルム卿が眉をひそめる。
「グランディス殿。これは王命に近い要請です。あなたの一存で――」
「王命なら、正式な命令書を持ってこい」
ユリウスは冷たく言い切る。
「要請なら、こちらにも選ぶ権利がある」
ヴィルヘルム卿の頬がわずかに引きつった。
王都の外交官は、相手が折れる前提で言葉を積む。
でもユリウスは折れない。
折れる理由がない。
ここは王都じゃない。
「……あなたは、国の危機に協力しないおつもりですか」
その言葉は、脅しに近い。
協力しない=悪。
王都が得意な一択。
セレフィーナの胸が苦しくなる。
まただ。
“みんなのために”の圧。
前世の呪い。
今世の鎖。
ユリウスは言った。
「協力するかどうかは、彼女が決める。……国が困ったからといって、人を道具のように扱うな」
道具。
その言葉が、セレフィーナの胸を刺し、同時に救う。
自分がずっと感じていたことを、ユリウスが言葉にした。
言われると、痛みが“存在していい痛み”になる。
ヴィルヘルム卿はセレフィーナに視線を戻す。
その視線は、祈るような形をしているのに、底は冷たい。
「セレフィーナ様。今、あなたが戻れば――あなたの名誉も回復します。悪しき噂も消えます。王都はあなたを必要としているのです」
名誉。
噂が消える。
必要。
甘い言葉。
砂糖菓子みたいに甘く見えて、中身は冷たい。
セレフィーナは心の奥で笑う。
名誉なんて、捨てたのは王都だ。
噂を広げているのも王都だ。
必要と言っているのも、困ったからだ。
でも――困っている人がいるのも、事実だ。
熱病。飢え。雨。
帳簿の数字が顔になって見えるようになった今、王都の不幸を“遠い物語”として切り捨てられない自分がいる。
その矛盾が、胸を苦しくする。
守られることに慣れていないから、守られると胸が苦しい。
守られると、自分の選択の責任が重くなる。
セレフィーナは唇を開きかけて、閉じた。
言葉が見つからない。
どちらを選んでも、誰かが傷つく気がする。
ユリウスが横目でセレフィーナを見る。
目が言っている。
“お前が決めろ。俺は支える”と。
その視線が、怖くて、ありがたい。
セレフィーナはようやく言った。
「……私は、今すぐ答えられません」
ヴィルヘルム卿が口を開く。
「しかし――」
ユリウスが遮る。
「答えは今すぐ出ない。帰れ」
「グランディス殿!」
「帰れ」
二度目の言葉は、刃物みたいに短い。
ヴィルヘルム卿は顔色を変え、礼儀だけは崩さずに頭を下げた。
「……承知いたしました。三日後、再度お伺いします。セレフィーナ様、どうか賢明なご判断を」
賢明。
つまり、“王都の望む答え”を出せ、という意味。
扉が閉まり、応接間に静けさが戻った。
暖炉の火がぱちりと鳴る。
その音が、やけに優しい。
リリアが耐えきれず言う。
「ムカつく……! 何が名誉ですか。何が必要ですか。じゃあ、あの拍手は何だったんですか!」
セレフィーナは答えられなかった。
あの拍手。
思い出すだけで、胸の奥がひゅっと冷える。
ユリウスが短く言う。
「リリア、落ち着け」
「でも……!」
「怒りは、燃料になる。だが、燃やし方を間違えると自分が燃える」
その言い方が、戦場の人間らしい。
セレフィーナはそれを聞いて、少しだけ息を吐いた。
応接間を出て、自室へ戻る。
廊下の薬草の香りが、なぜか今日は薄く感じた。
王都の匂いが、頭の奥に残っている。
夜。
窓の外は暗く、森が黒い影になっている。
暖炉は燃えているのに、胸の中が冷たい。
リリアが湯を用意しながら言う。
「お嬢さま、どうします? 絶対戻らない方がいいです。あんな人たち、またお嬢さまを――」
「分からない」
セレフィーナは正直に言った。
分からない。
それが今の答えだった。
布団に入っても眠れない。
目を閉じると、王都のシャンデリアの光が瞼の裏で点滅する。
拍手の音が耳の奥で反響する。
“必要”という言葉が、鎖の音みたいに鳴る。
必要とされることは、救いのはずだった。
前世では、必要とされるために自分を削った。
必要とされなければ価値がないと思っていた。
でも今の“必要”は違う。
それは人としての必要じゃない。
道具としての必要だ。
――私は、どうしたいんだろう。
セレフィーナは天井を見つめた。
真剣に考えたことがない問いだった。
王都では望みを持つことが危険だった。
望みは弱点になる。奪われる。笑われる。利用される。
でも辺境では、望みが“息”になる。
望みがあるから、生きる方向が定まる。
セレフィーナは自分の胸に手を当てた。
鼓動がある。
その鼓動は、王都に戻れと言っていない。
でも、王都を見捨てろとも言っていない。
望みは、まだ輪郭がない。
ただ、ひとつだけ分かる。
――私はもう、拍手の中で捨てられる役をやりたくない。
――私はもう、誰かの正しさのために切られる存在でいたくない。
その上で、自分は何を選ぶのか。
ここで、誰と、どう生きるのか。
ユリウスの言葉が思い出される。
“悪役の椅子を渡すな”
“あなたが決めろ”
その責任の重さが、セレフィーナの胸を苦しくする。
でも、苦しいのは悪いことじゃない。
苦しいのは、生きている証だ。
セレフィーナはゆっくり息を吸った。
森の匂い。雪の匂い。
そして、薬草の香り。
――私は、私の人生を選べるんだ。
それを初めて“本気で”考え始めた夜だった。
答えはまだ出ない。
でも、問いを持てたことが、彼女の中で小さな革命みたいに灯っていた。
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