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第15話 戻らないと決めた夜
しおりを挟む戻らない。
その言葉を心の中で転がした瞬間、セレフィーナは自分の胸の奥に、ひとつの石が落ちて“座った”のを感じた。
怖さが消えたわけじゃない。
でも怖さが、形を持った。
形を持てば、持ち運べる。
持ち運べれば、前へ進める。
王都は、まだ遠いのに近い。
噂も使者も、匂いみたいにすり抜けてくる。
けれど今日のセレフィーナは、窓の外の森を見て言った。
「……私は、戻らない」
その言葉は、宣言というより誓いだった。
誰に向けた誓いでもない。
自分に向けた誓いだ。
「お嬢さま……」
リリアが隣で息を呑む。
彼女は喜びたいのに、怖いのも分かっている顔をしている。
王都の執着はしつこい。
一度狙った獲物を、簡単には手放さない。
セレフィーナは笑おうとして、やめた。
笑うと、覚悟が軽く見えてしまいそうだった。
でも、その代わりに静かに言う。
「自分の人生を、もう誰かの都合で動かさない」
言い切った瞬間、屋敷の空気がほんの少しだけ澄んだ。
気のせいじゃない。
空気の密度が変わる感覚。
肺に入る冷たさが、痛みではなく、清潔さになる感覚。
“調律の加護”
望まぬ者ほど純粋。
それを知ってから、セレフィーナは怖かった。
望まないことで強くなるなら、望んだ瞬間に崩れるのでは、と。
でも今の決断は“望み”だった。
――戻らない。
――ここで生きる。
――私の人生を選ぶ。
望んだのに、加護は濁らなかった。
むしろ、澄んだ。
その日から、領地が少しずつ変わり始めた。
劇的な奇跡じゃない。
ドン、と世界が揺れるような派手さはない。
でも、気づいたら“正しい位置に戻っている”変化。
最初に増えたのは泉だった。
枯れていたはずの泉が、二つ、三つと戻り始めた。
水の音が増えると、森の鳥の声も増える。
水があれば獣が来て、獣がいれば森が整う。
そういう循環が、当たり前みたいに回り始めた。
次に、畑。
雪解けの土が、やけに黒い。
いつもなら硬くて乾きやすい場所が、しっとりと水を含んでいる。
芽が出るのが早い。
葉の色が濃い。
「……今年、なんか違うぞ」
畑に立つ農夫が首を傾げて、土を掴んで嗅いだ。
土の匂いは、濃い。
生きている匂い。
「伯領さま、肥やし増やしました?」
「増やしてない。……増やす余裕もない」
ユリウスが答えると、農夫は困ったように笑う。
「じゃあ、土地が機嫌いいってことか」
その言葉に、セレフィーナはまた笑いそうになった。
土地の機嫌。
不器用で、でも的確。
領民の顔色も変わった。
ほんの少し、頬に血が戻る。
目の下の影が薄くなる。
村の子どもが咳をしなくなる。
老人が冬を越えたあとに、少しだけ背筋を伸ばす。
誰も「奇跡だ」とは言わない。
言わないのが、この辺境の強さだ。
奇跡と呼んだ瞬間に、依存になるから。
必要なことを、必要なだけやる。
変化も、変化として受け止める。
それだけ。
セレフィーナは戸惑いながら、少しずつ“受け取る”ことを学んでいった。
「セレフィーナ様、これ。昨日焼いたパン。余ったから」
余ったから、という言い方で差し出されるパンは、実は余っていない。
誰かが彼女のために残したものだ。
でも“あなたのために”と言わないのが、優しさ。
「……ありがとう」
「礼はいらないって。食べてくれりゃいい」
受け取っていい。
受け取っても、借りを作ったことにならない。
そういう世界がある。
村の女たちは、セレフィーナの外套の襟を直しながら言う。
「寒いのに無理すんなよ」
「手ぇ冷たい。火にあたりな」
「働いたら休め。倒れたら損だ」
損だ。
その言葉が、妙に救いになる。
休むことが正当化される。
前世では、休むことは罪だった。
今世の王都でも、休むのは甘えだった。
ここでは、休むのは生きる技術だ。
それでも、セレフィーナは時々、怖くなる。
受け取った温もりが、いつか奪われる気がして。
居場所ができた瞬間、失う痛みが先に見えてしまう。
夜。
屋敷の廊下は静かだ。
暖炉の火は落ち着き、薬草の香りが薄く漂う。
窓の外で風が鳴る。
その音が、王都の拍手のように聞こえてしまう瞬間がある。
セレフィーナは廊下で立ち止まった。
足元が少し冷えて、指先がまた冷たくなる。
呼吸が浅くなる。
――私、本当に大丈夫?
――戻らないって言って、国が怒ったら?
――誰かが傷ついたら?
――私のせいで、って言われたら?
怖い。
怖いのに、声にできない。
言葉にした瞬間、崩れそうで。
そのとき、廊下の奥から足音がひとつ増えた。
コツ、コツ、と一定のリズム。
迷いのない歩き方。
でも急がない。
急げば追い詰めると分かっている歩き方。
ユリウスだった。
「……起きていたのか」
声は低く、相変わらず不器用。
大丈夫か、と言えない男。
慰めの言葉を選べない男。
セレフィーナは壁に手をついたまま、振り返った。
「……眠れなくて」
「そうか」
それだけ。
普通なら、それだけで終わる。
でもユリウスは、その場に残った。
去らない。
踏み込まないけど、離れない。
セレフィーナは喉の奥で言葉を探した。
弱音を言ったら嫌われる、という癖がまだ残っている。
でも、言わなければ一生癖のままだ。
「……私、怖い」
言えた。
言えた瞬間、胸が痛んで、同時に少し軽くなった。
ユリウスは一瞬だけ目を伏せた。
考える顔。
言葉を探す顔。
そして、彼はとても短く言った。
「怖いなら、ここにいる」
セレフィーナの胸が、ふっと軽くなった。
魔法みたいに。
奇跡みたいに。
でも違う。
ただ、誰かが“いる”だけで心が整う。
それは疫病のときに学んだ感覚と似ていた。
体の乱れが正しい位置に戻るみたいに。
「……それだけ?」
セレフィーナは、笑いそうな声で言ってしまった。
笑ってもいいのか分からなくて、笑いそうなだけ。
ユリウスはほんの少し眉を寄せる。
「……それ以上、何を言えばいい」
その返しが、不器用で、真面目で、可笑しくて。
セレフィーナは小さく笑った。
ちゃんと笑った。
口元だけじゃなく、胸の奥が動く笑い。
「……ううん。十分」
ユリウスは頷いた。
「ならいい」
二人は廊下に並んで立ったまま、しばらく黙っていた。
沈黙が怖くない。
沈黙が罰じゃない。
ただ、夜の音を聞いているだけ。
風が窓を叩く。
木が鳴る。
遠くで狼が鳴く。
全部が、世界の呼吸みたいに規則的だ。
セレフィーナは思う。
王都では、世界は彼女を悪役にしたがった。
ここでは、世界は彼女を“生かそう”としている。
彼女の決断が、加護を澄ませた。
望んだのに、澄んだ。
望みは濁りじゃない。
望みは、土台になる。
ユリウスの存在が、彼女の新しい世界の土台になる。
彼が優しい言葉を選べないことが、逆に信じられる。
飾りのない言葉は、裏切りにくい。
セレフィーナは廊下の窓から外を見た。
雨は上がり、雲の切れ間から星が少しだけ覗いている。
星は冷たい光を落とす。
冷たいのに、孤独じゃない。
「……ユリウス様」
「何だ」
「ありがとう」
ユリウスは一瞬だけ固まり、すぐに目を逸らした。
「……礼はいい。俺は、ここにいるだけだ」
またそれだ。
いるだけ。
それだけでいいと言われる世界。
セレフィーナは頷いて、深く息を吸った。
森の匂い。雪の匂い。
薬草の香り。
暖炉の残り火の匂い。
――戻らない。
――私はここで生きる。
――私の人生を選ぶ。
その言葉が、胸の奥でゆっくり燃え続ける。
派手じゃない。
でも消えない火。
セレフィーナはようやく分かった。
受け取ることは、弱さじゃない。
受け取ることは、ここにいる証だ。
そして、彼女の世界は今日も少しずつ、正しい位置へ戻っていく。
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