転生してきた令嬢、婚約破棄されたけど、冷酷だった世界が私にだけ優しすぎる話

タマ マコト

文字の大きさ
14 / 20

第14話 謝罪の顔をした命令

しおりを挟む


二度目の使者は、雪ではなく雨を連れてきた。
辺境の空が薄く泣いているみたいに、細い雨がしとしとと屋根を叩く。
雨の匂いは土を目覚めさせるはずなのに、その日だけは、胸の奥を冷やした。

「王都より使者、再び到着です」

エドガーの報告に、食堂の空気がほんの少しだけ固まる。
暖炉は燃えている。
スープも湯気を立てている。
なのに、指先が冷える。

――王都は、匂いごと人を縛る。
そんな気がした。

ユリウスが立ち上がる。
「通せ」

セレフィーナは椅子に座ったまま、息を整えた。
逃げたい。
でも逃げたくない。
逃げたら、王都の脚本に戻る。
悪役の椅子に座らされる。

応接間。
前回と同じ暖炉。
前回と同じ椅子。
でも空気は違う。
前回は「命令の目」を持った男だった。
今日は――“謝罪の顔”を持った男だ。

扉が開き、入ってきたのは同じヴィルヘルム卿。
だが、表情が柔らかい。
口角がほんの少しだけ下がり、眉がわずかに困った形になっている。
相手の心を溶かすための、完成された表情。

帽子を取り、深く頭を下げた。
前回より深い。
深いぶん、演技が濃い。

「セレフィーナ様。先日は大変失礼いたしました」

失礼。
軽い言葉。
婚約破棄は失礼では済まないのに、追放も失礼では済まないのに。

セレフィーナは微笑まなかった。
微笑みは餌だ。
餌をやれば、次はもっと求められる。

「……ご用件を」

ヴィルヘルム卿は少しだけ息を吐く。
「まず、王太子殿下よりお詫びを」

そう言って、封書を差し出した。
王家の紋章。
金色。
あの金色は、いつも“正しさ”の顔をしている。

セレフィーナは受け取らなかった。
受け取った瞬間に、謝罪を受け入れたことになる。
王都の作法は、紙一枚で人生を決める。

ユリウスが代わりに受け取り、封は切らずに机へ置く。
「口で言え」

ヴィルヘルム卿の頬が一瞬だけ引きつる。
だがすぐに整えて、柔らかい声を続けた。

「殿下は、あなたに対する処遇が過酷であったことを反省しておられます。あの場での婚約破棄も、あなたを傷つける意図は――」

「意図がなければ、傷つけていいの?」

セレフィーナの声は淡い。
怒鳴らない。泣かない。
でも、その淡さが鋭い。

ヴィルヘルム卿は一拍だけ詰まる。
その一拍が、彼の“柔らかさ”の芯を見せた。
彼は答えを用意している。
でも答えは、相手の心のためではなく、王都の体裁のためだ。

「……もちろん、そのようなことは。だからこそ、今――」

「今さら、ね」

セレフィーナは心の奥で笑った。
世界が今さら優しくなるのは、優しさじゃない。損得だ。
王都が困って、手を伸ばしてきただけ。

ヴィルヘルム卿は、言葉を変えた。
謝罪の甘さの奥から、本命を出す。

「あなたが戻れば、皆が救われます」

皆。
その言葉はいつも便利だ。
皆を出せば、個人の痛みを踏み潰せる。

セレフィーナは、胸の中で確認した。
“皆”の中に、私の心は含まれていない。
含まれていないから、簡単に言えるのだ。

「……救われるべき人が、私を救わなかった」

言葉が、静かに落ちる。
暖炉の火がぱちりと鳴った。

「だから私は、もう救う側には戻らない」

その一文を言い切った瞬間、胸が痛んだ。
痛んだのに、背筋が少し伸びる。
自分の言葉で立っている感覚。
王都では許されなかった感覚。

リリアが後ろで息を呑んだ。
泣きそうな気配がする。
でも泣かない。彼女も学んだ。
泣く前に、息をする。

ヴィルヘルム卿の微笑みが消えた。
ほんの一瞬で。
柔らかい皮が剥がれ、中の焦りが覗く。

「……セレフィーナ様。あなたの感情は理解いたします。しかし、国が危機にあるのです」

「国が危機なら、国が私を守ればよかった」

セレフィーナは淡々と返す。
事実だけで殴る。
それがいちばん、逃げられない。

ヴィルヘルム卿の指先が、わずかに机を叩いた。
音は小さい。
でも、苛立ちの音だ。

「あなた一人の感情で、万の民を見捨てるおつもりですか」

来た。
王都の得意技。
罪悪感で縛る。
“皆”を盾にして、個人を殺す。

セレフィーナの喉がひゅっと冷えた。
前世の記憶が刺さる。
「君のせいで皆が困る」
「みんなのために」
言葉の形は違っても、同じ鎖。

セレフィーナは口を開きかけて、閉じた。
反論しても無限に言葉が返ってくる。
王都の会話は戦いじゃない。消耗戦だ。
相手を疲れさせて折る。

ユリウスが一歩前へ出た。
「その言い方をするなら、交渉ではない」

ヴィルヘルム卿は眉を吊り上げる。
「辺境伯殿、あなたは国を分断するおつもりですか」

「分断したのは王都だ。彼女を追い出したのは王都だ」

ユリウスの声は低い。
揺れない。
剣の柄に触れもせず、言葉だけで壁になる。

ヴィルヘルム卿の顔に、苛立ちが濃くなる。
彼の中で“柔らかい謝罪”が失敗した。
次は“硬い手段”だ。

「……では、率直に申し上げます」

声が冷たくなる。
礼儀の仮面だけが残り、目が命令に戻る。

「セレフィーナ様が戻られない場合、王都はあなたを“呪いの原因”として公に断罪する可能性があります」

リリアが息を呑んだ。
部屋の空気が一瞬、止まる。
脅し。
脅しに近いどころか、脅しそのもの。

セレフィーナの背筋が凍る。
やっぱり。
王都は優しさの顔をして近づいて、最後は刃を見せる。
それが王都のやり方だ。

でも――その瞬間だった。

屋敷の空気が変わる。

暖炉の火が、ふっと低くなる。
窓の外で風が吠える。
雨が横殴りになり、ガラスを叩く音が強くなる。
床下の木が、ぎし、と軋んだ。
まるで屋敷そのものが身構えたみたいに。

“世界”が、彼女を傷つける気配に反応する。
泉のときの、鹿のときの、疫病のときの――あの「整う」感覚とは逆。
これは「拒む」感覚。
空気が、彼女の側へ寄ってくる。
彼女の周りに、見えない膜が張られる。

セレフィーナは息を止めた。
怖い。
でも同時に、胸の奥が熱い。

――守られている。

自分がそう感じてしまったことに、驚く。
守られることに慣れていないから、胸が苦しい。
苦しいのに、涙が出そうになる。

ヴィルヘルム卿も気づいたのか、顔色が変わった。
「……何だ、この風は」

ユリウスは、淡々と告げた。
声は低く、刃のように静かだ。

「その言葉、撤回しろ。ここは王都じゃない」

ヴィルヘルム卿が唇を震わせる。
「辺境伯殿、あなたは……」

「撤回しろ」

二度目。
それだけで、十分だった。
言葉は少ないほど重い。
ユリウスの言葉は、戦場の命令の重さを持っている。
殺すためではなく、守るための命令。

ヴィルヘルム卿は、ぐっと息を呑み、硬い声で言った。
「……表現が過ぎました。撤回いたします」

風が、少しだけ弱まる。
床の軋みが止まる。
暖炉の火が、また安定する。
屋敷が、息を吐いたみたいに。

セレフィーナはその変化を、皮膚で感じた。
世界が呼吸をしている。
そして、その呼吸が彼女の心と同期している。

ヴィルヘルム卿は、最後の一手を打つように言った。
「……しかし、国が救われるためには、あなたのお力が必要です。どうか――」

セレフィーナは、静かに首を振った。
それは拒絶ではなく、決別に近い。

「必要、という言葉で私を縛らないでください」

ヴィルヘルム卿が何か言いかけたが、ユリウスが遮る。
「帰れ」

「……殿下に、どう報告を」

「そのまま報告しろ。彼女はここで生きると」

ヴィルヘルム卿は唇を噛み、礼儀だけを残して頭を下げた。
「……承知いたしました」

扉が閉まる。
雨の音だけが残る。
さっきまで吠えていた風が、嘘みたいに静かだ。

応接間に沈黙が落ちる。
沈黙は怖くない。
ここでは、沈黙が罰ではないから。

セレフィーナは自分の両手を見た。
少し震えている。
怖さの震え。
でも、逃げ切った震えでもある。

リリアが小さく言う。
「お嬢さま……すごい……」

「すごくない」

セレフィーナは息を吐いた。
「怖かった。今も怖い」

それを言えたことが、少しだけ誇らしい。
怖いと言うのは弱さじゃない。
ここで学んだ。

ユリウスが視線を落とし、短く言った。
「よく言った」

褒め言葉なのに、甘くない。
甘くないから、嘘じゃない。

セレフィーナは胸を押さえた。
守られることに慣れていないから、胸が苦しい。
でも、その苦しさの中に、確かな温度がある。

――私は、王都の脚本には戻らない。
――私の心を“皆”の下に敷かせない。

雨はまだ降っている。
でもこの雨は、王都の涙じゃない。
土を潤して、芽を育てる雨だ。

セレフィーナは窓の外を見た。
濡れた森が黒く光り、風が枝を静かに揺らす。
世界は、もう彼女を悪役にしたいだけの場所じゃない。
少なくとも、ここでは。

そして彼女は知ってしまった。
世界は、彼女を傷つける気配に反応する。
彼女が望むか望まないかの手前で、
彼女が“生きる”と決めた瞬間に、寄り添う。

その事実が、怖くて、
怖いからこそ、少しだけ嬉しかった。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

何かと「ひどいわ」とうるさい伯爵令嬢は

だましだまし
ファンタジー
何でもかんでも「ひどいわ」とうるさい伯爵令嬢にその取り巻きの侯爵令息。 私、男爵令嬢ライラの従妹で親友の子爵令嬢ルフィナはそんな二人にしょうちゅう絡まれ楽しい学園生活は段々とつまらなくなっていった。 そのまま卒業と思いきや…? 「ひどいわ」ばっかり言ってるからよ(笑) 全10話+エピローグとなります。

【完結】追放された子爵令嬢は実力で這い上がる〜家に帰ってこい?いえ、そんなのお断りです〜

Nekoyama
ファンタジー
魔法が優れた強い者が家督を継ぐ。そんな実力主義の子爵家の養女に入って4年、マリーナは魔法もマナーも勉学も頑張り、貴族令嬢にふさわしい教養を身に付けた。来年に魔法学園への入学をひかえ、期待に胸を膨らませていた矢先、家を追放されてしまう。放り出されたマリーナは怒りを胸に立ち上がり、幸せを掴んでいく。

この度、皆さんの予想通り婚約者候補から外れることになりました。ですが、すぐに結婚することになりました。

鶯埜 餡
恋愛
 ある事件のせいでいろいろ言われながらも国王夫妻の働きかけで王太子の婚約者候補となったシャルロッテ。  しかし当の王太子ルドウィックはアリアナという男爵令嬢にべったり。噂好きな貴族たちはシャルロッテに婚約者候補から外れるのではないかと言っていたが

【完結】悪役令嬢ですが、元官僚スキルで断罪も陰謀も処理します。

かおり
ファンタジー
異世界で悪役令嬢に転生した元官僚。婚約破棄? 断罪? 全部ルールと書類で処理します。 謝罪してないのに謝ったことになる“限定謝罪”で、婚約者も貴族も黙らせる――バリキャリ令嬢の逆転劇! ※読んでいただき、ありがとうございます。ささやかな物語ですが、どこか少しでも楽しんでいただけたら幸いです。

聖女追放 ~私が去ったあとは病で国は大変なことになっているでしょう~

白横町ねる
ファンタジー
聖女エリスは民の幸福を日々祈っていたが、ある日突然、王子から解任を告げられる。 王子の説得もままならないまま、国を追い出されてしまうエリス。 彼女は亡命のため、鞄一つで遠い隣国へ向かうのだった……。 #表紙絵は、もふ様に描いていただきました。 #エブリスタにて連載しました。

転生悪役令嬢に仕立て上げられた幸運の女神様は家門から勘当されたので、自由に生きるため、もう、ほっといてください。今更戻ってこいは遅いです

青の雀
ファンタジー
公爵令嬢ステファニー・エストロゲンは、学園の卒業パーティで第2王子のマリオットから突然、婚約破棄を告げられる それも事実ではない男爵令嬢のリリアーヌ嬢を苛めたという冤罪を掛けられ、問答無用でマリオットから殴り飛ばされ意識を失ってしまう そのショックで、ステファニーは前世社畜OL だった記憶を思い出し、日本料理を提供するファミリーレストランを開業することを思いつく 公爵令嬢として、持ち出せる宝石をなぜか物心ついたときには、すでに貯めていて、それを原資として開業するつもりでいる この国では婚約破棄された令嬢は、キズモノとして扱われることから、なんとか自立しようと修道院回避のために幼いときから貯金していたみたいだった 足取り重く公爵邸に帰ったステファニーに待ち構えていたのが、父からの勘当宣告で…… エストロゲン家では、昔から異能をもって生まれてくるということを当然としている家柄で、異能を持たないステファニーは、前から肩身の狭い思いをしていた 修道院へ行くか、勘当を甘んじて受け入れるか、二者択一を迫られたステファニーは翌早朝にこっそり、家を出た ステファニー自身は忘れているが、実は女神の化身で何代前の過去に人間との恋でいさかいがあり、無念が残っていたので、神界に帰らず、人間界の中で転生を繰り返すうちに、自分自身が女神であるということを忘れている エストロゲン家の人々は、ステファニーの恩恵を受け異能を覚醒したということを知らない ステファニーを追い出したことにより、次々に異能が消えていく…… 4/20ようやく誤字チェックが完了しました もしまだ、何かお気づきの点がありましたら、ご報告お待ち申し上げておりますm(_)m いったん終了します 思いがけずに長くなってしまいましたので、各単元ごとはショートショートなのですが(笑) 平民女性に転生して、下剋上をするという話も面白いかなぁと 気が向いたら書きますね

「魔道具の燃料でしかない」と言われた聖女が追い出されたので、結界は消えます

七辻ゆゆ
ファンタジー
聖女ミュゼの仕事は魔道具に力を注ぐだけだ。そうして国を覆う大結界が発動している。 「ルーチェは魔道具に力を注げる上、癒やしの力まで持っている、まさに聖女だ。燃料でしかない平民のおまえとは比べようもない」 そう言われて、ミュゼは城を追い出された。 しかし城から出たことのなかったミュゼが外の世界に恐怖した結果、自力で結界を張れるようになっていた。 そしてミュゼが力を注がなくなった大結界は力を失い……

護国の聖女、婚約破棄の上、国外追放される。〜もう護らなくていいんですね〜

ココちゃん
恋愛
平民出身と蔑まれつつも、聖女として10年間一人で護国の大結界を維持してきたジルヴァラは、学園の卒業式で、冤罪を理由に第一王子に婚約を破棄され、国外追放されてしまう。 護国の大結界は、聖女が結界の外に出た瞬間、消滅してしまうけれど、王子の新しい婚約者さんが次の聖女だっていうし大丈夫だよね。 がんばれ。 …テンプレ聖女モノです。

処理中です...