私を追放した王子が滅びるまで、優雅にお茶を楽しみますわ

タマ マコト

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第19話 静寂の後に

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 夜がほどけたあとの朝は、耳がやけに正直だ。鳥の声が一羽ずつ数えられて、鍋の湯が立つ前の沈黙が厚みを持つ。静寂の後に来るものは、音ではなく、間である。私は窓を三分の一だけ開け、湖の冷たさを喉に一口落とした。最初の湯はニルギリをうすく。蜂蜜は半匙弱。塩はいらない。昨夜、街は自分の手で光を点け、自分の息で消した。現実の匂いは、もう街の側に揃っている。

「風は湖から王都へ。弱いが、真っ直ぐです」  セドリックが影だけ置いて報せる。 「弱い道は、まっすぐ遠くまで行ける」

 レーネが吊るしたローズマリーを指で弾き、「今日もかわいい」と笑う。マリアベルは秤に頬を当てて「狂ってない」。ギルバートの鍋はまだ唸らない。ジルは靴紐を結び直し、ハンスは拳を開いて、閉じて、力の出口を整える。シモンは紙束の角を揃えた。『順番』『退路』『香を薄く』『影から離れる』『ひ』『か』——『か』は“変わっても怖くない”の『か』。

「お嬢様、王都から走り」  セドリックが青い蝋の封を渡す。老宰相の手だ。私は封を切り、目で読む。インクは夜の匂いをまだ持っている。

『昨夜、屋根の光落ちたり。民、手の内に火を置く。殿下、壇の下にて立ち会う。祈祷師、香を薄めながら策を改む。——北の倉、退路二本通行。今朝、南倉にも印改めの兆し。鏡の間、扉半開なり。』

「半開の扉、ね」 「開けやすく、閉めやすい角度です」 「なら、今日は“開け方”を覚え直させる」

 私はカップを置き、皆に視線で集まる合図を送った。

「“静寂の後に”やること、三つ」  指を折る。「ひとつ、各区の『祈りの光』の後片づけ。芯を短くし、油を抜き、窓は指一本ぶん開けて乾かす。光は置きっぱなしだと舞台に化ける。ふたつ、御堂の目地と礼拝堂の床の“座り”の確認。息の高さを戻す。みっつ、王宮の“半開の扉”に礼儀の蝶番を足す。開けるも閉じるも、音を立てないために」

「怒鳴らない。刃は出さない。退路は残す」  セドリックが重ね、ジルとハンスが「あいよ」と短く応じる。家は、もうこのリズムで呼吸する。



 王都の朝は、昨夜の橙がまだ窓の縁に残っている色だった。台所の陶皿には黒く短い芯、礼拝堂の隅には指一本ぶん開いた窓。『ひ』の紙が子どもの目線で白く揺れ、『順番』の紙が角の高さを示す。ハロルドは広場の端で壁を“扉”に戻し、兵の足を半拍だけ落として歩かせる。怒鳴らない。怒鳴り声は刃だ。刃は、昨夜の光を台無しにする。

「片づけは、祈りの続きだよ」  私は井戸のそばでミーナに言う。アリが指で芯をつまみ、ニコが「ひ」と小さく言いながら息で灰を飛ばす。笑いがひとつ、すぐに落ち着く。笑いは命令の敵で、聞く耳の味方。昨夜のやり方が朝に馴染む。良い連鎖は、静かだ。

「御堂」  セドリックの視線。私は頷き、裏庭へ向かう。南の礎石はよく座っている。目地の香は薄い膜のまま、触ればすぐ剥がれる機嫌。若い神官が膝の位置で呼吸を測り、リリアは小部屋で窓を指一本だけ開け、胸をほぐす。

「昨日の『ひ』、街に残った?」 「残った。手の中に」  リリアは笑わない笑いで答え、短く息を置く。「今日は『か』を貼る。変わっても怖くない。……鏡が、また近づいてきたら、怖がりを戻さないために」

「いいね。『か』は“変えて、返す”。舞台に返さないで、土に返す」 「うん」

 私は刷毛の先で目地を撫で、残っていた香の薄皮を剥がす。湿った苔の奥に、昨日よりも柔らかい甘さ。礼拝堂の床板は音を吸い、柱は鳴らない。静寂の後の静けさは、息の置き場所が増えた分だけ深い。



 王宮。鏡の間の扉は、半開のまま甘えた顔をしていた。開いていると見せ、閉じられる距離を測っている。私は扉の縁を指でなぞり、蝶番の乾きを確かめる。油を差すのは礼儀だ。音を立てないために。

「殿下」  扉の向こうへ声を落とす。鏡に向いていない方向へ。 「ここに」  アレクシスの返事は短い。鏡から半歩離れた声。私は扉に背を預けず、廊下に立ったまま言う。

「扉の開け閉めは、音を立てないほうがいい。街は今、音の少なさで呼吸している。——“退く”音が大きいと、“逃げた”になる。小さいと“戻す”になる」 「……戻す」 「退いた分だけ、返す。返す場所は、舞台じゃない。土。壇の下」

 ミゼルが奥から出てくる。黒衣の裾は昨夜より軽い。香を薄めたために、自分の影が薄く見えるのが不満なのだろう。彼は温度のない声で言う。 「殿下、儀は形を整え直します。『道の上の奇跡』として」 「奇跡は『結果』の別名じゃない」  ハロルドが挟む。「結果だけ欲しがると、順番が死ぬ」

 アレクシスは鏡に背を向け、こちらへ半歩。昨日より、鏡から遠い半歩。「老司祭から『置く祈り』の文がまた届いた。……私は壇の下に立つ。今日はそれだけでいいな?」 「それで、いい」  私は短く答えた。短さは退路を残す。長い言葉は舞台に食われやすい。

「扉は、半分だけ開けておく。……音は立てない」 「礼儀です、殿下」  セドリックが目で答えを置く。王に向ける影の礼儀。刃ではない、蝶番の油。



 その帰り、北郭の倉の陰で、エナスが待っていた。顔色はまだ薄いが、目の水は昨日より澄んでいる。彼は印板の裏の刻みに、親指をそっと当てた。

「三本目、今夜、通せます」 「順番は」 「民→水→影。……刃は出さない」 「よく言えた」  私は蜂蜜の瓶から半滴だけ彼の舌に落とす。恐れの居場所は喉の奥。届く距離にある限り、間に合う。彼は頷き、指を離した。指の震えは、喉だけに残る。喉なら、薄められる。

「隊長は?」 「新影の隊長は怒鳴ります。でも、旧影が“退け”の顎をまだ覚えてる。……僕、退く時の足の位置を、身体で覚えました」 「それが礼儀。礼儀は、誰かを守るために作られた動作の記憶」

 彼は目を細め、「ローク、っていう名前を昨夜、古い影が口の中で言ってました」と続けた。 「聞いたことある」  セドリックの視線が、ほんの少しだけ遠くへ行き、すぐ戻る。「礼儀を詩にできる影です」 「いつか、門に来る。茶を淹れて待つ」



 昼下がり、広場の隅に小さな卓を出した。『静寂の後の茶会』。大げさな名はない。台所の延長。石段の影、指一本ぶんの風。ポット、カップ、蜂蜜、小皿のクッキー。そこに来る人は、皆、昨日の“祈りの光”を手放した掌を持っていた。掌は少し黒く、匂いは少し甘い。

「ルール、三つ」  私は言う。「怒鳴らない。短く。自分の言葉で」  ハロルドが壁の角度を見張りながら椅子の端に座り、若い神官が膝の位置で息の高さを測る。リリアは壇の下に立つ前の喉を温めるため、カップを両手で包む。ジルは「怒鳴らない」を繰り返し、ハンスは「落ちる石は先に落とす」。シモンは『か』の紙を子どもの字で三十枚。レーネがローズマリーを卓の端に置き、マリアベルが蜂蜜を等分し、ギルバートは鍋の蓋を少しだけずらした。

「殿下が来るかもしれない」  ハロルドが言う。私は頷いた。「来たら、椅子は“壇の下”の高さにする」

 そのタイミングで、広場の陰からアレクシスが現れた。鏡はない。護衛は少ない。彼は卓の端に立ち、椅子に座らず、まず息をひとつ置いた。うまい。誰かに教わったのだろう。老司祭か、昨日の自分か。

「紅茶を」 「どうぞ」  マリアベルがぬるめのミルクを添え、私は蜂蜜を半匙弱落とす。彼は一口飲み、喉ぼとけをほんの少しだけ上下させた。正直な喉。鏡より信用できる。

「——昨夜、光が手に座っているのを見た」  彼は短く言った。「上を見上げている民より、手元を見ている民のほうが強かった」 「手元は、返せるから」 「返す?」 「上に“上げる”祈りは、戻ってこないことがある。置く祈りは、置き直せる。返せる。……それは“退路”の別名」

 ミゼルが遠巻きに立ち、袖の中で指を組む。彼は相変わらず温度のない目をしているが、節の組み方が昨日よりゆっくりだ。計算に“退路”が混ざって、歩幅を測り直しているのだろう。よろしい。職人が良くなるのは良いことだ。

「私は、壇の下で短く言う。『退路を、残す』。それだけ」  アレクシスがカップを置く。置く音は小さい。扉の蝶番に油を差した音に似ている。「——鏡は半歩、遠くに置く」 「半歩の差は、大きい」 「はい」



 午後、礼拝堂の前。リリアが壇の下に立ち、扉を開けた。窓は指一本ぶん。光は置かれ、消され、また置かれる。彼女は短く言う。「息を、先に」。拍手はない。笑いが薄く広がる。笑いは命令の敵で、街の味方。若い神官が膝の高さで息の輪郭を示し、子どもが真似をする。『お』『ひ』『か』。三つの音で、街の骨は昨日より滑らかに動く。

 そのとき、王宮の方向から低い合図。影の符丁。セドリックが瞳だけで受け取り、私に目で渡す。〈南倉、印板の打ち替え準備。新影の列、怒鳴る〉。私は頷き、短く言った。

「——怒鳴らないで、止める」

 ジルとハンスが角へ走り、ハロルドは“扉”を広げ、シモンは『退路』の紙を二枚重ね貼りにする。エナスは列の陰に滑り込み、印板の裏の刻みを指で確かめる。旧影の男が顎を引く。〈見ていろ〉。怒鳴りそうな若い足の前に、私はただ立った。手ぶら。目だけ。

「ここは、土の側」  私は短く言う。命令ではない。“側”の宣言。若い足の顎が少し下がる。怒鳴る声が喉の奥で迷子になる。迷子の声は刃にならない。エナスが刻みを剥がし、印板の打ち替えは“退路つき”に変わる。道具に道。礼儀が道具をやわらげる。

「……終わり」  セドリックが目で告げ、私は礼拝堂へ戻る。静寂の後の一仕事。静かに終わるほど、次が整う。



 夕方、静寂の館。扉を開けると、家が今日の温度で迎えた。マリアベルが蜂蜜を配り、ギルバートが塩のスープをよそい、レーネがローズマリーを梁に結び直す。シモンが『か』の紙を机に積み、ジルとハンスは肩で「怒鳴らない」を確認し、若い神官は窓を三分の一だけ開け、ハロルドは外套を椅子に掛け、エナスは門の蝶番の音を聞く。セドリックは窓の影に立つ。家の呼吸が、静寂の後の形を覚えている。

「今日のまとめ」  セドリックが言う。私は頷く。

「『祈りの光』の後片づけ、各区で完了。芯、短く。窓、指一本。御堂の目地、礼拝堂の床、座り直し。王宮の扉、半開のまま、音なく開閉。殿下、壇の下で短く『退路』を言う。南倉、印板の打ち替え、“退路つき”。——怒鳴らないで止めた。ミゼルは計算し直し。街は、生きてる」

「明日」  ハロルドが視線で問う。 「『き』を貼る。『聞く』の『き』。王が民を、民が王を。舞台じゃなく、道で」

 私はカップに最後の一杯を注ぎ、喉へ落とす。今日の渋みは印。甘さは赦し。塩は現実。全部ここにある。胸の針を指で撫でる。角度は真っ直ぐ。昨日より細く、強い。静寂の後に通した線は、折れにくい。

「セドリック」 「はい」 「扉の蝶番、油は効いた?」 「はい。開けても閉めても音がしません。……礼儀の音は、静かです」 「好きだよ、その音」

 エナスが戸口で一度振り返る。「僕、明日も“退路”を守る」 「守って。守りながら、覚えて。退路は“戻るための道”だけじゃない。“前へ出るための角度”でもある」

 窓を少しだけ開ける。湖の匂いが夜の鉄から草へ移る。門柱の看板は今日も薄く温い。胸元のペンダントは静か。賢い子。

「——王子が滅びるまで、私は紅茶を楽しむ」

 唇だけで言う。呪いでも祈りでもない、境界線。白く、細く、まっすぐ。線のこちら側に、静寂の後に整えられた台所の火、座り直した目地、半開で音のしない扉、蜂蜜の半匙、刻まれた退路、壇の下の短い言葉、そして“怒鳴らない扉”がある。線の向こうに、香の層、買われた倉、鏡の前の笑い、上へ逃げる光、結果だけを欲しがる節がある。紅茶は流れ、時間は一分だけ止まる。止めた一分が、明日を整える。静寂の後に、道が見える。道は細いが、折れない。ここから、もう一歩。

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