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第18話 祈りの光
しおりを挟む夕方の湖面は、指でそっと撫でたみたいに薄く揺れていた。静寂の館の梁が一度きしみ、家全体が「これからだよ」と背筋を伸ばす。私は窓を三分の一だけ開け、冷たい匂いを喉の奥へひと口。最初の湯はダージリンを軽め。蜂蜜は半匙弱。塩は入れない。現実は街のほうで充分に騒いでいる。
「風は湖から王都へ。弱いけど、道になる」 セドリックが影だけ置いて言う。 「弱い道は、静かに遠くまで届く」
レーネが束ねたタイムを指で撫で、「今日もかわいい」と笑う。マリアベルは秤を撫で、「狂ってない」。ギルバートの鍋は低く腹を鳴らす。ジルは靴紐を固く締め、ハンスは拳を開いたり閉じたりで力の出口を確かめる。シモンは『順番』『退路』『香を薄く』『影から離れる』、そして新しく『ひ』の紙を束にした。
「『ひ』?」 「光の『ひ』。火の『ひ』でもある。——『ひ』は“息で点けて、息で消せる光”」 「いいね。今日はそれでいく」
扉が二度、礼儀を思い出した指で叩かれた。間は短い。ハロルドだ。灰の外套の男は地図を開き、目だけで場を温める。
「殿下は鏡の間を出たり入ったり。玉座の根は剥がれたまま。祈祷師ミゼル、今夜“天へ光を上げる儀”を宣すると走り。香を厚くし、屋根の上に灯りを並べる計画。……舞台の光だ」 「ならこちらは“祈りの光”。——台所で灯す、小さくて消せる光」 私が言うと、ハロルドは頷いた。「兵は壁にせず、扉を作る。各区に『ひ』の紙。『火は小さく、窓は指一本。吸って、吐いて、消せる光』」
「北の倉は?」 セドリックが視線だけで問う。 「退路一本が通った。……二本目、今夜。順番は『民→水→影』のまま」 「エナスは」 「刻む。震えない指で」
私はカップを口へ運び、胸の針の角度を確認した。真っ直ぐ。細く、強い。揺れを通った線は折れにくい。
「段取り、三つ」 指を折る。「ひとつ、各区に“祈りの光”のやり方を貼る。『ひ』の紙は子どもの目線。ふたつ、御堂の目地に溜まった香をさらに剥がす。みっつ、王宮の屋根で“舞台の光”が上がった瞬間に、街じゅうに“消せる光”を点ける。——合図は鐘じゃない。母音、『ひ』」
「怒鳴らない、刃は出さない、退路を残す」 セドリックが重ねる。「了解」
◆
王都の夕刻は、人の背中に色が戻る時間だ。広場の端に白い紙が揺れる。『退路』『順番』『ひ』。蜂蜜の小瓶が三口ずつ、手から手へ渡る。ハロルドが角で指だけの合図を散らし、兵は壁を“扉”に組み替える。怒鳴らない。怒鳴り声は刃だ。
「きょうは『ひ』だよ」 ミーナがアリを抱き上げ、ニコが指を一本立てる。シモンが子どもの字で読み上げる。「『ひ』は“息で点けて、息で消せる光”。『う』を言って吸って、『ひ』と言いながら小さく吐く。窓は指一本ぶんだけ開ける」
私たちは区々に散り、台所の口火を借りて、小さな陶皿に芯を立てた。油は少し。大きくしない。大きい光は舞台になる。小さい光は生活になる。レーネがローズマリーを一本だけ束から抜き、香りを薄く足す。「芯を太く」。マリアベルは蜂蜜をひと滴、灯心に触れさせる。「甘い匂いは怖さを薄める」。
「御堂」 セドリックの声。私は頷いた。
南の礎石は、今日も呼吸していた。目地の隙に薄く溜まった香の残滓を、刷毛と息で剥がしていく。若い神官が膝の位置で呼吸の高さを合わせ、リリアは小部屋で胸を開き、窓を指一本だけ。外の甘さが入ってくる。
「……よし」 私は指先から温度を離し、石の側で短く言う。「今夜、街に“祈りの光”を点ける。あなたは壇に上がらない。扉の内で、『ひ』を言うだけ」 「言う」 リリアの声は小さいけれど芯がある。鏡を忘れた声だ。
◆
王宮の屋根では、ミゼルが香の箱を開けた。黒衣の列。節の組み替え。彼は空を舞台にするつもりだ。屋根の縁に並ぶ灯りは、指二本ぶんの窓から溢れる眩しさで、人の目を奪う光。彼は計算にかけている。“目を奪うのは、心を奪う最短路”。職人の論理。
「殿下」 ミゼルが低く声を落とす。「光を上げる。街は見上げる。結果は、ここ」 アレクシスは鏡の間から半歩離れたまま、屋根の端に立つ。風が彼の裾をわずかに揺らし、喉が一度だけ上下した。「……退路は」 「不要」 ミゼルの答えは速い。速い答えは、たいてい危うい。
「殿下」 ハロルドの走りが息を切らせず現れ、短く言う。「街は“祈りの光”。——窓、指一本。『ひ』の紙。退路は開いている」 アレクシスの目に、鏡のない色が一瞬だけ差した。けれど彼は、まだ舞台を捨てない。捨てられない。私はそれを責めない。舞台にも退路が要る。
◆
薄闇が落ちて、王都が一斉に息を吸った。屋根の上で、祈祷師の光が高く上がる。白く鋭い。“目を奪う光”。同じ瞬間、路地の奥、台所の窓、礼拝堂の隅、井戸端の石の影、店の裏口……街じゅうの指一本の窓から、小さな火がぽつり、ぽつりと点いた。『ひ』。息に乗った、小さく消せる光。
「『ひ』」 私は広場の端で、口を丸くせずに息を細く落とす。子どもが真似をする。『ひ』。母が笑う。笑いは命令の敵で、聞く耳の味方。小さな火は揺れて、すぐ落ち着く。落ち着いた火は、怖さの位置を移動させる。喉の奥から掌へ。掌に乗れば、扱える。
屋根の上の光は強い。だが風に弱い。風は湖から王都へ。弱いけど、広い。香の層を薄く剥がしながら街を通る風は、屋根の光にだけ冷たく、台所の火にはやさしい。御堂の目地は呼吸を保ち、礼拝堂の木は音を吸う。リリアが扉の内で短く言う。「ひ」。その一音が通りを渡り、角を曲がって、窓から窓へ。
「姐さん、いい匂いだ」 ジルが肩で笑い、ハンスが「怒鳴らない」。シモンは子どもの目線に『ひ』の紙を貼り、レーネが火に近づきすぎた小さな手をやさしく包む。マリアベルは蜂蜜をひと滴、陶皿の縁に触れさせ、ギルバートは蓋を少しだけずらし、スープの湯気で光をやわらげる。家の仕事が、街の仕事になっていく。
「北の倉、二本目」 セドリックの声。遠くで符丁がひとつ。エナスだ。退路の刻みがまた一本、剥がされて通った。順番どおりに、民→水→影。怒鳴らない。刃は出さない。礼儀の角度で。
私は胸の針を指で撫でた。角度は、真っ直ぐ。けれど、その線が街じゅうに増えていくのを感じる。指一本の窓から漏れる橙が道を描き、道が退路に繋がり、退路が順番を呼び、順番が呼吸を整える。――これが、祈りの光。舞台の光は上へ逃げる。祈りの光は下へ座る。
◆
王宮の屋根。ミゼルは光の強さをさらに上げようと節を組み替え、香を重ねる。だが風は香を嫌う。御堂の目地を剥がしておいたせいで、香は街に留まらない。浮いた香は、強い光を支えきれない。縁から一筋、光がほどける。人々が見上げず、見下ろして火を整える姿に、彼の計算が少し軋む。
「殿下」 彼はなお声を落とす。「高みを」 「……街が、明るい」 アレクシスが初めて下を見た。指一本の窓に座る小さな火。台所の陶皿。母の掌。子の眼。老いた指。兵の肩。紙の白。『ひ』。彼はわずかに息を吐き、つぶやく。「退路は……光でもあるのか」 「退路は道。道は、灯せる」
そこへ、老司祭の走りが青い蝋の小封を差し出した。殿下は開け、沈黙の中で読む。『祈りは“上げる”でなく“置く”。民は今、置いている。奇跡は舞台に要らず。道に要る。——香を薄く。王の息で。』
アレクシスは目を閉じ、開けた。「ミゼル。香を薄く」 「殿下——」 「王命だ」 短い二語。短いほど、退路は残る。ミゼルは笑わず、節をほどいた。屋根の光がひとつ、二つ、静かに落ちる。落ちた分だけ、街の火が明るく見える。明るく見えるのではなく、見える場所まで降りてきた。
◆
その頃、北の倉の陰。エナスは印板の裏に薄く刻まれた『退路』の線を指で撫で、剥がすタイミングを測っていた。新影の二人が前を行き、旧影の男が後ろから顎を少し引く。〈見ていろ〉。彼は震えない。震えは喉の奥だけ。蜂蜜が届く距離だ。彼は刻みをひとつ剥がし、小声で言った。「——『ひ』」。火ではない。光だ。自分の胸の中で灯しておくための音。
「通った」 セドリックが広場で受け取り、私に目で渡す。私は頷く。退路は増えた。道は細いが、折れない。
「リリア」 礼拝堂の扉の内で、彼女は短く繰り返す。「『ひ』」。窓の外で子どもが真似をする。『ひ』。恐れの位置が喉の奥から掌へ移動するたび、街の奥行きが一段深くなる。深くなった街には、香が居座れない。香は軽いからだ。
◆
夜が真ん中を過ぎるころ、王都はめいめいの掌に小さな灯りを持っていた。台所の陶皿、礼拝堂の隅、屋台の裏、倉の影。どの火も「消せる」。その安心が、光をやさしくする。やさしい光は、人を舞台から降ろす。
私は広場の端で、ポットから薄いお茶を注いだ。『祈りの光』は喉を乾かす。蜂蜜を半匙弱、各自に。マリアベルが匙を配り、ギルバートがスープの蓋を指一本だけ開け、レーネがローズマリーを軽く弾く。ジルは「怒鳴らない」をもう一度言い、ハンスは落ちそうな石を先に落とし、シモンは紙を貼り直す。若い神官は息の高さをそろえ、ハロルドは“扉”の角度を保ち、セドリックは影を太くして、刃が出る前に静けさで刃先を鈍らせる。
「お嬢様」 セドリックが低く囁く。「殿下が、壇の下にいる」 見ると、仮設の壇の影。アレクシスが立っていた。鏡のない顔。彼は拍手を求めない。求めない顔は、退路を探している顔だ。彼は私を見た。私は頷き、長く話さない。
「殿下。——香を薄くしてくれて、ありがとう」 「私は命じただけだ」 「命じるのも息。息は道を作る」 「……民は、上を見ないのだな」 「今日は下に置いたから。明日は横に繋ぐ」
彼は短く笑い、すぐに真顔に戻った。「王が“退いた”ことを、あなたは責めない」 「退くには勇気が要る。退いた王は、間に合う王」 ハロルドが横で頷く。「紙に書く。兵に言う。街に残す」
◆
夜明け前。『祈りの光』は、ひとつ、またひとつと息で消えた。『ひ』。消せる明るさは、眠りに変わる。眠りは、街の骨を新しくする。屋根の上の舞台の光は、もうない。香は薄い膜のまま、風にほどけた。御堂の目地は静かに座り、礼拝堂の木は息を覚えている。北の倉の退路は二本、通った。順番は守られた。
静寂の館に戻ると、扉が「おかえり」と小さく鳴いた。マリアベルが蜂蜜を差し出し、ギルバートが塩のスープをよそい、レーネが吊るしたローズマリーの先を指で弾く。シモンが『ひ』の紙を机に重ね、ジルとハンスは肩で「怒鳴らない」を確かめ、若い神官は窓を三分の一だけ開け、ハロルドは外套を椅子に掛け、セドリックは影を細くした。
「今日のまとめ」 セドリック。 「王宮の“舞台の光”、香を薄くして落とした。街は“祈りの光”を点け、息で消した。御堂の目地は呼吸を保ち、礼拝堂は『ひ』を覚えた。——北の倉、退路二本目。順番は民→水→影。殿下は壇の下に立ち、鏡を半歩離れた」
「祈祷師は」 ハロルドが目を細める。 「計算をやり直す。彼は職人だ。良い職人は、間違いをすぐに直す。でも“退路”を計算に入れない限り、街の光には勝てない」
私はカップに最後の一杯を注ぎ、喉へ落とす。今日の渋みは印。甘さは赦し。塩は現実。全部ここにある。胸の針を撫でる。角度は真っ直ぐ。細く、強く。
「エナス」 「はい」 「震えなかったね」 「喉だけ震えました。……蜂蜜、効きます」 「喉に届く甘さは、恐れの居場所を動かせる」 「はい」
窓を少しだけ開ける。湖の匂いが夜の鉄から草へ移り、遠くで鳥が短く鳴いた。街は、光を置いて、眠って、朝を迎える。祈りは上げず、置いた。その置き方を、みんなが身につけ始めた。
「セドリック」 「はい」 「祈りの光は、舞台を飢えさせるね」 「はい。舞台は“目”を欲しがる。祈りの光は“手”に座る」 「手に座る光は、退路になる」
門柱の看板を撫でる。木は薄く温い。胸元のペンダントは静か。賢い子。
「——王子が滅びるまで、私は紅茶を楽しむ」
唇だけで言う。呪いでも祈りでもない、境界線。白く、細く、まっすぐ。線のこちら側に、息で点けて息で消した小さな灯り、座り直した目地、指一本の窓、蜂蜜の半匙、刻まれた退路、壇の下に立つ王、そして“怒鳴らない扉”がある。線の向こうに、香の層、買われた倉、鏡の前の笑い、上へ逃げる光、結果だけを欲しがる節がある。紅茶は流れ、時間は一分だけ止まる。止めた一分が、明日を整える。祈りは、置いた。光は、手に座った。次は、その手を繋いで道にする番だ。
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