前世ブラックOLの私が転生したら悪役令嬢でした

タマ マコト

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第4話:融資契約の改定――期限という刃

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 ヴァルツブルク家の書庫は、音が死んでいた。

 分厚い扉を閉めた瞬間、外の世界の気配がふっと薄れる。廊下を歩く靴音も、遠くの庭師の声も、全部が羊毛に包まれたみたいに丸くなる。代わりに、紙と革と埃の匂いが濃くなる。
 鼻の奥が少し痛い。けれどこの痛みは、現実の痛みだ。蛍光灯の白に焼かれる痛みとは違う。

 高い天井まで届く本棚。
 背表紙は黒、茶、深い緑。金の箔押しで家名や年号が刻まれている。
 ここには言葉が眠っている。言葉の形をした刃が、鞘に収まっている。

 長い机の上に、カイが書類の束を置いた。
 羊皮紙が重なって、乾いた音を立てる。紙ではなく皮。しっとりした硬さ。指で触ると、微かな温度がある気がした。生き物だった名残だ。

「こちらが、王家向け融資契約の原本と写しです」

 カイの声は淡々としている。淡々としているのに、今日だけは空気が張っていた。彼も分かっているのだ。私が今から触れるものが、ただの書類ではないことを。

 机に向かい、私は椅子に座る。
 背筋を伸ばし、袖口を整え、指先を軽くほぐす。
 前世で、契約書レビューの前に必ずやっていた癖。手を整えると、頭が整う。

 羊皮紙の一枚目を開いた瞬間、匂いが立った。
 古いインクの匂い。微かに鉄臭い。そこに革の匂いが混ざって、過去の時間が湧き上がる。

 文字は美しい。
 曲線を描く筆跡。装飾的な頭文字。
 でも私は、その美しさに騙されない。
 美しい契約ほど危険だ。前世で何度も見た。綺麗な言葉で、責任だけ押し付けてくる契約書。

 私は視線を滑らせる。
 条項。注釈。署名。印章。
 読んでいるうちに、世界が静かになる。音楽も視線も消えて、羊皮紙の上の文字だけが浮かぶ。

「……やっぱり」

 小さく呟くと、カイがわずかに身じろぎした。

「何か問題が?」

「問題しかない」

 私はページをめくる。
 “永続的な支援”。
 “王家の威信を損なわぬよう”。
 “必要に応じて”。
 “誠意をもって”。
 そういう言葉が、何度も出てくる。

 誠意。必要。応じて。
 前世なら、赤ペンで全消ししたくなる単語だ。
 曖昧な言葉は、権力のある側が自由に解釈できる。いつだって弱い側が泣く。

「返済期限が……書いてない」

 わざと声に出した。
 声に出すことで、現実になる。現実になれば、手が打てる。

 カイは静かに答える。

「ヴァルツブルク家は、代々王家の支援を担ってまいりました。返済を迫るのは……礼を失する、と」

「礼?」

 私は笑いそうになって、喉の奥で止めた。
 礼を失する。
 礼で腹は満たせない。礼で兵は動かない。礼で国債の利払いは止まらない。

「礼って、便利な言葉ね」

 私は契約の該当部分を指先でなぞった。インクが少し盛り上がっている。触れると、微かな凹凸がある。
 この凹凸の下に、未来の破滅が埋まっている。

「これ、実質無期限よ。王家が返す気にならない限り、返ってこない」

「……」

「いや、返す気になったとしても、返せる仕組みがない。返済計画の条項も薄い。利率の定義も、例外ばかり」

 前世で聞き慣れた最悪の匂い。
 “例外条項の山”。
 例外が多い契約は、契約じゃない。都合のいい口約束だ。

 私はペンを取り、白紙の羊皮紙を引き寄せた。
 紙ではない。羊皮紙。硬くて、少しだけ反発する。
 でも、反発する素材ほど書き甲斐がある。意志が残る。

「新しい契約を作る」

 カイが目を細める。

「新しい、契約を」

「期限を入れる。担保も。返済の工程も。利率も、“例外じゃなく基本”にする」

 カイの視線が、私の手元に落ちる。
 彼は何か言いかけて、飲み込んだ。

 私はペン先をインク壺に浸す。
 インクが糸を引いて、ペン先にまとわりつく。
 その黒が、妙に美しい。夜みたいに深い黒。

「まず、三年期限」

 私は言いながら書く。
 “融資実行日より三年以内に、王家は——”。

 書き出した瞬間、胸の奥がすっと冷えた。
 三年。
 期限。
 締切。

 前世で、私は締切に殺されかけた。
 締切に追われ、締切に怒鳴られ、締切に土下座してきた。
 その締切を、今度は私が作る。私が差し出す。

 でもそれは復讐じゃない。
 これは止血だ。血が流れ続けたら、国が死ぬ。止めるには、縛るしかない。

 カイが低く問う。

「……王家が飲むでしょうか」

 その言葉は、心配の形をしている。
 でも本当は警告だ。
 王家に刃を向けることの危険を、彼は知っている。

 私はペンを止めず、静かに笑った。

「飲ませるの」

 インクが羊皮紙に染み込み、文字が定着する。
 黒が広がる瞬間、決意も広がる。

「飲まなくてはならない状況を作る」

 カイの呼吸が、ほんの少しだけ重くなった。

「……状況を、作る」

「うん。王家は“礼”で動かない。必要がないと動かない。必要を作る。危機を可視化する。数字で、逃げ道を塞ぐ」

 言葉が、冷たい水みたいに整然と落ちる。
 自分の声が、怖いほど落ち着いているのが分かる。

 私は担保条項を書き足す。
 王家資産の一部を担保化。王領の収益からの天引き。
 さらに、返済不能時の再交渉条件。監査の権限。

 書いていると、指先が熱くなる。
 ペンが走る。
 文字が、私の中の迷いを削ぎ落としていく。

 ふと、扉の外から気配がした。
 小さな足音。止まる。躊躇。
 扉が軽くノックされる。

「……失礼いたします、アーデルハイト様」

 ミレーネの声だった。
 私は顔を上げる。

「入って」

 扉が開き、ミレーネがそっと入ってくる。
 その後ろに、もう一人。年配の女性侍女長が控えている。背筋がまっすぐで、目が鋭い。
 侍女長の名前はヘルミーネ。彼女の視線には、尊敬より監視が多い。

 ミレーネは机の上の羊皮紙の山を見て、目を見開いた。

「……お、お勉強でございますか?」

 勉強。
 かわいい言い方。
 でもこの紙は勉強じゃない。これは、世界の首輪。

 侍女長ヘルミーネが一歩前に出て、控えめに言う。

「アーデルハイト様。ご無理は……」

 無理。
 その言葉の裏に、“これ以上目立つな”がある。

 私は微笑みだけで返す。

「無理はしてないわ。必要なことをしてるだけ」

 ヘルミーネの視線が、私の書いている文字に落ちた。
 彼女は読み取ろうとする。
 そして次の瞬間、空気が変わった。

「……殿下への、融資契約でございますか」

 声が硬い。
 敬意を保っているのに、警戒がにじむ。

「そう」

 私は短く答えた。短く答えるほど、相手は勝手に想像する。
 想像させる余白を、こちらが支配する。

 ミレーネが小さく息を呑む。

「で、でも……王家に……期限を……?」

 その言葉が途中で切れる。
 彼女は言ってはいけないことを言いかけた、と気づいて口を閉じた。
 でも、もう遅い。言葉は出た。空気に刻まれた。

 ヘルミーネがかすかに眉を寄せる。

「アーデルハイト様。それは……ご当主様のご判断を仰ぐべきでは」

「父は今、領地だわ」

「それでも……」

 ヘルミーネの声が震えている。
 彼女は私を心配しているのかもしれない。
 でも心配の中には、“家を守りたい”がある。家を守るためには、王家に逆らう令嬢は邪魔だ。

 私はペンを置き、ゆっくり彼女を見る。

「ヘルミーネ。あなたは、王家がこの国のすべてだと思ってる?」

 ヘルミーネは一瞬言葉に詰まる。
 それは答えがあるから詰まる。
 “はい”と言えば、ヴァルツブルク家の役割を否定する。
 “いいえ”と言えば、忠誠を疑われる。

 私は続ける。

「王家が崩れたら、貴族も民も巻き込まれる。……だからこそ、支える必要がある」

「支える、とは……」

「支えるって、甘やかすことじゃない」

 私は机の上の古い契約書を指先で叩いた。乾いた音が書庫に響く。

「この契約は甘やかしよ。無期限の支援は、返せない借金を増やすだけ。返せないものを貸し続けたら、いつか破裂する。国が破裂する」

 ミレーネの顔が青くなる。
 ヘルミーネは唇を固く結んだ。

「……お嬢様は、王家を追い詰めるおつもりですか」

 ヘルミーネの声が低い。
 その問いは、ほとんど告発だ。

 追い詰める。
 悪役。
 断罪。

 言葉が、私の喉元を撫でた。
 私はそこで、笑顔を作り直した。
 柔らかい。優しい。誰も傷つけない顔。

「追い詰めない。引き戻すの」

「引き戻す……?」

「崖に向かって走ってる人を止めるには、肩を抱くだけじゃ無理。ロープで縛ってでも止める」

 ミレーネが小さく震えた。
 怯え。
 彼女の怯えは、私が悪役に見える証拠だ。

 ヘルミーネの目も揺れた。
 彼女は今、私を“危険な令嬢”として見ている。
 それでいい。誤解されてもいい。
 誤解の矢を全部受けてでも、国の崩壊を避けるなら。

 カイが静かに口を挟む。

「アーデルハイト様は、王家を守るために条項を整えておられます」

 ヘルミーネがカイを見る。
 執事の言葉は重い。執事が“守るため”と言うなら、軽々しく否定できない。

 ヘルミーネは視線を戻し、ゆっくり頭を下げた。

「……出過ぎたことを申し上げました。失礼いたしました」

 礼はした。
 でも納得はしていない。
 それが分かるから、胸が少し痛い。

 ミレーネはぎこちなく笑おうとして、笑えなかった。

「アーデルハイト様……」

「大丈夫。怖がらないで」

 私は言いながら、怖がらせている自覚があった。
 怖がらせたくて怖がらせているわけじゃない。
 でも、私が今から作るものは、誰かにとっての恐怖になる。

 ミレーネの手が震える。
 その震えを見て、前世の自分を思い出す。
 上司の前で資料を差し出すとき、指先が震えていた。
 震えを隠すために、紙を強く握って、さらに指が白くなった。

 私はミレーネに小さく言った。

「紅茶、持ってきて。濃いの」

「は、はい!」

 逃げ道を与える。
 ミレーネが部屋を出ると、書庫の空気が少し楽になった。
 ヘルミーネは一礼し、扉の近くで控える。監視。見届け。
 いい。見ていればいい。私が何をするか。

 私は再びペンを取った。

 条項を詰める。
 曖昧な表現を削る。
 “誠意”を“期限”に変える。
“必要に応じて”を“具体的な条件下で”に変える。

 書きながら、頭の中で前世の声が鳴る。
 「この条文、責任の所在が曖昧です」
 「例外条件が多すぎます」
 「期限がないのでリスクが読めません」
 会議室で、何度も言ってきた言葉。

 でも前世では、言っても変わらなかった。
 上が聞かないから。都合が悪いから。責任を取りたくないから。

 今世は違う。
 私には家名がある。資産がある。
 そして何より、未来を知っている。

 インクが乾く前に、私は署名欄の位置を決めた。
 王家の署名。ヴァルツブルク家の署名。証人の署名。
 証人――ここがポイントだ。証人がいれば、口約束の逃げ道が減る。

 カイが覗き込む。

「……監査権限まで入れますか」

「入れる」

「反発が強いかと」

「だから必要」

 私は即答した。
 反発が強いなら、それは効くということ。
 効かないものに反発は起きない。

 カイは小さく息を吐いた。

「お嬢様は……本当に」

「なに」

「……いえ」

 言いかけて飲み込む。
 その飲み込み方が、苦い。彼は何かを心配している。たぶん、私の身の安全。
 王家に刃を向ける者は、いつの時代も目立つ。

 扉が再び開き、ミレーネが銀のトレイを持って戻ってきた。
 湯気の立つ紅茶。深い色。香りが強い。
 彼女は私の横にそっと置き、目を伏せる。

「……濃いものをお持ちしました」

「ありがとう」

 私は一口飲む。
 熱い。苦い。
 苦さが喉を通って胸に落ちると、身体の芯が目を覚ます。
 冷めたコンビニコーヒーとは違う。これは、意識を引き締める苦さ。

 私はカップを置き、羊皮紙を見下ろす。

 新契約案は、形になり始めていた。
 文字の列が、細い鎖みたいに並ぶ。
 鎖は、誰かを縛るためのもの。
 でも縛ることで守れるものもある。崖から落ちないように繋ぐロープだって、鎖だ。

 ヘルミーネが小さく言う。

「……皆が噂します。アーデルハイト様が、王家に牙を剥いた、と」

 噂。
 来た。早い。さすが市場。
 ここは書庫なのに、情報は壁を抜ける。

 私は顔を上げる。

「噂させて」

 ミレーネが震えた声で言う。

「でも……悪く言われます……」

「悪く言われても死なない」

 言い切った瞬間、ミレーネが泣きそうな顔になった。
 私は少しだけ言い方を柔らかくした。

「死ぬのは、国が壊れた時よ。噂よりそっちの方が怖い」

 ミレーネの瞳が揺れる。理解できない、でも感じ取っている。
 ヘルミーネは黙っている。彼女は理解している。だからこそ、怖いのだ。

 カイが、静かに言った。

「お嬢様。最後に確認を。……この契約は、王家にとって屈辱となる可能性があります」

「そうね」

「それでも」

「それでも必要」

 私はペンを持ったまま答えた。
 迷いはない。迷っている時間がない。

 契約書の最後に、私は一文を書き足した。
 その一文は、刃の背に刻む紋章みたいに静かに重い。

 “本契約は、王国の信用と安寧を維持することを目的とし——”

 信用。安寧。
 それは建前にもなるし、本音にもなる。
 私は本音として書いた。建前としても機能するように。

 ペンを置く。
 指先にインクが少し付いて、黒い点になる。
 その黒点を見て、私はふっと思う。

 前世の私は、インクの点で怒鳴られたことがある。
 資料が汚れた、と。
 でも今世のインクは、私の武器の証だ。汚れじゃない。

 カイが、出来上がった契約案をそっと持ち上げた。
 羊皮紙が鳴る。
 その音が、刃が鞘から半分抜ける音に聞こえた。

「これを……王家に提示されるおつもりですか」

「もちろん」

 私は椅子から立ち上がる。
 書庫の空気が、少しだけ軽くなる。
 でもそれは気のせいだ。重さは紙の上に移っただけ。

 ミレーネが恐る恐る言う。

「アーデルハイト様……あの……本当に、怖くないのですか」

 怖いに決まってる。
 でも怖いと言えば、足が止まる。足が止まれば、未来がそのまま来る。
 断罪が来る。国の崩壊が来る。何も変わらない。

 私はミレーネの目を見た。
 碧い目と、彼女の茶色い目がぶつかる。

「怖いよ」

 ミレーネが息を呑む。

「でもね、怖いまま動ける人の方が、強いの」

 言った瞬間、胸の奥で小さな痛みが走った。
 強い、という言葉は、前世でずっと欲しかった言葉だ。
 でも強いって、結局、孤独とセットなのかもしれない。

 ヘルミーネが、静かに頭を下げた。
 その動作に、ほんのわずかな敬意が混じった気がした。
 それでも彼女は、まだ私を完全には信じていない。信じなくていい。結果で黙らせる。

 カイが契約案を抱え、私に向かって言う。

「準備を整えます。ですが――」

「なに」

「この刃は、抜いたら戻りません」

 戻らない。
 それがいい。戻れると思うと、人は甘える。
 戻れないから、前へ進むしかない。

 私は静かに頷く。

「だから抜くの」

 書庫の扉が開き、外の空気が少しだけ入ってきた。
 廊下の光が眩しい。
 書庫の暗さに慣れた目が、痛い。

 でもこの痛みは、覚醒の痛みだ。
 私はその光へ足を踏み出す。

 笑顔の契約書は、もう書いた。
 次は、羊皮紙の契約書だ。

 期限という刃を、世界の中心へ。
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