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第3話:王太子レオポルト、理想の剣
しおりを挟む王城の夜は、香りから始まった。
馬車の扉が開いた瞬間、冷えた外気の向こうに、あたたかい甘さが流れ込んでくる。ワインの発酵した匂い、蝋燭の蜜の匂い、磨かれた床のワックス、そして人の体温が混ざった空気。
その匂いは、あまりに“生きている”から、逆に怖かった。人が集まる場所には必ず、噂と欲と敵意が一緒に発酵する。
大理石の階段を上るたび、靴音が高く澄んで響く。
その音が、自分の心拍とぶつかって、胸の中でガラスが鳴るみたいだった。
ドレスの裾が、足首に触れる。柔らかい布が擦れる音。
この布は飾りじゃない。私をここへ縛りつける縄で、同時に盾でもある。
私は首を伸ばし、背筋を細くまっすぐにした。視線は前へ。呼吸は浅く、しかし一定に。
扉が開き、舞踏会の光が溢れ出す。
シャンデリアが、天井から星をこぼしているみたいに輝いていた。
光の粒が、髪の毛の一本一本に絡みついて、金も銀も宝石も、すべてが“誰かに見せるため”に存在していると告げてくる。
音楽が流れる。弦の震えが、空気を薄く揺らす。
それに合わせて、笑い声が泡みたいに弾け、グラスが触れ合い、ワインが注がれる。
私はその中心に足を踏み入れた瞬間、背中に無数の視線が刺さったのを感じた。
――来た。
ここは“招待”の形をした、観察会だ。
「アーデルハイト様」
ミレーネが小声で呼びかける。彼女は私の半歩後ろ、影のように付いてくる。
その声が震えている。
「大丈夫。笑って」
「え……わ、私は……」
「あなたが怯えると、私が怯えてるって伝わる」
ミレーネの喉がごくりと動く。彼女は必死に頷き、口角を上げた。
かわいそうなくらい硬い笑顔。でも今はそれでいい。硬さは“緊張しているだけ”という言い訳になる。
ホールの中央へ向かう。
挨拶。礼。笑顔。
言葉は飾り。視線が本体。
伯爵令嬢たちが集まる輪の中に入ると、すぐに声が飛ぶ。
「まぁ、ヴァルツブルク公爵令嬢! ご体調はもう?」
「お顔色が良くなっていらして、安心しましたわ」
「……三日も眠られるなんて、よほどお疲れだったのね」
優しい言葉の形をした、確認。
壊れていないか。弱っていないか。噂の材料にならないか。
私は笑顔を崩さず、淡く頷いた。
「ご心配をおかけしました。今はもう、すっかり」
「まぁ。よかった」
“よかった”の響きが、やけに軽い。
その軽さに、人の命の値段が透ける。
輪の外側で、扇子の影に隠れた囁きが漏れる。
「最近変わったって……本当かしら」
「だって、以前のアーデルハイト様なら、もっと……」
もっと、なんだ。
傲慢? 意地悪? きつい?
どれでもいい。言葉が完成する前に、噂は私の形を作っていく。
私は一歩引いて、ホール全体を見渡した。
貴族たちの集まり方は、派閥の地図だ。
輪が重なる部分にいる人間が、情報の交差点。
輪の中心にいる人間が、資金の中心。
そして――誰の輪にも属さず、しかし誰より注目される一点がある。
玉座に近い場所。
黄金の柱と、白い花の装飾の前。
そこに立っていた。
金色の髪が、シャンデリアの光を受けて燃えるように揺れている。
背は高く、姿勢はまっすぐ。白い軍礼服の胸元には、きらりと徽章。
笑みは柔らかいのに、目は澄んで鋭い。
美しい。
そして、その美しさが“正しさ”をまとっている。
王太子レオポルト・アルヴィン・ルーデンベルク。
胸の奥が、ひゅっと冷えた。
断罪の中心。
私の未来で、罪状を読み上げる声。
――けれど今は、まだ。
今はまだ、彼は笑っている。私に手を差し出す側だ。
音楽が一段落し、人の流れが波打つ。
その波が押し寄せるようにして、レオポルトがこちらへ近づいてきた。
周囲の空気が変わる。
視線が一斉に集まる。
彼が歩くだけで、ここが“国の中心”だと分かる。
「アーデルハイト」
彼は、名前を呼んだ。
呼び捨て。
親しさの証。王太子がそれを許すのは、限られた相手だけだ。
私は膝を折り、深く礼をする。
髪がさらりと落ち、視界が少し暗くなる。
この暗さが、逆に落ち着く。蛍光灯の白とは違う。自分で作る影。
「レオポルト殿下。今宵の舞踏会、まことに素晴らしく」
「硬いな」
くすり、と小さく笑う。
その笑いは、嘲りではなく、ほんの少しの寂しさを含んでいるように聞こえた。
「最近、変わったと聞く」
穏やかな声。
でもその言葉は、刃の鞘を指でなぞるみたいに静かに怖い。
私は顔を上げ、微笑んだ。
「人は、倒れるといろいろ考えますから」
「そうか。……君が倒れたと聞いた時は、心配した」
心配。
その響きが本物かどうかを測ろうとして、私は自分を止めた。測っても意味がない。
ここで大事なのは、彼の感情より、彼の立場。
彼の立場が動けば、国が動く。
レオポルトは私に手を差し出した。
「踊ろう。……今宵、君と踊らないと、周囲がうるさい」
周囲、という言葉に、私は少しだけ肩の奥が冷えた。
周囲は噂で、噂は裁判官だ。
私は手袋越しに彼の手を取った。
指先から、彼の体温が伝わる。温かい。生きている。若い。
この温かさが、私を断罪する未来に繋がっていると思うと、喉がきゅっと締まった。
音楽が再び流れ、私たちは輪の中心へ。
床は磨かれ、足元の光を跳ね返す。
ドレスの裾が、波のように広がる。
人々の視線は熱を持って、私たちの背中を焦がす。
「君は……以前より静かになった」
レオポルトが、私の顔を覗き込むように言う。
「静かに見えますか」
「君はいつも、何かを言いたそうだった。怒っているようで、悲しいようで……それが今日は、違う」
言葉が丁寧すぎて、胸がざわつく。
彼は、人を見ている。ちゃんと。
でもその“見る”が、理想に偏っている。
私は呼吸を整えながら、軽く探りを入れる。
「殿下は……最近お忙しいでしょう? 王城も、いろいろ動いていると聞きます」
「動いているな。改革もあるし、民の暮らしも見なければならない」
改革、という単語は綺麗だ。
綺麗すぎる単語は、具体がないことが多い。
「改革、ですか」
「うん。正義を形にするのは簡単ではない」
彼の目はまっすぐだった。
まっすぐすぎて、眩しい。蛍光灯じゃないのに、まぶたの裏が痛くなる。
私は笑顔を保ったまま、もう一段踏み込む。
「正義を形にするには、資金も必要ですね。……最近、支出が増えていると耳にしました」
言葉を柔らかく包む。
“責めてないですよ”という顔。
でも中身は、数字の話。
レオポルトは瞬きし、少しだけ眉を寄せた。
「支出……?」
「舞踏会も続いておりますし。軍の装備も新しくなったとか」
彼は一瞬、言葉を探すように口を閉じた。
その沈黙が、私の中で鈍く光った。
――知らない。
この人、財務を知らない。
知らないのに、決める立場にいる。
前世の上司と同じだ。感覚で決めて、現場が泣く。
違うのは、泣くのが国だということ。
「装備の更新は必要だ。国を守るためにはね」
ようやく出た答えは、正論の形だった。
正論は、いつも便利だ。誰も反論しづらい。
でも正論は、財布の底を見ない。
「もちろん必要でしょう。ですが……そのための財源は」
「財源は、民が働いて生む」
言い切った。
まるで、それで十分だと言うように。
私は喉の奥が冷たくなるのを感じた。
民が働いて生む。それはそう。
でも民は無限じゃない。労働時間は無限じゃない。胃の容量も心の耐久も無限じゃない。
前世で、私はその限界の現場だった。
「民に負担をかけすぎれば、民は倒れます」
私は、つい本音に近い言葉を落としてしまった。
レオポルトの目が、わずかに揺れた。
「倒れないようにするのが政治だ。だから、正義が必要なんだ」
彼の声は強くなる。
強い声は、いつも自信の裏返しだ。揺らぎを押し込めるための声。
「国は正義で動く」
レオポルトは、誓うように言った。
その瞬間、私の中で何かが決まった。
決まったのは敵意じゃない。
諦めでもない。
痛みを伴う理解。
この人は、本気でそう信じている。
だからこそ、危うい。
正義は剣になれる。
でも剣は、握り方を間違えれば自分の手を切る。
剣だけでは、腹は満たせない。
私は声を柔らかく戻す。
「殿下の正義を、私は尊いと思います」
「……なら」
「ですが、正義が形になるには、必ず“支え”が要ります。支えが折れたら、正義は落ちます」
レオポルトの目が少し細くなる。
拒絶ではない。考えている目だ。
それでも、彼は簡単に認めない。
「支えは、民の信頼だ」
信頼。
その言葉が、冷たい汗を背中に作った。
信頼は、数字より脆い。噂ひとつで崩れる。恐怖ひとつで割れる。
そして信頼が崩れた時、人は正義ではなく、自分の生存を選ぶ。
私は、彼の手の中で軽く息を吸う。
音楽に合わせて回る。世界がぐるりと回り、シャンデリアが流星のように視界を横切る。
「殿下。信頼は、守るのが難しいですね」
「だから守る」
即答。
迷いがない。
この迷いのなさが、時に残酷だと、彼はまだ知らない。
踊りの終盤、私はわずかに距離を取り、微笑んだ。
「殿下は、優しいですね」
「そうかな」
「民を信じている。……私には、簡単にできないことです」
レオポルトは一瞬、言葉を失った。
そして小さく笑う。優雅な笑み。人を安心させる笑み。
「君は、いつも自分に厳しい」
違う。
私は世界に厳しいんじゃない。世界が私に厳しかった。
その反射で、私は厳しくなるしかなかった。
曲が終わる。
拍手が起き、周囲の視線がより熱を帯びる。
私たちは礼をし、輪の外へ出た。
「今夜は、君の言葉が刺さった」
レオポルトが、低い声で言う。
耳元に近い距離。香水の匂いが混ざる。彼の匂いは清潔で、少しだけ石鹸の匂いがした。
王太子は、石鹸の匂いがする。妙に現実味がある。
「刺さってよかったです」
「君は以前、そんな言い方をしなかった」
彼は私を見つめる。
その瞳は、疑いと興味と、ほんの少しの期待を含んでいる。
「変わったと、言いましたよね」
「……そうだな」
レオポルトは一瞬だけ沈黙し、そして言った。
「アーデルハイト。君が何を考えているのか、知りたい」
その言葉が、甘く聞こえなかった。
むしろ、檻の鍵が鳴る音に聞こえた。
王太子に“考えを知られる”ことは、保護でもあるし、監視でもある。
私は微笑みだけを返す。
「今は……ただ、国が落ちないように、と思っているだけです」
レオポルトの目が少し柔らかくなる。
「なら、同じだ。僕もそう思っている」
同じじゃない。
落ち方が違う。
彼は“正義が落ちる”と思っている。
私は“信用が落ちる”と思っている。
信用が落ちるとき、音はしない。
けれど翌朝、パンが消える。
翌週、給金が減る。
翌月、暴動が起きる。
そして人は、正義の言葉では止まらない。
私は胸の奥で、静かに決意を固めた。
理想主義者は、理想で動く。
だからこそ、現実を見せなければならない。
痛みのない現実では意味がない。
数字で殴るしかない。
「殿下」
私は、最後に一言だけ落とす。
「もし、国が揺れたら。……私は揺れを止めます」
レオポルトが眉を上げる。
「止める?」
「はい。支えが折れる前に」
彼は一瞬、言葉を探すように口を開いた。
でも答えが出ない。
出ないのは、彼が悪いからじゃない。まだ“折れる支え”を見たことがないから。
「……頼もしいな」
彼は結局、そう言って笑った。
その笑みは、信じている人の笑みだった。
信じるというのは、時に相手に重さを押しつける。
私は礼をして、その場を下がる。
背中に視線が刺さる。
令嬢たちの囁きが、泡のように立ち上がる。
「殿下と踊ったわ」
「やっぱり……婚約者にする気なのかしら」
「でも、あのアーデルハイト様……何か、怖くない?」
怖い。
その言葉は、私の喉を少し楽にした。
なぜなら怖いと言われるのは、弱いと決めつけられるよりずっといい。
ホールの端でミレーネが駆け寄る。
「アーデルハイト様……! 大丈夫でしたか?」
「大丈夫」
「殿下は、何か……」
「理想の人だった」
ミレーネが目を丸くする。
「え……理想、ですか?」
「うん。理想で剣を振るう人」
私は息を吐いた。
ワインと蝋燭の匂いが肺に残る。甘いのに、胸が重い。
理想は美しい。
でも美しいものは、割れた時に鋭い。
私は自分の指先を見下ろした。
手袋越しでも、まだレオポルトの体温が残っている気がした。
その温度を、私は嫌いになれなかった。
だからこそ、余計に決まる。
――現実を突きつける。
断罪より先に、信用が崩れる前に。
この世界の床は、磨かれすぎて滑る。
滑るなら、滑らない靴を用意するしかない。
私は顔を上げ、シャンデリアの光を正面から受けた。
目が痛い。
でも逸らさない。
理想の剣に、折れない鞘を。
そうしなければ、国も、人も、自分も――切れる。
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