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第2話:お茶会は会議室、笑顔は契約書
しおりを挟む馬車の揺れは、眠気を誘う種類のそれじゃなかった。
絨毯の上を滑るように進むのに、胸の奥だけが小刻みに跳ねる。鼓動が足元の振動とズレて、身体が二つに割れているみたいに落ち着かない。
窓の外を流れる街並みは、綺麗に整いすぎていて逆に怖かった。
石畳の継ぎ目さえ丁寧に揃っていて、店先の花はどれも瑞々しい。人々の表情には、飢えよりも「見られている」緊張が漂う。ここは、誰かに見られることで成り立つ世界だ。
膝の上で手袋越しに指を組む。
手袋は薄いのに、指先が守られている感覚がある。守られているってことは、攻撃もされるってことだ。守りは前提。つまり戦場。
向かうのは、初めての社交界――お茶会。
お茶会、と聞くと、甘くてふわふわして、クッキーが並んで、うふふと笑うだけの場に見える。
でも私はもう知っている。
笑い声は飾り。砂糖の香りは煙幕。
ここは、会議室だ。
そして会議より怖いのは、議事録が残らないこと。
「アーデルハイト様、緊張されておりますか」
対面に座る侍女――私に駆け寄ってきた、あの子。名前はミレーネ。栗色の髪をきっちりまとめ、今日も不安を隠しきれない目をしている。
「緊張はしてない。……警戒してるだけ」
声は穏やかに。
でも言葉は嘘じゃない。
緊張と警戒は似ているけど、全然違う。緊張は自分の問題。警戒は相手の問題。
ミレーネは息を呑み、姿勢を正す。
「本日は、シュトラール伯爵夫人のお茶会でございます。参加されるのは主に……王都のご令嬢方です」
「つまり、王太子の周辺が多い」
ミレーネが小さく頷く。
その頷きが、私の背筋を冷やした。王太子周辺。そこは、未来で私を断罪する空気が最初に発生する場所だ。
馬車が止まる。
扉が開き、外気が流れ込む。花の香りが濃い。庭園の匂い。手入れされた植物の匂いは、生き物というより、管理の匂いだ。
私はドレスの裾を整え、地面に降りる。
靴底が石に触れた瞬間、音が小さく響いた。自分がこの世界に確かに存在してしまった、という音。
シュトラール伯爵邸は、笑えるくらい完璧だった。
門から玄関までの道は曲線で、視線を逸らすたびに花が咲いている。噴水の水音は大きすぎず、小さすぎず、会話の邪魔をしない程度に計算されている。
完璧は、人の意図でできている。意図がある場所は危ない。
迎えの侍従に案内され、サロンへ。
扉が開いた瞬間、空気が変わる。
甘さが増す。香水と花と焼き菓子の匂いが、ひとつの膜になって肌を撫でた。
そして、その膜の下に鋭い針が隠れているのも分かる。
「まぁ、ヴァルツブルク公爵家のアーデルハイト様……!」
声が飛ぶ。
同時に視線が刺さる。
視線の本数は、歓迎の量じゃない。値踏みの量だ。
私は微笑む。
口角を上げる角度、目元の柔らかさ、顎の引き具合。前世で身につけた「感じのいい人」の仮面を、ここではもっと上質に磨いて使う。
「お招きいただき、光栄です。シュトラール伯爵夫人」
伯爵夫人は、絹のような笑みを浮かべる女性だった。年齢は三十代後半くらい。目尻の小さな皺が、経験を語っている。でもその皺は“苦労”じゃなく“勝ち続けた人”の皺だ。
「ご体調はもう大丈夫? 三日もお眠りになったと聞いて心配しておりましたの」
心配。
この言葉ほど、簡単に刃になるものはない。
「ご心配をおかけしました。もう問題ありません」
伯爵夫人の笑みが、ほんのわずかに深くなる。
問題ありません、の言い方で、私が“元のアーデルハイト”ではないと気づかれた気がした。いや、違う。気づいたというより、“確かめようとしている”。
サロンの中央に、丸いテーブル。
銀のティーポットが湯気を上げ、カップの縁には金が走っている。焼き菓子は宝石みたいに整列していた。
ここは舞台。私たちは俳優。台本はない。けど役割は決まっている。
席につくと、左右に令嬢たちが並ぶ。
ふわりと揺れるドレス、扇子の開閉、控えめな笑い声。
そして、刺さるような視線。
最初に口火を切ったのは、蜂蜜みたいな声の少女だった。淡い桃色のドレス。頬が丸く、でも目は笑っていない。
「アーデルハイト様、最近お姿を見かけませんでしたけれど……お加減が悪かったのですって?」
言い方が、優しすぎる。
優しさは疑う。前世で学んだ。
「ええ。少し疲れてしまって」
「まぁ。お忙しいのかしら。ヴァルツブルク公爵家は、いろいろと……ね?」
“いろいろ”。
具体性のない言葉は、相手に想像させるためにある。
想像の中で、噂は肥大する。
私は紅茶を一口含み、舌の上で温度を確かめた。熱すぎない。これも計算。
味は濃い。渋みが先に立って、後味に花の甘さが残る。強い茶葉。会話を鈍らせないための茶。
「家のことは、家のことですわ。皆様もそれぞれご事情がおありでしょう?」
にこり。
“あなたの事情も知ってるよ”という含みを、笑顔の裏に置く。
桃色の令嬢の頬が一瞬だけ引きつった。
効いた。
でも、これで終わりじゃない。こういう子は、必ず次の矢を放つ。
「まぁ、そうですわね。例えば……最近、伯爵家の方々が少しお困りだとか?」
今度は別の令嬢。緑のドレス。指先が細く、カップを持つ手がやけに上品。
“困る”という言葉は、資金繰りの匂いを運ぶ。
私は耳を澄ませた。
前世の会議で、誰が本音を漏らすか、誰が弱みを隠すかを聞き分けた癖が、ここで役に立つ。
緑の令嬢は困っている家の名前を出さない。
つまり、出せない。
出した瞬間、その家が終わるから。
でも匂わせることで、市場を揺らす。値段が下がる。信用が落ちる。誰かが安く買う。
私は微笑んだまま返す。
「お困り、って便利な言葉ですわね。困っているかどうかは、外からは分かりませんもの」
「そうかしら。私、すぐ分かってしまうの。表情とか、ドレスの仕立てとか……」
令嬢たちの笑い声が小さく起きる。
笑いは同意。ここで孤立させようとしている。
私は笑いに混ざらない。
代わりに紅茶を置き、軽く首を傾げた。
「ドレスの仕立てで分かるのなら、すごい観察眼ですね。……でも、もし本当に困っている方がいるなら、噂にするより支える方が品がいいと思います」
サロンの空気が、ぴたりと止まった。
“品”を持ち出すと、貴族は弱い。
なぜなら彼女たちは品で生きているから。
伯爵夫人が、ふっと笑った。
「まぁまぁ。アーデルハイト様、今日は強いのね」
強い。
それは褒め言葉に聞こえるけど、ここでは警告だ。
目立つな、と。
「少し目が覚めただけです」
私は柔らかく返しながら、内側ではカレンダーをめくっていた。
断罪まで、どれくらい。
火種はどこ。
誰が火をつける。
会話が一巡し、話題は自然に王宮へ流れた。
この流れは、誰かが意図的に作る。王宮の噂は最も強い通貨だから。
伯爵夫人が扇子を少し開き、さらりと言う。
「最近、王城の支出が増えていると聞きましたの。舞踏会が多いのかしら?」
誰かがくすりと笑う。
支出増=贅沢、という短絡。
でも私は耳の奥で、別の音を聞いた。
前世の私は、予算の増減で組織の病気を嗅ぎ分けてきた。
支出が増えるのは、贅沢だけじゃない。
穴埋め。利払い。軍備。
つまり、危機。
桃色の令嬢が、何でもないふうに言った。
「舞踏会もそうでしょうけれど……軍の方が忙しいみたいですわ。最近、騎士団の装備が新しくなったとか」
軍需。
その単語が、テーブルの下で冷たい手に触れたみたいに私の背筋を撫でた。
緑の令嬢も頷く。
「聞きました。鉄の値が上がっているって。侯爵家がご機嫌だとか……」
鉄鋼。
誰のことか、名前を出さなくても分かる。アイゼンシュタイン。
市場が動く。利権が踊る。
そして王家は、金を出す。
私は笑顔を崩さず、心の中で数字を並べる。
支出増。軍需。鉄の値上がり。
これは“イベント”じゃない。兆候だ。
伯爵夫人が私を見る。
「ヴァルツブルク家は、王家とお近しいものね。アーデルハイト様は何かご存知?」
来た。
ここが会議でいうところの「担当者、説明して」です。
私は、答えを選んだ。
情報を出しすぎれば利用される。出さなければ“隠してる”と言われる。
ちょうどいい温度で、熱も冷たさも見せない。
「私も詳しくは。ですが……国が動いているのは感じます」
「まぁ。国が動く、ですって」
令嬢たちの目が光る。
面白い話をくれ、と言っている。餌をくれ、と。
私は軽く笑い、カップを持ち上げる。
「国が動く時は、いつも誰かが忙しいものですわ。……皆様も、最近はお忙しいでしょう?」
矢を返す。
忙しい=何かに関わっている。
誰が関わっているかを炙り出す。
桃色の令嬢が、一瞬だけ目を逸らした。
緑の令嬢は笑うが、笑いが硬い。
伯爵夫人だけが、静かに紅茶を飲んだ。
この人は手綱を握っている側だ。
お茶会は、表面上は穏やかに進んだ。
笑い、褒め言葉、ドレスの話、庭園の花。
けれどその全部の下で、私は針を数え続けた。
誰が誰に近い。
誰が噂を流す。
誰が金の匂いを隠せない。
そして、誰が私を“悪役令嬢”として確定させたがっている。
終盤、伯爵夫人がふいに言った。
「アーデルハイト様。次の舞踏会、ぜひいらして。王太子殿下もお顔を出されるそうよ」
周囲が一瞬静かになる。
全員が私の反応を待っている。
王太子――それは私の未来の断罪者。
私は、笑った。
この世界の笑顔は契約書だ。
ここで拒否すれば、拒否という条項が書き込まれる。
受ければ、受けたという条項が書き込まれる。
そして今、私に必要なのは――社交界からの排除ではない。情報だ。
「ええ、ぜひ。ご招待、嬉しいですわ」
桃色の令嬢が微笑む。
その微笑みが、妙に勝ち誇っていた。
“来い”というのは、歓迎じゃない。見せしめの舞台に呼ぶときの言葉だ。
私は気づかないふりをした。
契約書にサインするみたいに、穏やかに頷いた。
お茶会が終わり、馬車に戻る。
扉が閉まった瞬間、私は息を吐いた。肺の奥まで、ようやく空気が入る。
ミレーネが小声で言う。
「……皆様、優しそうでよかったですね」
「そう見えた?」
「え……?」
私は窓の外を見たまま答える。
「優しさって、刃物より切れる時があるの」
ミレーネは言葉を失った。
彼女はまだこの世界の痛みに慣れていない。私も慣れたくない。けれど、生きるなら慣れるしかない。
屋敷に戻ると、すぐにカイを呼んだ。
書斎は静かで、紙の匂いがした。
インクと革表紙と、少しだけ古い埃。前世のオフィスの紙とは違う。こっちは歴史の重さがある。
カイは一礼し、私の前に立つ。
「お茶会はいかがでしたか」
「会議だった」
即答すると、カイの口元がほんの少しだけ動いた。笑いかけたのかもしれないし、驚いたのかもしれない。どちらにせよ、感情は表に出ない。
「……ご無事で何よりです」
私は机に指を置き、言葉を切る。
「財務諸表を出して。ヴァルツブルク家の。あと、王家向け融資の契約書一式」
カイの銀の目が、すっと細くなる。
「承知しました。ですが……なぜ、今それを?」
私は椅子にもたれ、息を整えた。
今日拾った断片が、頭の中で繋がっていく。
支出増。軍需。鉄。侯爵。
そして――この社交界の視線。私を舞台に上げようとする視線。
「王家が金を使ってる。しかも軍に」
「……」
「それが本当に必要な支出ならいい。でも、必要じゃない支出なら、国は割れる。信用が先に死ぬ」
カイが黙って聞いている。
私は続けた。
「それに、社交界はもう動いてる。噂が先に走ってる。噂は金より速い。速いものが市場を壊す」
カイは一拍置き、低く言う。
「……お嬢様は、王家の財政を憂いておられるのですか」
私は首を横に振った。
「憂いてない。計算してるだけ」
口にした瞬間、胸の奥が少し痛んだ。
計算。合理。
前世で自分を守るために選んだ言葉。
でも今は、その言葉で国を動かせる。
カイは静かに頭を下げた。
「すぐにお持ちいたします」
彼が扉へ向かおうとしたとき、私は呼び止めた。
「カイ」
「はい」
「契約書、返済期限が曖昧だったら……どうなる?」
カイの眉がほんのわずかに上がる。
それは驚きの証拠。たぶん、今までのアーデルハイトはそんなところに興味を示さなかった。
「曖昧であれば、返済は先延ばしになりやすく……貸し手が強く出られない場合、事実上の“無期限”になります」
私は頷いた。
無期限。
それは、締切がないということ。
締切がない仕事は、永遠に終わらない。前世で嫌というほど味わった。
「じゃあ、締切を作る」
言葉が、氷みたいに落ちた。
カイが息を止めたのが分かった。
銀の目が、じっと私を見つめる。そこに初めて、わずかな熱が宿った。危惧か、尊敬か、恐れか。
「……お嬢様」
「なに」
「怖いほど合理的です」
その言葉は、褒め言葉の形をしていた。
でも本当は、警告でもある。
合理は人を救う。合理は人を殺す。
その両方を、彼は知っている目だった。
私は微笑んだ。
笑顔は契約書。
そして今、私は自分の未来と契約を結ぶ。
「怖くていい。生き残るためだから」
カイが深く頭を下げ、部屋を出ていく。
扉が閉まると、書斎に静寂が戻った。
私は机の上の紙に手を置く。
紙は冷たい。けれど、冷たいものは形になる。
形になったものは、武器になる。
お茶会で浴びた視線が、まだ肌に残っている。
甘い言葉の針が、まだ刺さっている気がする。
でも刺さった針は、どこから刺さったかが分かれば抜ける。
抜けないのは、締切のない地獄だけ。
私は窓の外を見た。
王都の空は青く、雲がゆっくり流れている。
あまりにも平和で、逆に嘘みたいだった。
平和は、数字の上に立っている。
数字が崩れたら、平和は音もなく落ちる。
私は指先に力を込めた。
まずは、契約書だ。
笑顔じゃない。
本物の契約書で、この世界を縛る。
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