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第15話:聖女の微笑――市場のもう一つの刃
しおりを挟む朝の街は、焼きたてのパンより先に“言葉”が漂っていた。
噂は音じゃない。匂いだ。
近づく前から分かる。空気が少しだけ甘くなって、少しだけ苦くなる。
その匂いが王都の路地に染み込み、窓辺に引っかかり、洗濯物の端にまでまとわりついていた。
「公爵令嬢は金で国を縛るんだって」
市場の魚屋の少年が言う。
少年の声はまだ高い。無邪気に聞こえる。
だからこそ怖い。無邪気な言葉は、正義の仮面を被って人を切る。
「縛るって、どういうこと?」
隣の女が聞く。
魚の血の匂い。濡れた木の匂い。
生活の匂いの上に、噂が乗る。
「侯爵を潰したのも、公爵家が借金を全部買ったからだって。怖いよな。金があれば何でもできるってことじゃん」
女は顔をしかめ、腕を抱いた。
その仕草は寒さではなく、不安を抱く仕草。
「でもパンは戻ったじゃない」
「戻ったけどさ……それも公爵令嬢が“売って”くれたんだろ? 無料じゃなかった」
「聖女様は無料で配ってるのにねぇ」
“聖女様”。
その言葉が出るたび、空気が少しだけ柔らかくなる。
柔らかさは安心に似ていて、安心は依存に繋がる。
私は馬車の中で、その会話を聞いた。
聞こうとして聞いたわけじゃない。
馬車の窓の隙間から、言葉が入り込んでくる。
言葉は、鍵のない家に入ってくる盗人だ。
ミレーネが不安げに私を見た。
「お嬢様……ひどいことを言いますね」
「ひどくはないわ」
私は淡々と答えた。
淡々と答えたのに、胸の奥が痛い。
痛いのは、刺されたからではない。
理解できてしまうからだ。
「怖いんだよ。金は見えないから」
ミレーネの唇が震える。
「でも、お嬢様は民を助けて……」
「助けたから怖い。助けた手で縛れるって、皆が気づいた」
優しさで縛れる。
救いで支配できる。
その構造を、民は本能で嗅ぐ。
そして嗅いだ瞬間、感謝は恐怖に変わる。
屋敷に戻ると、カイがすでに待っていた。
いつも通りの無駄のない姿勢。
だが報告紙を持つ指先が、いつもより速い。
「お嬢様。世論が動いています」
「リリアーナ?」
名前を出すと、カイは頷いた。
「エヴァレット商会のネットワークが、街に“話”を流しています。露骨ではありません。善意の形をした警告です」
善意の形をした警告。
その言い方が、喉に引っかかった。
一番厄介なタイプだ。
「具体的には」
カイが紙をめくる。
「『ヴァルツブルクが予算を握れば、民は値段を決められる』
『一部の商会だけが儲ける』
『侯爵を潰したように、逆らう者は潰される』
……そういった文言が、施しの場や診療所の待合で自然に語られています」
私は息を吐いた。
やり方がうまい。
押しつけではなく、“心配してあげる”形で広がる。
心配は正義の顔をしている。だから強い。
その日の夕方、私は確かめに行った。
リリアーナの炊き出しの場へ。
護衛は距離を保たせた。
私は外套を深く被り、人混みの端から見る。
鍋の湯気が揺れる。
スープの匂い。
子どもの笑い。
疲れた大人のため息。
そして、中心にいる少女。
リリアーナ・エヴァレットは、今日も笑っていた。
笑っているのに、どこか目の奥が疲れている。
髪の結び目が少し崩れ、指先には小さな火傷の跡。
無償の慈善は、体力を削る。
それでも彼女はやめない。
やめられないのかもしれない。
自分を“聖女”として見てくる目が、彼女の肩に乗っているから。
「リリアーナ様、ありがとう」
「聖女様、助かったよ」
声が飛び、彼女は小さく頷く。
「いいえ。私がしたいからしてるだけです」
その言葉に嘘はない。
嘘はないから、響く。
響くから、刃になる。
列の後方で、女たちが小声で話す。
「でもさ……公爵令嬢って怖いよね」
「うん。金で縛るって感じ」
「聖女様がいてくれてよかった」
リリアーナの手が、一瞬止まった。
止まったのは偶然じゃない。
彼女は聞こえたのだ。
聞こえた瞬間、彼女の表情がほんの少しだけ揺れた。
揺れは、喜びではない。
責任の重さに似た揺れ。
“自分が盾になってしまっている”ことへの恐れ。
でもその恐れの上に、決意が乗る。
彼女は微笑みを整え、隣の子どもにスープを渡す。
そして、列の人々に向けて穏やかな声で言った。
「みんなが不安になる気持ち、分かります。お金の話って、難しくて、怖いですよね」
ざわめきが落ち着く。
彼女の声には、抱きしめる力がある。
「でも、大丈夫。私たちで、ちゃんと見ていきましょう」
“私たち”。
その言葉が、共同体の輪を作る。
輪の中心に、彼女が立つ。
誰かが言う。
「聖女様、あの公爵令嬢を止めてくれよ」
リリアーナのまつ毛が僅かに揺れた。
痛そうな揺れ。
止めてくれ、と言われるのは、刃を渡されるのと同じだ。
誰かを刺す役割を、善意の手に握らせる。
でも彼女は断らない。断れない。
断った瞬間、輪が壊れるから。
「止める、というより……守りたいんです」
リリアーナは静かに言った。
「民の暮らしも、貴族の暮らしも。誰かが怖がる仕組みじゃなくて、安心できる仕組みがいい」
その言葉は正しい。
正しいから、皆が頷く。
そして頷いた瞬間、私の首に“恐怖”の札が貼られる。
私は人混みの端で、静かに理解した。
これは株価に似ている。
数字だけで動かない。
期待と恐怖で上下する。
決算が良くても、未来が怖ければ売られる。
赤字でも、希望があれば買われる。
私は生活を守った。
でも心は、リリアーナが握っている。
心を握られた市場は、私を“危険”として値付けする。
屋敷へ戻る馬車の中で、私は窓の外の灯りを見つめた。
灯りは揺れている。
人々の心も揺れている。
揺れは、手で押さえつけても止まらない。
押さえつけたら、もっと反発する。
書斎に戻ると、私は椅子に座る前に言った。
「透明化する」
カイが一瞬だけ目を細める。
理解と、驚きが混ざった目。
「権限を手放さずに、恐れを減らす策ですね」
「そう。握ったまま、見せる」
握っているのに見せる。
矛盾に見える。
でも矛盾を解くのが、仕組みの仕事だ。
私は紙を引き寄せ、項目を並べた。
「予算配分の公開。月次。項目別。宮廷費、軍需、利払い、社会支出、備蓄」
カイが頷き、補足する。
「公開範囲は。貴族会議だけでは不十分でしょう。商会にも、一定の情報が必要です」
「商会向けの版を作る。数字は見せるけど、軍の機密は伏せる。伏せた理由も説明する」
説明。
それは面倒だ。
でも面倒をやらないと、恐怖が増える。
私は続ける。
「監査制度の導入。王家と貴族の共同監査。第三者も入れる」
「第三者とは」
「商業ギルドから一名、医療組合から一名、そして——」
私は一拍置いた。
「エヴァレット商会からも一名」
ミレーネが息を呑んだ。
彼女は扉の近くで控えていたが、思わず声が漏れた。
「えっ……リリアーナ様の……?」
私は視線だけで彼女を落ち着かせる。
「疑うなら入れない。疑われるなら入れる。中に入れたら、嘘はつけない」
カイが静かに言った。
「敵に刃を渡すことになります」
「刃じゃない。灯りよ。暗い場所に灯りを置く。灯りを置いたら、影で殴れなくなる」
影で殴る。
まさに今、私が殴られている。
善意という影で。
私はさらに書き足す。
「商会への公平な入札制度。軍需も含めて、一定条件で公開入札。談合の余地を潰す」
カイが頷く。
「旧貴族は反発します」
「反発させる。反発した瞬間、誰が甘い汁を吸っていたか見える」
ミレーネが小さく言う。
「でも……お嬢様、また嫌われます……」
嫌われる。
その言葉は、胸の奥に針を刺す。
でも私は針の痛みを、呼吸で飲み込んだ。
「嫌われてもいい」
私は繰り返した。
今日も。昨日も。明日も。
「ただ、恐れは減らす。恐れが増えると、生活が壊れるから」
カイが少しだけ声を落とした。
「お嬢様は、支配を手放すのではなく、洗練させるおつもりですね」
「うん」
支配。
その言葉は好きじゃない。
でも否定もしない。
今の私は、流れを握っている。握っている以上、支配から逃げられない。
だから、洗練する。
恐怖を燃料にして動かすやり方ではなく、理解を燃料にする。
理解は遅い。
でも遅いものほど、崩れにくい。
私はペンを置き、窓の外を見た。
王都の灯りが揺れている。
揺れの中で、リリアーナの微笑みが浮かぶ。
温かい微笑み。
市場のもう一つの刃。
刃は二本ある。
冷たい数字の刃と、温かい善意の刃。
どちらも人を切る。
どちらも人を救う。
私は冷たい刃を、見える形に磨く。
怖がられないように、光を当てる。
権力を握ったまま、恐れを減らす。
そのやり方は、支配の洗練だった。
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