前世ブラックOLの私が転生したら悪役令嬢でした

タマ マコト

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第18話:カイの過去――金が命を救った夜

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 冬の貧民街は、音が少ない。

 雪が降れば足音が吸われる。降らなくても、寒さが喉を締めて、声が出ない。
 吐く息だけが白くて、白さだけが目立つ。
 白い息はすぐ消える。まるで「お前の命も同じだ」と言われているみたいに。

 あの頃の俺の指は、いつも赤かった。
 赤くて、次に紫になって、最後は感覚がなくなる。
 感覚がなくなるのは楽だ。痛くないから。
 でも、感覚がなくなると、物が掴めなくなる。掴めなければ食えない。
 だから俺は、痛みを歓迎した。痛みはまだ生きている証拠だった。

 母はいなかった。
 父もいなかった。
 いたのは、空腹と、暴力と、湿った壁。
 人は壁に寄りかかって眠ると、起きたときに背中が冷えている。
 冷えが骨に残って、骨ごと貧しくなる。

 俺は盗みで生きようとした。

 最初は小さいものだ。
 市場の端の干し果実。
 露店の釘を抜いて落ちた銅貨。
 誰も気づかないように、手を伸ばして、息を殺す。
 息を殺すのは、怖いからじゃない。怖いと言っている暇がないからだ。

 でも、冬が深くなると、小さい盗みでは足りなくなる。
 腹は鳴る。鳴ると視線が集まる。
 視線が集まると、殴られる。
 殴られると動けなくなる。
 動けなくなると死ぬ。

 だから俺は、もっと大きいものに手を伸ばした。

 パン屋の裏口。
 焼き上げの時間。
 暖気が漏れて、匂いだけで腹が狂う。
 俺は匂いに引っ張られて、影から影へ滑るように近づいた。

 手が扉の取っ手に触れた瞬間、後ろから首を掴まれた。

「ガキ」

 声が低い。酒の匂いがする。
 俺は反射的に暴れた。
 爪を立て、肘を振り、足で蹴る。
 でも相手は大人だ。力が違う。
 俺の抵抗は、雪の上に落ちる小石みたいに軽い。

「盗みか。ここじゃ死ぬぞ」

 殴られると思った。
 殴られて、骨が折れて、凍った路地に捨てられる。
 貧民街ではそれが普通だ。普通すぎて、恐怖すら擦り切れている。

 でも殴られなかった。
 代わりに、男の手が俺の襟を掴んだまま、どこかへ引きずっていった。

 灯りのある場所。
 火の匂い。
 鍋の匂い。
 湯気が立っている。

 そこには列があった。

 俺は最初、理解できなかった。
 貧民街で列ができるのは、殴り合いか、死体の周りか、取り付け騒ぎのときだ。
 でもこの列は違う。
 列の先にいるのは武装した兵じゃない。
 商会の印をつけた男たちと、帳面を持った女たちだ。

 そして、配られていたのは、パンと、豆の煮込みと、薪。

 「食糧配給」
 そんな言葉を、俺はその日初めて知った。

「何だよこれ……」

 俺が呟くと、俺を掴んでいた男が吐き捨てるように言った。

「ヴァルツブルクだ。公爵家が金を出した」

 金。
 公爵家。
 俺の世界と繋がらない単語が、鍋の匂いの中で一つに繋がる。

 配給所の前には、紙が貼られていた。
 字が読めない俺には、黒い模様にしか見えない。
 でも隣の女が、震える声で読んだ。

「……家族人数に応じて、週に二度。冬季限定。……供給の継続は、商会と公爵家の共同出資で保証……」

 保証。
 その言葉の意味は分からなかった。
 でも、女の顔が少しだけ緩んだのを見て分かった。
 保証は、明日も生きていいという許可だ。

 列に並ぶ人間の目が変わっていく。
 怒りが少し引く。
 疑いが少し薄れる。
 空腹が“死”から“待てる痛み”に変わる。

 俺の腹は、その場で鳴った。
 恥ずかしかった。
 でも恥ずかしさより、匂いが勝った。

「並べ」

 男が言った。

「お前もだ。ガキでも生きてりゃ口はある」

 俺は列の最後尾に押し込まれた。
 周りの大人たちが俺を見て、眉をしかめる。
 盗人の子どもは嫌われる。
 嫌われるのは当然だ。俺も自分が嫌いだった。

 順番が近づくと、帳面を持った女が俺に目を向けた。
 目が冷たい。
 冷たいのに、侮蔑がない。
 ただ、事務の目。

「家族は?」

「……いない」

「一人ね」

 女は淡々と書き込み、俺に木の札を渡した。
 札には印が焼かれている。
 ヴァルツブルク家の印だった。

「次はこの札を持ってきなさい。転売は禁止。二度目はない」

 二度目はない。
 その言葉が怖かった。
 でも同時に、二度目が“ある”という前提に救われた。
 俺に二度目が与えられる世界がある。

 鍋から、湯気の立つ椀が渡された。
 豆。塩。脂。
 舌が熱い。
 熱いのに、涙が出た。
 涙は熱さのせいじゃない。
 体の中に、久しぶりに“生きる”が入ってきたからだ。

 その夜、俺は死ななかった。

 金で救われた。

 俺はその事実を、恥だとは思わなかった。
 恥だと思う余裕がない。
 金は冷たい。
 でも冷たさがなければ、鍋は沸かない。
 薪も買えない。
 人も動かない。

 慈善の笑顔は、この街にもあった。
 たまに、優しい人間がパンをくれる。
 でもそれは一回きりだ。
 その人の財布が尽きたら終わる。
 その人が殴られたら終わる。

 けれど配給は続いた。
 続いたのは、仕組みがあったからだ。
 帳面があり、札があり、倉庫があり、金の流れがあった。
 “誰かの優しさ”じゃなく、“誰かの計算”が支えた。

 だから俺は、冷たさを信じるようになった。

 冷たさは、切り捨てるためじゃなく、切り捨てないために必要だと知った。

 それから何年も経って、俺はヴァルツブルク家の門をくぐった。
 執事見習いとして雇われた。
 理由は単純だ。字を覚え、数字を覚え、逃げるのをやめたから。
 それでも過去は消えない。
 冬の匂いは、時々胸の奥から出てくる。

 今夜も、出てきた。

 中央金庫の取り付け騒ぎの後。
 お嬢様は指先が震えていた。
 震えを隠して、声だけを整えて、指揮を続けた。
 目の下に薄い影。
 疲労の影。
 それでも目だけは折れない。

 書斎の灯りは弱い。
 蝋燭の火が揺れる。
 火の揺れは、冬の配給所の鍋の湯気に似ていた。

 お嬢様は机の上の紙を整え、ペンを置いた。
 息を吐いた瞬間、肩がほんの少しだけ落ちる。
 落ちた肩は、弱さじゃない。
 重さを背負い続けた人間の肩だ。

「……カイ」

 お嬢様が俺を呼ぶ。
 声が低い。
 疲れで掠れている。

「はい」

 俺は一歩前に出る。
 この距離は、いつもより近い。
 近いのに、触れない。
 触れたら崩れそうだからだ。

「今日の対応、間違ってないよね」

 その問いが、胸の奥に刺さった。
 お嬢様はいつも断定する。
 断定で周りを動かす。
 でも今は、確認を求めている。
 それは限界のサインだ。

「間違っていません」

 俺は即答した。
 迷いは伝染する。迷いを見せれば、また火が付く。
 でもそれだけでは足りない気がした。
 お嬢様の目が、ほんの少しだけ揺れている。
 恐ろしく見える人の目じゃない。
 ただの人の目だ。

 俺は言葉を探した。
 胸の奥の冬を掘り返す言葉。
 恥ずかしくて、でも言わなきゃいけない言葉。

「……お嬢様」

「なに」

 お嬢様は顔を上げる。
 灯りが頬に影を作り、疲労の線が見える。
 俺はその線を見て、腹の奥が熱くなった。
 怒りじゃない。
 守りたい熱だ。

「俺は、貧民街の出です」

 お嬢様の目が少しだけ大きくなる。
 驚きではなく、聞く準備の目。

「冬、凍えました。盗みで生きようとしました。……それでも死ななかったのは、ヴァルツブルクが食糧配給をしたからです」

 お嬢様の指先が止まる。
 紙の上に置かれた指が、微かに震える。

「配給……」

「金で救われました」

 俺は言い切った。
 言い切った瞬間、喉が少し痛む。
 過去を口にするのは、皮膚を剥がすみたいに痛い。

「だから俺は、お嬢様に従います。お嬢様の冷たさは、誰かを切り捨てるためじゃない」

 お嬢様の眉が僅かに寄る。
 痛みの表情。
 自分が恐れられることを知っている人の表情。

 俺は続けた。

「切り捨てないための冷たさです」

 言葉を置いた瞬間、書斎の空気が少しだけ柔らかくなった気がした。
 蝋燭の火が、揺れを小さくする。

 お嬢様は一度だけ息を吸い、喉を鳴らした。
 笑いそうになって、喉が詰まった人間の音。

「……それ、褒めてる?」

「事実です」

 俺は微かに笑った。
 笑いは小さい。
 でも嘘じゃない。

「お嬢様は悪役ではありません」

 お嬢様の目が、ほんの少しだけ潤む。
 潤むのに、涙は落ちない。
 落とす余裕がないのだろう。

 俺は最後に言った。
 俺の中で、ずっと形にならなかった言葉を。

「止血の人です」

 止血。
 血を止める人。
 死ぬ前に、流れるものを止める人。
 冬の配給所で、俺の命が止まらなかったように。

 お嬢様は笑いそうになった。
 口角が動きかけて、動かない。
 喉が詰まり、言葉が出ない。
 その沈黙が、どんな返事より重かった。

 しばらくして、お嬢様が小さく言った。

「……カイ。私、怖いって言われるの、慣れてるつもりだった」

 声が掠れている。
 掠れは、限界の匂い。

「でも、怖いって言われ続けると……たまに、自分が何をしてるのか分からなくなる」

 俺は頷いた。
 頷くしかない。
 分かるからだ。

「お嬢様。分からなくなるのは、まだ痛みがあるからです」

「痛み……」

「痛みがなくなったら、本当に怖い人になります」

 お嬢様が、息を吐いた。
 吐いた息が白く見えた気がした。
 書斎は冬じゃないのに。

「……止血、か」

 お嬢様が呟く。
 その言葉を舌で確かめるみたいに。

「血って、止めても痛いよね」

「はい」

「止める方も痛い」

「はい」

 俺は二度、同じ答えを繰り返した。
 繰り返すことで、痛みが現実になる。
 現実になれば、耐えられる。

 お嬢様は目を閉じた。
 閉じたまま、言った。

「……ありがとう。今夜だけ、少しだけ信じる」

 俺は頭を下げた。
 それは忠誠の礼ではなく、冬を越えた者同士の礼だ。

 金が命を救った夜を、俺は忘れない。
 だから今、金で命を救おうとする人の背中を支える。
 冷たい光の下で、切り捨てないために冷たくなる人を。
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