前世ブラックOLの私が転生したら悪役令嬢でした

タマ マコト

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第19話:契約――王太子との同盟

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 契約の日の空は、やけに澄んでいた。

 王城の窓から見える冬の空は薄い青で、雲が少ない。
 澄んでいるのに冷たい。
 冷たいのに、視界が遠くまで開ける。
 この国の未来も、こうならいいと思った。
 痛いほど見えて、逃げられないくらい澄んでいる未来。

 王太子私室の前に通されたとき、私はいつもより呼吸が浅かった。
 緊張ではない、と言い切れない。
 でも緊張の種類が違う。
 断罪台の前の緊張ではない。
 机の前の緊張だ。
 ペン先が震えれば、国が震える緊張。

 カイが背後で囁く。

「お嬢様、手袋は」

「今日は外す」

 私は手袋を外した指先を確かめる。
 昨日までの疲労がまだ残っている。
 指がわずかに重い。
 それでも、握れる。
 握れれば、契約できる。

 扉が開く。

 部屋は思ったより質素だった。
 豪奢な飾りは少なく、机と椅子、地図、書類棚。
 王太子の私室というより、執務室に近い。
 ワインの匂いはなく、インクと革の匂いがする。
 ここで彼は理想を語ってきたのだろう。
 そして今、理想を数字に落とそうとしている。

 レオポルトが立って待っていた。
 金髪は整えられ、制服は皺ひとつない。
 でも目の下に薄い影がある。
 徹夜した影。
 彼もまた、眠れない夜を越えてきたのだ。

「来てくれてありがとう、アーデルハイト」

 今日は呼び捨ての角が少し丸い。
 私は礼をし、椅子の前で止まった。

「殿下に呼ばれたのですから」

 レオポルトは苦く笑い、机の上の紙束を指で揃えた。
 その仕草が、妙に人間らしい。
 剣を握る指ではなく、紙を整える指。

「……決断した」

 短い言葉。
 短い言葉ほど、重い。

 私は座らずに答えた。

「聞きます」

 レオポルトは机の上の封筒を開け、正式文書を取り出した。
 王家の印章。
 赤い封蝋が光っている。
 その赤は血ではないのに、血の色に見えた。

「王家は、ヴァルツブルク家に予算の一部監修権を正式に委譲する」

 言葉が部屋に落ちる。
 落ちた瞬間、空気が硬くなる。
 王家が自分の財布の鍵を渡す。
 それがどれほど異常で、どれほど必要か。

「代わりに、政治改革を約束する」

 レオポルトの声は揺れない。
 揺れないのは、揺れている暇がないからだ。
 揺れたら崩れる。
 崩れたら、また取り付け騒ぎが起きる。
 彼もそれを知っている。

 私は机の上の文書に視線を落とした。
 条項が並ぶ。
 監修範囲。
 公開範囲。
 監査制度。
 公開入札。
 教育投資の年次目標。
 地方産業育成の基金。
 税制改革の工程表。
 “制度”が担保として組み込まれている。

 私は指先で紙の角を押さえ、めくった。
 紙が擦れる音が、やけに大きい。
 この音の先で、人が飢えるか救われるかが変わる。

「……監修権の範囲は、王家歳出の三割」

 私は確認する。

「軍需の支出は、監査のみ。機密部分は黒塗り。だが入札は公開。……いい」

 レオポルトが頷く。

「王家の体面は、これ以上守れないと分かった。守るべきは、体面ではなく信用だ」

 彼が“信用”と言ったことに、私は心の奥がわずかに動いた。
 変わった。
 理想の剣が、鞘の必要を覚えた。

「殿下は反発を受けます」

「受ける」

 即答。
 その即答に、王太子の覚悟が宿る。
 彼は甘さを捨ててきたのかもしれない。

「……アーデルハイト」

 レオポルトが、机の端から回り込み、私の前に立った。
 距離が近い。
 香水は薄い。代わりに、紙とインクの匂い。
 現実の匂い。

 彼は、ゆっくり手を差し出した。
 剣を差し出すように、ではない。
 握手を求める手。
 同盟の手。

「君に、国の半分を預けたい」

 部屋の空気が張り詰める。
 “半分”。
 それは比喩だ。
 でも比喩で済まない重さがある。
 王家の未来の半分。
 民の暮らしの半分。
 そして、彼自身の誇りの半分。

 恋じゃない。
 この瞬間の彼の目には、甘さがない。
 あるのは、相互依存の覚悟。
 同盟の目。

 私の胸が、少しだけ痛んだ。
 痛みは嬉しさではない。
 責任の痛み。
 受け取ったら、戻せない痛み。

 私はその手を見つめ、息を吸い、そして言った。

「利率は?」

 一瞬、沈黙。
 張り詰めた空気が、きゅっと引っ張られて、そしてふっとほどけた。

 レオポルトが目を見開き、次の瞬間、笑った。
 笑いは短い。
 でも本物だ。
 堪え切れないみたいに肩が揺れる。

「……君は、本当にそれを聞くのか」

「聞きます」

 私は真顔で言った。
 真顔のまま、口の端がわずかに上がりそうになるのを抑える。
 抑えきれなくて、結局、少しだけ笑ってしまった。
 笑った瞬間、喉が詰まる。
 笑うって、体力がいる。
 徹夜続きの身体には、笑いが刺さる。

 レオポルトは笑いながら、苦い目で言う。

「利率は——君に搾り取られるのかと思うと怖いな」

「搾り取りません。制度を回収します」

「……言い方が怖い」

「怖くない言い方にすると、実行されません」

 私が言うと、レオポルトはまた笑った。
 今度は少し長い笑い。
 笑いの中に、疲労と救いが混ざっている。

「分かった。利率は“信用”だ」

 彼はそう言って、真剣な目に戻った。

「王家は今、金利を払える余裕がない。だが信用を積み上げる努力は払える。君が求めるのがそれなら、俺は払う」

 “俺”。
 初めて彼が、私の前で王太子の仮面を外して言った気がした。
 その“俺”が、重い。
 個人の言葉に見えて、国家の言葉だ。

 私は頷いた。

「なら、利率は年次の公開報告。未達なら自動で監修範囲を広げる条項を入れて」

 レオポルトの笑みが引きつる。

「そこも数字なのか……」

「数字です」

「……分かった」

 彼は深く息を吐き、机に戻ってペンを取った。
 ペン先がインクを含む。
 黒が紙に落ちる。
 黒は怖い。
 でも黒がなければ、白い約束はただの夢だ。

 条項が追記され、双方の署名欄が埋まる。
 封蝋が押される。
 押された印が、赤く固まる。
 固まる音が聞こえそうなほど静かだった。

 レオポルトは再び私の前へ戻り、手を差し出した。
 今度は迷いがない。

「同盟だ」

「同盟ね」

 私はその手を握った。
 指は温かい。
 剣を握る手の温かさ。
 でも今の温かさは、斬るためじゃない。
 支えるための温かさだ。

 握った瞬間、私は妙な感覚に襲われた。
 甘さじゃない。
 胸がふわっとする感じでもない。
 代わりに、背中に一本、太い柱が立つ感じ。
 倒れにくくなる感覚。

 レオポルトも同じだったのか、彼は小さく言った。

「……怖いな」

「何が」

「君を信じるのが」

 その言葉は弱さじゃない。
 信じるという行為の怖さを知った人の言葉だ。
 信じるのは、裏切られる可能性ごと抱えることだから。

 私は目を逸らさず答えた。

「怖い方がいい。怖くない信頼は、ただの油断」

 レオポルトが頷く。

「君は、甘さをくれないな」

「甘さはリリアーナに頼って」

 私が言うと、彼は吹き出しかけ、堪えて咳払いをした。

「……君たち二人は、まるで違う刃だ」

「刃なら、鞘も必要ね」

「鞘は、制度か」

「制度は鞘で、同盟は鎖」

 レオポルトが眉を上げる。

「鎖?」

「逃げないための鎖」

「……君の言葉は、やっぱり怖い」

 彼が言いながら笑う。
 私も少し笑う。
 二人の笑いは軽くない。
 軽くないのに、息ができる笑いだ。

 二人の間に生まれたのは、甘さじゃない。

 “信用”だ。

 信用は温度が低い。
 温度が低いから腐らない。
 温度が低いから、長く持つ。

 レオポルトが手を離し、窓の外の空を見た。

「この国は、まだ救えるか」

「救うわ」

 私は短く言った。

「潰れたくないから」

 レオポルトが、今度は真正面から笑った。
 笑いの奥に、決意が光る。

「……なら、俺も潰れたくない。王太子として」

 その言葉で、契約の重さが一段だけ増した。
 増した重さは、鎧みたいに心を守る。
 守るための重さなら、耐えられる。

 机の上の封蝋はまだ温かい。
 温かさが冷えきる前に、国は一歩だけ動き出す。
 恋ではない。
 でも確かに、二人の間には結ばれたものがあった。
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