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第20話:悪役令嬢、国家を買う――そして未来へ
しおりを挟む三年後の王都は、音が軽い。
石畳を叩く靴音が、怒りではなく急ぎ足のリズムになっている。
荷車の軋みは相変わらずだけれど、そこに混じる声が違う。
「安いよ!」
「こっちの林檎、蜜が入ってる!」
そんな、生活の明るい叫びが市場に跳ねる。
朝の匂いも変わった。
焼きたてのパンの甘さ。
干し肉の燻した香り。
香辛料の刺激。
そして、子どもたちの汗の匂い。
汗の匂いは、未来の匂いだ。
市場の角で、子どもたちが笑っていた。
かつては列に並び、背中を丸めていた年頃の子たちが、今は走っている。
走る足が軽い。
軽い足が、国の体温を上げる。
「ほら、見て。読み方、合ってる?」
小さな男の子が、紙切れを胸に掲げて友達に見せた。
紙切れには大きな字で、今日の価格が書かれている。
穀物、油、塩。
字を読む子ども。
それだけで、胸の奥が少し痛む。
痛むのは懐かしさじゃない。
ここまで来た、という重み。
教育投資は芽を出した。
文字を覚えた子が、契約を疑う。
計算ができる子が、損を見抜く。
損を見抜ける民は、搾取されにくい。
搾取されにくい社会は、燃えにくい。
地方産業も立ち上がった。
王都だけが肥える国ではない。
川沿いの町では織物が増え、山間の村では加工品が増えた。
馬車の荷台には、もう同じ品ばかりが載らない。
種類が増えるのは、国の呼吸が増えるのと同じだ。
そして戦争は起きなかった。
起こせなかった、と言う方が正確かもしれない。
剣を抜く前に、帳簿が先に立った。
軍需の入札は公開され、監査は常設になり、あの頃の“鉄の侯爵”の影は、制度の光で薄くなった。
人々はそれを「平和」と呼ぶ。
私はそれを「継続」と呼ぶ。
ヴァルツブルク家の執務室は、相変わらず紙の匂いがした。
羊皮紙の匂いは減り、薄い紙が増えた。
月次報告。監査報告。入札結果。教育の出席率。
数字は相変わらず冷たい。
でも冷たさが、今は嫌じゃない。
冷たい水は、火を消す。
「お嬢様、商会側の新規入札申請です」
カイが書類を運ぶ。
黒髪は変わらず、銀の目は変わらず。
けれど、目の奥の硬さが少しだけ丸くなった気がする。
冬を越えた人間の目だ。
「通して。条件は公平に」
「はい」
公平。
その二文字が、ここまで重いものになるとは思わなかった。
公平は、貴族の言葉ではなくなる。
制度の言葉になる。
制度の言葉になれば、人は恣意で踏みにくくなる。
扉がノックされた。
今度はカイのノックではない。
軽い。遠慮がある。
けれど逃げないノック。
「入って」
扉が開き、リリアーナが姿を見せた。
以前の素朴なドレスは、今もどこかに残っている。
けれど彼女はもう“ただの平民出身の少女”ではない。
商会の代表としての衣。
慈善活動の顔。
そして、制度の枠の中に立つ者の目。
彼女は少しだけ緊張しているように見えた。
笑顔は柔らかい。
でもその笑顔の奥に、あの頃より強い芯がある。
「公爵令嬢様……いえ、アーデルハイト様」
「久しぶり、リリアーナ」
彼女が椅子に座る。
椅子の背に背筋を預けない。
警戒ではなく、癖だろう。
彼女もまた、支える側の姿勢を覚えた。
「今日は、報告に来ました。孤児院の新しい分校が……来月開きます」
「よかった。教師は?」
「地方の職能学校から、二人。読み書きと計算、あと……簡単な会計」
会計。
リリアーナの口からその単語が出るたび、私は少しだけ笑いそうになる。
彼女も変わった。
変わらないと、続かないから。
短い沈黙のあと、リリアーナが視線を落とした。
落とした視線は、柔らかいのに重い。
「……言いたいことがあります」
「聞くわ」
リリアーナは息を吸い、私を見た。
その目はまっすぐだ。
まっすぐだから、刃になる。
「あなたのやり方は冷たい」
言い切る。
逃げない。
彼女は“優しさ”の側に立っているのに、言葉は意外と鋭い。
胸の奥が少し痛む。
でも、その痛みは昔のように刺さりっぱなしではない。
痛みが意味を持つ。
意味がある痛みは、耐えられる。
「知ってる」
私が答えると、リリアーナは眉を下げた。
「……でも、確かに救った人がいる」
その言葉は、許しではない。
認める、という行為だ。
認めるのは怖い。
自分の正しさが揺れるから。
それでも彼女は認めた。
私は頷き、同じように言った。
「あなたの優しさが救った人もいる」
リリアーナの目がわずかに揺れる。
嬉しさではなく、戸惑いの揺れ。
自分の優しさが“誰かの役に立った”と認められるのは、案外重い。
重いから、彼女は軽く扱わない。
「……私たちは、敵ですよね」
彼女が小さく言う。
「敵対はしてる」
私は即答した。
「でも、敵でいい。違う刃が二本ある方が、国は折れにくい」
リリアーナは少しだけ笑った。
柔らかい笑い。
その笑いが、昔よりも強い。
「相変わらず、言い方が怖いです」
「褒め言葉として受け取る」
「……それも怖い」
軽い笑いが落ちる。
この部屋に、少しだけ空気の余白ができた。
リリアーナが真剣な顔に戻る。
「でも、覚えていてください。数字は正しくても、心が置いていかれると……また燃えます」
「覚えてる」
私は頷いた。
「だから透明化した。だから監査を入れた。だから、あなたの商会にも席を渡した」
リリアーナは驚いたように瞬きし、それから小さく頷いた。
「……怖いけど、ちゃんと見てます。あなたがどこまでやるのか」
「見てて。見られてる方が、暴走しにくい」
それが私の本音だった。
恐れられるより、見られる方がいい。
恐れられると孤独になる。
孤独は判断を歪める。
リリアーナが席を立つ。
「では、また」
「また」
扉が閉まる。
残るのは紙の匂いと、静かな呼吸。
私は窓辺に立った。
窓の外の王都は、朝日で満ちている。
黄金の光。
熱を持つ光。
蝋燭の橙でも、月光の白でもない。
前世の蛍光灯の白が、ふいに脳裏に浮かんだ。
無機質な白。
深夜のオフィス。
終電を逃し、机に突っ伏して、背中が痛くて、誰にも見られずに働いた白。
あの白は、冷たかった。
冷たさが、骨に残った。
でも今の光は、朝日だ。
冷たくない。
皮膚に触れて、じわりと温度をくれる。
“生きていい”という許可みたいに。
私は窓枠に指先を置いた。
指は震えていない。
震えがなくなったわけじゃない。
震えを制御できるようになった。
制御できるのは、仕組みがあるからだ。
一人で支える必要が減ったからだ。
喉の奥で、言葉が生まれた。
小さく。
でも確かな言葉。
「私はもう、使い潰されない」
その言葉が、朝日の中で消えずに残った。
背後で、ドレスの裾が揺れた。
風は弱い。
それでも裾は揺れる。
揺れは飾りではない。
戦い抜いた布の揺れだ。
踏まれた石畳の上を歩き、紙の刃を握り、火を消し、恨まれ、恐れられ、でも立ってきた証。
悪役令嬢は断罪されない。
断罪の代わりに、私は信用を創った。
信用は金より重く、剣より長く残る。
怖がられながらでも、必要なもの。
その信用で、未来を買った。
市場の笑い声が、遠くから届く。
子どもたちの声。
パンの匂い。
朝の光。
私は窓辺で目を閉じ、ほんの一瞬だけ息を吸った。
肺に入る空気が、昔より軽い。
そして目を開けた。
未来は、今日も動いている。
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