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第13話 裏切りの炎
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北門の奥で、乾いた金具の音が一度だけ跳ねた。油の匂いが風の向きに逆らって鼻を刺し、次の瞬間、闇の縁で火花が弾ける。火は声を上げ、板壁の節を舐め、ためらいなく走った。
「楔が抜かれた!」
見張り台の兵が叫び、鉄の従者が影のように滑る。裏路地から二つ、三つ、黒い影が飛び出し、手にした革袋を投げ捨てて散った。買われた側の足取りは、逃げる方向まで買われている。
「水を! 風の入口に回す!」
ローザは自分でも驚くほど大きな声で言った。胸の小さな芽を思い出す。あの芽は、火に弱い。けれど、火も水で輪郭が崩れる。陽だまりの壁の陰に置いた“水の皿”を抱え、布の覆いごと引きはがす。石の皿は冷たい。冷たさは刃物でも、いまは味方だ。
「北門、押さえろ!」
カイゼルの声が落ちる。低く、短く、命令だけで余計な感情がない。その瞬間、砦の風が向きを変えた。通り道に仕込まれた細工が息を吹き、火の舌を内側へ巻き戻す。だが、油は容赦しない。内側から上がった火は、古い梁に一気に登り、炎は咆哮になった。
刹那、金属の悲鳴に似た音が響いた。北門の横木が割れ、開いた隙間から、顔を布で覆った兵が雪崩れ込む。その先頭の眼の端に、銀の反射が走った。カイゼルの瞳だ。彼は距離を詰め、迷いなく一人の喉元に拳をめり込ませる。骨が鈍く鳴り、男が倒れ込む。だが、次の男が油壺に火を移した。
「下がれ!」
カイゼルが腕を払うと、火がまるで怯むように散った。風の線が太くなり、炎が壁に貼り付けられる。貼り付いた炎が怒って唸り、梁がはぜた。
その時だった。北門の内側、影の奥から投げ縄のように飛んだ銀糸が、ローザの視界を横切った。ひとかたまりの光。環だ――セシリアの手紙に記されていた、竜縛りの環。狙いは高い位置、見張り梁の手摺。だが風に煽られた軌道は少し外れ、ローザの右手に近い空間でかすめた。指先の契印が熱に触れ、鋭く疼く。
「触るな、ローザ!」
カイゼルの声が鋼になる。彼は反射的に腕を伸ばし、環の軌道を叩き落とした。環は石に当たって跳ね、火の縁に触れて鈍く光って止まる。銀糸の上の刻印が、息をするように明滅する。
兵の一人が笑った。「効くかと思ったが、竜はやはり早い」
その瞬間、カイゼルの表情から温度が落ちた。銀の瞳の奥、古い夜が立ち上がる。背の皮膚の下で、焼き付けられた線が熱を吸い上げる。火の匂いが昔の匂いと重なり、空気が別の時代の重さになる。
「……下がれ」
とても低い声。彼の周りの風が逆巻き、石畳に置かれた塵が一斉に浮く。足元の影が伸び、縁がぎざぎざに割れた。次の瞬間、空気が裂けた。
音ではない。圧だ。胸の内から外へ押し広げられる圧。灰の上衣が吹き飛び、銀灰の鱗が光を奪って現れる。柱のような脚が石を抉り、尾が壁に叩きつけられ、火と火の間に風の窪みができる。翼は広がる前に折りたたまれ、筋肉の線が隆起する。竜形。銀の巨躯。砦が一瞬、狭くなる。
隊列の兵が揃って息を呑む。「竜だ……!」
誰かが油を投げた。竜の首が反射的に振られ、爆ぜる炎が宙で粉々になる。翼が半ばで震え、天井近くの空気が波紋のように揺れる。竜の喉で、低い音が生まれた。あの、森で聞いた名乗りの音とは違う。濁りと裂け目を抱えた音。怒りの鍵穴に指をねじ込むような響き。
「カイゼル、待って!」
ローザの声は、炎にかき消されかけた。竜の瞳は銀のままなのに、焦点が合わない。目の前の火ではない炎を見ている。王都の庭の火。焼印の火。愛だの契約だのを嘲笑う、あの夜の炎。
竜の尾が弧を描いた。吹き飛ばされた兵が石に叩きつけられ、呻き声が上がる。砦の壁が剝がれ、火が新しい空気を得て大きく息を吸う。暴走――その言葉が頭の中で緊急の鐘みたいに鳴った。
ローザは走った。風の入口へ。陽だまりの壁は火の波から庭を守り、覆い布の下で芽が震えている。彼女は“水の皿”を二枚、腕に抱え、走ったまま炎の縁に投げ入れる。水は蒸気になって音を立て、白い幕が一瞬だけ視界を柔らかくした。柔らかさは、刃を鈍らせる。ほんの少しでも、十分だ。
「カイゼル!」
彼女は喉の奥で名前を転がし、呼び方を選ぶ。怒りの名ではなく、帰る場所の名。最後の母音が相手の呼吸で揺れる距離で、名を置く。
竜の耳がわずかに動いた。微かな反応。だが、足はまだ前へ出る。牙はまだ開いている。兵の列の向こう、村から駆けつけた若い男が盾を構え、その後ろで誰かが祈りの布を握りしめる。恐れの匂いが濃くなり、恐れが火に油を注ぐ。
「こっちを見て!」
ローザは契印に親指を押し当てた。浅い凹みに、自分の鼓動が落ちる。〈いるよ〉と、さっき熱が教えた合図を、今度は自分から返す番だ。
「ルピナス、セラフィム、タイム、セージ、カモミール――」
彼女は花の名を順番に置いた。吹雪の夜に炉端で、彼に灯りとして渡した名前たち。狼の根、夜の目印、勇気、救い、逆境の友。言葉は呪文ではない。けれど、声の形には、相手の耳を“最初に開ける”力がある。
竜の瞼が、ほんのわずか、重く閉じた。喉の音が一瞬だけ落ち、尾の動きが半拍遅れる。そこだ。
「帰ってきて!」
彼女は進路に身を投げた。炎の熱が頬を刺し、蒸気がまつげに滴を残す。竜の影が覆い、銀の爪の先が石に火花を散らす。足音が止まる。
間近で見る竜の瞳は、氷湖の奥底みたいに深い銀だった。その銀に、彼女は自分の影を小さく見た。震えている。けれど、逃げない。逃げたら、ここにいない。
「私はここにいる。あなたの“今”の中にいる。昔の火の中じゃない。怒りの部屋じゃない。――聞こえるなら、合図を返して」
契印が、熱を帯びた。今度は鋭くなく、鈍い温度。掌に、彼の呼吸が触れたような感覚。
竜の首が、わずかに下がった。翼の付け根が一度だけ強く震え、喉の音が変わる。怒りの鍵穴から、違う鍵が抜ける音。低く、長い、森で彼女を守ったあの名乗りに近い音。
彼の尾が石ではなく空を打った。兵の列に向いていた爪が、宙を掴む形に変わる。壁の火に向けられていた息が、地面の油へと逸れ、蒸気が一気に立ち上る。火が窒息し、梁の上の炎が自分の重さで崩れた。
ローザは安堵で膝が抜けそうになるのを踏みとどまり、最後の言葉を置いた。
「戻ってきて、カイゼル。――私のところへ」
竜の体が、音もなく縮み始めた。鱗の平原が波を打って、灰の衣の形を思い出し、角ばった骨が人の輪郭へ戻る。息が一つ、二つ。銀の瞳が人の高さに降りてきた。彼は膝をつき、掌を石についた。肩が強く上下し、口から白い息が吐き出される。
「……呼んだな」
掠れた声。炎の反射が彼の頬にまだ残っている。背中の古傷は衣越しでも熱を纏い、皮膚の下で疼きを忘れていない。
「呼んだ。全力で」
「お前の声が……」
彼は言葉を探し、短く結んだ。
「我を、人に戻す」
その一言で、ローザの喉がきゅっと狭くなった。泣くのは後でいい。今は火だ。火と、裏切りと、傷と。
「北門、まだ開いてる!」
上から声。カイゼルが顔を上げ、立ち上がる。怒りの部屋へ戻る代わりに、彼は“しまう”部屋に扉を閉めに行く顔をした。
「従者、楔を! ローザ、風の入口は任せる」
「分かった!」
彼女は庭へ駆け戻り、覆い布の端を外して蒸気を道に変えた。水の皿を次々と火の脚元へ。石の縁が光り、白い霧が走る。ミルドたち村の男が桶で連携し、ゲルが噛みしめるように「捨てるな、掛けろ」と繰り返す。祈りの布を巻いた女たちは、子を抱えながら井戸の布を交換し、火の粉が飛ぶ方向に布を広げて風の口を曲げた。そうだ、手だ。手の順番だ。
やがて、炎は喉を失い、砦の石が熱を吐き切って沈黙した。黒く燻った梁が煙を残し、焦げた油の匂いが重いが、燃えるものはもう少ない。
北門には、楔が再び打ち込まれていた。足元には縄と銀糸の切れ端。裏切った兵の影はもうなく、ただ、壁の陰に血の筋が細く伸びている。火の色とは違う、暗い温度。
「中に“手”があった」
フリッツが低く言う。「名前はまだ掴めない」
「掴まなくていい。今は守る」
カイゼルの声は、先ほどよりも人の温度に近かった。彼はローザに目を向け、短く言った。
「無茶をするな」
「無茶じゃない。必要」
「必要は、いつも無茶の言い訳になる」
「じゃあ、言い訳でもいい。あなたが戻ってきたから」
彼はその返しに何も足さず、ただ、彼女の薬指に一瞬だけ視線を落とした。浅い凹み。そこに薄く光が残っている。契印は熱ではなく合図を残す。合図は、二人の距離の測りになる。
夜の残りは、片付けに費やされた。焦げた梁を落とし、煤を払い、火の道筋を砂で埋める。風の入口では、布の焦げた端を切り、陽だまりの壁の石を一つ二つ足した。芽は生きていた。葉の先が少し茶色くなったが、背筋はまだ前を向いている。
ひと段落がついた頃、ミルドが杖をついて近づいた。「竜殿、娘。今夜は祈りより、寝るが先だ」
「眠れるかどうかは、古い音次第だ」
カイゼルが冗談みたいに言って、すぐ真顔に戻る。「明日、来る」
「魔導師団」
「ああ。裏切りの炎は前触れだ。次は正面に火を持ってくる」
ローザは頷いた。恐れはある。あるが、恐れの隣に“やること”が並んでいる。
「明日の“まし”を、二つ増やす」
「二つ?」
「風を曲げる板。水の皿をもう二枚。それと……」
彼女はカイゼルの目を見て、言葉を置いた。
「あなたを呼ぶ声の、練習」
彼はほんの一瞬だけ笑い、すぐに顔から笑いをしまった。笑いをしまうのが上手だ。けれど、しまう前に見えた笑いは、確かに温かかった。
「呼ばれたら、帰る」
「帰ってきて」
砦の上空は、星が鋭く、風が薄い。焦げた匂いがまだ残る中で、焚き火の小さな灯りが、点のようにいくつも並んだ。点は弱い。けれど、並ぶと道になる。
――愛は、血と嘘の中で試される。裏切りの炎は、それを教えた。だが、炎の向こうに残ったものは、焼け跡だけではなかった。呼べば戻る声と、戻る場所。それがある限り、次の火にも、手が間に合う。ローザは胸の奥で小さく息を吸い、眠りへ向けて目を閉じた。夜の底で、契印がまだ、ほんのり温かかった。
「楔が抜かれた!」
見張り台の兵が叫び、鉄の従者が影のように滑る。裏路地から二つ、三つ、黒い影が飛び出し、手にした革袋を投げ捨てて散った。買われた側の足取りは、逃げる方向まで買われている。
「水を! 風の入口に回す!」
ローザは自分でも驚くほど大きな声で言った。胸の小さな芽を思い出す。あの芽は、火に弱い。けれど、火も水で輪郭が崩れる。陽だまりの壁の陰に置いた“水の皿”を抱え、布の覆いごと引きはがす。石の皿は冷たい。冷たさは刃物でも、いまは味方だ。
「北門、押さえろ!」
カイゼルの声が落ちる。低く、短く、命令だけで余計な感情がない。その瞬間、砦の風が向きを変えた。通り道に仕込まれた細工が息を吹き、火の舌を内側へ巻き戻す。だが、油は容赦しない。内側から上がった火は、古い梁に一気に登り、炎は咆哮になった。
刹那、金属の悲鳴に似た音が響いた。北門の横木が割れ、開いた隙間から、顔を布で覆った兵が雪崩れ込む。その先頭の眼の端に、銀の反射が走った。カイゼルの瞳だ。彼は距離を詰め、迷いなく一人の喉元に拳をめり込ませる。骨が鈍く鳴り、男が倒れ込む。だが、次の男が油壺に火を移した。
「下がれ!」
カイゼルが腕を払うと、火がまるで怯むように散った。風の線が太くなり、炎が壁に貼り付けられる。貼り付いた炎が怒って唸り、梁がはぜた。
その時だった。北門の内側、影の奥から投げ縄のように飛んだ銀糸が、ローザの視界を横切った。ひとかたまりの光。環だ――セシリアの手紙に記されていた、竜縛りの環。狙いは高い位置、見張り梁の手摺。だが風に煽られた軌道は少し外れ、ローザの右手に近い空間でかすめた。指先の契印が熱に触れ、鋭く疼く。
「触るな、ローザ!」
カイゼルの声が鋼になる。彼は反射的に腕を伸ばし、環の軌道を叩き落とした。環は石に当たって跳ね、火の縁に触れて鈍く光って止まる。銀糸の上の刻印が、息をするように明滅する。
兵の一人が笑った。「効くかと思ったが、竜はやはり早い」
その瞬間、カイゼルの表情から温度が落ちた。銀の瞳の奥、古い夜が立ち上がる。背の皮膚の下で、焼き付けられた線が熱を吸い上げる。火の匂いが昔の匂いと重なり、空気が別の時代の重さになる。
「……下がれ」
とても低い声。彼の周りの風が逆巻き、石畳に置かれた塵が一斉に浮く。足元の影が伸び、縁がぎざぎざに割れた。次の瞬間、空気が裂けた。
音ではない。圧だ。胸の内から外へ押し広げられる圧。灰の上衣が吹き飛び、銀灰の鱗が光を奪って現れる。柱のような脚が石を抉り、尾が壁に叩きつけられ、火と火の間に風の窪みができる。翼は広がる前に折りたたまれ、筋肉の線が隆起する。竜形。銀の巨躯。砦が一瞬、狭くなる。
隊列の兵が揃って息を呑む。「竜だ……!」
誰かが油を投げた。竜の首が反射的に振られ、爆ぜる炎が宙で粉々になる。翼が半ばで震え、天井近くの空気が波紋のように揺れる。竜の喉で、低い音が生まれた。あの、森で聞いた名乗りの音とは違う。濁りと裂け目を抱えた音。怒りの鍵穴に指をねじ込むような響き。
「カイゼル、待って!」
ローザの声は、炎にかき消されかけた。竜の瞳は銀のままなのに、焦点が合わない。目の前の火ではない炎を見ている。王都の庭の火。焼印の火。愛だの契約だのを嘲笑う、あの夜の炎。
竜の尾が弧を描いた。吹き飛ばされた兵が石に叩きつけられ、呻き声が上がる。砦の壁が剝がれ、火が新しい空気を得て大きく息を吸う。暴走――その言葉が頭の中で緊急の鐘みたいに鳴った。
ローザは走った。風の入口へ。陽だまりの壁は火の波から庭を守り、覆い布の下で芽が震えている。彼女は“水の皿”を二枚、腕に抱え、走ったまま炎の縁に投げ入れる。水は蒸気になって音を立て、白い幕が一瞬だけ視界を柔らかくした。柔らかさは、刃を鈍らせる。ほんの少しでも、十分だ。
「カイゼル!」
彼女は喉の奥で名前を転がし、呼び方を選ぶ。怒りの名ではなく、帰る場所の名。最後の母音が相手の呼吸で揺れる距離で、名を置く。
竜の耳がわずかに動いた。微かな反応。だが、足はまだ前へ出る。牙はまだ開いている。兵の列の向こう、村から駆けつけた若い男が盾を構え、その後ろで誰かが祈りの布を握りしめる。恐れの匂いが濃くなり、恐れが火に油を注ぐ。
「こっちを見て!」
ローザは契印に親指を押し当てた。浅い凹みに、自分の鼓動が落ちる。〈いるよ〉と、さっき熱が教えた合図を、今度は自分から返す番だ。
「ルピナス、セラフィム、タイム、セージ、カモミール――」
彼女は花の名を順番に置いた。吹雪の夜に炉端で、彼に灯りとして渡した名前たち。狼の根、夜の目印、勇気、救い、逆境の友。言葉は呪文ではない。けれど、声の形には、相手の耳を“最初に開ける”力がある。
竜の瞼が、ほんのわずか、重く閉じた。喉の音が一瞬だけ落ち、尾の動きが半拍遅れる。そこだ。
「帰ってきて!」
彼女は進路に身を投げた。炎の熱が頬を刺し、蒸気がまつげに滴を残す。竜の影が覆い、銀の爪の先が石に火花を散らす。足音が止まる。
間近で見る竜の瞳は、氷湖の奥底みたいに深い銀だった。その銀に、彼女は自分の影を小さく見た。震えている。けれど、逃げない。逃げたら、ここにいない。
「私はここにいる。あなたの“今”の中にいる。昔の火の中じゃない。怒りの部屋じゃない。――聞こえるなら、合図を返して」
契印が、熱を帯びた。今度は鋭くなく、鈍い温度。掌に、彼の呼吸が触れたような感覚。
竜の首が、わずかに下がった。翼の付け根が一度だけ強く震え、喉の音が変わる。怒りの鍵穴から、違う鍵が抜ける音。低く、長い、森で彼女を守ったあの名乗りに近い音。
彼の尾が石ではなく空を打った。兵の列に向いていた爪が、宙を掴む形に変わる。壁の火に向けられていた息が、地面の油へと逸れ、蒸気が一気に立ち上る。火が窒息し、梁の上の炎が自分の重さで崩れた。
ローザは安堵で膝が抜けそうになるのを踏みとどまり、最後の言葉を置いた。
「戻ってきて、カイゼル。――私のところへ」
竜の体が、音もなく縮み始めた。鱗の平原が波を打って、灰の衣の形を思い出し、角ばった骨が人の輪郭へ戻る。息が一つ、二つ。銀の瞳が人の高さに降りてきた。彼は膝をつき、掌を石についた。肩が強く上下し、口から白い息が吐き出される。
「……呼んだな」
掠れた声。炎の反射が彼の頬にまだ残っている。背中の古傷は衣越しでも熱を纏い、皮膚の下で疼きを忘れていない。
「呼んだ。全力で」
「お前の声が……」
彼は言葉を探し、短く結んだ。
「我を、人に戻す」
その一言で、ローザの喉がきゅっと狭くなった。泣くのは後でいい。今は火だ。火と、裏切りと、傷と。
「北門、まだ開いてる!」
上から声。カイゼルが顔を上げ、立ち上がる。怒りの部屋へ戻る代わりに、彼は“しまう”部屋に扉を閉めに行く顔をした。
「従者、楔を! ローザ、風の入口は任せる」
「分かった!」
彼女は庭へ駆け戻り、覆い布の端を外して蒸気を道に変えた。水の皿を次々と火の脚元へ。石の縁が光り、白い霧が走る。ミルドたち村の男が桶で連携し、ゲルが噛みしめるように「捨てるな、掛けろ」と繰り返す。祈りの布を巻いた女たちは、子を抱えながら井戸の布を交換し、火の粉が飛ぶ方向に布を広げて風の口を曲げた。そうだ、手だ。手の順番だ。
やがて、炎は喉を失い、砦の石が熱を吐き切って沈黙した。黒く燻った梁が煙を残し、焦げた油の匂いが重いが、燃えるものはもう少ない。
北門には、楔が再び打ち込まれていた。足元には縄と銀糸の切れ端。裏切った兵の影はもうなく、ただ、壁の陰に血の筋が細く伸びている。火の色とは違う、暗い温度。
「中に“手”があった」
フリッツが低く言う。「名前はまだ掴めない」
「掴まなくていい。今は守る」
カイゼルの声は、先ほどよりも人の温度に近かった。彼はローザに目を向け、短く言った。
「無茶をするな」
「無茶じゃない。必要」
「必要は、いつも無茶の言い訳になる」
「じゃあ、言い訳でもいい。あなたが戻ってきたから」
彼はその返しに何も足さず、ただ、彼女の薬指に一瞬だけ視線を落とした。浅い凹み。そこに薄く光が残っている。契印は熱ではなく合図を残す。合図は、二人の距離の測りになる。
夜の残りは、片付けに費やされた。焦げた梁を落とし、煤を払い、火の道筋を砂で埋める。風の入口では、布の焦げた端を切り、陽だまりの壁の石を一つ二つ足した。芽は生きていた。葉の先が少し茶色くなったが、背筋はまだ前を向いている。
ひと段落がついた頃、ミルドが杖をついて近づいた。「竜殿、娘。今夜は祈りより、寝るが先だ」
「眠れるかどうかは、古い音次第だ」
カイゼルが冗談みたいに言って、すぐ真顔に戻る。「明日、来る」
「魔導師団」
「ああ。裏切りの炎は前触れだ。次は正面に火を持ってくる」
ローザは頷いた。恐れはある。あるが、恐れの隣に“やること”が並んでいる。
「明日の“まし”を、二つ増やす」
「二つ?」
「風を曲げる板。水の皿をもう二枚。それと……」
彼女はカイゼルの目を見て、言葉を置いた。
「あなたを呼ぶ声の、練習」
彼はほんの一瞬だけ笑い、すぐに顔から笑いをしまった。笑いをしまうのが上手だ。けれど、しまう前に見えた笑いは、確かに温かかった。
「呼ばれたら、帰る」
「帰ってきて」
砦の上空は、星が鋭く、風が薄い。焦げた匂いがまだ残る中で、焚き火の小さな灯りが、点のようにいくつも並んだ。点は弱い。けれど、並ぶと道になる。
――愛は、血と嘘の中で試される。裏切りの炎は、それを教えた。だが、炎の向こうに残ったものは、焼け跡だけではなかった。呼べば戻る声と、戻る場所。それがある限り、次の火にも、手が間に合う。ローザは胸の奥で小さく息を吸い、眠りへ向けて目を閉じた。夜の底で、契印がまだ、ほんのり温かかった。
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とびぃ
ファンタジー
「聖なる力を機械(まどうぐ)に使うとは何事か!」
聖女アニエスは、そのユニークすぎる才能を「神への冒涜」と断罪され、婚約者である王子から追放を言い渡されてしまう。
彼女の持つ『聖印』は、聖力を用いてエネルギー効率を100%にする、魔導工学の常識を覆すチート技術。しかし、保守的な神殿と王宮に、彼女の革新性を理解できる者はいなかった。
全てを失ったアニエスは、辺境の街テルムで、Fランクの魔道具職人「アニー」として、静かなスローライフ(のはず)を夢見る。 しかし、現実は甘くなく、待っていたのは雀の涙ほどの報酬と、厳しい下請け作業だけ。
「このままでは、餓死してしまう……!」
生きるために、彼女はついに禁断の『聖印』を使った自作カイロを、露店で売り始める。 クズ魔石なのに「異常なほど長持ちする」うえ、「腰痛が治る」という謎の副作用までついたカイロは、寒い辺境の街で瞬く間に大人気に!
だがその噂は、ギルドの「規格(ルール)の番人」と呼ばれる、堅物で冷徹なAランク工房長リアムの耳に入ってしまう。 「非科学的だ」「ギルドの規格を汚染する異端者め」 アニーを断罪しに来たリアム。しかし、彼はそのガラクタを解析し、そこに隠された「効率100%(ロス・ゼロ)」の真実と、神の領域の『聖印』理論に気づき、技術者として激しく興奮する。
「君は『異端』ではない。『新しい法則』そのものだ!」
二人の技術者の魂が共鳴する一方、アニエスの力を感知した王都の神殿からは、彼女を「浄化(しょうきょ)」するための冷酷な『調査隊』が迫っていた――!
追放聖女の、ものづくりスローライフ(のはずが、堅物工房長と技術革新で世界を揺るがす!?)物語、開幕!
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