公爵家を追い出された地味令嬢、辺境のドラゴンに嫁ぎます!

タマ マコト

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第14話 姉妹の対峙

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 朝はやけに静かだった。夜半の火の名残が砦の壁に黒い爪痕を残し、煤の匂いが石の目地にこびりついている。
 風の入口では、陽だまりの壁が新しい石を一段足され、水の皿には薄い氷の膜。ローザはその縁を指で割り、芽の葉に触れないように霧のように注いだ。葉の先は茶色く焦げているが、真ん中はまだ緑だ。生きている。生かす。

 鐘が二度、遠慮なく鳴った。見張り台の兵が叫ぶ声は、昨日より少し高い。
「旗だ! 王都の旗、そして――公爵家の紋!」

 来た。胸の奥がひとつ縮む。恐れはある。けれど、恐れの隣に“やること”が並んでいる。
 ローザはマントを引き寄せ、指先を温め、覆い布をそっと戻してから、回廊へ駆けた。

 北の坂道。雪を踏み固めた上を魔導師団の隊列が進む。紺の外套、銀の符。先頭にヴァレン。白い眉、黒い杖。
 その斜め後ろに、金糸の裾を風に遊ばせる女が馬上で微笑む。マリアンヌ。王都の光で縁取られた、完璧な姉の横顔だった。

 砦の門は閉ざされ、カイゼルがその前に立つ。灰の上衣に煤が薄く残る。銀の瞳は冷たく、しかし昨日の暴走の影はしまわれていた。
 彼の背に、村の人々が距離を取って並ぶ。ミルドの杖、ゲルの引き結んだ顎、テオの石を握る手。祈りの輪の布は今日は額ではなく膝に巻かれ、祈りより作業の姿勢を選んでいる。

「お久しぶりね、ローザ」

 門前に並ぶとすぐ、マリアンヌは柔らかい声で呼びかけた。香水の匂いが、冬の空気に鋭く混ざる。
「元気にしていた?」

「――ええ。土に挨拶できるくらいには」

「そう。相変わらず、地味ね」

 懐かしい毒の甘さが舌に広がる。だが、胸の中心はもう刺さらない。刺さる場所が、別のものに占められているからだ。
 ローザは一歩前へ出た。

「用件を、はっきり」

 マリアンヌは楽しげに眉を上げ、ヴァレンに視線で合図する。老魔導師が杖を一度地に鳴らすと、隊列の術者たちが同時に詠唱の姿勢を取った。空気の密度が上がる。周囲の雪が、歌に起こされるように小さく震えた。

「陛下の勅命よ。“竜の花嫁”を王都へ。——それが“妹を守る”最善の策だと、私は思っているの」

「守る?」

「そう。あなたは危ない。竜のそばにいる娘は、いつか焼かれる。だったら、王都の金の檻のほうが、まだ安全」

「檻は、息ができない」

「あなたは昔から、息をするのが下手だったもの。——だから、わたしが代わりに呼吸してあげる」

 マリアンヌの笑みは、鏡のように歪みがない。ローザはその完璧の冷たさを、幼い日の台所の硝子と同じものとして見た。割れないように磨かれ続けた硝子。触れれば血が出る硝子。

「私は、ここにいる」

「頑固ね。魔女はいつも頑固」

「魔女って、呼ぶのやめて。私は、土を触る人間」

「なら、証明なさい」

 ヴァレンの杖が二度、短く打たれた。空が低く唸り、隊列の半ばから透明な波が押し寄せる。風がねじ曲がり、音が押し潰される。術者たちの掌に浮いた符が、蜂の羽音のように震えた。

「風の膜……」

 カイゼルが低く呟く。
「砦の呼吸を止めに来たか」

「合わせる」

 ローザは即座に言った。
「風の入口を“口”にする」

 彼女は走り、庭へ飛び込む。従者が無言で扉を開ける。陽だまりの壁の角度を変え、水の皿をひとつ増やし、覆い布の端を外に向けて小さく旗の形に折る。風がここから出入りする“目印”を作るのだ。風は目印に従う。
 次に、芽の横に薄い土を一匙足す。指先に感じる湿り気は、恐れを落ち着かせる薬だ。

「戻る」

「護衛を」

 フリッツが言い、ローザは首を振る。
「いらない。私を見ているのは、彼だから」

 門前に戻ると、ヴァレンの詠唱が一段高くなっていた。空気が潰れていく。村人たちの肩が無意識にすくむ。
 マリアンヌは馬上からゆっくりと手を上げ、指を鳴らした。小さな銀の環が三つ、空へ舞う。刻印。竜縛りの環。

「それ、触るな」

 カイゼルが冷たく言い、風の線をねじって環の軌道を逸らす。環は石に当たって跳ね、雪の上で静止した。
 ヴァレンは眉をひそめるが、声は止めない。次の術式に移ったのだ。熱の封印。空気から火の言葉だけを抜き取って封じる術。昨日の火の記憶を、逆手に取る気だ。

「——姉さん」

 ローザは呼んだ。
「あなたは、愛を知らない」

 マリアンヌの笑みが一瞬だけ固くなる。ほんのひび。すぐに直される。

「愛は飾り。家の冠に留める宝石よ。光ればいい。重ければ困る」

「私の愛は、重い。土みたいに。——竜も、民も、笑いも、痛みも、重い。だからここにある」

「重いものは沈むの」

「沈めば根になる」

 その言葉に、ミルドが杖で地面をとん、と叩いた。テオが小さく笑う。ゲルが息を吐く。村の息が、砦の石に染みていく。

「ヴァレン様」

 マリアンヌが視線で合図する。
「見せて差し上げて」

「承知」

 老魔導師が杖を水平に構え、短く古語を切った。地面が震え、砦の外縁から白い焔の輪が立ち上がる。炎なのに熱を持たない。光だけがある。幻火。
 脅しではない。術者たちの掌から同じ輪がいくつも放たれ、砦を取り囲んだ。空が暗くなる。祈りの輪が、逆に囲まれたように見える。

「――砦の呼吸を“王都の呼吸”に合わせる」

 ヴァレンは自らに言い聞かせるように呟いた。
「均せ。均せ」

 ローザは胸の中で、別の言葉を拾った。〈均す、は奪うの丁寧語〉。カイゼルの声だ。
 ならば、奪われる前に、こちらの呼吸の径を太くする。

「カイゼル」

「なんだ」

「“銀花”を借りる」

 彼の銀の瞳がかすかに細くなる。
「まだ早い」

「早いから、やる」

「無茶だ」

「必要」

 彼は短く舌打ちを飲み込んだ。その舌打ちには、諦めでない種類の熱があった。
 彼は上衣の左袖口を指で弾き、鱗の粉をほんのわずか指先に移す。竜の鱗の微粉。銀色。
 ローザが掌を差し出すと、彼はそれをそっと落とした。冷たい。砂のように軽いのに、胸の奥には重さを落とす。

 ローザは庭に駆け込み、芽の横に膝をついた。土の上に銀の粉を薄く撒き、指先で円を描く。円は輪。祈りの輪の模倣ではない。土に対する挨拶の印だ。
 指が震える。震えは、止めない。震えは声に似ている。揺れて届く。

「セラフィム」

 彼女は囁く。
「夜の目印。——光って」

 薬指の契印が、ふっと温かくなった。合図。返事。風の入口の覆い布がわずかに鳴る。鳴き方の辞書なら、“コト”。板の緩みではない。芽の寝息が深くなる音。

 門前に戻ると、幻火の輪が一段と厚さを増していた。術者たちの詠唱は均等で、ヴァレンの杖は揺るがない。
 マリアンヌは馬上で手の甲を眺め、飽いたようにため息をつく。

「さあ、ローザ。降りてらっしゃい」

「嫌だ」

「陛下の命よ」

「陛下は、私の“呼吸”を知らない」

 その瞬間だった。砦の中庭の空気がふっと柔らぎ、どこからともなく銀の粉雪のような光が舞い始めた。ふわ、と――音がした気がした。
 光は雪ではない。花弁の欠片。銀花、セラフィム。芽からではない。土の奥、石の腹の中から、古い息が返ってくる。
 庭で描いた小さな円が、外壁へ、回廊へ、祈りの輪へ、風の口へと細い線で繋がり、砦全体にうっすらとした膜を張った。

「……何だ」

 ヴァレンが目を細める。
「結界?」

 銀の光が薄い膜になって、幻火の輪に触れた。音もなく、光と光が重なり、幻火がしぼむ。
 王都の呼吸が押しつける均しの波が、銀の膜で丸められ、砦の呼吸へ吸い込まれていく。均しが均される。

「“銀花の結界”」

 ローザは息を吐いた。
「ここは、花と竜の呼吸で満たす」

「戯れ言」

 マリアンヌは冷ややかに言い、馬腹に軽く踵を当てて二歩前へ出た。
「お遊びは終わり」

 彼女の指先に、細い炎が灯る。王都の魔術は形が美しい。炎は花の形に咲き、空気を割かずに進む。
 ローザが身構える前に、その火の花は砦の膜に触れ、音もなく消えた。消える前に、花の形が一瞬だけ銀に染まり、膜の上で揺れた。

 ヴァレンが初めて眉を上げる。
「……愛で強化される契約、か。書で読んだだけのものを、目で見る日が来るとは」

「愛?」

 マリアンヌは笑う。
「妹の、あの地味な手つきに?」

「地味が、好き」

 カイゼルが口を開いた。声音は低いが、刃は鞘にある。
「派手は、忘れられる。地味は残る」

「竜が、人の言葉を」

「人が竜の言葉を理解したからだ」

 空気がきしむ。マリアンヌの睫毛がわずかに震え、笑みがほんの少し薄くなる。
 ヴァレンは杖を立て、結界への別の角度を探る。彼の術は正確で、容赦がない。風の膜を変調させ、水の粒を振動させ、土の重さを測る。
 けれど、銀の膜は震えの半ばでそれを呑み込み、砦の呼吸へと変えていく。

「——ミルド」

 ローザは振り向かずに呼んだ。
「輪の火、お願いします」

「承知」

 祈りの輪の中心に、小さな火が灯る。火と言っても、炭に近い。音の小さい火。村の人々が手をかざす。
 火の上に蜂蜜を一滴落とすと、甘い匂いが銀の膜に混ざった。祈りと作業の間の匂いだ。

「マリアンヌ」

 ローザは前へ一歩出た。結界が彼女の肌で薄く弾む。その弾みは、勇気の手触りだった。
「あなたは、愛を知らない。あなたの愛は“飾り”。私は、飾らない」

「飾らないものは、見えない」

「見えないものは、残る」

「残して、どうするの」

「私の“次”を支える」

 短い応酬の間に、ヴァレンが結界の縁に僅かな裂け目を作ることに成功した。老練。じわ、と。
 そこから王都の風がひと筋入り込み、雪の粉が舞い上がる。カイゼルが一歩出ようとしたのを、ローザは掌で制した。

「私が塞ぐ」

 契印に親指を当てる。浅い凹みに、彼の呼吸が触れる。〈いる〉。返事。
 ローザは土の言葉を胸で探す。温室で何度も繰り返した、小さな儀式。指を土に置き、声を落とす。

「狼の根、夜の印、勇気、救い、逆境の友。——ここにいて」

 銀の膜が、裂け目の縁で花弁のように呼吸した。裂け目は閉じ、王都の風は膜の表で丸くなる。
 ヴァレンがわずかに目を細め、杖の先を引いた。老魔導師の口の端に、薄い笑み。敬意の種類の笑みだ。

「なるほど。媒介は“声”か。愛の形は、声と手。書を改める必要があるな」

「ヴァレン様」

 マリアンヌが苛立ちを隠さず言う。
「終わらせて」

「終わらせるのは容易い」

 ヴァレンは静かに返した。
「だが、王命は“最小限の火”とある」

「火を最小限にして、心を焼けば良いの」

「令嬢」

 ヴァレンの目が、初めて冷えた。
「それは王の言葉ではない」

 空気が一度、深く沈んだ。マリアンヌの頬が強張る。彼女の視線が、遠くの王都の塔を見る。そこにしか彼女の“次”がないからだ。
 彼女は、戻れない橋を渡りきらねばならないことを知っている。

「いいわ。なら、私がやる」

 彼女の指先に、花の形ではない炎が宿った。鋭い、直線。王城の鍛錬場で何度も見た彼女だけの炎だ。飾りではない。切るための火。
 彼女は手綱を放ち、馬から軽やかに降りる。裾が雪を払う。地面を踏む音が軽い。軽いのに、周りの空気を重くする。

「ローザ」

 マリアンヌは近づく。結界の膜に手を伸ばしかけ、引っ込め、笑う。
「最後に教えてあげる。愛なんて、飢えの言い換え」

「——じゃあ、姉さんはずっと飢えてる」

 言い終えるより早く、マリアンヌの炎が走った。直線。結界が音もなく受け止める。受け止めた膜が“音”を拾い、砦の中に低く響かせる。
 音は火の性質を変える。直線が、丸くなる。切るための火が、温めるための火に一瞬だけ形を変えた。

 ローザはその隙に、息を置く。結界は厚みを増し、銀の花弁が二重、三重に重なる。膜が砦の外壁に沿って広がり、村の祈りの輪を包む。
 広場の人々の肩が少し下がる。テオが「きれい」と呟く。ミルドが杖で地を一度叩く。ゲルが唇の中で何かを飲み込む。

「やめなさい」

 ヴァレンが低く言った。
「令嬢。これは、王都と辺境の争いではない。“書”を超えた。もはや、個だ」

「個?」

「人と竜と、土と花。契りの新しい形だ。王の目は必要だが、目は見誤る。だから、今は火を置け」

 マリアンヌは息を呑んだ。姉の目の奥で、何かが薄く割れる音がした。長い年月、磨かれ続けた硝子に、やっと最初の傷。
 彼女はそれを知らぬふりで指先を握り、笑みを戻した。

「……猶予は一日。ヴァレン様、撤収なさい」

「命ずるのは王だ」

「王は私の声を好むの」

 彼女は踵を返し、馬にひらりと戻る。外套の金糸が雪の上で花のように広がる。
 彼女の背に、ローザは言葉を投げなかった。投げる言葉は、もうない。彼女の飢えに、言葉は届かない。届くのは、きっと別のものだ。

 隊列がゆっくりと下がり、幻火の輪が消える。ヴァレンは最後に一度だけ振り返り、ローザとカイゼルに短く会釈した。敬意の形。老魔導師は知っているのだ。書にないものの重みを。

 静寂。風の入口の覆い布が、安堵の音で一度鳴った。銀花の結界は薄れ、砦の石に静かに吸い込まれる。残ったのは、白い光の粉が空気に漂う気配。
 芽の上に、ひとつ、またひとつ、音もなく降りた。

「……やったのか」

 ゲルが呟く。
「これ、俺たちの」

「うん。君たちの祈りと手と、彼の鱗と、私の声」

 ローザは膝の力が抜けるのを、今度は許した。雪に片膝をつくと、指が冷たさで痛む。痛みは生を教える。
 カイゼルがそっと肩を支えた。彼の指は硬いのに、動きは柔らかい。

「無茶だ」

「必要」

「……“面倒”の上位互換だな」

「褒めた?」

「褒めた」

 彼は目を細め、結界が消えた空間を見上げる。
「銀花。ここまで伸びるとは」

「あなたの鱗のおかげ」

「違う。お前の“次へ行く力”だ」

 ローザは笑った。笑いは長くせず、短く落とす。落とした笑いが、砦の石に染みる。
 ミルドが杖で地を二度叩き、「火を落として寝ろ」と言った。
 テオが石を籠に戻し、ゲルが井戸の布の結び目を確かめ、祈りの布の女たちが蜂蜜の瓶の底を分け合う。小さな作業が、場の温度を戻す。

 夜。暖炉の前、ローザは日記を開いた。

〈姉。直線の炎。ヴァレン。均す術。結界。銀花は、土の奥から呼吸で来る。狼の根、夜の印、勇気、救い、逆境の友。——“あなたは愛を知らない”。わたしは飾らない。〉

 書き終え、窓辺に歩み寄る。芽は小さく震え、葉の真ん中に銀の粉が一粒、光っていた。
 契印に親指を重ねる。浅い凹みはまだ温かい。合図。返事。距離の測り。

「明日、来る」

 背後でカイゼルが言う。
「姉は退かない」

「退かないから、迎える。次の“まし”を用意する」

「何だ」

「結界の“縫い目”を増やす。祈りの輪、井戸、畝、門。全部を細い糸で繋いで、破れ目を小さくする」

「糸」

「飢えの言い換えじゃない、私の糸」

 彼は短く息を吐き、肩の力を抜いた。
「……明日の朝、鱗の粉をもう少しやる」

「ありがとう」

「礼は、結果に」

「結果が出たら、二倍で」

「やめろ」

 ふたりの笑いは、火に吸われてやわらいだ。砦の上を風が一度走り、星が近くなる。
 遠くの街道で、金属の音が一瞬響いて、すぐ消えた。猶予は一日。
 それでも、一日は一日分の“まし”を積める。銀花の結界は薄くなったが、消えない。呼べば来る。呼べる声を、今夜も喉の底であたためる。

 ——愛は、血と嘘の中で試される。姉の炎はまっすぐで、嘘は美しい。けれど、土の上で重ねた小さな手つきは、まっすぐではなく、丸い。
 丸いものは、折れにくい。折れにくい丸さで、あすを迎える。
 ローザは目を閉じ、胸の奥で銀の粉の音を聞いた。細かく、静かで、たしかな音だった。
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