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第16話 最後の夜明け
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夜明けは、たしかに来た。けれど、それは朝の顔をしていなかった。東の稜線から上がる光は灰色に濁り、谷底を走る風は焦げた藁の匂いを含んでいた。遠くで、乾いた爆ぜ音。次に、空気の層がひとつずれるみたいな低い唸り。王都軍の火が、森の縁を舐めている。
ローザは風の入口で、覆い布を指で押さえた。布の向こう、芽はもう芽ではなかった。細い茎に小さな蕾。銀粉が薄く宿っている。彼女は息を整え、契印に親指を重ねる。浅い凹みが、今日も確かに温かい。
「――来る」
背で、カイゼルが言った。あの銀の瞳は眠らず、夜のあいだじゅう風の声を数えていたらしい。頬の下に薄い影。疲れはある。けれど、目は澄んでいた。
「北、東、同時。火は“壁”を作って進んでいる。土が乾かないうちに、止める」
「止める」
ローザは頷いた。
「結界は私が起こす。あなたは……」
「わたしは、牙を見せる。今日は隠さない」
鐘が鳴った。三度。見張りの叫びが続き、祈りの輪の布が膝に巻き直される。ミルドが杖で地を叩き、「井戸、布、蜂蜜――持ち場へ!」と声を張る。ゲルは口を結び、少年たちに石を配る。テオは畝の角度を最後に確かめ、ローザの方へ親指を立てた。
白い霧の向こうから、紺の外套の列。銀の符、黒い車輪。先頭の杖がわずかに持ち上がり、空気が押し潰されるみたいに重くなった。ヴァレンだ。昨日の穏やかさは消え、目はただの仕事人の目だ。彼の斜め後ろで、金の裾が朝日に光る。マリアンヌ。笑っている。飢えを燃料にした笑顔。
「もう飽きたの」
マリアンヌは声を張る。
「妹ごっこも、辺境ごっこも。終わらせましょう?」
ヴァレンの杖が鳴った。詠唱。圧。大地が低く唸り、森の縁から炎の壁がいっせいに立ち上がる。炎なのに、色が薄い。熱を持ちながら、形は均一。人の術で揃えられた火。彼らは山肌をなめ、畑の枯れ草を舐め、村の縁へ迫る。
「結界、起こす」
ローザは地に掌を置いた。狼の根、夜の印、勇気、救い、逆境の友――心の底で名前を数え、指先で円を描く。土が呼吸を返す。銀花の膜が、砦の縁からゆっくりと立ち上がる。昨日より、厚い。花弁が重なる音が、たしかに聞こえた。
「カイゼル」
「いる」
「戻ってくる?」
「帰る」
「約束」
「約束だ」
彼は上衣の留め具を外し、灰の布を脱ぎ捨てた。皮膚の下で筋が息を吸い、古傷が薄く光を弾く。次の瞬間、空気が裂けた。鱗がひらき、骨が長く伸び、銀の巨影が門を越えて空に出た。翼が広がる。砦が小さく見える。風が鳴く。竜が、目を開いた。
王都軍の前列が一斉に詠唱を強めた。熱の波が重なり、火の壁が竜に向かって反り返る。マリアンヌが馬上から直線の炎を指で描き、火は刃になって銀の胸を狙う。ヴァレンは別の合図を送り、湿り気を奪う術を畑全体に掛けた。風が乾く。土の舌がひび割れる。
竜は、退かなかった。喉の奥で低い音が生まれ、空の層をひとつずつ押し広げる。翼が一度、深く打たれる。風が裏返り、炎の壁が一瞬ためらう。ためらいの間に、竜は空を噛んだ。呼吸を、奪い返す。
地上では、火が村の縁に舌を伸ばした。井戸の布が焦げる。女たちが蜂蜜の瓶の底を指でさらい、水に落とす。甘い匂いが煙と混ざり、恐れの中に微かな「食べ物」の気配を作る。ゲルが砂を撒き、ミルドが杖で地を叩く。祈りの輪の火は大きくしない。小さく、ずっと。火は、火を呼ぶ。だから、ここは灯りだけにする。
「ローザ! 南!」
フリッツの声。ローザは走る。結界の縁で、膜が薄く震えている。そこへ炎が舐め、膜は花弁の形に耐え、震え、また耐える。彼女は指で縫い目をなぞり、契印に親指を押し当てる。〈いる〉――返事。震えが少しだけ収まる。
上空。竜の影が反転し、火の壁の上を滑る。銀の鱗に赤が走る。熱が皮膚の下で古傷の記憶を呼び、痛みが視界の端を白くする。竜は痛みを飲み、風の線を組み替えた。炎の進行方向をわずかに曲げる。火は剣から帯へ。帯は空へ。空に持ち上げられた炎は酸素を奪われ、しゅう、と消える。王都軍の術者が一斉に詠唱を切り替える。渇きの術が増す。大地がうめく。
「持て!」
ゲルの声がひびく。
「井戸は死なせるな!」
ローザは井戸の縁に膝をつき、布の結び目をほどいて巻き直した。指の腹が擦れて痛む。痛みで、手の位置が確かになる。彼女は水桶を揺すり、蜂蜜水を咳き込む子どもに渡す。テオが石を運び、ミルドが石に膝をついて古い祈りを短く唱え、次の瞬間には土を掘る。祈りと作業は、同じ手でできる。
ヴァレンが杖を高く掲げた。空の層が二度、三度、たゆむ。結界の膜がきしむ。銀花の粉が一斉に細かく鳴り、膜の厚みがじわりと削られる。マリアンヌが笑う。
「均しなさい。全部」
竜の喉が、遠雷のように鳴った。翼が折れ、尾が石に走る。彼は空から落ちるのではなく、空をひとつ下へ持ってきた。風の層が砦の上で入れ替わり、結界の呼吸が深くなる。だが、その代償に、彼自身の息が浅くなるのがローザにはわかった。銀の胸が痛みで不規則に持ち上がる。鱗の縁が色を失い、光が鈍る。
「カイゼル――無理しないで」
誰にも届かないはずの声が、契印に落ちて、そこから彼の胸に触れた気がした。彼の首がわずかに傾き、銀の瞳が砦を見下ろす。その目が選んだのは、炎でも軍でもなく、小さな覆い布の白い角だった。風の入口。蕾。
彼は翼を大きく広げ、空の高みで身体を反らせた。鱗の面が総毛立ち、光が集まる。かつて王都の庭で焼印を押された夜、彼の中に封じられた古い力。その封が、音もなく切れる。銀の光が鱗の隙間から漏れ、次第に、その漏れが本流になる。空が白い。眩しい。冷たいのに熱い。矛盾の温度。
ヴァレンが小さく目を見張った。
「竜の全開放……!」
「打て!」
マリアンヌの声が張り裂ける。
「今!」
術者たちの詠唱が最速で重なり、渇き、切断、封じ、炎――すべての魔法が一斉に竜に向かって放たれた。だが、銀の光はそれらを“名前”に変えてしまう。渇きは「冬」の名に、切断は「収穫」の名に、封じは「眠り」の名に、炎は「灯り」の名に。名を変えられた術は、刃を失い、砦の外で自重のまま崩れた。
銀の光が、地に降りる。降りるというより、沁みる。大地に、壁に、井戸に、祈りの輪に、畝に。風の入口の蕾が、瞬きのあいだにほどけ、白銀の小さな花を開いた。ひとつ。ふたつ。三つ。花は声がないのに、音を持っていた。心臓の裏で、細かく鳴る音。
王都軍の前列が崩れた。馬が怯え、術者が杖を落とし、ヴァレンは無言で杖を地に突き、見上げた。彼は悟った顔をしていた。勝ち負けの顔ではない。見届ける者の顔。
光の中、竜の身体が薄くなっていく。鱗が光に解け、骨が線になり、線が風に紛れる。カイゼルの銀の瞳だけが、最後まで形を保っていた。彼は砦を見、村を見、風の入口を見、――そしてローザを見た。
ローザは走っていた。足が地面の石を覚えている。膝が破ける音。呼吸が火になる。彼女は結界の内側から手を伸ばし、空の縁に向けて叫んだ。
「帰ってきて! まだ、ここに! あなたの居場所は、ここだよ!」
銀の瞳が細く笑った。彼の口が動いた。声は風に取られたけれど、言葉は届いた。
「お前の花が、この地を生かすなら――それでいい」
胸の奥が、裂けた。裂け目から、光が溢れた。彼女は両腕を広げ、空を抱くように跳んだ。届くはずがない距離に、届く想像を全力で投げた。契印が焼ける。痛みではない。合図が、形を持った。
銀の光が落ちてきた。彼の胸のあたりから、糸になって。糸は彼女の胸に入り、背中へ抜け、足の裏から地に溶けた。冷たい。冷たいのに、火より熱い。彼女の目から、涙が勝手にこぼれた。涙が光に混ざり、光は色を帯びた。銀に、微かな春の色。
ヴァレンが杖を下ろした。
「退け」
彼はそれ以上術を打たなかった。マリアンヌは叫び、手綱を引き、馬が立ち上がった。彼女の炎は結界の表で花に変わり、消えた。王都軍は乱れ、次第に下がり始めた。勝敗ではない。距離。今この距離は、彼らにとって毒だった。
光が収束した。空の高みで、竜の輪郭が最後に細く残り、ほどけた。風がひとつ長く鳴り、朝がやっと正しい色を取り戻した。冷たい青と、淡い金色。砦の上空に、銀の粉が細雪のように降る。触れるものすべてに、薄い花の匂いが移る。
ローザは地に膝をついた。胸の中が静かだ。静かなのに、騒がしい。たくさんの音が重なって、やがて一つの低い音に溶ける。大地の音。彼の呼吸の音と同じ高さ。彼は――いない。手は空を抱いて、何も持っていない。けれど、空っぽではなかった。ひとつの灯りが、胸の奥で確かに燃えている。
「ローザ」
背でミルドの声。
「生きたぞ」
ゲルが井戸の布の結び目を確かめながら、うつむいたまま言う。
「……負けてない」
テオが石を握って、花を見上げる。
「きれい」
ローザは立ち上がった。足が少し震えた。震えは止めなかった。震えは、今、彼女のなかで“次へ行く力”に変わっている。風の入口へ行き、覆い布を持ち上げる。銀の花が、朝日に溶けて白く光っている。蕾だったものが、いま、確かに咲いた。
彼女は掌でそっと花の影を掬い、空を見上げた。そこにはもう竜の姿はない。銀の粉が、まだほんの少し漂っているだけだ。
「見てる?」
返事は風だった。細く、長く、砦の骨を撫でていく。言葉ではないのに、言葉よりもまっすぐな意味があった。
――ましにしたな。
ローザは笑った。泣き笑いは、さっきより上手にできた。彼女は振り返り、村の方へ歩き出す。やることが、山ほどある。焼けた畑、焦げた布、祈りの輪の灰、砂の道。全部、今日の「手」の仕事だ。彼が残した光は、土に馴染んで、すでに芽吹きを準備している。
門の外、ヴァレンは隊列をまとめながら、最後に一度だけ砦を振り返った。老魔導師の口が、ほとんど誰にも聞こえないほど小さく動く。
「……書を改めよう」
マリアンヌは唇を噛み、朝の光に金の裾を輝かせながら、遠ざかった。彼女の背に、花の匂いが薄くまとわりつき、すぐに風に消えた。
最後の夜明けは、ようやく朝になった。冷たい世界の上に、白銀の花がひとつ、またひとつ増える。滅びの匂いの隙間から、新しい匂いが顔を出す。ローザは胸に手を当て、深く吸い込み、吐いた。
「――ここから、生かす」
彼の言葉が、胸の灯りに合図を送る。お前の花が、この地を生かすなら、それでいい。なら、そうする。彼女は畝に向かい、指を土に入れた。土は冷たい。冷たいが、眠っているだけだ。目覚めの手順は、もう知っている。今日はまず、井戸の布を替える。次に、焼けた道の上へ砂を足す。そして、花の名をひとつずつ、呼ぶ。
朝が、完全に、来た。
ローザは風の入口で、覆い布を指で押さえた。布の向こう、芽はもう芽ではなかった。細い茎に小さな蕾。銀粉が薄く宿っている。彼女は息を整え、契印に親指を重ねる。浅い凹みが、今日も確かに温かい。
「――来る」
背で、カイゼルが言った。あの銀の瞳は眠らず、夜のあいだじゅう風の声を数えていたらしい。頬の下に薄い影。疲れはある。けれど、目は澄んでいた。
「北、東、同時。火は“壁”を作って進んでいる。土が乾かないうちに、止める」
「止める」
ローザは頷いた。
「結界は私が起こす。あなたは……」
「わたしは、牙を見せる。今日は隠さない」
鐘が鳴った。三度。見張りの叫びが続き、祈りの輪の布が膝に巻き直される。ミルドが杖で地を叩き、「井戸、布、蜂蜜――持ち場へ!」と声を張る。ゲルは口を結び、少年たちに石を配る。テオは畝の角度を最後に確かめ、ローザの方へ親指を立てた。
白い霧の向こうから、紺の外套の列。銀の符、黒い車輪。先頭の杖がわずかに持ち上がり、空気が押し潰されるみたいに重くなった。ヴァレンだ。昨日の穏やかさは消え、目はただの仕事人の目だ。彼の斜め後ろで、金の裾が朝日に光る。マリアンヌ。笑っている。飢えを燃料にした笑顔。
「もう飽きたの」
マリアンヌは声を張る。
「妹ごっこも、辺境ごっこも。終わらせましょう?」
ヴァレンの杖が鳴った。詠唱。圧。大地が低く唸り、森の縁から炎の壁がいっせいに立ち上がる。炎なのに、色が薄い。熱を持ちながら、形は均一。人の術で揃えられた火。彼らは山肌をなめ、畑の枯れ草を舐め、村の縁へ迫る。
「結界、起こす」
ローザは地に掌を置いた。狼の根、夜の印、勇気、救い、逆境の友――心の底で名前を数え、指先で円を描く。土が呼吸を返す。銀花の膜が、砦の縁からゆっくりと立ち上がる。昨日より、厚い。花弁が重なる音が、たしかに聞こえた。
「カイゼル」
「いる」
「戻ってくる?」
「帰る」
「約束」
「約束だ」
彼は上衣の留め具を外し、灰の布を脱ぎ捨てた。皮膚の下で筋が息を吸い、古傷が薄く光を弾く。次の瞬間、空気が裂けた。鱗がひらき、骨が長く伸び、銀の巨影が門を越えて空に出た。翼が広がる。砦が小さく見える。風が鳴く。竜が、目を開いた。
王都軍の前列が一斉に詠唱を強めた。熱の波が重なり、火の壁が竜に向かって反り返る。マリアンヌが馬上から直線の炎を指で描き、火は刃になって銀の胸を狙う。ヴァレンは別の合図を送り、湿り気を奪う術を畑全体に掛けた。風が乾く。土の舌がひび割れる。
竜は、退かなかった。喉の奥で低い音が生まれ、空の層をひとつずつ押し広げる。翼が一度、深く打たれる。風が裏返り、炎の壁が一瞬ためらう。ためらいの間に、竜は空を噛んだ。呼吸を、奪い返す。
地上では、火が村の縁に舌を伸ばした。井戸の布が焦げる。女たちが蜂蜜の瓶の底を指でさらい、水に落とす。甘い匂いが煙と混ざり、恐れの中に微かな「食べ物」の気配を作る。ゲルが砂を撒き、ミルドが杖で地を叩く。祈りの輪の火は大きくしない。小さく、ずっと。火は、火を呼ぶ。だから、ここは灯りだけにする。
「ローザ! 南!」
フリッツの声。ローザは走る。結界の縁で、膜が薄く震えている。そこへ炎が舐め、膜は花弁の形に耐え、震え、また耐える。彼女は指で縫い目をなぞり、契印に親指を押し当てる。〈いる〉――返事。震えが少しだけ収まる。
上空。竜の影が反転し、火の壁の上を滑る。銀の鱗に赤が走る。熱が皮膚の下で古傷の記憶を呼び、痛みが視界の端を白くする。竜は痛みを飲み、風の線を組み替えた。炎の進行方向をわずかに曲げる。火は剣から帯へ。帯は空へ。空に持ち上げられた炎は酸素を奪われ、しゅう、と消える。王都軍の術者が一斉に詠唱を切り替える。渇きの術が増す。大地がうめく。
「持て!」
ゲルの声がひびく。
「井戸は死なせるな!」
ローザは井戸の縁に膝をつき、布の結び目をほどいて巻き直した。指の腹が擦れて痛む。痛みで、手の位置が確かになる。彼女は水桶を揺すり、蜂蜜水を咳き込む子どもに渡す。テオが石を運び、ミルドが石に膝をついて古い祈りを短く唱え、次の瞬間には土を掘る。祈りと作業は、同じ手でできる。
ヴァレンが杖を高く掲げた。空の層が二度、三度、たゆむ。結界の膜がきしむ。銀花の粉が一斉に細かく鳴り、膜の厚みがじわりと削られる。マリアンヌが笑う。
「均しなさい。全部」
竜の喉が、遠雷のように鳴った。翼が折れ、尾が石に走る。彼は空から落ちるのではなく、空をひとつ下へ持ってきた。風の層が砦の上で入れ替わり、結界の呼吸が深くなる。だが、その代償に、彼自身の息が浅くなるのがローザにはわかった。銀の胸が痛みで不規則に持ち上がる。鱗の縁が色を失い、光が鈍る。
「カイゼル――無理しないで」
誰にも届かないはずの声が、契印に落ちて、そこから彼の胸に触れた気がした。彼の首がわずかに傾き、銀の瞳が砦を見下ろす。その目が選んだのは、炎でも軍でもなく、小さな覆い布の白い角だった。風の入口。蕾。
彼は翼を大きく広げ、空の高みで身体を反らせた。鱗の面が総毛立ち、光が集まる。かつて王都の庭で焼印を押された夜、彼の中に封じられた古い力。その封が、音もなく切れる。銀の光が鱗の隙間から漏れ、次第に、その漏れが本流になる。空が白い。眩しい。冷たいのに熱い。矛盾の温度。
ヴァレンが小さく目を見張った。
「竜の全開放……!」
「打て!」
マリアンヌの声が張り裂ける。
「今!」
術者たちの詠唱が最速で重なり、渇き、切断、封じ、炎――すべての魔法が一斉に竜に向かって放たれた。だが、銀の光はそれらを“名前”に変えてしまう。渇きは「冬」の名に、切断は「収穫」の名に、封じは「眠り」の名に、炎は「灯り」の名に。名を変えられた術は、刃を失い、砦の外で自重のまま崩れた。
銀の光が、地に降りる。降りるというより、沁みる。大地に、壁に、井戸に、祈りの輪に、畝に。風の入口の蕾が、瞬きのあいだにほどけ、白銀の小さな花を開いた。ひとつ。ふたつ。三つ。花は声がないのに、音を持っていた。心臓の裏で、細かく鳴る音。
王都軍の前列が崩れた。馬が怯え、術者が杖を落とし、ヴァレンは無言で杖を地に突き、見上げた。彼は悟った顔をしていた。勝ち負けの顔ではない。見届ける者の顔。
光の中、竜の身体が薄くなっていく。鱗が光に解け、骨が線になり、線が風に紛れる。カイゼルの銀の瞳だけが、最後まで形を保っていた。彼は砦を見、村を見、風の入口を見、――そしてローザを見た。
ローザは走っていた。足が地面の石を覚えている。膝が破ける音。呼吸が火になる。彼女は結界の内側から手を伸ばし、空の縁に向けて叫んだ。
「帰ってきて! まだ、ここに! あなたの居場所は、ここだよ!」
銀の瞳が細く笑った。彼の口が動いた。声は風に取られたけれど、言葉は届いた。
「お前の花が、この地を生かすなら――それでいい」
胸の奥が、裂けた。裂け目から、光が溢れた。彼女は両腕を広げ、空を抱くように跳んだ。届くはずがない距離に、届く想像を全力で投げた。契印が焼ける。痛みではない。合図が、形を持った。
銀の光が落ちてきた。彼の胸のあたりから、糸になって。糸は彼女の胸に入り、背中へ抜け、足の裏から地に溶けた。冷たい。冷たいのに、火より熱い。彼女の目から、涙が勝手にこぼれた。涙が光に混ざり、光は色を帯びた。銀に、微かな春の色。
ヴァレンが杖を下ろした。
「退け」
彼はそれ以上術を打たなかった。マリアンヌは叫び、手綱を引き、馬が立ち上がった。彼女の炎は結界の表で花に変わり、消えた。王都軍は乱れ、次第に下がり始めた。勝敗ではない。距離。今この距離は、彼らにとって毒だった。
光が収束した。空の高みで、竜の輪郭が最後に細く残り、ほどけた。風がひとつ長く鳴り、朝がやっと正しい色を取り戻した。冷たい青と、淡い金色。砦の上空に、銀の粉が細雪のように降る。触れるものすべてに、薄い花の匂いが移る。
ローザは地に膝をついた。胸の中が静かだ。静かなのに、騒がしい。たくさんの音が重なって、やがて一つの低い音に溶ける。大地の音。彼の呼吸の音と同じ高さ。彼は――いない。手は空を抱いて、何も持っていない。けれど、空っぽではなかった。ひとつの灯りが、胸の奥で確かに燃えている。
「ローザ」
背でミルドの声。
「生きたぞ」
ゲルが井戸の布の結び目を確かめながら、うつむいたまま言う。
「……負けてない」
テオが石を握って、花を見上げる。
「きれい」
ローザは立ち上がった。足が少し震えた。震えは止めなかった。震えは、今、彼女のなかで“次へ行く力”に変わっている。風の入口へ行き、覆い布を持ち上げる。銀の花が、朝日に溶けて白く光っている。蕾だったものが、いま、確かに咲いた。
彼女は掌でそっと花の影を掬い、空を見上げた。そこにはもう竜の姿はない。銀の粉が、まだほんの少し漂っているだけだ。
「見てる?」
返事は風だった。細く、長く、砦の骨を撫でていく。言葉ではないのに、言葉よりもまっすぐな意味があった。
――ましにしたな。
ローザは笑った。泣き笑いは、さっきより上手にできた。彼女は振り返り、村の方へ歩き出す。やることが、山ほどある。焼けた畑、焦げた布、祈りの輪の灰、砂の道。全部、今日の「手」の仕事だ。彼が残した光は、土に馴染んで、すでに芽吹きを準備している。
門の外、ヴァレンは隊列をまとめながら、最後に一度だけ砦を振り返った。老魔導師の口が、ほとんど誰にも聞こえないほど小さく動く。
「……書を改めよう」
マリアンヌは唇を噛み、朝の光に金の裾を輝かせながら、遠ざかった。彼女の背に、花の匂いが薄くまとわりつき、すぐに風に消えた。
最後の夜明けは、ようやく朝になった。冷たい世界の上に、白銀の花がひとつ、またひとつ増える。滅びの匂いの隙間から、新しい匂いが顔を出す。ローザは胸に手を当て、深く吸い込み、吐いた。
「――ここから、生かす」
彼の言葉が、胸の灯りに合図を送る。お前の花が、この地を生かすなら、それでいい。なら、そうする。彼女は畝に向かい、指を土に入れた。土は冷たい。冷たいが、眠っているだけだ。目覚めの手順は、もう知っている。今日はまず、井戸の布を替える。次に、焼けた道の上へ砂を足す。そして、花の名をひとつずつ、呼ぶ。
朝が、完全に、来た。
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しかし、運命は皮肉だった。配属されたのは、私を最も嫌っていたはずの義兄・パシェンが率いる騎士団。
冷酷な彼に正体がバレれば終わり……のはずが、なぜか彼は“男”である私をやたらと気にかけてくる。
「まさかお義兄様って、男の子がお好きなの!?」
彼の不器用な優しさに戸惑い、封印したはずの想いが揺れる。
そんな偽りの平穏は、魔物の大群によって打ち砕かれた。仲間が倒れ、血に濡れていく義兄の姿……。
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完結いたしました!ありがとうございます!!!
お荷物認定を受けてSSS級PTを追放されました。でも実は俺がいたからSSS級になれていたようです。
幌須 慶治
ファンタジー
S級冒険者PT『疾風の英雄』
電光石火の攻撃で凶悪なモンスターを次々討伐して瞬く間に最上級ランクまで上がった冒険者の夢を体現するPTである。
龍狩りの一閃ゲラートを筆頭に極炎のバーバラ、岩盤砕きガイル、地竜射抜くローラの4人の圧倒的な火力を以って凶悪モンスターを次々と打ち倒していく姿は冒険者どころか庶民の憧れを一身に集めていた。
そんな中で俺、ロイドはただの盾持ち兼荷物運びとして見られている。
盾持ちなのだからと他の4人が動く前に現地で相手の注意を引き、模擬戦の時は2対1での攻撃を受ける。
当然地味な役割なのだから居ても居なくても気にも留められずに居ないものとして扱われる。
今日もそうして地竜を討伐して、俺は1人後処理をしてからギルドに戻る。
ようやく帰り着いた頃には日も沈み酒場で祝杯を挙げる仲間たちに報酬を私に近づいた時にそれは起こる。
ニヤついた目をしたゲラートが言い放つ
「ロイド、お前役にたたなすぎるからクビな!」
全員の目と口が弧を描いたのが見えた。
一応毎日更新目指して、15話位で終わる予定です。
作品紹介に出てる人物、主人公以外重要じゃないのはご愛嬌()
15話で終わる気がしないので終わるまで延長します、脱線多くてごめんなさい 2020/7/26
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