公爵家を追い出された地味令嬢、辺境のドラゴンに嫁ぎます!

タマ マコト

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第19話 花園の領主

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 春のはじまりは、土の音から来る。朝一番、露を飲んだばかりの畝の上でしゃがみこみ、耳ではなく掌で聴く。ぬるい脈が指先に返ってきたら、今日の仕事は半分勝ったも同然だ――そう決めてから、もう何年が経っただろう。

「領主さま、子らのパン、追加で焼けました!」

 パン窯の方から声が飛ぶ。焼き立ての匂いが風に乗って、銀花の列をくぐって届く。

「ありがとう、ユナ。熱いから板の上で冷ましてからね。蜂蜜は半分だけ」

「はーい!」

 花園は、かつて砦と呼ばれた石の骨組みの上に広がっている。石壁は残し、尖っていたところは丸く削り、風の入口はあの日のまま、でも少し大きくした。畝は外へ外へと輪を描いて増え、祈りの輪は“集いの輪”になった。薬草庫は二つ、穀倉は一つ。孤児院を兼ねた寄宿舎は南の斜面に寄り添い、朝はいつも笑い声が最初の鐘だ。

「ローザ様、見て! ほら、ほら!」

 腰に巻いた紐から布をあおいで駆けてくる子がひとり。髪は麦の色、目は真面目な空の色。名をリアンという。花園に預かった最初の孤児の世代で、今は年少の面倒を見るのが仕事になっている。

「どうしたの?」

「雛が……雛が笑いました! いや、『笑ったみたい』です! 見てください!」

「笑う、は難しい言葉よ」

「でも、絶対!」

 リアンに引っぱられて温室へ入る。陽だまりの壁の内側、浅い石鉢の上に、銀の欠片でできたような小さな竜が丸まって眠っていた。掌二つぶんの大きさ。鱗は薄く、光の角度で雲みたいに表情を変える。呼吸は浅くて一定だが、時々ふっと背が揺れる。笑っている、という表現はたしかに、かわいい誤解ではないのかもしれない。

「今日はよく眠ってるね」

 ローザは指先を石鉢の縁に置くだけにして、雛の側に座る。触れない。触れすぎない。見張る。見張りながら、声を落とす。

「おはよう、ちいさな銀。風の具合はどう?」

 雛の耳のあたりがぴくりと動き、鼻先が僅かに持ち上がる。温室の布が寝息の音で鳴った。あの日から手元に残った合図は、変わらない――〈いる〉。胸の契印はもう熱を持たないが、その輪郭は朝ごとに確かになる。失ったものと、得続けているものの境界は、ときどきやわらぐ。

「ローザ様」

 背後で声。ゲルが立っていた。数年前に父親になり、背はさらに大きく、言葉は前より柔らかい。

「北の段々畑、石垣が少し崩れかけてる。午後に手を回したい」

「石の口を移せば持つと思う。ミルドに“合図”を一本お願いして。子らの手は午後の授業が終わってから」

「了解。……それと、王都から人が来てる。おまえに会いたいって」

 ゲルは言いながら、温室の奥に視線を滑らせ、小さな竜を見つけて眉を動かす。初めての人でも、目はほとんど同じ反応をする。

「……静かだな」

「静か、がこの子の仕事だから」

 温室を出ると、春の風が廊下の影を撫でた。石の床は朝露を離し、光を受ける準備をしている。集いの輪に行けば、見慣れた姿がそこにあった。灰のマント、穏やかな目。セシリアだ。王都の古い友。彼女は長旅の埃を落とすように、軽く帽子を取って笑った。

「あなた、元気そうで安心した」

「あなたも。王都は、どう?」

「風通しはよくないけど、窓を少し開ける人が増えた。報告書に“呼吸”という単語を書き足す役人がいる」

「良い誤用だね」

「誤用が正しくなるのよ、いつも」

 セシリアの後ろに、見知らぬ青年が一人。背筋が正しく、靴が新しい。王都の土の匂い。目は真面目すぎるほど真面目。

「彼は王都の学匠院から。記録官の卵です。今日は“花園の記憶”を見せてほしいと」

「見せるものは花と手だけ。書きたいなら、土の上で」

「はい!」

 真面目な青年――名をシオンと名乗った――は、緊張で少し大きな声になり、周りの子らが笑う。笑いは空気の角を丸くする。

 午前は畝。午後は石垣。夕方には孤児院で文字の時間。そんな段取りを告げると、集いの輪から「はい!」がいくつか重なった。合図の気配がよく通る日だ。花は勝手には咲かない。咲かせるように動く。手の順番、足の順番、声の順番。それが“領主”の仕事で、ローザはそれを自分の得意分野だと信じている。

 畝では、テオ――もう立派な青年になった――が子どもたちに鍬の角度を教えていた。

「ここ。土の“目”を見る。目を潰すと呼吸が止まる。やさしく起こして、空気を混ぜる。ほら、ローザ様がいつも言うみたいに」

「テオ、言い回し、少し違う」

「真似の質が上がったってことで」

 笑いが起きた。ローザは微笑み、子どもの手元の土をひと掬いすくって、指で崩しながら見せる。

「固いところと柔らかいところが混ざってるでしょ。柔らかさを広げすぎると、根が頼る場所がなくなる。固さは『頼る場所』。分けるのが上手くなると、草も人も呼吸しやすい」

 シオンが隣で真剣にメモを取っている。

「固さは頼る場所……。呼吸の設計……」

「言葉は飾らなくていいよ。土の手順を書いてください」

「はい」

 昼、集いの輪で簡単な食事を取る。薄いスープとパン。蜂蜜は少し。孤児たちがパンをちぎる音は、相変わらず平和の音だ。ゲルが杖を片手に戻ってきて「北の段は夕方で間に合う」と短く言い、ミルドは「午後、風が換わる」と予報を置いていく。祈りの輪は今も輪のまま残っているが、“頼る場所”になってから、祈りは短く、手の動きは長くなった。

 午後、石垣。崩れかけた角を見て、ローザは膝をつく。石は黙っているが、冷たさの向こうで「ここ」と小さく言う。そこに薄板をかませ、口を移し、角度を変える。テオとゲルが重い石を肩で押し、子どもたちが小石を運び、シオンが「口を移す……」とまた書き付ける。セシリアは遠くを見て、風の行き先を測る。協奏。音楽みたいに、手が重なる。

「領主様」

 作業の合間、ひとりの老婦人が杖をついてやってきた。顔見知りだが、名を呼ぶ前に彼女が頭を下げる。

「うちの孫を預かってもらえますか。冬の咳が長くて。ここなら、春まで持つ気がして」

「もちろん。部屋の空きを確認して、今日から」

「手間をかけます」

「かけるのは手。手は、かけるほどに温かくなる」

 老婦人の目が潤み、笑い皺が深くなる。ローザは“花園の領主”と呼ばれている。最初は気恥ずかしかったが、今は“領する”の意味を「守る順番を決める人」と解釈している。名は重い。でも、その重さは、背骨の形を良くする。

 夕方、授業。孤児院の長机には、各地から集まった子たちが肩を並べる。文字は道具。地図は約束。算は収穫の歌。そう教える。ローザはホワイトボードのかわりに石板に、今日の三つを書いた。

 一、名を先につける(灯り/道標/挨拶)。

 二、手の順番は声より先にする。

 三、弱いところを中心に組み立てる。

 子どもたちは、最初の頃は「難しい」と顔をしかめたが、最近は項目の横に自分の例を書き足す。「井戸の布の結び方」「蜂蜜を薄める割合」「泣いてる子の手を握る強さ」。言葉は生き物だ。生き物は、土の上でよく育つ。

「ローザ様」

 授業の終わり、リアンが手を上げる。

「あの子――雛、起きました。笑いました。今度は絶対です」

「絶対は難しい言葉よ」

「でも、絶対!」

 温室に走る。夕光の中で、小さな銀竜が目を細めてこちらを見ていた。丸い耳が二度、ゆっくり動く。鼻先がかすかに上を向き、口の端が――ほんの少し、上がる。笑っていると言い張るには、十分だった。

「こんばんは」

 ローザは石鉢の縁に指を置き、雛の高さに顔をおろす。

「今日も“まし”にしたよ。畝を三つ、石の口を二つ、孤児の部屋をひとつ」

 雛は返事をしない。けれど、温室の布が寝息の音で鳴る。契印が、熾火のように一度だけ明るくなる。〈いる〉。それで、十分だ。

 セシリアがそっと寄ってきて、囁く。

「……この子の名、決めてる?」

「まだ。名前は重い。重さを背負える日まで、待つ」

「王都は“証拠”を欲しがっている。でも、私は今日、充分見た。――『ここに風は宿る』って書く」

「その一文、好き」

「でしょう?」

 夜。集いの輪では小さな音楽会が始まる。鍋の蓋を叩く音、瓶の口を吹く音、子どもの手拍子。誰かが古い子守歌を歌い、それに蜂蜜の匂いが混ざる。ゲルが眠そうな子を肩に担いで寄宿舎へ運び、ミルドは杖で床をとん、と鳴らして「寝ろ」と合図。テオは窓の外へ視線を投げ、星の位置で風を読む。日常の全部が、守りたいものの形をやわらかくなぞっていく。

 部屋に戻る前、ローザは丘に登った。あの日と同じ丘。今は花で縁取られている。夜の銀は昼より静かで、光り方が寡黙だ。空は低く、風はやわらかい。

「――この子が笑うたび、風があなたの声を運ぶの」

 夜空に向かって言う。言葉は、昔よりずっと静かだ。叫ばない。頼まない。報告するみたいに真っ直ぐ。契印がふっと温かくなり、風が髪を撫でる。〈聞いている〉。合図はそれだけでいい。

 ふと、背で小さな足音。リアンが、袖で目をこすりながら坂の上に立っていた。

「ローザ様。雛、眠りました」

「ありがとう。見張りは交代で。今夜はあなたとテオ。交代の合図は“寝息”」

「はい」

 リアンは星を見上げ、もじもじしながら口を開く。

「ねえ、ローザ様。『領主』って、ひとり?」

「いい質問だね」

 ローザは少し考えて、首を横に振った。

「違う。今日、パンを焼いたユナも、石を押したゲルも、文字を教えたテオも、輪に火を守ったミルドも、みんな『領主』の一部。領するって、『面倒を見る順番を決めて、一緒に手を出すこと』だから」

「じゃあ、私も?」

「もちろん。明日、蜂蜜の薄め方、教えて」

「うん!」

 リアンが駆け降りていくのを見送ってから、ローザはゆっくり息を吸い、吐いた。胸の灯りは、あの日から変わらない。形は変わる。音は低くなる。けれど、消えない。消さない。彼女は自分の掌を見て、土の匂いを嗅いで、笑った。

 遠く、王都の方角で微かな光が揺れ、すぐ消えた。噂では、王は老い、ヴァレンは書を改め、マリアンヌは自分の飢えと向き合い始めたらしい。確かなことは何もない。でも、ここには確かな土がある。明日の仕事がある。笑う雛がいる。

 部屋に戻り、手帳を開く。今日の三つを書く。

〈一、孤児の部屋をひとつ増やす。二、北の段の口を移す。三、雛はよく眠る――笑った(絶対)。〉

 ペン先を置くと、風が窓の隙間を通って、寝息の音で鳴った。ローザは微笑み、灯りを落とす。暗闇は冷たくない。銀の粉の記憶が、目を閉じても網膜の裏に残る。

「おやすみ、花園。おやすみ、ちいさな銀。――おやすみ、あなた」

 風が返事をした。ありがとう、と言った気がした。言葉ではないのに、意味ははっきりしている。愛は滅びない。形を変えて、ここにいる。ローザは目を閉じ、明日の「まし」を指で数えながら眠りに落ちた。銀花の音が、やわらかく、長く、夜を満たしていた。

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