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第1話 追放前夜の聖女と、ひび割れた婚約
しおりを挟む夜の聖堂は、静寂そのものだった。
高い天井から吊るされた燭台の炎が、ゆらりゆらりと揺れながら、石造りの壁に淡い影を落としている。
「……次の方、どうぞ」
声を出した瞬間、自分の喉がひどく乾いていることに気づく。
けれど椅子から立ち上がる暇も惜しくて、わたし――リディアは祭壇の前で手を合わせたまま、入ってきた兵士に微笑みかけた。
血の匂い。
鉄と汗の混じった生々しい気配が、夜気に滲む。
「すまない、聖女様……これで、今日何度目だろうな」
片腕を押さえながら歩み寄ってきたのは、前線から戻ったばかりの若い兵士だった。肩口から先の鎧が割れ、肉が覗いている。
「数えるだけ無駄です。ほら、座ってください。痛いのは……怖いですよね」
冗談めかして笑ってみせると、兵士は少しだけ目を丸くして、それから照れたように俯いた。
「聖女様の前で“怖い”なんて言ったら、仲間に笑われちまいますよ」
「怖いものは、怖いって言っていいんですよ」
そっと傷口に手をかざす。
指先から、じんわりと温かな光が染み出していく。
自分の魔力が脈を打ち、相手の血の流れと重なる感覚に、深く息を吸い込む。
「……っ」
兵士がぴくりと肩を震わせる。しかしそれは痛みではなく、熱に驚いた反応だ。
ぱっくり開いていた傷が、ゆっくりと塞がり、血が止まる。
肉が編み直されていくような光景を何度見ても、これは慣れることがない。奇跡という言葉は嫌いだけれど、それでも、確かにこれは普通ではない力だ。
「はい、もう大丈夫です」
光がすっと消える。兵士は恐る恐る腕を動かし、目を見開いた。
「……痛く、ない。本当に、もう……!」
「無茶は、ほどほどにしてくださいね。わたしの身体はひとつしかありませんから」
「ははっ、それは困る。聖女様がいなきゃ、今頃俺たち全滅ですよ」
軽口を叩きながらも、兵士の目は真剣だった。
彼は深く頭を下げると、何度も何度も「ありがとうございます」と繰り返す。
その一つ一つが胸の奥に降り積もっていく。
――ああ、わたしは、まだ必要とされている。
「次の方、どうぞー」
扉の外の神官に声をかける。
聖堂の外には、まだ治癒を待つ人々が列を作っている。兵士だけではない。貧しい農民、病の子ども、年老いた人たち。
延々と続くこの列が、戦場と日常が地続きであることを教えてくれる。
何人癒やしただろう。
十人、二十人、もっと……数えるのは途中でやめた。
魔力はとっくに底をついていて、代わりに自分の体力を削っている感覚がある。
視界の端が時々揺れる。それでも手を止めるわけにはいかなかった。
「聖女様、水を」
そっと差し出された水杯を受け取ると、冷たい水が喉を滑り落ちていく。
差し出した神官見習いの少女が、心配そうにこちらを見上げていた。
「リディア様、本当に……今日はもう、お休みになったほうが」
「まだ、待ってる人がいるから」
杯を返しながら、微笑みで誤魔化す。
言葉にすると、自分で自分に呪いをかけているみたいだと分かっていても、やめられない。
だって――
この力は、わたしにしかない。
わたしが休めば、救えるはずの命がこぼれ落ちてしまう。
それを想像するだけで、足を止めることが怖くなる。
◇
気づけば、空が白み始めていた。
聖堂を出ると、まだ冷たい早朝の風が、ひどく熱を持った身体を撫でていく。
「……寒い」
小さく呟いて肩を抱いたところで、背後から声がした。
「やはり、ここにいたか」
振り返るまでもなく分かる声。
振り返ると、そこには漆黒の軍装に身を包んだ青年――王太子ユリウスが立っていた。
「ユリウス様。こんな朝早くに……」
昔は、名前を呼ぶとき少しだけ躊躇った。今は逆だ。
“様”をつけることに、喉の奥がきゅっと締め付けられる。
「昨夜、前線から急ぎ戻った。報告が山積みでな。……その前に、聖堂を確認しろと助言された」
「確認、ですか?」
「聖女がきちんと役目を果たしているか、だそうだ」
淡々とした声。
そこには、かつて「無理をするな」と眉をひそめていたあの優しさは微塵もなかった。
「……見ての通りです。気絶せずに一晩働けました」
軽く冗談めかして返してみせる。
彼の口元が、ほんの少しだけ動いた気がしたが、それが笑みなのかどうかも、もう分からない。
「そうか。なら、報告に書いておく」
「報告……?」
「最近、“聖女の加護が弱まっている”という噂が出ている。お前の働きについて、王と議会に逐一伝える必要がある」
胸の奥が、きゅっとつねられたように痛む。
「噂、ですか。誰がそんなことを」
「宮廷のあちこちから聞こえる。……特に、貴族の夫人方の集まりではな」
そこでユリウスは、ちらりと王城の方へ視線を向ける。
視線の先にあるのは、大広間や舞踏室。
最近そこに、ある一人の令嬢の笑い声がよく響くようになった――と、侍女たちの噂で聞いていた。
「その噂、ユリウス様はどう思われますか?」
喉が僅かに震える。でも聞かずにはいられなかった。
噂ではなく、彼自身の言葉が欲しかった。
「……事実として、辺境の被害は増えている。お前一人の責任だとは思わないが、“結果”としては、そう見えるのだろう」
要約すれば、「否定はしない」ということだ。
心のどこかで、わかっていた答え。
それでも、実際に口にされると、胸の奥で何かがひび割れる音がした。
「そう、ですか」
無理矢理口角を上げる。
彼は昔みたいに、わたしの顔を覗き込んだりはしない。距離を取るように、寒い朝の空気の中でまっすぐ前を見ている。
「リディア」
「はい」
「今日の午刻から、王城で評議がある。聖女も出席だ。詳細は侍従から聞け」
「……わかりました」
それだけ告げると、ユリウスは踵を返した。
歩き去る背中は、いつも背筋が伸びていて、見る者に安心感を与える。
けれど今は、その背中がひどく遠く感じられた。
「ユリウス様」
思わず呼び止めてしまう。
振り返った彼の紫の瞳が、まっすぐこちらをとらえる。
「……何だ」
「お帰りなさい、は……言わせてくれないんですか?」
一拍の沈黙。
昔は、前線から戻るたびに言わせてくれた言葉。
「ただいま」と笑ってくれた顔。
彼はほんのわずかに眉を動かすと、視線をそらした。
「……そういう言葉に、意味を求めている余裕はない」
「そう、ですよね」
自分で聞いておいて、自分で納得させる。
その瞬間、胸の中でひび割れた何かが、さらに深く亀裂を広げた。
◇
午前中、侍女に整えられながら、ぼんやりと鏡を見る。
金色の髪をまとめ、聖女の証である淡い白と銀の衣を身に纏う。
目の下の隈を、侍女が器用に粉で隠していく。
「リディア様、もう少しだけお顔を上げていただけますか?」
「ごめんなさい、考え事をしてました」
「いえ……。でも、本当にお疲れが溜まっておられるようで。少し痩せられました?」
「鏡がそう見せてるだけですよ」
軽く冗談を飛ばすと、侍女は困ったように笑った。
本当は、冗談じゃないことを知っているのだろう。
最近、ドレスの腰回りが緩くなったと、彼女自身が一番気づいているはずだ。
髪に白いヴェールがかけられ、聖女としての完成形が作られていく。
それは絵画のように整っていて、美しい“役割”そのものだった。
「……どうか、皆様がリディア様のご苦労を分かってくださいますように」
侍女の小さな祈りに、喉の奥がぎゅっと締まる。
「期待しすぎると、がっかりしますよ?」
「それでも、祈らずにはいられません」
祈り。
それは本来、わたしの役目のはずなのに、今この瞬間祈っているのは彼女のほうだ。
◇
王城の大広間には、きらびやかな衣を纏った人々が集まっていた。
朝だというのに、舞踏会のような香水と宝石の匂い。
中央の階段を降りるたび、刺さるような視線を肌に感じる。
「聖女様よ」「最近、加護が弱まってるって」「本当かしらねぇ」
小声なのに、妙に耳に届く囁き。
笑いを含んだ声もあれば、不安そうな声もある。
どれもが、わたしの存在を“噂話”として消費している。
「あら、聖女様」
少し甲高い、よく通る声が、ざわめきの中から抜き出される。
振り向くと、淡い桃色のドレスをまとった令嬢――エリシアが、絵画の中から抜け出したみたいな笑みを浮かべて立っていた。
艶やかな栗色の髪、大きな碧眼。
その一挙手一投足が「守ってあげたくなる小動物」を計算して作られているのがはっきりわかる。
「お久しぶりですわ、リディア様。最近はお疲れだと伺って……大丈夫でして?」
その声音には、本物の心配と、ほんの一滴の甘い毒が混ざっている。
「……ご心配ありがとうございます。なんとか、やっていますよ」
「さすが聖女様ですわ。わたくしのような弱い人間には、とても真似できませんもの。
ああ、皆様も仰っていましたわ。“最近、聖女様の加護が弱まっているとしたら、それはきっとお疲れだからよね”って」
“弱まっている”という言葉だけ、妙に鮮やかに切り取られて耳に残る。
そうやって、何気ない会話の中に噂を混ぜ込むのだろう。
この令嬢が宮廷に出入りするようになってから、聖女に関する噂は一気に増えた――と、また侍女たちは囁いていた。
「……皆さんがそう思ってくださっているなら、ありがたいことですね」
皮肉にもならない言葉を返すと、エリシアはうっとりしたように胸に手を当てた。
「でも、リディア様が倒れてしまったら、この国はどうなってしまうのかしら。わたくし……怖くて夜も眠れませんの」
わざとらしく潤む瞳。
それを見た周囲の貴族たちが、「まあ、なんて優しいお嬢さんだ」と囁き合う。
その視線の一部が、冷えた刃となってわたしに向けられている。
――ああ、この人は上手いな。
そう思ってしまった自分に、少しだけ笑いそうになる。
彼女は自分を責めているように見せかけて、実際に責めているのは“聖女が倒れたら国が困る”という一点だけだ。
そこには、「だからあなたはもっと頑張りなさい」という無言の圧力が込められている。
「リディア」
低い声が、ざわめきを切り裂く。
見上げると、階段の上からユリウスがこちらを見下ろしていた。
いつの間にか王族の入場が始まっていたらしい。
「持ち場に。始まる」
「……はい」
エリシアが、少しだけ残念そうに目を伏せる。
「ユリウス殿下、聖女様をよろしくお願いいたしますわ。どうか、ご無理をさせすぎませんように」
その言葉に、周囲の何人かが頷く。「殿下が聖女を酷使しているのでは」と、別の噂が生まれそうな気配。
ユリウスはそれを悟ったのか、わずかに眉を寄せただけで何も言わなかった。
ただ、その視線が一瞬だけ、エリシアに向いて柔らかくなるのを、わたしは見逃さなかった。
胸の奥が、鋭い爪で引っ掻かれたみたいに痛む。
(今は国が忙しいから。仕方ない)
頭の中で何度もそう繰り返す。
忙しいから、わたしに構う余裕がないだけ。
昔みたいに笑わないのも、一緒にお茶を飲まないのも、そういうこと。
エリシアへの微笑みだって、きっと社交の一部。
(……そうじゃなかったら、困る)
自分で自分に言い聞かせる。
それは、ひび割れたガラスに必死に透明なテープを貼り付けているような作業だった。
もう割れてしまっているのに、見ないふりをしているだけ。
その“無理矢理の納得”が、どれほど危ういものか。
このときのわたしは、まだ知らなかった。
この日が、“追放前夜”と呼ばれることになるのだと気づいていなかったように。
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