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第5話 追放の夜と、消されかけた命
しおりを挟む追放を言い渡された日の夕焼けは、やけに綺麗だった。
王城のバルコニーから見下ろした街は、いつもと変わらない。
人々の笑い声がかすかに届き、煙突からは夕餉の煙が上がっている。
その全部が、もうすぐ“自分とは関係のない景色”になる。
(実感、わかないな……)
あまりにも一瞬で、あまりにも派手に、人生がひっくり返ったせいで、心がついていかない。
「急いでくださいませ、リディア様」
部屋の中で荷造りしている侍女が、震えた声で言った。
「“最低限の荷物のみ”とのご命令です。衣服も、本当に必要なものだけで……」
「うん、大丈夫。そんなに持っていけるほど、元々持ち物ないし」
冗談のつもりで笑ってみせる。
けれど、侍女は笑わなかった。
代わりに、今にも泣き出しそうな顔でこちらを見る。
「本当に……本当に、こんなことに……」
「泣かないで。……わたしまで泣きたくなるから」
冗談めかして言うと、彼女は唇を噛んで俯いた。
荷物と呼べるものは、本当に少なかった。
聖女の正装は城に返すよう命じられている。持ち出していいのは、私物のドレスが二着、替えの下着と靴、最低限の金貨が入った小袋。
あとは、こっそり忍ばせた古い祈祷書と、小さい頃ユリウスから贈られた花のブローチ。
(……これは、置いていけない)
理屈では、「捨てたほうが楽」って分かっているのに。
指が勝手に、その小さな金属片を握りしめていた。
「お支度は、これで……」
侍女が深く息を吸う。
「リディア様、本当に……お世話になりました。わたし、聖堂付きに配属されてから……ずっと、聖女様のそばで働けて、誇りでした」
「やめてよ。そういうのは、お別れみたいで……」
「お別れ、なのでは……」
聞きたくなかった言葉を、はっきり言われる。
胸の奥が、ぎゅっと掴まれたみたいに痛んだ。
でも、否定できない。
この王城に“聖女リディア”として戻ってくることは、もうないのだと分かっているから。
「……ありがとう。わたしのこと、そんなふうに思ってくれて」
笑顔を貼りつけたまま、侍女の手を握る。
「あなたがいてくれて、わたしも本当に助かったよ。
服ひとつ、自分じゃまともに着られない聖女だったからね、わたし」
「そんな……」
くすっと笑いかけてくれたその瞬間が、少しだけ救いだった。
扉の外で、靴音がした。
「リディア様。お時間です」
無機質な声。
ドアを開けると、そこには鎧姿の兵士が二人立っていた。
見慣れない顔。
いつも聖堂まで護衛してくれていた騎士ではない。
「……護衛、の方々?」
「“護衛”という名目です。国境までお送りします」
“名目”。その一言が、妙に耳に残る。
兵士たちの目は、冷たい石みたいだった。
忠誠とか守る意志とか、そういうものは一切感じない。
(ああ、わたしはもう、“守るべき存在”じゃないんだ)
当たり前の事実が、実際に目の前に現れると、こんなに刺さるんだ。
◇
城門を出るとき、見送りはほとんどなかった。
王も、ユリウスも来ない。
神官長も、貴族たちも姿を見せない。
聖堂の方角から、誰かがこちらを見ている気配がして、思わず振り返る。
遠くの回廊の影に、小さく手を合わせている神官見習いの姿が見えたような気がした。
「行きましょう」
兵士が促す。
用意されたのは、簡素な馬車だった。
聖女として城を出入りしていたときに使っていた、紋章入りの立派な馬車ではない。
荷物の輸送に使われる、普通より少しだけマシな程度のもの。
(扱い、分かりやすいな……)
心の中で苦い笑いが浮かぶ。
同時に、それが妙に現実味を帯びてきて、胃のあたりが重くなる。
馬車に乗り込むと、扉が閉められた。
薄いカーテン越しに見える王都の灯りが、ゆっくりと遠ざかっていく。
石畳から土の道へ変わる振動。
車輪がきしむ音。
馬の蹄のリズムが、一定のテンポで夜を刻んでいく。
外は、もうすっかり闇だった。
◇
どれくらい揺られたんだろう。
時間の感覚が、どんどん曖昧になっていく。
窓の外には、街灯も民家の灯りもない。
黒い森の影が時々覗くだけだ。
向かいの席には誰もいない。
兵士たちは御者台と外側に配置されているらしく、馬車の中はわたし一人だった。
(ひとりって、こんなに静かだったっけ)
聖堂では、人の声が絶えなかった。
泣き声、安堵の笑い声、祈りの囁き。
今は、自分の心臓の音と、馬車のきしみだけ。
膝の上に置いた小さな荷物袋を、ぎゅっと握りしめる。
中には、最低限の服とお金と、祈祷書と、ブローチ。
――ブローチ。
指が、それを確かめるように探り当てる。
花弁をかたどった小さな金具。
まだ幼かった頃、ユリウスが「いつか王妃になる君に」と渡してくれたもの。
「……ばかみたい」
思わず口から漏れる。
どう考えても、今の状況に似合わない“未来の形見”みたいなものだ。
(でも、捨てられないんだよね)
ブローチを握ったまま、額を窓に預ける。
冷えたガラス越しに、夜風の気配が伝わってきた。
ふと、馬車の揺れ方が変わる。
道が悪くなった。
細かい石や根っこを踏むような、ガタガタとした振動。
「……森に、入った?」
小さく呟いた瞬間。
馬車が、急に止まった。
前のほうで、御者と兵士が何か話している声がする。
言葉までは聞き取れない。
胸の奥で、嫌な予感が膨らんだ。
(まさか、ここで降ろすつもりじゃないよね)
国境まで、まだ距離はあるはずだ。
なのに、こんな真っ暗な森の中で馬車が止まる理由なんて――
ゴトリ、と扉が開いた。
「降りろ」
さっきよりも冷たくなった声が、夜気と一緒に流れ込んでくる。
「……ここで、ですか?」
「そうだ。ここから先は一人で行け」
兵士の一人が淡々と告げる。
外に出ると、そこは思っていた以上に深い森だった。
月明かりすら、ほとんど届かない。
木々が密集していて、空が細い筋でしか見えない。
「国境まで、まだ距離があるはずです。ここから、徒歩で?」
「行けるさ。聖女様なら、な」
嘲るような声音。
“もう聖女でもなんでもない癖に”という本音が透けて見える。
「……護衛は?」
「あ?」
兵士が、にやりと笑った。
「俺たちの仕事は、“ここまで連れてくること”だ。
ここから先は、聖女殿ご自身のご判断で、どうとでも」
その言い方が、妙に引っかかった。
(“ここまで”って、どこまで)
次の瞬間。
背後で、鋼が擦れる音がした。
シャン、と冷たい音が森に響く。
振り返るまでもない。
聞き慣れた、その音。
――剣が、抜かれた。
「……何を、するつもりですか」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
「悪く思うなよ、聖女殿」
兵士の片方が、肩をすくめる。
「“丁重に王都からお連れし、二度と戻ってこないよう手配せよ”って命令でな」
「丁重に、って……そういう意味じゃ」
「生きて戻られても困るんでな」
その言葉は、あまりにもあっさりと投げられた。
一瞬、意味が理解できなかった。
“戻られても困る”。
つまり――
(わたしを、この場で消す気なんだ)
遅れて、背筋を冷たいものが走る。
「ちょっと、待って――」
言い終わる前に、兵士が地面を蹴った。
月明かりもろくにない暗闇で、銀色の線が一瞬だけ閃く。
(速い――!)
体が勝手に動いていた。
胸の奥から、乱暴に魔力を引きずり出す。
「――守り給え!」
反射的に編み上げた防御結界が、目の前に薄い膜となって展開する。
透明な壁が、空気を震わせるように張られた。
その直後、剣が結界に叩きつけられた。
ガンッ、と鈍い衝撃。
結界の表面に、蜘蛛の巣みたいな亀裂が走る。
「ちっ、まだこれくらいはできるか」
兵士が舌打ちする。
リディアは膝が笑いそうになるのを必死で堪えた。
(まずい……魔力の反応が、遅い)
長年酷使してきた力は、もう限界を何度も越えている。
普段なら瞬時に厚い壁を張れるはずが、今は薄い膜が一枚やっとだ。
じわじわと、結界が削られていく。
剣の軌跡が残す衝撃波が、膜を叩き続けた。
「お前は後ろから行け。逃がすなよ」
「了解」
背後に、別の気配。
同時に二方向から衝撃が走り、結界が悲鳴を上げる。
「――っ!」
頭の奥で、何かがきしむ音がした。
(防ぎきれない)
直感が叫ぶ。
このまま真正面から受け続ければ、結界ごと身体が持たない。
喉が焼けるように痛い。
魔力の流れが、ところどころぷつぷつと途切れていく。
(だったら――)
ギリギリまで引きつけてから、結界の一部をわざと解いた。
正面に、隙間を作る。
兵士の剣が、そこに向かって迷いなく飛び込んでくる。
リディアは身体をひねり、その軌道からギリギリ外れた。
肩をかすめる熱い痛み。
服が裂け、肌に血が滲む。
「なっ――!」
兵士が意表を突かれたように目を見開く。
その一瞬の隙を突いて、リディアは森の奥へ走り出していた。
「おい、逃げたぞ!」
「追え!」
怒鳴り声が背中に飛んでくる。
夜の森は、足音と呼吸の音でいっぱいになった。
◇
森の中は、想像以上に酷かった。
地面は木の根が無数に張り巡らされている。
草は伸び放題で、足元が見えにくい。
枝は容赦なく顔や腕を引っかいてくる。
「っ、いった……」
頬を裂かれた痛みが走る。
剥き出しの肌が、何度も枝に引っかかって傷だらけになっていく。
ドレスの裾は、すぐに邪魔になった。
走るたびに足に絡まり、何度も転びかける。
「こんな格好で逃げるの、ほんとバカだ……」
半ば泣きそうになりながら、小さく毒づく。
でも、笑える余裕なんてすぐに消えた。
後ろから、金属がぶつかる音が聞こえてくる。
兵士たちは鎧の分だけ動きは鈍いはずなのに、それでも距離は思ったほど離れない。
(魔法で足止めしたいけど……そんな余裕、ない)
防御結界だけでも、さっきかなり魔力を削られた。
追撃を防ぐために、最低限の結界は残しておかなきゃいけない。
息が、焼ける。
肺の中が熱くて、空気が喉を通るたびに痛い。
足も、もう自分のものじゃないみたいに重い。
「止まれ!」
「観念しろ、聖女殿!」
(誰が、あんたたちの都合で終わってやるもんか)
心の中でだけ、毒づく。
口に出したら、その一瞬で足が止まってしまいそうだった。
枝に足を取られ、派手につまずいた。
「――っ!」
地面と顔が近づく。
瞬間的に腕をついて受け身を取ったけど、肘に鈍い痛みが走った。
とっさに振り返ると、兵士たちの影がすぐそこまで迫っていた。
(まずい――!)
立ち上がろうとした足が、言うことを聞かない。
膝が笑って、その場で崩れ落ちそうになる。
「捕まえた」
暗闇の中で、嫌な笑い声がした。
剣が、月光をかすめて光る。
さっきよりも、迷いがない軌道。
(間に合わない――)
咄嗟に半端な結界を張る。
薄っぺらい膜が、必死に刃を受け止める。
ギシギシと、嫌な音が耳の奥に響く。
割れる。時間の問題だ。
そのとき――
ぽつ、と、何か冷たいものが頬に落ちた。
「……雨?」
次の瞬間、空気が変わった。
葉の上を叩く音。
土を打つ音。
冷たい水滴が、一気に身体中に降り注ぐ。
森全体が、ざあああ、と白いノイズに包まれた。
「くそっ、こんな時に……!」
兵士の一人が舌打ちする。
視界はさらに悪くなる。
足元もぬかるみ始める。
音だけが増えて、互いの位置が分かりにくくなる。
(……まだ、運は残ってたんだ)
リディアは、皮肉な笑いを内心で浮かべた。
結界を維持したまま、雨水で滑りやすくなった地面に身を投げるように転がる。
兵士の剣が、かすめる。
髪の先を切り裂き、土に突き刺さった。
「ちょこまかと……!」
「森の奥に追い込め! 逃げてもこの辺りは魔物の巣だ、勝手に死ぬ!」
その言葉は、妙に冷静だった。
わざわざ自分たちの手で血をつけなくてもいい。
このまま森の奥に追い立てれば、魔物か、疲労か、寒さか……何かが勝手に処理してくれる。
「“生きて戻られても困る”って、そういう……」
息が白くこぼれる。
雨なのか涙なのか、もはや分からなかった。
◇
どれだけ走ったのか、もう分からない。
足元の感覚はなくなり、ただ前に前にと足を出しているだけ。
靴の中には水が入り、ぐちゅぐちゅと不快な音がした。
裾は泥と血でべったりと張り付き、重さを増している。
体温が、奪われていく。
さっきまで焼けるようだった肺も、今は冷たさで痺れている。
指先は感覚が薄れ、魔力の糸を握り続けるのがやっとだった。
(……わたし、何やってるんだろ)
不意に、そんな思考が浮かぶ。
国のために祈って、命を削って。
その結果が、“追放”で、“暗殺未遂”で、“魔物の巣に放置”。
(最初から、“聖女”なんて役、わたしじゃなきゃよかったのかな)
心のひび割れが、今さらのように自己主張してくる。
視界が揺れた。
バランスを崩し、そのまま前のめりに倒れ込む。
顔に冷たい泥が跳ねた。
湿った土の匂いが、鼻の奥まで入り込んでくる。
もう、立ち上がれない。
身体のどこを探しても、動かすための力が残っていなかった。
「……ここで、終わるんだ」
雨音に紛れて、小さな声が零れた。
不思議と、恐怖はなかった。
悔しさも、悲しさも、もちろんある。
でも今は、それより前に、ただ、限界だった。
「せめて……誰か、ひとりくらい……」
わたしを“聖女”じゃなく、“リディア”として見てくれる人がいたら。
そんな甘い願いを、いまさら抱いてしまう自分が、どうしようもなく滑稽だった。
頬に落ちる雨粒が、いつの間にか温度を失っていく。
世界の輪郭が、ぼんやりと溶けていく。
意識が闇に引きずり込まれかけた、そのとき――
かすかに、別の音が混じった。
金属と金属が触れ合う音。
規則正しく刻まれる蹄の音。
複数の足音と、鎧の揺れる気配。
(……また、追ってきた?)
いや、違う。
この音はさっきの兵士たちのそれよりも、重く、整っている。
隊列を組んで動く、訓練された騎士団の足並みだ。
「隊長、この辺り、魔力の揺らぎが……」
「確かに。さっきから妙な反応が続いているな」
低い男の声が、雨音の隙間から聞こえてくる。
(……聞き慣れない声)
この国の騎士たちの声ではない。
言葉の抑揚に、どこか違う国の匂いが混じっていた。
ぬかるんだ地面を蹴る音が近づいてくる。
重い靴が泥を踏みしめる感覚が、地面越しに伝わった。
「おい、あれ……」
「人影か?」
誰かが息を呑む気配。
「誰か倒れてるぞ!」
雨音よりも鮮やかに、その声だけが届いた。
(ああ……)
もう、目を開ける力もなかった。
視界の端に、ちらりと何かが映る。
雨に濡れて揺れる旗。
見慣れない紋章――氷の結晶と、剣を組み合わせた意匠。
(アルシェルドの紋章じゃ、ない……)
知らない国の、知らない騎士たち。
でも、その紋章はなぜか、ひどく“落ち着く”色をしていた。
「息は、まだある!」
「ひでぇ怪我だ……服もぐちゃぐちゃだし、顔の傷も……」
「魔力の枯渇も酷い。放っておいたら、この雨で本当に死んでたな」
誰かが、そっと身体を抱き上げる。
冷たいはずの鎧が、不思議と温かかった。
雨に打たれ続けていたせいで、あらゆる温度が麻痺していたからかもしれない。
「隊長、どうします? 正体も分からない女ですが」
「この辺りは国境近くだ。アルシェルドから流れてきた可能性が高いな」
落ち着いた声。
命令を下す立場の人間の口調。
彼は、ほんの一瞬だけ迷った気配を見せた。
「……見捨てる理由もない。連れて帰るぞ」
「了解!」
地面から切り離される感覚。
揺れる視界の中で、最後にもう一度、見慣れない紋章が目に飛び込んでくる。
(……助け、て……くれるのかな)
声にはならない願いが、心のどこかで浮かんでは消えていく。
そのまま、リディアの意識は完全に闇へと沈んだ。
追放の夜。
この瞬間、アルシェルドの“聖女リディア”は、ほとんど死んだも同然だった。
――代わりに、“どこか知らない国の誰かに拾われた女”としての、二度目の人生の幕が、ひっそりと上がろうとしていた。
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