聖女を追放した国が滅びかけ、今さら戻ってこいは遅い

タマ マコト

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第11話 滅びの兆しを知らぬふりできない国

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 アルシェルド王国から、聖女リディアが消えて数ヶ月。

 最初の一ヶ月は、やけに眩しかった。

 王城の大広間には、色とりどりのドレスと宝石が溢れ、音楽と笑い声が夜更けまで止まらなかった。
 新たな聖女――エリシア・フェルネストの就任を祝う祝宴。
 誰もが「これで国は安泰だ」と言い合い、「これからはより強い加護が」と期待と不安を煮詰めたような言葉を交わした。

 リディアを追放した夜の空気を覚えている者も、少しはいたはずだ。

 だが、人は見たいものだけを見る。

「まあ、ご覧になりました? 就任の儀式でのあの光!」

「ええ、ええ。前の聖女様より、きらびやかだったとか」

「そうですわね、“映える”奇跡でしたわ」

 上流貴族たちは、そんな会話で互いの不安をごまかした。

 エリシアは、薄いヴェールをかぶり、震える指で聖杯を捧げた。
 祭壇の上に小さな光の粒が舞い、花弁のように降りてくる。
 見栄えのする祝福。
 光は確かに「綺麗」だった。

 ただ――

 そこに、「大地の底まで染み込んでいく温度」はなかった。



 エリシアの力は、祝福や見た目の浄化には向いていた。

 傷を負った兵士たちの前に立ち、彼女が祈れば、かすり傷や浅い切り傷はたちまち塞がる。
 病で寝込んだ子どもの額に手を置けば、一時的に熱が下がる。
 婚約披露の場で、王太子ユリウスに花の冠を降らせることもできた。

 だから最初のうちは、誰も文句を言わない。

「ほら、ご覧になって。聖女様のご加護で、こんなに綺麗に傷が消えましたのよ」

「ええ、ええ。“ちゃんと働いている”のですね、新しい聖女様は」

 宮廷の空気は、“自分たちの選択は正しかった”という確認に忙しかった。

 それでも、違和感はすぐに現れ始める。

「前線からの報告です」

 議会で、山積みの羊皮紙が机に置かれる。

「……魔物被害、前月比120%増加?」

「どこもかしこも、“やや増加”か“増加傾向”だな」

「聖女様の就任直後なら、むしろ落ち着いてもいい頃だと思ったのだが」

 小さなざわめき。
 それを打ち消すように、誰かが言う。

「これは、天候のせいだろう」

「ええ、そうですとも。このところ雨が不規則ですし、魔物も落ち着かないのでしょう」

「北方の山脈で何か異変があるとか。隣国ノルディアが何か仕掛けているのかもしれん」

 そう言って、「聖女の件」と書かれた書類を、そっと机の隅に押しやる。

 何度も押しやられて、“見ないふり”をされた紙の束が、少しずつ積み重なっていく。



 ユリウスは、その中心にいた。

 王のすぐそばで報告書に目を通し、議会に出席し、新しい聖女の傍に立つ王太子。
 立場としては、以前と変わらないはずだった。

 けれど、視界は決定的に違っていた。

 隣にいるのは、リディアではない。

「殿下、大丈夫でしょうか……」

 エリシアが、わざとらしく不安げに袖を握る。

「わたくし、まだ力不足で……リディア様のようには、とても」

「君は君の出来ることをすればいい」

 ユリウスは、そこで言葉を止める。

(“リディアのように”か)

 喉の奥で、何か引っかかる。

 あの夜、大広間でリディアに向かって告げた言葉が、今さら自分の首を絞める。

『君は聖女としての責務を果たせなかった』

『聖女の称号を剥奪し、婚約もここで破棄する』

 あのとき、自分は間違っていないと思っていた。

 数字が示す“結果”がすべてだと信じていた。
 神官たちの報告書を信じ、貴族たちのざわめきを静めるためには、それしかないと。

(それなのに――)

 数ヶ月経った今、積まれている報告書は、以前よりも“悪い数字”を並べている。

「辺境第三防衛線、突破されました」

 ある日、血相を変えた伝令が飛び込んできた。

「第四防衛線にて応戦中ですが、こちらも長くは……!」

「聖女の加護はどうした」

 誰かが叫ぶ。

「前線の癒しは行われているのか!」

「エリシア様は、王都での儀式を優先されており……」

「なぜだ!」

「“王都の加護を安定させることが先決”と、神官長が……!」

 場の空気がざわりと揺れる。
 ユリウスは拳を握りしめた。

(前線の兵の負傷を癒していたのは、誰だった?)

 思い出すまでもない。

 傷だらけで戻ってくる兵士たちの列。
 聖堂の奥、祭壇の前で、ひたすら祈り続けていた少女。

 指先を震わせながら、何度でも手を伸ばしていた聖女。

(リディアだ)

 今さら、当たり前の事実が胸を刺した。

 もちろん、分かっていたつもりだった。
 聖女が国を支えているということは、理解していた。

 ――数字で。

 報告書に記された「治癒人数」「加護の対象地域」、儀式の成果として列挙された項目。
 それが彼にとっての「聖女の働き」だった。

 今、その“数字”が意味を失い始めている。

 報告書には、「癒しの儀は滞りなく」の文言。
 けれど、兵士たちは疲弊し、負傷者は減らず、葬儀ばかりが増えている。

 数字と現実が、噛み合わない。

「ユリウス」

 王の声が、背後からかかった。

 王座に座る父の顔色は、以前より著しく悪い。
 目の下には深い隈、唇は乾いている。

「聖女の件は……どうなっている」

「エリシアの力は、王都においては安定しております。
 ただ、辺境への影響はまだ――」

「“まだ”と言っている余裕はないだろう」

 王は、わずかに咳き込んだ。

「リディアのときは、どうだった?」

 その名前を、父の口から聞くのは久しぶりだった。

 ユリウスは、一瞬だけ息を止める。

「……辺境の被害は、“ある程度の範囲で抑えられている”と報告されていました」

「そうだな。“ある程度”だ」

 王は目を閉じる。

「その“ある程度”が、どれほど大きかったのか……今ようやく分かった」

 その言葉には、自嘲が混ざっていた。



 やがて王は、本当に倒れた。

 高熱と咳。
 寝台から起き上がれない日が続き、「重い風邪だ」と宮廷医師は繰り返したが、誰も信じていなかった。

 病の噂は、あっという間に城中に広がる。

「陛下がお倒れになったそうだ」

「いや、“一日二度しか起き上がれない”と聞いたぞ」

「戦況が悪化しているこの時期に……」

 そして、ごく自然な流れのように、ユリウスは「摂政」として国の実務を握ることになった。

 国王の署名が必要な書類は、全部自分の手元に来る。
 兵の配置も、税の再配分も、避難計画も、全部。

 机の上に積まれた羊皮紙は、山というより崩れかけた塔のようだった。

「……多すぎるだろ」

 思わず漏れた呟きは、誰にも聞こえない。

 インク壺の中の黒が重く見える。
 視線をわずかにずらすと、窓の外には、王都の街が広がっていた。

 そこに暮らす人々の顔を、彼はほとんど知らない。

 数字でしか知らなかった。

「殿下」

 扉の外から、侍従が顔を出す。

「前線からの使者が、至急の拝謁を求めております」

「通せ」

 重い返事をして、ユリウスは椅子から立ち上がる。
 新しく整えられた執務室は、彼にとってまだ“借り物の場所”だった。

 少しして、薄汚れた軍服の男が膝をついた。

 肩には包帯。
 鎧には血の跡。
 顔には、ひどい疲労と焦燥。

「北方第三防衛線、完全に崩壊。第五防衛線まで退却しております」

「第四はどうした」

「第四は……“防衛線”と呼べるほどのものではもともとなく、地の利と少数の兵で持ちこたえていたのですが……
 魔物の群れが、これまでにない規模で押し寄せ、――」

 言葉が続かない。

「負傷者は?」

「数え切れません。同時に、病も……」

 病。

 その単語に、ユリウスの背筋が少しだけ冷えた。

「病が広がっているというのは、本当か?」

「はい。魔物に襲われた村々で、原因不明の高熱と咳が広まり……
 王都からの薬草や医師だけでは、とても追いつきません。
 聖堂からの“加護”も、以前ほど届いているようには……」

「聖女の祈りは?」

「王都から、“儀式は行われている”と……報告書では」

 “報告書では”。

 その言葉に、ユリウスのこめかみがぴくりと動いた。

 報告書でなら、いくらでも文字を並べられる。
 「祈りは届いている」「儀式は成功」「加護は健在」。

 だが、目の前の男の目は、そう言っていない。

「――下がれ」

 短く命じると、男は深々と頭を下げて退室した。

 扉が閉まった瞬間、ユリウスは大きく息を吐く。

 胸の内側を、ドロドロとした何かが這い回っていた。

(リディアがいた頃は)

 思い返したくないのに、記憶は勝手に浮かび上がる。

 前線から戻った兵士たちが、聖堂に列を作る姿。
 「聖女様、助けてください」と頭を垂れる者たち。

 リディアは、いつも疲れていた。
 目の下には隈ができていて、肌も透き通るように白くて、腕は驚くほど細かった。

 でも、彼女は決して「嫌だ」とは言わなかった。

『リディア、君は本当に全力を尽くしているのか?』

 あの日の自分の言葉が、今の自分に突き刺さる。

(全力以上を、捧げていたんだ)

 今になって、ようやく分かり始める。

 山積みの報告書。
 戦況図。
 町の生産量。
 病床の数。

 全部を眺めていると、背後に薄く“祈りの影”が浮かんで見える。

 そこに一人、淡い光を振りまき続けていた少女の姿。

 自分は、その光を「当然」だと思っていた。

「殿下」

 今度は、大臣の一人が入ってきた。
 彼の顔には、あからさまな疲労と苛立ちが浮かんでいる。

「民の不満が溜まっております。
 “税を軽くしてくれ” “聖女の加護は本当にあるのか” “王は何をしているのか”――」

「聖女に関する不満は、どう処理している?」

「“新たな聖女エリシア様は、前任者よりも繊細な力の持ち主であり、これから加護が強まる段階だ”と説明しております」

 よくもまあ、そんな言葉がすらすら出てくるものだ。

「しかし、辺境からの帰還兵の中には、“以前のほうが状況がマシだった”と漏らす者も……」

 ユリウスの胸が、刺すように痛んだ。

 “以前のほうがよかった”。

 それはつまり、“リディアのほうが、国を守っていた”ということだ。

 わざわざ口に出さなくても、分かりきった事実。

「……そのあたりの声は、なるべく抑えろ」

 絞り出すように言う。

「今、“前聖女”の話題を必要以上に広めるべきではない」

「承知しました」

 大臣が頭を下げて出ていく。

 残された部屋で、ユリウスは机に両手をついて、深くうつむいた。

(リディア)

 心の中で名前を呼ぶ。

(君は、どんな気持ちでそこに立っていたんだ)

 祈りの場に立ち、人々の不安と期待と依存を一身に浴びて。
 “国のため”という美しい言葉の下で、すり減らされ続けて。

 自分は、彼女を“責務を果たせなかった聖女”と切り捨てた。

 その結果、今――

 机の上には、収まりきらないほどの報告書。
 耳には、止まらない「助けてくれ」という声。
 視界には、疲弊しきった兵士と、痩せた民衆。

 冷静に考えれば、誰でも分かることだった。

 一人が担っていたものがどれほど重かったか。
 その一人を切り捨てた穴が、どれほど大きいか。

 数字で見たときは、どこか他人事だった。
 「聖女の交代」は、“国の方針”であり、“決断”だった。

 今、その穴の縁に立たされているのは、自分自身だ。

 風が吹き込んでくる。
 紙が震える音がやけに大きく響いた。



「殿下」

 数日後、聖堂からの使いが執務室を訪れた。

 派手な法衣に身を包んだ神官長。
 あの頃、「記録は正しい」とリディアに告げた男。

「エリシア様の加護について、陛下……いえ、摂政殿下にご報告がございます」

「話せ」

 ユリウスは顔を上げる。

「王都における儀式は、滞りなく行われております。
 神託の儀においても、“新たな聖女は確かに選ばれた”という兆しが――」

「辺境への影響は?」

 途中で遮ると、神官長の表情が一瞬だけ固まった。

「そちらは……まだ、顕著な改善は見られませんが、これは天候や地脈の乱れが――」

「“リディアのとき”の数字と、エリシアの数字を、隠さずに並べた報告書はあるか」

「そ、それは……」

 言葉に詰まる。

 ユリウスの内側で、冷たいものがすっと上がってきた。

「ないのか。それとも、“作らないようにしている”のか」

「殿下、まさか我々が、数字を――」

「俺は今、“どれだけ悪化したか”を責めたいわけじゃない」

 自分でも驚くほど、声は冷静だった。

「知りたいのは、“どれだけリディアが担っていたか”だ」

 神官長の目が、はっきりと揺れた。

 リディアの前で、「記録は正しい」と言い切ったとき。
 報告書の数字を“真実”として突きつけたとき。

 彼の中で何が動いていたのか、ユリウスは今になって気づき始めていた。

「……今からでもいい。過去十年分のデータを洗い直せ」

 低い声で命じる。

「“聖女の祈りの有無”“加護の範囲”“辺境の被害”――全部だ。
 リディアの在任期間と、今の状況を、正直に並べろ」

「ですが、それは……!」

「困るのか?」

 ユリウスは静かに笑った。

「困るのは、誰だ?」

 神官長は、何も言えなかった。

 やがて、低く頭を垂れる。

「……承知いたしました」

 その背中には、「自分がどこまで嘘に関わったか」を自覚している重さがあった。



 数日後、机の上に新たな山が積まれた。

 十年分の記録。
 リディアが聖女として立っていた年数。
 彼女の祈りが行われた日、行われなかった日。
 その前後の被害の推移。

 それを見た瞬間、ユリウスは息を詰まらせた。

「……こんなに、か」

 紙の上には、「リディアの祈りがあったとき」と「なかったとき」の差が、残酷なくらいはっきりと刻まれている。

 彼女が全力で祈った月は、被害が明らかに抑えられていた。
 彼女が倒れ、祈りの回数が減ったときには、被害もまた跳ね上がっていた。

 数字は、嘘をつかない。

 嘘をついたのは、それを「見ないふり」してきた人間たちだ。

 ――自分も含めて。

(リディア)

 また、心の中で名前を呼ぶ。

(君は、こんな重さを、一人で担っていたのか)

 数字が、重りのように心に積み上がっていく。
 その重りを、“当然”と受け取っていた自分の顔が、鏡に映っている気がした。

(俺は……)

 何を守ったつもりだった?

 国か。
 王家の権威か。
 聖堂の面子か。

 そのどれもが、今、土台から崩れ始めている。

 滅びの兆しを、もう、知らぬふりはできない。

 兵士たちの疲れた目。
 民衆の不安げな声。
 病に伏せる王。
 そして――数字の上から、静かに消えていった“聖女リディア”という名前。

 ユリウスはようやく、「彼女が担っていたものの重さ」を、数字ではなく、自分の手の重さとして感じ始めていた。

 あまりにも遅すぎる、実感だった。
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