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第12話 過去の選択の重さと、捜索命令
しおりを挟む「――全部、前の聖女が中途半端に国を守ってきたせいですわ!」
高く鋭い声が、王城の一室に突き刺さった。
窓ガラスがびりっと震えた気がしたのは、たぶん気のせいじゃない。
執務室――本来は王が座るはずの机の前で、ユリウスは無意識にこめかみを押さえた。
「……エリシア」
「だってそうでしょう!?」
エリシアは、フリルの多いドレスの裾を踏みそうになりながら、感情のままに歩き回る。
頬は紅潮し、涙で潤んだ碧眼がきらきら――いや、ぎらぎらと光っていた。
「リディア様がもっとちゃんと国を守っていれば! 魔物の数だって、病だって、ここまでひどくはならなかったはずですのよ!」
「“中途半端に守った”結果が、今の状況だと?」
「ええ、そうですわ。ほら、記録にも残っているでしょう?」
エリシアは、机の上に無造作に置かれていた古い報告書を掴み上げた。
「“聖女の祈りにより、被害はある程度抑えられた”――“ある程度”、ですわよ? “完全に”ではなく!」
“ある程度”。
それは、かつてユリウス自身が、何度も口にしてきた表現だった。
それを今、責め言葉として突きつけられている。
「それに、リディア様がいるあいだに“地脈の調整”とやらをもっとしていれば。
“次の聖女様にも負担がかからない形で”とか、そんなことをしておいてくだされば。
わたくしが、今こんなふうに責められることもありませんでしたのに!」
机の前に立っているユリウスではなく、部屋の空気そのものを責めているような口調。
彼女の肩は細く震えていて、そこに本当に“追い詰められている少女”の姿が見えたのも事実だった。
(それでも――)
“中途半端に国を守ってきたせい”。
その言葉が、ユリウスの胸に鋭く刺さる。
何度も繰り返し痛みを与えられた古傷が、今さら裂けるみたいに。
――大広間。
断罪の場。
祭壇の前に立つ白いドレスの少女。
自分の声。
『リディア。君は聖女としての責務を果たせなかった』
冷たい視線。
切り捨てる言葉。
静まり返った空気。
“君は無能だ”と、王太子の口から宣告したあの日。
(あのとき、俺は――)
それを、“正しい判断”だと思っていた。
数字と報告書と、周囲の声を根拠に。
今、目の前で同じことを言っているのは、エリシアだ。
「わたくしだって、頑張っているんですのよ!」
エリシアは、きゅっと両手を握りしめる。
「朝から晩まで祈って、祭壇に立って、“新しい聖女様ならもっとやれたはずだ”と陰口を言われて……
どうして全部、わたくしのせいになりますの?
十年以上もこの国を聖女として支えていたリディア様は、責められずに済むんですの?」
「誰も、“責められずに済んでいる”とは言っていない」
気づけば、ユリウスの口から言葉がこぼれていた。
エリシアがぴたりと動きを止める。
「……殿下?」
彼女は訝しげにユリウスを見る。
「今の状況で、“前の聖女がよかった”と言い出す者たちも出てきている。それを抑えているのは――」
「それを抑えるために、わたくしがいるんですわ!」
被せるように叫ばれた。
「“新しい聖女様がいるから大丈夫”って、誰かが言ってあげないと、みんな不安になるじゃありませんか!」
それは、ある意味で真実だった。
エリシアは、誰かの求める“安心材料”として、祭壇に立たされている。
求められているのは、“実際に守る力”ではなく、“守られている気分”。
本人は必死でその役割を演じようとしている。
(だが――)
演じているだけでは、魔物は減らない。
病も止まらない。
数字も、現実も、嘘をつかない。
それでもエリシアは、自分を責めるより先に、“前任者”を責めた。
それを見て、ユリウスは嫌でも理解する。
――あのとき、自分も同じことをしたのだと。
「……殿下」
エリシアの声が、少しだけ細くなる。
「わたくし、怖いのです」
その一言だけは、素直だった。
「“聖女様がいるのに国が傾いている”って、全部わたくしのせいになりますでしょう?
だったら、“元々前の時点で歪んでいたせいだ”って、そういうことにしていただけませんの?」
救いを求める視線。
認めてほしい、肯定してほしいという甘え。
ユリウスは、深く息を吸って――言葉を選んだ。
「……エリシア」
「はい」
「君が怖いのは、よく分かる」
「……っ」
「だが、今この国が直面している状況は、“誰か一人のせい”だと片付けられるものではない」
「でも――」
「これは、十年以上かけて少しずつ積み重なってきた“選択の結果”だ」
ユリウスは、己の胸を指先で軽く叩いた。
「その中には、俺自身の選択も含まれている」
エリシアの目が見開かれる。
「殿下の、選択……?」
「そうだ」
喉の奥に苦いものが張り付いている。
「聖女の交代を決断したのは、この国の王と、そして王太子としての俺だ。
リディアに“責務を果たせなかった”と告げたのも、俺の口だ」
その事実から、もう逃げられない。
エリシアは、唇を震わせた。
「それでも……わたくしが、足りないのは事実ですわ」
「足りないのは、“一人に頼りすぎてきたこの国の構造”だ」
ユリウスの声には、自嘲が滲んでいた。
「君の力を責めることは簡単だ。
だが、それをしたところで状況は変わらない。
俺たちが本当に直視しなければならないのは、“リディア一人に何を押しつけてきたか”だ」
その言葉に、エリシアは何も答えられなかった。
彼女自身も、どこかで分かっているのだ。
自分の祈りが、リディアほどの広がりを持っていないことを。
自分に向けられる視線が、“本物の聖女”に向けられていたものとは違うことを。
「……今日はもう休みなさい」
ユリウスは、静かに告げた。
「儀式の予定は?」
「夕刻に小祈祷が一つだけですわ。わたくしが行わなくても――」
「代役を立てればいい。それくらいはまだ余裕がある」
“まだ”という言葉を、自分で言いながら嫌になる。
エリシアはしばらくためらったあと、深々と裾を摘んで礼をした。
「……失礼いたしますわ」
ドアが閉まる。
部屋に静寂が戻った途端、ユリウスは椅子に深く沈み込んだ。
机の上の山は、減る気配がない。
報告書の端に、“前聖女に関する記録再調査の結果”という紙束が重なっている。
そこに並ぶ数字は、何度見ても胸がざわついた。
◇
「殿下。お時間を少々よろしいでしょうか」
夕刻、執務室の扉を叩いたのは、年配の側近だった。
ユリウスが王太子になって以来、ずっとそばで支えてきた男。
父王の時代から仕えている古参の文官でもある。
「……入れ」
促すと、彼は静かに入ってきて、扉を閉める。
いつになく慎重な仕草。
ただならぬ話であることは、すぐに分かった。
「恐れながら、僭越を承知で進言がございます」
「聞こう」
側近は、少しだけ息を整えてから口を開いた。
「――前の聖女を、探すべきではないかと存じます」
その言葉は、雷のようにユリウスの頭上に落ちた。
「……何を、言っている」
思わず、声が低くなる。
側近は怯まない。
「現在の状況を鑑みれば、もはや“国の方針は変えません”と強弁する段階は過ぎております。
辺境の防衛線は薄くなり、病は広がり、民の不満も高まっている」
「それは分かっている」
「であれば、“かつて存在した大きな支柱”を探すのは、決して愚策ではありますまい」
“かつて存在した大きな支柱”。
それが誰のことを指しているのか、言われなくても分かる。
「……リディアを、探せと?」
「はい」
「捨てたのは、俺たちだ」
喉の奥から、ひゅっと空気が漏れる。
「王太子妃の婚約を破棄し、“聖女の称号を剥奪する”と公に宣言し、“追放”したのは、この国だ。
今さら“戻ってきてくれ”などと、どの面下げて言いに行けと言う」
「そのための面を作るのが、“王の仕事”ではありませんか」
側近の言葉は辛辣だった。
だが、甘言よりもよほど信頼できる。
「殿下のご決断が間違っていたと、今責め立てるつもりはありません。
あのときはあのときで、あれが“最善”だと見えたのでしょう」
側近は、静かに続ける。
「だが、今――」
窓の外に目を向けた。
「今は、“別の最善”が目の前にあるのではありませんか。
それを見て見ぬふりをすることこそ、“王の罪”となりましょう」
……最善。
その言葉に、ユリウスは目を閉じた。
(最善だと思って、選んだ)
あの夜も。
聖堂の会議のときも。
“国のため”という言葉を拠り所にして、リディアを切り捨てた。
今、その結果として、国は崩れかけている。
側近の言葉は、刃のように鋭く、しかし正しい。
「前聖女リディア様の所在を探ることを、“殿下の過ちの証明”だと受け取る者もいるでしょう」
彼は、あえて言った。
「“あのときの判断は誤りでした”と認めることになるかもしれません」
「……認めたくはないな」
ユリウスは、正直に吐き出した。
「自分の選択が間違っていたと、簡単に口にしたくはない」
「でしょうな」
側近は、薄く笑った。
「殿下は、誇り高い方だ。
王家の血を引く者として、自らの決断を頑として曲げぬ強さもお持ちだ」
その誇りが、今は首を絞めている。
「だが、その誇りが、今この国を沈める錘になりつつあるのであれば――」
側近は、ゆっくりと言葉を置いた。
「その誇りを一度、棚に上げていただきたい」
「棚に、上げる」
ユリウスは繰り返した。
棚に上げる、とは――“一時的に脇に置く”ということ。
手放すのではない。
捨てるのでもない。
ただ、今は、それより優先するものがある。
「……前の聖女を探せば、すべてが解決するとは限らない」
ユリウスは言う。
「リディアが、今も生きている保証はない。
生きていたとして、再びこの国のために祈ってくれるとは限らない」
「承知しております」
「それでも、“探せ”と言うのか」
「“探そうともしない”よりは、ましです」
側近の声は、ひどく静かだった。
「滅びの兆しを見ながら、何も手を打たない王を、民は許しません。
探しても見つからず、それでも国が沈むなら――それは“全力を尽くした末の終わり”です」
言葉のひとつひとつが、重い。
「だが、“できることがあったはずなのに、何もしなかった”という終わり方だけは――
王も、民も、永遠に呪うでしょう」
“永遠に呪う”。
その声の重さに、ユリウスの喉が詰まった。
(俺は――)
何を恐れている?
自分の選択が間違いだったと認めることか。
リディアの不在そのものか。
あるいは、彼女がどこかで、“この国と関係のない場所で生きている”可能性か。
どれも、同じくらい怖い。
胸の奥で、どろりとした感情が渦巻いている。
後悔。
執着。
プライド。
恐怖。
何がどれだけ混ざっているのか、自分でももう分からない。
「……少し、時間をくれ」
ユリウスは、かろうじて絞り出した。
「考える」
「承知いたしました」
側近は、深く頭を下げて退室した。
扉が閉まる音が、やけに遠く聞こえる。
机の上の書類の山。
窓の外、かすかに煙の上がる城下町。
遠くから聞こえる、祈りの鐘の音。
――その全部が、薄氷の上に乗っているように見えた。
◇
数日後。
北方の防衛線が、もう一段崩れたという報告が届いた。
同時に、王の容体はさらに悪化する。
もはや半日以上意識が戻らないことも珍しくない。
城下で、盗み聞きした噂が耳に入る。
「陛下がお倒れになったのは、“聖女様を追放なさった罰”だ」
「御言葉を慎め!」
「でも、そう言う人もいるんだよ。
昔の聖女様は、もっと優しかったのに……って」
「今の聖女様だって一生懸命なさってる!」
「そうだけど……でも、前の聖女様のお姿を覚えてる人は、どうしても比べちゃうんだよ」
火花が散るような会話。
リディアの名前は、もう“禁句”ではない。
むしろ、口に出さずにはいられない名前になっていた。
ユリウスの耳にも、それらの声は全部届いている。
夜、自室に戻っても眠れない。
寝台に横たわって目を閉じると、すぐにあの日の光景が浮かぶからだ。
白いドレス。
震える肩。
それでも、笑おうとしていた顔。
『……わかりました』
諦めたような、あの声。
(俺は、あそこで何をしていた?)
問いかけても、答えは変わらない。
王太子として。
国のために。
“最善の選択”だと信じて――彼女を切り捨てたのだ。
その結果が、今のこの惨状。
プライドを守って、国を失うか。
プライドを捨てて、それでも国を守れるかは分からない賭けに出るか。
(――決めなきゃならない)
喉の奥で、何かが音を立てて崩れた。
◇
翌朝、ユリウスは執務室に側近たちを集めた。
長年仕える文官、軍を束ねる将軍、聖堂側からの代表として神官長。
皆、一様に疲れている。
その前で、ユリウスはゆっくりと息を吸い込んだ。
「前聖女リディアの捜索を命じる」
部屋の空気が、一瞬で張り詰める。
神官長が目を見開き、文官たちは顔を見合わせ、将軍は眉をひそめた。
「殿下……」
「……そんな命令を出せば、“あのときの決断が誤りだった”と認めることになりましょう」
年配の大臣が、恐る恐る口を開く。
「分かっている」
ユリウスは遮った。
「それでも、だ」
手が震えているのを、自分でも分かっていた。
「このまま何もしなければ、アルシェルドは確実に沈む。
滅びの兆しを見て見ぬふりをするつもりはない」
側近たちの視線が、一斉にユリウスに集まる。
「前の聖女を探して、何と申し上げるおつもりですか」
神官長が、絞り出すように問う。
「それは――」
喉が痛い。
「それは、俺が決める」
ユリウスは、唇を噛んだ。
「謝罪か、懇願か。
いずれにせよ、“王太子としての俺”が、前に立って伝える」
“王家の使い”ではなく、“ユリウス個人”として。
その覚悟を口にした瞬間、胃のあたりがきゅっと縮んだ。
「捜索範囲は――」
側近が地図を広げる。
「追放後の護送路は森を抜けて国境へ向かったと記録にあります。
ですが、その森で遺体は見つかっておりません」
「“遺体は見つかっていない”ということは――」
ユリウスは、そこにわずかな望みを見る。
「生きている可能性も、ある」
可能性。
確信ではない。
ただの希望的観測かもしれない。
それでも、その小さな火にすがるしかない。
「国境付近で足取りが途切れているということは、隣国に流れた可能性が高い」
文官が、ためらいながらも言う。
「北方の隣国は――」
「ノルディア王国だ」
ユリウスは、すぐに答えた。
隣国。
競合相手であり、ときに協力相手であり、微妙な距離感を保ってきた国。
「……ノルディアに、捜索隊を送るのですか?」
「正式には、“行方不明となった我が国の元聖女の足取りを追っている”という形になる」
国際問題になる可能性は、十分にある。
だが、もはやそれを恐れている場合ではない。
「――俺も行く」
静かな声で告げた瞬間、部屋の空気が再び揺れた。
「で、殿下自ら!?」
「摂政たる殿下が城を離れるのは、あまりにも危険では……!」
異論が即座に上がる。
ユリウスは、それらの声を真っ向から受け止めた。
「危険なのは分かっている。
だが、“誰かに行かせるだけ”では、リディアは戻らない」
自分が切り捨てた人間だ。
自分の口で、“無能”と断じ、“追放”を言い渡した人間だ。
(もし俺が行かず、部下だけがノルディアへ向かったとして――)
それは、“王家の勝手な命令”に過ぎない。
「国のために戻ってこい」という、都合のいい呼び戻し。
そんなものに、応じてもらえると思うほど傲慢ではない……と、今は自覚している。
「俺自身が行き、俺自身の口で伝える必要がある」
何を伝えるのか――その答えは、まだはっきりとは形になっていない。
謝罪。
懇願。
それとも、もっと醜い感情。
後悔。
執着。
未練。
「俺のところに戻ってきてくれ」という、身勝手な欲望。
それら全部が、どろどろに混ざって胸の中で渦巻いている。
クリアな“正義感”なんてものは、もう残っていないのかもしれない。
(それでも――)
行かなければ、何も変わらない。
国も、自分も、あの日のまま止まり続ける。
「殿下」
しばらくの沈黙ののち、年配の側近が、静かに頭を垂れた。
「……承知いたしました。
殿下自ら捜索隊の一員としてノルディアに向かわれること、全力で支えます」
他の者たちも、次々に頭を下げる。
不安と、懸念と、それでも「何かせずにはいられない」という焦り。
それら全部が混ざった空気の中で、ユリウスはぎゅっと拳を握った。
◇
準備は、思っていたより早く整った。
国境を越えるための正式な書状。
ノルディア側への使者と偽るための外向けの文面。
少数精鋭の護衛と、最低限の荷物。
鏡の前で、ユリウスは旅装に身を包んだ自分の姿を見る。
いつもの礼装とは違う、動きやすい軍装。
それでも、胸元には王家の紋章が刻まれた小さなブローチが光っている。
(あの日、リディアに渡したものと……似ている)
胸の奥が、ちくりと痛む。
彼女も、今どこかで――あのブローチをまだ持っているのだろうか。
捨てたかもしれない。
叩き壊したかもしれない。
あるいは、土の下に埋めてしまったかもしれない。
それを想像すると、息が苦しくなる。
「殿下」
扉の外から、側近の声。
「出立の準備が整いました」
「……分かった。すぐ行く」
深く一つ息を吸い、鏡から目を離した。
最後に一度だけ、窓の外を見る。
アルシェルドの城下町。
煙突から上がる薄い煙。
遠くで鳴る鐘の音。
そこに住む人々の顔を、彼はほとんど知らない。
それでも、知っている名前が一つだけある。
(リディア)
心の中で、再び呼ぶ。
(俺は――)
許されたいんだろうか。
それとも、ただ、もう一度会いたいだけなんだろうか。
自分の感情の正体は分からないまま。
それでも足を前に出す。
扉が開き、冷たい廊下の空気が頬を撫でる。
滅びの兆しを、もう見て見ぬふりはできない。
ユリウスは、自ら選んだ過去の重さを背負ったまま、隣国ノルディアへ向かう道を歩き始めた。
後悔とも執着ともつかない、濁った感情を胸いっぱいに詰め込んで――。
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