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第11話 滅びの兆しを知らぬふりできない国
しおりを挟むアルシェルド王国から、聖女リディアが消えて数ヶ月。
最初の一ヶ月は、やけに眩しかった。
王城の大広間には、色とりどりのドレスと宝石が溢れ、音楽と笑い声が夜更けまで止まらなかった。
新たな聖女――エリシア・フェルネストの就任を祝う祝宴。
誰もが「これで国は安泰だ」と言い合い、「これからはより強い加護が」と期待と不安を煮詰めたような言葉を交わした。
リディアを追放した夜の空気を覚えている者も、少しはいたはずだ。
だが、人は見たいものだけを見る。
「まあ、ご覧になりました? 就任の儀式でのあの光!」
「ええ、ええ。前の聖女様より、きらびやかだったとか」
「そうですわね、“映える”奇跡でしたわ」
上流貴族たちは、そんな会話で互いの不安をごまかした。
エリシアは、薄いヴェールをかぶり、震える指で聖杯を捧げた。
祭壇の上に小さな光の粒が舞い、花弁のように降りてくる。
見栄えのする祝福。
光は確かに「綺麗」だった。
ただ――
そこに、「大地の底まで染み込んでいく温度」はなかった。
◇
エリシアの力は、祝福や見た目の浄化には向いていた。
傷を負った兵士たちの前に立ち、彼女が祈れば、かすり傷や浅い切り傷はたちまち塞がる。
病で寝込んだ子どもの額に手を置けば、一時的に熱が下がる。
婚約披露の場で、王太子ユリウスに花の冠を降らせることもできた。
だから最初のうちは、誰も文句を言わない。
「ほら、ご覧になって。聖女様のご加護で、こんなに綺麗に傷が消えましたのよ」
「ええ、ええ。“ちゃんと働いている”のですね、新しい聖女様は」
宮廷の空気は、“自分たちの選択は正しかった”という確認に忙しかった。
それでも、違和感はすぐに現れ始める。
「前線からの報告です」
議会で、山積みの羊皮紙が机に置かれる。
「……魔物被害、前月比120%増加?」
「どこもかしこも、“やや増加”か“増加傾向”だな」
「聖女様の就任直後なら、むしろ落ち着いてもいい頃だと思ったのだが」
小さなざわめき。
それを打ち消すように、誰かが言う。
「これは、天候のせいだろう」
「ええ、そうですとも。このところ雨が不規則ですし、魔物も落ち着かないのでしょう」
「北方の山脈で何か異変があるとか。隣国ノルディアが何か仕掛けているのかもしれん」
そう言って、「聖女の件」と書かれた書類を、そっと机の隅に押しやる。
何度も押しやられて、“見ないふり”をされた紙の束が、少しずつ積み重なっていく。
◇
ユリウスは、その中心にいた。
王のすぐそばで報告書に目を通し、議会に出席し、新しい聖女の傍に立つ王太子。
立場としては、以前と変わらないはずだった。
けれど、視界は決定的に違っていた。
隣にいるのは、リディアではない。
「殿下、大丈夫でしょうか……」
エリシアが、わざとらしく不安げに袖を握る。
「わたくし、まだ力不足で……リディア様のようには、とても」
「君は君の出来ることをすればいい」
ユリウスは、そこで言葉を止める。
(“リディアのように”か)
喉の奥で、何か引っかかる。
あの夜、大広間でリディアに向かって告げた言葉が、今さら自分の首を絞める。
『君は聖女としての責務を果たせなかった』
『聖女の称号を剥奪し、婚約もここで破棄する』
あのとき、自分は間違っていないと思っていた。
数字が示す“結果”がすべてだと信じていた。
神官たちの報告書を信じ、貴族たちのざわめきを静めるためには、それしかないと。
(それなのに――)
数ヶ月経った今、積まれている報告書は、以前よりも“悪い数字”を並べている。
「辺境第三防衛線、突破されました」
ある日、血相を変えた伝令が飛び込んできた。
「第四防衛線にて応戦中ですが、こちらも長くは……!」
「聖女の加護はどうした」
誰かが叫ぶ。
「前線の癒しは行われているのか!」
「エリシア様は、王都での儀式を優先されており……」
「なぜだ!」
「“王都の加護を安定させることが先決”と、神官長が……!」
場の空気がざわりと揺れる。
ユリウスは拳を握りしめた。
(前線の兵の負傷を癒していたのは、誰だった?)
思い出すまでもない。
傷だらけで戻ってくる兵士たちの列。
聖堂の奥、祭壇の前で、ひたすら祈り続けていた少女。
指先を震わせながら、何度でも手を伸ばしていた聖女。
(リディアだ)
今さら、当たり前の事実が胸を刺した。
もちろん、分かっていたつもりだった。
聖女が国を支えているということは、理解していた。
――数字で。
報告書に記された「治癒人数」「加護の対象地域」、儀式の成果として列挙された項目。
それが彼にとっての「聖女の働き」だった。
今、その“数字”が意味を失い始めている。
報告書には、「癒しの儀は滞りなく」の文言。
けれど、兵士たちは疲弊し、負傷者は減らず、葬儀ばかりが増えている。
数字と現実が、噛み合わない。
「ユリウス」
王の声が、背後からかかった。
王座に座る父の顔色は、以前より著しく悪い。
目の下には深い隈、唇は乾いている。
「聖女の件は……どうなっている」
「エリシアの力は、王都においては安定しております。
ただ、辺境への影響はまだ――」
「“まだ”と言っている余裕はないだろう」
王は、わずかに咳き込んだ。
「リディアのときは、どうだった?」
その名前を、父の口から聞くのは久しぶりだった。
ユリウスは、一瞬だけ息を止める。
「……辺境の被害は、“ある程度の範囲で抑えられている”と報告されていました」
「そうだな。“ある程度”だ」
王は目を閉じる。
「その“ある程度”が、どれほど大きかったのか……今ようやく分かった」
その言葉には、自嘲が混ざっていた。
◇
やがて王は、本当に倒れた。
高熱と咳。
寝台から起き上がれない日が続き、「重い風邪だ」と宮廷医師は繰り返したが、誰も信じていなかった。
病の噂は、あっという間に城中に広がる。
「陛下がお倒れになったそうだ」
「いや、“一日二度しか起き上がれない”と聞いたぞ」
「戦況が悪化しているこの時期に……」
そして、ごく自然な流れのように、ユリウスは「摂政」として国の実務を握ることになった。
国王の署名が必要な書類は、全部自分の手元に来る。
兵の配置も、税の再配分も、避難計画も、全部。
机の上に積まれた羊皮紙は、山というより崩れかけた塔のようだった。
「……多すぎるだろ」
思わず漏れた呟きは、誰にも聞こえない。
インク壺の中の黒が重く見える。
視線をわずかにずらすと、窓の外には、王都の街が広がっていた。
そこに暮らす人々の顔を、彼はほとんど知らない。
数字でしか知らなかった。
「殿下」
扉の外から、侍従が顔を出す。
「前線からの使者が、至急の拝謁を求めております」
「通せ」
重い返事をして、ユリウスは椅子から立ち上がる。
新しく整えられた執務室は、彼にとってまだ“借り物の場所”だった。
少しして、薄汚れた軍服の男が膝をついた。
肩には包帯。
鎧には血の跡。
顔には、ひどい疲労と焦燥。
「北方第三防衛線、完全に崩壊。第五防衛線まで退却しております」
「第四はどうした」
「第四は……“防衛線”と呼べるほどのものではもともとなく、地の利と少数の兵で持ちこたえていたのですが……
魔物の群れが、これまでにない規模で押し寄せ、――」
言葉が続かない。
「負傷者は?」
「数え切れません。同時に、病も……」
病。
その単語に、ユリウスの背筋が少しだけ冷えた。
「病が広がっているというのは、本当か?」
「はい。魔物に襲われた村々で、原因不明の高熱と咳が広まり……
王都からの薬草や医師だけでは、とても追いつきません。
聖堂からの“加護”も、以前ほど届いているようには……」
「聖女の祈りは?」
「王都から、“儀式は行われている”と……報告書では」
“報告書では”。
その言葉に、ユリウスのこめかみがぴくりと動いた。
報告書でなら、いくらでも文字を並べられる。
「祈りは届いている」「儀式は成功」「加護は健在」。
だが、目の前の男の目は、そう言っていない。
「――下がれ」
短く命じると、男は深々と頭を下げて退室した。
扉が閉まった瞬間、ユリウスは大きく息を吐く。
胸の内側を、ドロドロとした何かが這い回っていた。
(リディアがいた頃は)
思い返したくないのに、記憶は勝手に浮かび上がる。
前線から戻った兵士たちが、聖堂に列を作る姿。
「聖女様、助けてください」と頭を垂れる者たち。
リディアは、いつも疲れていた。
目の下には隈ができていて、肌も透き通るように白くて、腕は驚くほど細かった。
でも、彼女は決して「嫌だ」とは言わなかった。
『リディア、君は本当に全力を尽くしているのか?』
あの日の自分の言葉が、今の自分に突き刺さる。
(全力以上を、捧げていたんだ)
今になって、ようやく分かり始める。
山積みの報告書。
戦況図。
町の生産量。
病床の数。
全部を眺めていると、背後に薄く“祈りの影”が浮かんで見える。
そこに一人、淡い光を振りまき続けていた少女の姿。
自分は、その光を「当然」だと思っていた。
「殿下」
今度は、大臣の一人が入ってきた。
彼の顔には、あからさまな疲労と苛立ちが浮かんでいる。
「民の不満が溜まっております。
“税を軽くしてくれ” “聖女の加護は本当にあるのか” “王は何をしているのか”――」
「聖女に関する不満は、どう処理している?」
「“新たな聖女エリシア様は、前任者よりも繊細な力の持ち主であり、これから加護が強まる段階だ”と説明しております」
よくもまあ、そんな言葉がすらすら出てくるものだ。
「しかし、辺境からの帰還兵の中には、“以前のほうが状況がマシだった”と漏らす者も……」
ユリウスの胸が、刺すように痛んだ。
“以前のほうがよかった”。
それはつまり、“リディアのほうが、国を守っていた”ということだ。
わざわざ口に出さなくても、分かりきった事実。
「……そのあたりの声は、なるべく抑えろ」
絞り出すように言う。
「今、“前聖女”の話題を必要以上に広めるべきではない」
「承知しました」
大臣が頭を下げて出ていく。
残された部屋で、ユリウスは机に両手をついて、深くうつむいた。
(リディア)
心の中で名前を呼ぶ。
(君は、どんな気持ちでそこに立っていたんだ)
祈りの場に立ち、人々の不安と期待と依存を一身に浴びて。
“国のため”という美しい言葉の下で、すり減らされ続けて。
自分は、彼女を“責務を果たせなかった聖女”と切り捨てた。
その結果、今――
机の上には、収まりきらないほどの報告書。
耳には、止まらない「助けてくれ」という声。
視界には、疲弊しきった兵士と、痩せた民衆。
冷静に考えれば、誰でも分かることだった。
一人が担っていたものがどれほど重かったか。
その一人を切り捨てた穴が、どれほど大きいか。
数字で見たときは、どこか他人事だった。
「聖女の交代」は、“国の方針”であり、“決断”だった。
今、その穴の縁に立たされているのは、自分自身だ。
風が吹き込んでくる。
紙が震える音がやけに大きく響いた。
◇
「殿下」
数日後、聖堂からの使いが執務室を訪れた。
派手な法衣に身を包んだ神官長。
あの頃、「記録は正しい」とリディアに告げた男。
「エリシア様の加護について、陛下……いえ、摂政殿下にご報告がございます」
「話せ」
ユリウスは顔を上げる。
「王都における儀式は、滞りなく行われております。
神託の儀においても、“新たな聖女は確かに選ばれた”という兆しが――」
「辺境への影響は?」
途中で遮ると、神官長の表情が一瞬だけ固まった。
「そちらは……まだ、顕著な改善は見られませんが、これは天候や地脈の乱れが――」
「“リディアのとき”の数字と、エリシアの数字を、隠さずに並べた報告書はあるか」
「そ、それは……」
言葉に詰まる。
ユリウスの内側で、冷たいものがすっと上がってきた。
「ないのか。それとも、“作らないようにしている”のか」
「殿下、まさか我々が、数字を――」
「俺は今、“どれだけ悪化したか”を責めたいわけじゃない」
自分でも驚くほど、声は冷静だった。
「知りたいのは、“どれだけリディアが担っていたか”だ」
神官長の目が、はっきりと揺れた。
リディアの前で、「記録は正しい」と言い切ったとき。
報告書の数字を“真実”として突きつけたとき。
彼の中で何が動いていたのか、ユリウスは今になって気づき始めていた。
「……今からでもいい。過去十年分のデータを洗い直せ」
低い声で命じる。
「“聖女の祈りの有無”“加護の範囲”“辺境の被害”――全部だ。
リディアの在任期間と、今の状況を、正直に並べろ」
「ですが、それは……!」
「困るのか?」
ユリウスは静かに笑った。
「困るのは、誰だ?」
神官長は、何も言えなかった。
やがて、低く頭を垂れる。
「……承知いたしました」
その背中には、「自分がどこまで嘘に関わったか」を自覚している重さがあった。
◇
数日後、机の上に新たな山が積まれた。
十年分の記録。
リディアが聖女として立っていた年数。
彼女の祈りが行われた日、行われなかった日。
その前後の被害の推移。
それを見た瞬間、ユリウスは息を詰まらせた。
「……こんなに、か」
紙の上には、「リディアの祈りがあったとき」と「なかったとき」の差が、残酷なくらいはっきりと刻まれている。
彼女が全力で祈った月は、被害が明らかに抑えられていた。
彼女が倒れ、祈りの回数が減ったときには、被害もまた跳ね上がっていた。
数字は、嘘をつかない。
嘘をついたのは、それを「見ないふり」してきた人間たちだ。
――自分も含めて。
(リディア)
また、心の中で名前を呼ぶ。
(君は、こんな重さを、一人で担っていたのか)
数字が、重りのように心に積み上がっていく。
その重りを、“当然”と受け取っていた自分の顔が、鏡に映っている気がした。
(俺は……)
何を守ったつもりだった?
国か。
王家の権威か。
聖堂の面子か。
そのどれもが、今、土台から崩れ始めている。
滅びの兆しを、もう、知らぬふりはできない。
兵士たちの疲れた目。
民衆の不安げな声。
病に伏せる王。
そして――数字の上から、静かに消えていった“聖女リディア”という名前。
ユリウスはようやく、「彼女が担っていたものの重さ」を、数字ではなく、自分の手の重さとして感じ始めていた。
あまりにも遅すぎる、実感だった。
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