聖女を追放した国が滅びかけ、今さら戻ってこいは遅い

タマ マコト

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第17話 崩れていく玉座と、残るもの

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 アルシェルド王国に戻る旅路は、来たときよりずっと短く感じた。

 実際には同じ距離を、同じ馬車で、同じだけの時間をかけている。
 けれどユリウスにとっては、感覚的に「一瞬」であり、同時に「永遠」だった。

 終わった交渉。
 得られなかった譲歩。
 ただ一つ、「難民を受け入れる」というノルディア王の宣言だけが、胸の中で棘のように刺さっている。

(……何一つ、取り戻せなかった)

 窓の外に、見慣れたアルシェルドの大地が広がる。
 それなのに、どこか他人の国みたいに遠く見えた。

 山の斜面は、以前より痩せている。
 森の木々は、ところどころ黒く枯れていた。
 畑の広がるはずの場所に、荒れ地が斑に混じっている。

 ユリウスの胸に、重い石が積み上がっていく。



 王都の外壁が見えてきたとき――最初に耳に届いたのは、怒号だった。

「聖女を返せ!!」

「聖女様がいれば、こんなことにはならなかったんだ!!」

「王家が聖女を捨てたせいだろうが!!」

 人の声。
 叫び。
 泣き声。
 怒り。
 呪詛にも似た罵倒。

 城門前の広場には、民衆が押し寄せていた。

 痩せた体。
 破れた服。
 腕の中でぐったりしている子ども。
 杖をつきながら立っている老人。

 皆、顔に疲労と、飢えと、絶望を貼り付けている。

 駆けつけた兵士たちが柵を作って押しとどめているが、押し寄せる波は止まらない。

「開けろ! 城門を開けろ!!」

「聖女を捨てた王家に、何を頼めというんだ!!」

「前の聖女様を返せ!! 戻ってきてもらえ!!」

 矛盾した叫びが入り混じる。

 捨てた王家を罵りながら、その王家に「聖女を返せ」と叫ぶ。
 感情の処理が追いつかない群衆の、本音と建前がごちゃ混ぜになった光景。

(……もう、ここまで)

 ユリウスは馬車の中で目を閉じた。

「殿下、どういたしましょう」

 従者の声が震えている。

「裏門からお回りすることも……」

「いい」

 ユリウスは、ゆっくり首を横に振った。

「正面から入る」

「しかし、人々の怒りは……」

「俺が、選んだ結果だ」

 その一言で、従者は黙り込んだ。



 馬車が門前で止まる。

 扉が開き、ユリウスが姿を現した瞬間――ざわめきが爆発した。

「殿下だ!!」

「王太子様!!」

「聖女様は!? 前の聖女様は!?」

「連れてきたんですか!? それとも、また捨てたんですか!?」

 怒りと期待が混ざった視線が、一斉に突き刺さる。

 ユリウスは、深く息を吸い込み――何も言えなかった。

 喉の奥に詰まった言葉が、一つも外に出てこない。

 連れてこなかった。
 連れてこられなかったのだ。

 それを説明する言葉が、どれだけ用意できたとしても――
 今ここで、そのどれもが「言い訳」にしかならないと分かっていた。

 兵士たちが焦って叫ぶ。

「下がれ! 殿下のお通りだ!」

「押すな! 押すなと言っているだろう!」

 それでも、人の波は止まらない。

「殿下ぁ!!」

 一人の婦人が、押し寄せる人々の間から身を乗り出した。

 痩せた腕。
 その腕の中で、子どもがぐったりと力なく首を垂れている。

「うちの子が……熱で……村のお医者さんも薬も足りないって……!!」

 声が震え、涙でにじむ。

「前の聖女様がいたら、きっと……!」

 その叫びは、刃のようにユリウスの胸を切り裂いた。

(前の聖女)

 リディア。

 彼の頭に、あの少女の姿が浮かぶ。

 祈り続けていた細い背中。
 疲れ切っても笑おうとしていた顔。
 「大丈夫です」と言いながら、ふらついていた足取り。

 王都のどこかで、こういう子どもを、彼女は何度も救っていたのだろう。

 今、その手はここにはない。

「……すまない」

 かろうじて、それだけを呟いた。


「何が“すまない”だ!!」

 別の男が叫ぶ。

「聖女様を追い出したのは、あんたらだろうが!!」

「“聖女は無能”って言ってたくせに、今さら“戻ってきてください”なんて、虫が良すぎるんだよ!!」

「陛下は病で倒れて、聖女様もいなくて、何が王家だ!!」

 罵声が飛び交う。

 ユリウスは、その全部を真正面から浴びた。

 避けることも、耳を塞ぐこともできなかった。

(……これは、俺が選んできたものの結果だ)

 聖女の交代。
 公開断罪。
 追放。
 森。

 あのときの決断が、今、こういう形で国を蝕んでいる。

 報告書の数字ではなく。
 会議室の中の議論でもなく。

 目の前の、人間の顔として。

 痩せた頬。
 乾いた唇。
 怒りに歪んだ目。
 涙に濡れたまぶた。

 リディアを切り捨てたあの日、ユリウスは「国を守れる」と信じていた。

 結果、守れなかったものの大きさを――今になって思い知らされる。



 玉座の間に戻ったとき、そこはもはや、王の間というより“病室”の延長だった。

 天蓋のかかった寝台。
 がらんと広い空間に、王の苦しげな呼吸だけが響いている。

「……父上」

 ユリウスが近づくと、王はかすかに目を開けた。

「……戻ったか、ユリウス」

「はい」

「どうだった」

 声は弱々しいが、その問いの刃はまだ鋭かった。

 ユリウスは、一瞬だけ躊躇って――正直に言った。

「……何も。何一つ、“聖女として”のリディアは、戻ってきませんでした」

 王の瞳が、わずかに揺れる。

「そう、か……」

 それ以上、責める言葉は続かなかった。

 責めたとしても、もう何も変わらないことを、王も分かっているのだろう。

 ユリウスは、王の寝台の横で、拳を握り締めた。

(玉座は……)

 視線を巡らせると、王座そのものはそこにある。
 だが、それはもはや誰の重さも受け止めていない。

 王は寝台に伏している。
 王太子は、民衆の怒りを前に立ち尽くしている。
 王家の威信は、門前の叫び声によって蝕まれていく。

 形としての玉座は残っている。
 けれど、“そこに座るという意味”は崩れかけていた。

 王家が守れていないものが多すぎる。
 そして何より――「守るべき存在だったはず」の少女を、自ら捨てた。

 その一点が、玉座の根元を腐らせていた。



 一方、ノルディア。

 国境付近の検問所は、今日も忙しい。

「次の方、順番に!」

「慌てないで! 怪我してる人、子ども連れはこっち!」

 ノルディアの騎士たちと文官たちが、汗を拭いながら人の流れを整えている。

 アルシェルド側からの道には、細い列ができていた。

 荷車を押す者。
 荷物を背負う者。
 身一つで歩いてくる者。

 共通しているのは――皆、何かを置いてきた目をしていること。

 家か。
 土地か。
 家族か。
 故郷か。

 それぞれ違うものを失って、それでも前に進むために、ノルディアの国境を目指している。

「ここから先は、ノルディア王国です」

 受付の文官が、一人ひとりに確認する。

「我が国の法に従うことを条件に、避難民として受け入れます。
 定住を希望される方には、土地や仕事の斡旋も検討されます」

 噛みしめるように、その言葉を聞く人たち。

 「アルシェルド」という国の枠から外れる不安と、
 「生きていけるかもしれない」という微かな希望と。

 その二つを両手で抱えて、彼らは並んでいた。



 ノルディア王都の一角、臨時の救護所。

 リディアは、今日もそこで人々の傷と向き合っていた。

「はい、次の方――あ、急ぎの子はこっち!」

 熱でぐったりした子どもが、若い母親に抱えられて運び込まれる。

 胸に手を当てて、呼吸の浅さを確かめる。
 額に触れると、焼けるように熱い。

「大丈夫、大丈夫です。深呼吸してね」

 子どもの耳元で、やさしく囁く。

 母親は、今にも泣きそうな顔で、「すみません、すみません」と繰り返している。

「謝らなくていいですよ。ここまでよく連れてきました」

 リディアは、にっこりと笑った。

 掌を、子どもの胸の上にそっと置く。

 冷たい泉から水を汲むように、自分の内側から魔力を引き出す。
 以前ほど勢いよくは出てこないけれど――ノルディアで休んだぶん、魔力の質はむしろ澄んでいた。

 薄い光が、掌からじんわりと広がっていく。

 熱に浮かされた身体が、少しずつ落ち着きを取り戻す。
 ごくりと唾を飲み込む音がして、浅かった呼吸がゆっくりと深くなる。

「……せん、せい……?」

 子どもの目が、ぼんやりと開く。

 ノルディアでは医療従事者を“先生”と呼ぶことが多い。
 リディアはそれが少し面白くて、「わたしは先生じゃないですよ」と笑い返す。

「ここは……」

「ノルディアですよ。よく来ましたね」

 簡単な説明をして、薬草の煎じ薬を渡す。
 母親は、涙をぼろぼろこぼしながら何度も頭を下げた。

「本当に……本当に……」

「“聖女様”とか、“神様”とか言わなくていいですから」

 リディアは、冗談めかして手を振る。

「わたしはただのリディアです。
 ここで、ちょっとだけ魔法が使える人です」

 そう言えることが、たまらなく心地いい。

 “国を支える大いなる器”でもなく。
 “王家の婚約者”でもなく。
 ただ、人を助けるために手を伸ばす一人の人間。

 その肩書きでいられることが、ありがたかった。



 救護の合間合間に、リディアはアルシェルドから来た人々の話を聞いた。

 ある青年は、こう言った。

「……王都の近くの村にいたんです。
 この一年くらいで、畑から取れるものがどんどん減ってって……
 “聖女様の加護が弱まったせいだ”って、村の誰かが言い出して」

 言い淀む。

「“前の聖女様を追放した王家の罰だ”って、言う人もいました」

 責任の擦り合い。
 噂。
 信仰心と不安がごちゃまぜになった怒り。

 リディアは、それを責める気にはなれなかった。

 その怒りの矛先には、自分も確かに含まれていたから。

「怖くなったんです」

 青年は、拳を握りしめる。

「“この国にいても、もう駄目なんじゃないか”って。
 それで、弟と一緒に、ノルディアに――」

 彼の弟は、今、隣のベッドで眠っている。
 疲労と栄養不足で倒れていたが、命に別状はない。

 リディアは、その弟の額を撫でてから、青年に向き直った。

「来てくれて、よかったです」

 心からそう言う。

「アルシェルドを捨てたような気がして、まだ……ちょっとだけ、後ろめたいんですけど」

「生きる場所を選ぶことは、捨てることだけじゃないですよ」

 リディアは、自分自身にも言い聞かせるように言葉を紡いだ。

「“自分が生きられる場所”を選んだだけです。
 それを責める権利は、誰にもありません」

 青年は、しばらく黙っていたが――やがて、かすかに笑った。

「……そう言ってもらえると、少し楽になります」

 その笑顔が、ノルディアの光に馴染んでいく。

 リディアの胸にも、少しだけ温度が灯る。

(アルシェルドの“国”を救うことは、もうできないけれど)

 目の前にいる“人”たちなら。

 きっと、まだ間に合う。



 別の日。

 救護所の片隅で、ひとりの老女が咳き込んでいた。

 痩せた肩。
 節くれだった指。
 皺だらけの手の甲。

 リディアがそっと手を添えると、その手ががしっと彼女の指を掴んだ。

「あんたが……前の聖女様かい?」

 唐突な問いに、リディアは少しだけ身を固くした。

「どうして、そう思われます?」

「顔がね。似てるんだよ、あの頃、王都の広場で見た聖女様に」

 老女は、目を細める。

「みんなが“聖女様、聖女様”って手を振ってる中でね、あんた一人だけ、すごく申し訳なさそうな顔をしてたんだよ」

「……申し訳なさそう?」

「“こんなに感謝されるほどのこと、してないのに”って顔だよ」

 図星すぎて、思わず苦笑が漏れた。

(見られてたんだ、そんな顔)

 聖堂から広場に出るとき、いつもモヤモヤしていた。
 祈りを捧げたのは事実だけれど、それは自分一人の力じゃない。
 神の加護だとか、大地の力だとか。
 いろんなものが一緒になって奇跡が起きているのに、自分だけが持ち上げられている気がして、落ち着かなかった。

 それを、ちゃんと見ていた人がいた。

「……はい。たぶん、その“前の聖女”です」

 リディアは、静かに認めた。

 老女の手が、少し強く彼女の指を握る。

「そうかい」

 それだけ言って、老女は大きなため息をついた。

「悪かったねぇ」

「え?」

「うちら、あんたに全部押しつけてた」

 老女の声は、枯れているけれど、芯があった。

「“聖女様が何とかしてくれる”“祈ってくれてるから大丈夫だ”って、好き放題言ってた。
 誰一人、“あの子、いつか倒れるんじゃないか”なんて、ちゃんと考えてやらなかった」

「そんな……」

「王様も、偉い人たちも、同じだろうけどねぇ」

 老女は、目を細めて遠くを見る。

「国がどうとか、政治がどうとかは、ばあさんには分からないよ。
 でも、あんたの顔は、よく覚えてる」

 リディアの胸が、ぎゅっと締め付けられた。

「わたし……」

 こみ上げてくる感情を、うまく言葉にできない。

 喉の奥で、何かがつかえている。

 それでも、どうしても伝えたくて。

「ごめんなさい」

 ぽつりと零れた。

 老女が、驚いたように目を瞬かせる。

「……何がだい」

「守れなくて」

 堰を切ったみたいに、言葉が溢れた。

「アルシェルドを。
 みなさんの暮らしを。
 病気を。
 魔物を。
 ……全部、守りきれなくて」

 それはずっと、心の奥底に沈めていた罪悪感だった。

 “もっと祈っていれば”.
 “もっと早く気づいていれば”.
 “もっと上手く立ち回れていれば”。

 そうすれば、アルシェルドはこんなふうに崩れずに済んだのかもしれない、と。

「王様たちが間違っていたのは、分かっています。
 でも、わたしがもっとちゃんとしていたら――って、どうしても思ってしまって」

 言いながら、涙が滲む。

「守れなくて、ごめんなさい」

 その言葉を言った瞬間、自分でも驚くくらい、胸の奥がひりついた。

 老女は、しばらく黙ってリディアの顔を見つめていた。

 そして――ふっと、皺だらけの口元をほころばせた。

「……あんたのせいじゃないよ」

 その言葉は、驚くほどあっさりしていた。

「え……」

「国が壊れかけてるのはさ、偉い人たちがそういうふうにしてきたからだよ」

 老女は、肩をすくめる。

「ばあさんみたいな庶民から見てもね、“聖女様に全部押しつけすぎだなぁ”って思ってたんだ。
 助かるときだけ“ありがたいありがたい”って頭下げて、
 うまくいかないときは“聖女のせいだ”って言って」

 あまりにも真っ直ぐな言葉に、リディアは息を呑んだ。

「そりゃ、神様だって怒るさね。
 “あたしたちは何もしないけど、あんたが全部何とかしなさい”なんて、虫が良すぎる」

 老女は、リディアの手をぽんぽんと叩く。

「あんたは、あんたなりに十分やったんだろ?」

「……分からないです」

 リディアは、首を振った。

「足りなかったって言われ続けてきたから。
 “十分”ってどこまでか、自分ではよく分からなくて」

「なら、もう、そろそろ“十分”ってことにしときな」

 老女の言葉は、優しくも容赦ない。

「あんた一人が全部背負ってたら、世の中の人間みんな、楽しすぎだよ」

 ふふ、と笑う。

「あんたの役目は、もう“誰かが拾ってくれた”んだろう? ノルディアで」

 リディアは、はっとして顔を上げた。

 レオン。
 カイル。
 ノルディアの人たち。

 彼らが、「あの日の役目」をそのまま押しつけることなく、代わりに「一緒に支える」という形を見せてくれた。

 レオンは王として、国の構造を変えようとしている。
 カイルは騎士として、目の前の人を守っている。
 文官たちは、地道な調整で社会の形を整えている。

 “全部リディアに”ではなく、
 “みんなで少しずつ”になっている。

「……そう、ですね」

 ぽつりと呟くと、胸の奥で何かがゆっくりと溶けていくのを感じた。

(全部、わたしの責任じゃない)

 やっと、その言葉を、自分で自分に許せた気がした。

 これまでも、レオンたちに何度も言われてきた。

『君一人のせいではない』
『全部背負う必要はない』

 そのたびに頭では理解したつもりだった。
 でも、心のどこかで、「それでも」と自分を責め続けていた。

 今、“アルシェルドから逃げてきた人”の口から、「あんたのせいじゃない」と言われたことで。

 初めて、底のほうからふっと力が抜けた。

「ありがとう、ございます」

 涙が一粒、頬を伝う。

 老女は、それを見て笑った。

「礼を言うのは、こっちだよ。
 あんたみたいな子に、また会えたんだから」

 その言葉に、リディアは小さく笑い返した。



 その日の夜。

 ノルディアの城の高台から、リディアは街の灯りを眺めていた。

 隣には、いつものようにレオンがいる。

「……少し、顔が柔らかくなったな」

 レオンが、静かに言った。

「え?」

「この数日、アルシェルドからの避難民を相手にしているあいだ。
 ずっとどこか、自分を責める顔をしていた」

「そんなに分かりやすかったですか?」

「君の顔は、分かりやすい」

 即答された。
 思わず笑ってしまう。

「さっき、救護所から戻ってきたときは、“少しだけ荷物を下ろした”ような顔をしていたからな」

「……おばあさんに、“あんたのせいじゃない”って言われました」

 リディアは、今日あったことを簡単に話した。

 守れなくてごめんなさいと言ったこと。
 「国が壊れかけているのは偉い人のせいだ」と笑われたこと。
 「もう十分だ」と言われたこと。

 レオンは、黙って聞いていた。

「どうしてでしょうね」

 灯りを眺めながら、リディアはぽつりと言う。

「同じことを、レオンさんたちにも何度も言ってもらってたのに。
 アルシェルドから来た人に言われた途端、すとんって胸に落ちちゃって」

「人は、同じ言葉でも、“誰が言うか”で意味が変わるからな」

 レオンは肩をすくめた。

「俺たちが言えば、“ノルディアでの新しい生活を肯定したい人間の言葉”になる。
 アルシェルドから来た者が言えば、“過去を知っている人間の言葉”になる」

「……どっちも本当なのに」

「どっちも本当だからこそ、だろう」

 レオンの横顔は、相変わらず穏やかだった。

「君は、“どこまで自分が責任を負うべきか”を、ずっと探していたんだ」

 その言葉に、リディアは目を見開いた。

「責任って、そんな大層な」

「昔の君は、“自分の人生全部”を責任の範囲内だと思っていた。
 今の君は、ようやく、“自分の両手で抱えられる分だけでいい”と思い始めている」

 淡々とした分析。

 図星で、言い返せない。

「君が手を伸ばせるのは、“目の前の人”までだ」

 レオンは、街の灯りを指さす。

「千の灯りを、君一人で守る必要はない。
 その代わり、一つの灯りに手を伸ばすなら、その灯りとちゃんと向き合えばいい」

 その言葉が、不思議と胸に心地よく収まった。

 アルシェルドの玉座は、崩れかけている。
 国の枠組みも、王家の威信も、もう元には戻れないかもしれない。

 それでも――。

 ここには、まだ灯りがある。

 ノルディアの街の灯り。
 避難してきた人たちの灯り。
 そして、自分の胸の奥で、小さく燃え続けている灯り。

(崩れていくものもあるけれど)

 それでも、残っていくものもある。

 誰かがくれた「ありがとう」。
 「生きていてくれてよかった」という笑顔。
 「あなたのせいじゃないよ」という言葉。

 それら全部が、リディアの中に、静かに積み重なっていく。

「レオンさん」

「ん?」

「わたし、多分これからも、“自分のせいだ”って思う癖は消えないと思います」

「だろうな」

 あっさり言われた。

「でも、そのたびに――」

 リディアは、夜空を見上げる。

「今日のおばあさんの言葉、思い出します。“あんたのせいじゃないよ”って」

「いい記憶の残し方だ」

 レオンが、少しだけ笑った。

「それから」

 リディアは、隣を見上げる。

「レオンさんたちの言葉も、ちゃんと信じます。“全部背負う必要はない”って」

「光栄だな」

 夜風が、二人の間を通り抜けていく。

 崩れかけた玉座のある国と。
 新しく灯りを増やそうとしている国。

 その狭間で、元聖女リディアはようやく――
 “自分だけが全部の責任を背負わなくていい”という、ごく当たり前の事実を、静かに胸に受け入れ始めていた。
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