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第16話 国と人を分ける、聖女の条件
しおりを挟む“遅い”という答えが落ちたあとも、謁見の間の空気は凍りついたままだった。
誰かが咳払いをすることすら許されないような静寂。
ノルディアの紋章旗が、高い天井の下でかすかに揺れている。
ユリウスは、その場に立ち尽くしていた。
瞳の奥で、何かが崩れていく音がする。
それでも彼は、まだ完全には倒れない。
「……では」
かすれた声で、立て直すように言葉を紡いだ。
「では……せめて、一時的にでもいい」
その一歩が、見ていて痛々しいほど必死だ。
「国が落ち着くまでで構わない。
辺境の魔物を退け、病が収まり、民の生活が安定するまで……その間だけでも、君の力を貸してはもらえないか」
“永遠に”ではなく、“一時的に”。
条件を下げに下げて、最低限の望みだけを掴もうとする手の動き。
「その後は必ず、君の望むように……」
ユリウスの言葉は、そこで途切れた。
リディアは、静かに首を振る。
「……殿下」
敬称を付けるのが、今の自分にできる最低限の礼儀だと思った。
「さっきも言ったとおり、わたしはもう“アルシェルドの聖女”には戻れません」
「一時的にも、か?」
「“一時的に”が、一番危ないんです」
リディアは、自分の中の怖さを、そのまま言葉にした。
「前にも、“国が落ち着くまで”って、何度も言われました。
“この災害が収まるまで”“この戦が終わるまで”“この冬を越えるまで”」
そのたびに、祈る量は増えていった。
“ここまで”と思っていたラインが、何度もずれた。
気づけば、限界という境界線そのものが、溶けて消えていた。
「わたしは、自分で“やりすぎる”ことを止められない人間です」
自嘲気味に笑う。
「誰かが困っているのを見たら、助けてしまう。
“ここでやめる”って自分で自分にブレーキをかけるのが、ずっと下手でした」
だからこそ、“国のため”“期間限定”は危険すぎる。
「“一時的に”って国に呼ばれたら、きっとまた――全部差し出してしまうと思います」
アルシェルドで、その結果どうなったか。
彼らも、彼女も、もう知っている。
「だから、“一時的に”も、できません」
はっきりと言い切った。
ユリウスは、唇を噛みしめる。
「……では、アルシェルドを――」
声が震える。
「アルシェルドという“国”を、見捨てるつもりか」
その問いに、リディアは少しだけ目を伏せかけて――首を横に振った。
「“国”を、ですか」
問い返すようにつぶやく。
「正直に言うと……“アルシェルド王国”という枠組みに対して、強い愛情はもうありません」
宮廷。
王城。
聖堂。
そこに渦巻いていたものは、温かいものより冷たいもののほうが多すぎた。
「でも、“アルシェルドにいる人たち”を見捨てたいとは思っていません」
兵士たちの顔が浮かぶ。
怪我をして戻ってきて、「聖女様、助かりました」と笑ってくれた人たち。
市場で野菜を売っていたおばさん。
祈りに来ていた親子。
子どもの手を引いて、聖堂に頭を下げていた農夫。
「国にどう扱われているかに関係なく、そこに生きている人はみんな、確かに“誰か”でした」
それは、ノルディアに来てから、より実感したことだった。
「だから、“アルシェルドの人々”を全部見捨てたい、なんて思ってはいません」
その言葉に、ノルディア側の文官たちが、わずかに目を見開いた。
アルシェルドに対して怒りや憎しみしか持っていないとしたら、それはそれで分かりやすかったのだろう。
でも、リディアの答えは、もっと面倒で、もっと人間らしい。
ユリウスもまた、その言葉にしがみつくようにして顔を上げた。
「なら……!」
「“国”に戻って、“聖女の役目”をすることと、“人たちを助けること”は、別です」
リディアは、そこをはっきり分ける。
心の中でずっと曖昧になっていた線を、今ここで引き直すみたいに。
「わたしがしたいのは、“国のために祈ること”じゃなくて」
ノルディアに来てから積み重ねてきた時間が、その答えをくれた。
「苦しんでいる“人”を、助けることです」
彼女の声に、穏やかな共鳴がひとつ重なる。
「――その線引きは、王としても賛成だ」
レオンハルトだった。
ずっと口を挟まずに二人のやり取りを見守っていたノルディア王が、ようやく前に出る。
階段を一段降りて、リディアとほぼ同じ高さに立った。
「アルシェルド王家と政権に対して、“聖女”として戻る気はない。
だが、“人”に対しては、その限りではない」
ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「――そういう解釈で、合っているか?」
レオンがリディアに確認する。
彼女は、目を丸くして、それから小さく頷いた。
「……はい。そう、だと思います」
自分の中で漠然としていた輪郭を、レオンの言葉がくっきりと形にしてくれる。
“国”と“人”を、分ける。
国に属する構造や権力と、その中で生きている個々人を、別々に見る。
聖女の条件を、そこに置き直す。
「ならば――ノルディア王として、提案をしよう」
レオンは、ユリウスに視線を戻した。
青と紫の視線が、まっすぐぶつかる。
「アルシェルド王家と政権に対して、リディアを“聖女”として返すつもりはない。
だが、アルシェルドの“人々”に、ノルディアとして手を差し伸べることはできる」
大広間がざわめいた。
いくつもの視線が、レオンとリディアの間を揺れ動く。
「……どういう意味だ」
ユリウスの声には、警戒と、かすかな希望が混ざっていた。
「そのままの意味だ」
レオンは、少しも揺れない。
「アルシェルドからの難民、避難民を受け入れる。
魔物被害や病に追われ、行き場を失った人々に、ノルディアの地を開く」
「難民……」
ユリウスがかすれた声で繰り返す。
「その者たちの中で、傷つき、病み、倒れかけている者がいれば――」
レオンは、ほんの少しだけ隣を見る。
「“ノルディアのリディア”として、彼女が手を差し伸べることは、あるかもしれない」
「させる」とは言わない。
あくまで、彼女の選択としての“あるかもしれない”。
その余白の残し方が、レオンらしい。
リディアは、胸の奥がじわっと熱くなるのを感じていた。
(そんな道が……あったんだ)
アルシェルドという国を、救わない選択をしたとき。
同時に「そこにいる人たち」も全部切り捨ててしまうんじゃないか、と密かに震えていた。
でも、違うのだ。
国という器がどうなろうと、その中から溢れ出した人たちに手を伸ばす方法はある。
「……それは」
ユリウスの声が、低く、重くなる。
「それは、我が国の……崩壊を意味するぞ」
王家の威信。
国境。
税制。
軍事。
あらゆるものが、音を立てて崩れていく未来が、彼の中で一瞬にして描かれたのだろう。
国を支えていたはずの民が、隣国へ流れ出す。
税も、人手も、兵力も、ノルディアへと吸い込まれていく。
政治の言葉で言うなら、それは「敗北」以外の何ものでもない。
「アルシェルドという“国”の形は、今後大きく変わらざるを得ないだろうな」
レオンは、淡々と事実だけを述べる。
「だが、それは――」
そこで、視線をまたリディアに戻す。
「君を捨てたあの日に、もう決まっていたことだ」
リディアは、はっとしてレオンを見る。
「……わたし?」
「そうだ」
青い瞳の中に、ほんの一瞬、柔らかい光が混ざる。
「君が“国のための聖女”として使い潰され、そして“不要”と判断され、森に捨てられたとき。
アルシェルド王家と政権が、自国の行く末にどんな呪いをかけたのか――」
レオンは、ユリウスをまっすぐ見据える。
「今になってやっと、その結果を突きつけられているだけだ」
静かな断罪だった。
叫びもしない。
声を荒げもしない。
その代わり、一切の飾りを剥いだ言葉だけを突きつける。
「……私を捨てたときに」
リディアは、その言葉を自分のものとして受け取るように、ゆっくり繰り返した。
胸の奥で、何かがすとん、と落ちる。
「私を捨てたときに、もう決まっていたことです」
ユリウスに向き直りながら、静かに告げる。
「アルシェルドという“国”が、こうなることは」
その声には、怒りよりも、哀しみよりも――
諦念に似た、乾いた響きが混じっていた。
「……そんな、運命みたいに言うな」
ユリウスは、かすかに震える声で抗う。
「選択だったんだろう、あのときも、今も。
俺は、ここまで来て、“まだ何かできるはずだ”と信じて――」
「だから、今、“人”はまだ助けられるって話をしています」
リディアは、静かに遮った。
「国としての形は、もう元には戻れないかもしれません。
でも、そこで生きたい人、これから生きたい人――」
ノルディアで見た、あの子どもの顔が浮かぶ。
『お姉ちゃん、神様なの?』
あのくらいまっすぐな笑顔が、今アルシェルドにはどれくらい残っているだろう。
「そういう人たちを、全部まとめて見捨てるつもりはありません」
それが、“聖女”としてではなく、“リディア”としての宣言だった。
「でも、“アルシェルド王家と政権のために”祈ることは、もう二度とありません」
はっきりと切り捨てる。
国と人の間に、線を引く。
ユリウスの膝が、かくりと揺れた。
その場に崩れ落ちそうになった彼の前に、アルシェルド側の騎士が慌てて一歩進み出る。
支えるべきか迷って、しかし、この場では勝手に手は伸ばせない。
ユリウスは、ぎりぎりのところで踏みとどまった。
その顔には、敗北の色がくっきりと刻まれている。
王家の威信を守ることも。
国の形を保つことも。
そのどちらも、ここでは叶わない。
――人を捨てて国を選んだ結果、国も人も失いかけている。
そんな皮肉な構図が、冷たい光のように謁見の間に満ちる。
「……ノルディアとしての方針を、改めて伝える」
レオンハルトが、王としての声を響かせた。
「アルシェルドから逃れたい者、助けを求める者には、ノルディアの門を開く。
その者たちが我が国の法に従う限り、ノルディアは彼らを“難民”ではなく“新たな民”として受け入れる」
その宣言に、ノルディア側の人々がざわめく。
国の未来を左右する大きな決断だ。
負担にもなる。
リスクもある。
それでもレオンは、迷わない。
「そのうえで――」
視線を、もう一度リディアに向ける。
「君が助けたいと思う“人”がいれば、そのときは、君の判断で動けばいい」
“王の命令”ではない。
あくまで、“リディアの選択”として。
リディアは、胸の奥で何かがふっと軽くなるのを感じた。
国を見捨てても、人を見捨てなくていい。
そう思える道が、目の前に確かに伸びている。
「……ありがとうございます」
思わず、レオンのほうへ深く頭を下げていた。
王に対して、じゃなくて。
レオンという、“ひとりの人間”に。
彼の提案に、心から感謝したかった。
◇
「……リディア」
ユリウスが、もう一度名前を呼ぶ。
声は、ひどく小さい。
「君は、それで……いいのか」
“アルシェルドを崩れさせることになっても”という含みが、言葉の端々に滲んでいる。
リディアは、少しだけ考えて――そして、ゆっくりと答えた。
「“よくはない”です」
正直に言う。
「生まれて育った国が崩れていくとしたら、それはきっと、どこかで痛いです。
嫌でも思い出はありますから」
幼い頃に見上げた王城。
聖堂の光。
窓から吹き込む風。
全部が嫌な記憶だけで埋め尽くされているわけじゃない。
「でも、“仕方がない”とも思います」
「……仕方がない」
「殿下たちが、選んだ結果だから」
リディアは、まっすぐに言い切った。
「わたしがどれだけ祈っても、どれだけ頑張っても、“殿下たちが選んだこと”は変えられません。
あの日わたしを捨てたことも。
今、“国を優先して戻ってこい”とおっしゃることも」
それは、リディアがようやく掴んだ、「自分にできないこと」の線引きでもあった。
「でも、わたしは――」
胸の前で、そっと両手を重ねる。
「この先ノルディアに来る人たちに、“生きていてくれてよかった”って言える自分でいたいです」
アルシェルドで自分には言ってもらえなかった言葉を。
今度は、自分が誰かに渡す番だ。
「それが、“今のわたしにとっての聖女の条件”です」
国に属さない聖女。
誰かのために祈る人。
ユリウスは、その言葉を聞きながら、ゆっくりと目を閉じた。
その頬を、一筋、涙が伝う。
王太子としての誇りも。
アルシェルドという国の形も。
この瞬間、音を立てて崩れていく。
でもそれは、彼ら自身が選んだ道の果てにある崖だ。
リディアは、その崖の反対側で――
ノルディアという新しい土の上で、ようやく自分の足で立ち始めていた。
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