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第5話「瘴気の森の呼び声」
しおりを挟むその日、村の空気は、朝からどこかぴりついていた。
曇り空。
風はほとんど吹いていないのに、空気だけが重く湿っている。
遠くで犬が吠え続けていて、その声がやけに耳に残った。
「……なんか、嫌な感じ」
井戸のバケツを引き上げながら、クレアは小さく呟く。
水面に映る自分の顔は、いつも通り色白で、少しやつれていて、それでも以前よりは血の気がある。
けれど、その瞳の奥に移り込んだ空は、不吉な色をしていた。
「おーい、クレア!」
駐屯地のほうから、ノエルの声が飛んできた。
振り向けば、いつもはふざけた笑顔の彼が、今日は眉間にぐっとシワを寄せて走ってくる。
「どうしたんですか?」
「どうしたもこうしたもねえよ。森の方で被害だ。行商人の荷馬車襲われたって」
「えっ……」
胸がきゅっと縮む。
瘴気の森――黒ずんだ樹木の塊。
村人たちが、その名を出すときだけ声を落とす場所。
「命は?」
「御者は重傷。護衛一人死亡、馬も一頭やられた。……瘴気の濃いとこまで入り込んじまったらしい」
ノエルの声には、怒りと悔しさが滲んでいた。
「マリアさんは?」
「当然、討伐だよ。すでに第一陣出てる。俺もすぐ行かなきゃいけねえんだけどさ、その前に水と薬草の準備頼まれて」
ノエルは早口でまくしたてながら、水桶を二つ掴む。
「悪い、クレア。追加の水汲みと、マリア隊長の部屋にある救急箱の準備、頼んでいいか?」
「もちろんです。できること、全部やります」
「助かる!」
ノエルはそれだけ言うと、すぐに踵を返して駐屯地の中へ駆けていった。
その背中を、クレアはぎゅっと桶の取っ手を握りしめながら見送る。
胸の奥がざわざわする。
怖い。
けれど、それ以上に、「何もできないこと」が怖い。
(せめて、戻ってきたときに、できるだけのことを)
***
それからの数時間は、ただ必死に動いていた。
水を運び、毛布を干し、負傷者を寝かせるためのスペースを整える。
マリアの指示で、簡易担架もいくつか用意した。
村の女たちも駐屯地にやってきて、慣れない手つきで包帯を巻いたり、椀を並べたりしている。
子どもたちは不安げに親の足にすがりつき、男たちは村の外れに目を向けて黙りこくっていた。
誰も口には出さない。
でも、全員が同じことを考えている。
――戻ってこなかったら、どうしよう。
「クレア」
背後から名前を呼ばれて振り向くと、村長らしき白髪の老人が立っていた。
背中は曲がっているが、その目にはまだ鋭さが宿っている。
「はい」
「……あんた、王都の出なんだってな」
「え? は、はい。一応……」
「だったら、こういうときは祈るやり方くらい知ってるだろう。神殿流のやつを、女や子どもに教えてやってくれんか」
老人は、駐屯地の端で集まっている村人たちを顎で示した。
彼らはそれぞれ自分なりの祈り方をしているが、何か拠り所がほしいのだろう。
クレアは一瞬、言葉に詰まった。
「私、祈りが得意とか、そういうのは……」
「形だけでいい。手を合わせて、言葉を一つ口にするだけで、楽になるやつもおる」
老人の声は、静かながらどこか切実だった。
クレアは唇を噛み、それから頷いた。
「分かりました。私でよければ」
そうして、村人たちの輪に入っていく。
目を赤くした母親たち、手をぎゅっと握りしめている子どもたち。
彼らに、王都の神殿で見た形式的な祈りを、少しだけ柔らかく崩して伝えた。
「手は、こうやって胸の前で組んで……。
言葉は、何でもいいです。“無事でいてください”でも、“戻ってきてください”でも。……大事なのは、ちゃんと届いてほしいって思うことです」
自分で言いながら、その言葉を一番必要としているのは自分だと気づく。
(どうか……どうか、みんな無事で)
知らないうちに、拳が震えていた。
***
太陽が傾き、夕暮れが村を赤く染め始めた頃。
駐屯地の見張り台から、叫び声が上がった。
「戻ったぞー!! 第一陣、戻った!!」
その声は、祈りの輪を一瞬で壊した。
村人たちは我先にと駐屯地の入口へ押し寄せる。
クレアも、胸を押さえながら駆けた。
そして、見た。
瘴気の森の方角から戻ってきた兵士たちは、まるで戦場から這い出てきた亡霊のようだった。
鎧は焼け焦げ、ところどころ溶けている。
血がこびりついた剣先からは、焦げた毛と肉の匂いが立ち上っていた。
その匂いは、思い出したくもない嫌な記憶を呼び起こす。
エルフォルト家の屋敷で、一度だけ見た“危篤の兵士”の部屋。
あのときの、鉄と薬草と血の混ざった匂い。
でも、ここには、薬草の匂いが足りない。
代わりに、ただただ焦げた獣と瘴気の臭いだけが濃い。
「マリアさん!」
クレアは人をかき分けながら叫ぶ。
すぐに、見慣れた背中が目に入った。
マリアは鎧の肩口を焼かれ、一部は黒く炭化していた。
それでも立っている。
顔には擦り傷、片方の眉の上からは血が垂れている。
「マリアさん、怪我……!」
「軽傷だ。見るな、臭いぞ」
そう言って笑うマリアの鎧から、たしかに鼻を突く獣臭が漂っていた。
その匂いの中に、焦げた毛、焼けた肉、そして――微かな瘴気の臭気。
「ノエルは?」
「……あそこだ」
マリアが顎で指し示す先には、地面に座り込んでいるノエルの姿があった。
彼は大きな怪我こそしていないようだったが、顔は真っ青で、吐きそうな表情をしていた。
剣の刃には黒い血がべったりとついている。
「ノエルさん!」
「うっ……クレア、来るな。俺、今自分でも臭う……」
情けない声。
でも、その声が聞こえたことに、クレアは心の底から安堵した。
「無事で……よかった」
「……一応な」
ノエルは苦笑し、額の汗を袖で拭った。
「瘴気、ひどかったですか?」
「ひどいどころの騒ぎじゃなかった。森の手前ですら、あの濃さだ。奥なんて行ったら、肺が焼ける」
マリアが低い声で言う。
「魔獣も、普通のやつじゃない。瘴気にやられて、狂暴化してる。……あれは、“森が本気でこっちを喰いにきてる”状態だ」
「森が……喰いに?」
クレアの喉が、ごくりと鳴る。
黒ずんだ森の姿が脳裏に浮かぶ。
あの――夢で見た巨大な樹と、現実の腐った森の影が、一瞬重なりかけて、すぐに拒絶するみたいに離れた。
「このままだと、村まで瘴気が侵食する」
ノエルがぽつりと呟く。
「もう、空気だけで目が痛えし、喉もやられてきてる。子どもとか、年寄りは真っ先にやられるぞ」
「……対策は?」
クレアは、聞きたくないのに聞いていた。
「対策って言ってもな。森を焼き払うほどの戦力はねえし、瘴気自体に効く魔法持ちもいねえ。できるのは、森の縁に簡易の結界張って、少しでも侵食を遅らせることくらいだ」
マリアが短く答える。
その顔には、“足りない”という不満と、現実を受け入れる苦さが混じっていた。
「祈るしかねえってやつだ」
ノエルが、自嘲気味に笑う。
村人たちは、すでに祈ることしかできていない。
誰も森に近づこうとはしない。
瘴気に触れた者は、命を落とすか、正気を失うか。
クレアは唇をぎゅっと噛んだ。
(……なにも、できないの?)
あれだけ「役に立てるかもしれない」と浮かれていた自分が、急にちっぽけに思えた。
桶を直した。
柵を修理した。
井戸の水を少し澄ませた。
でも、そんなものじゃ、この黒い森には到底太刀打ちできない。
彼女が手を伸ばせる範囲なんて、あまりにも狭い。
「クレア」
マリアが、かすかに柔らかい声で呼ぶ。
「お前の仕事は、お前の目の前にいるやつを助けることだ。今はそれでいい。森のことは、こっちの仕事だ」
「でも――」
「“でも”じゃない。無理したら、反対に手間が増える」
いつも通りの、きっぱりとした言い方。
それが、クレアにはありがたかった。
「……わかりました」
頷いて、クレアは負傷者の方へ走る。
焦げた血、破けた布、痛みに顔を歪める兵士たち。
彼女にできるのは、汚れた布を拭いて、清潔な包帯を巻くことだけ。
それでも、手を動かしていれば、余計なことを考えずに済んだ。
その日の夜まで、クレアはほとんど休みなく働き続けた。
***
夜。
村は、異様な静けさに包まれていた。
昼間の喧騒が嘘のように、人の声が少ない。
一部の見張りと、夜通し看病を続ける者たち以外は、疲れ果てて眠りに落ちているのだろう。
クレアもどうにか自分のベッドに辿り着き、靴を脱ぐ余裕もほとんどないまま倒れ込んだ。
全身が痛い。
腕も足も、鉛を詰め込まれたみたいに重い。
(……寝なきゃ)
目を閉じる。
意識がゆっくり沈んでいく。
――はずだった。
きいん、と。
細い針で、耳の奥をつつかれたような感覚。
「……っ」
クレアは反射的に目を開けた。
部屋は真っ暗。
窓から差し込む月の光だけが、ベッドと天井をぼんやりと照らしている。
マリアは隣のベッドで眠っていた。
規則正しくはないが、それでも落ち着いた寝息が聞こえる。
(耳鳴り……?)
最初は、そう思った。
疲れすぎて、体が悲鳴を上げているのだろうと。
でも、すぐに違和感に気づく。
耳というより――頭の中で鳴っている。
それも、単純な「音」ではない。
ざわざわと、木々が揺れる音。
風が葉を撫でる音。
あの夢の中で聞いた、世界樹の枝葉のざわめき。
「……」
ゆっくりと、身体を起こした。
胸元のペンダントが、小さく揺れて、かつんと音を立てる。
耳鳴りは、どんどん強くなっていく。
ざわめきが、重なり合い、渦を巻き、波になって押し寄せてくる。
そして、その中から――
『……こちらへ』
声がした。
直接、頭の中に。
女でも男でもない。
老いも若きもない。
けれど、圧倒的に“生きている何か”の声。
『……おかえり』
ぞくり、と背筋が震えた。
「……っ、だれ……?」
思わず、息を呑んで呟く。
答えはない。
でも、ざわめきは続く。
窓の外。
そこにあるはずの黒い森の方向が、妙にはっきりと“分かる”。
見えていないのに。
カーテンを閉めているのに。
距離も、本当はよく知らないのに。
それなのに、森の輪郭が頭の中に浮かび上がる。
まるで、地図の上に印をつけたみたいに。
「……気のせい、だよね」
自分に言い聞かせるように呟く。
そうしないと、何か大事な一線を越えてしまいそうで怖かった。
布団をかぶろうとした――けれど。
足が、勝手に床に降りていた。
「え」
頭では「やめろ」と叫んでいる。
なのに、身体は従わない。
立ち上がる。
扉に向かって、一歩。
また一歩。
心臓が、どくん、と大きく鳴る。
「……まずい」
呟いても、声はかすれていて、自分の耳にもよく届かなかった。
マリアを起こそう。
ノエルを呼ぼう。
ここから出てはいけない、と誰かに止めてほしい。
頭のどこかは、そう叫んでいる。
それでも――
『こちらへ』
『おかえり』
声が、甘い手のひらのように彼女の意識を撫でる。
懐かしい匂いのする手。
ずっと探していたもの。
ずっと待っていてくれたもの。
そんなふうに感じてしまう。
足を、止められない。
そっと扉を開ける。
軋む音がやけに大きく感じられて、一瞬だけ心臓が跳ねる。
マリアは起きない。
ノエルの部屋からも、誰の足音も聞こえない。
宿舎の外に出る。
夜気が、肌を刺すように冷たい。
こんな夜に、外でうろつくなんて、自殺行為だ。
獣も、魔獣も、人さらいも、何がいるかわからない。
分かっているのに。
空気が、湿っている。
土の匂いが強い。
遠く、森のほうからは、かすかに獣の鳴き声が聞こえた。
クレアは薄い外套を羽織る暇もなく出てきてしまったことに気づき、思わず身震いした。
「……寒い……」
そう呟いたその瞬間だけ、理性が顔を出す。
(戻らなきゃ。今ならまだ――)
『こちらへ』
ざわっ、と風が吹いた。
瘴気の森のほうから。
風に運ばれてくるのは、腐った葉の匂いと、湿った木の香り。
そして、その奥に、ごくごく薄い――
あの夢で嗅いだ、巨大な樹の匂いが混ざっていた。
(……あ)
胸の奥が、きゅうっと締め付けられる。
涙腺の奥が、熱くなる。
懐かしい。
恋しい。
そこに行かなきゃいけない気がする。
それが何なのか分からないのに、身体が覚えている。
足が、森の方向へと勝手に動き出した。
「やめ、やめなきゃ……」
自分で自分に命令してみる。
でも、足は聞かない。
一歩進むたび、ペンダントが胸元で揺れる。
揺れるたびに、胸の奥の灯りが少し強くなる。
駐屯地の門を抜ける。
村の外れの畑を横切る。
薄暗い獣道へと足を踏み入れる。
夜の村は、驚くほど無防備で、脆かった。
家々の窓から漏れる灯りは少なく、多くは火を落としている。
見張りの兵士は、村とは逆方向の見張り台に集中しているのだろう。
誰も、クレアの背中に気づかない。
冷たい夜気が、肺をきゅっと縮める。
薄い寝間着の上から、風が容赦なく肌を撫でる。
それでも、足取りは不思議と軽かった。
いつもなら、夜気を吸い込むだけで咳き込むのに。
冷えすぎればすぐに熱を出していたのに。
今は、心臓が速く打っている以外は、身体に異常はない。
(どうして……)
森が近づくにつれて、ざわめきはさらに強くなる。
風の音。
葉擦れの音。
土の中で何かが蠢く気配。
そして、その全部が、言葉に変わっていく。
『こちらへ』
『こわがらないで』
『おかえり』
『まっていた』
何十、何百、何千の声が重なり合う。
聞いていると、涙が出そうになるほどの歓喜が伝わってくる。
(私……待たれてた、の?)
そんな馬鹿な。
誰に。
何に。
考えようとしても、思考が霧に包まれてしまう。
やがて、視界が開けた。
そこが、森の縁だった。
昼間見た瘴気の森は、黒く、重く、触れただけで病をもらいそうな雰囲気をまとっていた。
夜の森は――その黒さがさらに濃くなり、輪郭が溶けて、巨大な闇の塊のように見えた。
森の手前の地面には、草がほとんど生えていない。
土は硬く乾き、ところどころひび割れている。
鼻先をかすめるのは、湿った腐葉土の匂いと、どこか甘ったるい腐敗臭。
(こわ……)
そこで、やっと「怖い」という感情が追いついてきた。
遅すぎる。
足は、森の一歩手前で止まっている。
あと一歩進めば、瘴気の濃い空気の中に入る。
「ここで……帰らなきゃ」
かろうじてそう呟く。
その声は震えていて、自分のものとは思えなかった。
足を引こうとした、その瞬間。
『こわくない』
ザァッ、と風が吹いた。
森の奥から、まっすぐこちらへ。
その風は、腐敗臭と一緒に、別の匂いも運んできた。
湿った土の匂い。
新しく芽吹いた若葉の匂い。
雨上がりの森の、清浄な香り。
相反する匂いが、同時に鼻腔を揺さぶる。
胸の奥の灯りが、一気に熱を増す。
「……っ、あつ……」
手が、自然と胸元に伸びる。
ペンダントの木が熱を帯びているように感じた。
『こわがらないで』
『おかえり』
『もどっておいで』
声が優しい。
母親の子守歌のように、恋人の囁きのように、友の励ましのように。
クレアの心の防御が、音を立てて崩れていく。
「……少しだけ。少しだけ、だったら」
どこからか、そんな言葉が口から漏れた。
理性がかろうじて付けた条件。
「少しだけなら大丈夫」という、いつもの甘い言い訳。
足が、一歩、森の中へ踏み込む。
空気が変わった。
重い。
濃い。
肌にまとわりついてくるような湿気と、胸の奥をじんじん刺す瘴気。
普通なら、一歩目で咳き込んで倒れていてもおかしくない。
でも――身体は、耐えていた。
「……だい、じょうぶ……?」
自分で確認してみる。
喉はひりつくが、呼吸はできる。
目は少し痛いが、視界ははっきりしている。
ただ一つ、圧倒的に違うのは。
胸の奥の灯りが、狂ったように明滅していること。
心臓の鼓動と混ざり合い、全身の血管を通って身体中を駆け巡る。
(熱じゃない……)
知っている。
病の熱では、絶対にない。
これは――目覚めの前の震えだ。
瘴気の濃さにも慣れたのか、足はさらに奥へ進んでいく。
湿った土が、靴底にしっかりと感触を返してくる。
枯れかけた葉が、足首を撫でる。
枝が顔の横をかすめて、頬に冷たい線を描いた。
遠くで、魔獣のうなり声が聞こえる。
低く、喉を鳴らすような音。
普通なら、その音だけで膝が笑って座り込んでいたはずだ。
それでも――足は止まらない。
一歩進むたびに、頭の中のざわめきが少し静かになる。
まるで、正しい道筋に戻っているときのナビゲーションみたいに。
『そうだ』
『こっちだ』
『もっと』
声が、道案内をする。
足元で枝が折れる音がするたび、心臓が跳ねる。
闇は濃くなり、月明かりも届かない。
それでも、不思議と“迷っている”感覚はなかった。
まるで、誰かに手を引かれているような。
誰かの背中を追いかけているような。
「……どこまで、行けばいいの……?」
震える声で呟いてみる。
返事はない。
代わりに、胸の奥の光が、ふっと、少しだけ落ち着いた。
次の瞬間――
視界が、少しだけ開けた。
そこは、森のほんの一角。
木々の間が少し広くなり、地面には他の場所よりも多くの苔が生えている。
その中心に。
巨大な倒木が横たわっていた。
幹は裂け、ところどころ炭化している。
長い年月を経て、苔や小さな植物に覆われている。
けれど、その形は――
(……夢、で)
クレアの喉から、かすれた声が漏れた。
夢で見た、世界樹の幹。
それを何十倍も小さくして、地面に倒したような形。
顎から胸まで、ぞわぞわと鳥肌が駆け上がる。
胸の奥の灯りが、今度は静かに、一定のリズムで脈打ち始めた。
まるで、「正解」と言われたみたいに。
『――やっと』
耳の奥で、声がした。
喜びと安堵と、長い待ち時間の終わりを告げる声。
クレアは、倒木から目を離せなかった。
「……私、なにしてるの」
遅れて、理性の声が追いついてくる。
ここは瘴気の森の奥。
誰も近づかない禁域。
村の誰かに見つかれば、怒鳴られて引きずり戻されるだろう。
それどころか、魔獣に見つかったら、一瞬で命はない。
分かっているのに――
足が、自然と倒木へ向かっていた。
胸元のペンダントが、熱を帯びて震える。
指先が、勝手に伸びる。
触れたい。
確かめたい。
あの夢が、幻じゃないと知りたい。
理性と本能が、最後の攻防を繰り広げる。
森のざわめきが、さらに強くなる。
倒木の表面から、かすかな光が漏れた。
「――――」
言葉にならない息が、彼女の喉から零れた。
その一歩が、世界を変えることになるなんて――
まだ、そのときのクレアは、夢にも思っていなかった。
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