無能令嬢、『雑役係』として辺境送りされたけど、世界樹の加護を受けて規格外に成長する

タマ マコト

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第6話「朽ちた巨木との邂逅」

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 森の奥は、境界線を一歩またいだ瞬間、世界が裏返ったみたいだった。

 さっきまで肺を刺していた瘴気の重さが、ふっと軽くなる。
 喉を焼いていたはずの空気が、急に澄んで、ひんやり冷たい水みたいに胸の奥まで流れ込んでくる。

「……え?」

 思わず、足を止めた。

 振り返れば、背後の木々は相変わらず黒く濁っている。
 枝には色の抜けた葉がぶら下がり、土はどろりと淀んだ色をしている。
 瘴気はたしかにある。あるのに――

 自分の足元だけ、色が違った。

 枯葉のじゅうたんの間から、細い緑の芽が顔を出している。
 さっきまで、そんなものは見えなかった。
 ひび割れた土は、じわじわと水を含んだように柔らかさを取り戻し、苔がにじむように広がり始めている。

 クレアが一歩踏み出すたび、その足跡のあとから、小さな芽がぽつぽつと伸びた。

「……なに、これ」

 自分の足が、世界に絵の具を落としているみたいだった。
 歩けば歩くほど、モノクロの画用紙に緑が滲む。

 怖い。
 でも、それ以上に、目が離せない。

 ざわざわと、頭の中で森の声が続いている。
 木々が風に揺れる音。
 土が呼吸する音。
 ぜんぶが混ざり合って、歌みたいに聞こえる。

『――こっち』

『こっちだよ』

『おそかった』

 誰かが道案内をするように。
 幼い頃に聞いたことのない子守歌を、今さら聞かされているような、不思議な感覚。

 やがて、木々の密度が少しずつ薄くなっていった。
 絡み合っていた枝が途切れ、視界の端から闇が剥がれ落ちていく。

 ふっと、息を吸い込みたくなるような広がりを感じて、クレアは顔を上げた。

 そこにあったものを見て、言葉を失う。

「…………っ」

 開けたその場所の中心に、それは横たわっていた。

 巨大な、巨大な、巨大すぎる木。
 「倒木」という言葉では足りない。
 地平線の向こうまで届きそうな太さの幹が、地面に伏している。

 本来なら、空を突き刺すはずだった巨木の“残骸”。

 幹は途中でぱっくりと割れ、裂け目からは真っ黒に焼けた木の芯が見えていた。
 ところどころが炭のように崩れ、そこから新しい苔と小さなキノコが顔を出している。

 根だと思われる部分は、土の奥深くに潜り込んだまま、場所によっては地表にうねり出て、まるで巨大な蛇のように地面を走っている。

 枝は崩れ、折れ、砕けている。
 それでもなお、その一本一本が、普通の樹木の幹よりも太かった。

 ――なのに、不思議と「怖い」とは思わなかった。

 むしろ、“懐かしい”。

 胸の奥から、ぞわりと何かが這い上がってくる。
 涙腺をつつかれているみたいに目頭が熱くなり、喉の奥がぎゅっと詰まる。

(知ってる……)

 会ったことなんかない。
 見たことなんて、あるはずがない。
 それでも、クレアの心は勝手にそう断言していた。

 夢で見た、あの巨大な樹。
 空を覆い尽くしていた枝葉。
 世界を抱きしめるように広がる緑。

 目の前のこれは、その「なれの果て」のように見えた。

 ボロボロで、傷だらけで、もう立てないはずなのに。
 それでも、どこか神々しい。

 大戦を生き抜いた老兵が、戦いのあとの静けさの中で目を閉じているような。
 そんな、厳粛な雰囲気。

 風が吹いた。
 瘴気の渦を切り裂いて、この場所だけをそっと撫でる優しい風。

 倒木の表面に張り付いた苔が揺れ、光の粒がぱらぱらと舞い上がる。
 それは埃ではなかった。
 ほんのりと緑がかった、小さな光の粒。

「……きれい」

 思わず、一歩、近づく。

 足元の土が柔らかく沈む。
 靴の周りに、小さな白い花がぽつん、ぽつんと咲き始めた。

 クレアが息を吸い込むたび、この場所の空気が身体の中に染み込んでいく気がした。

 胸元のペンダントが、じんじんと熱を帯びている。
 触れなくても分かる。
 そこから何かが、倒木へ向かって、倒木から自分へ向かって、行ったり来たりしている。

(……呼ばれてる)

 そう理解した瞬間、足がほんの少し軽くなった。

 怖い。
 怖いのに。

 あの屋敷から一歩も出られなかった自分が、今、こんな場所にいる。

 それでも、不思議と息が苦しくない。

「……いきなり話しかけられても困りますよ」

 誰もいない空間に向かって、クレアは苦笑混じりに呟いた。
 返事があるとは思っていない。
 ただ、沈黙に耐えられなかった。

 倒木のすぐ側まで行くと、その巨大さが改めて身に迫ってきた。

 幹の表面は、ところどころ焦げ、割れ、苔に覆われている。
 それでも、指一本分触れていない、木肌がそのまま残っている部分もある。

 そこは、不思議と温かそうに見えた。

 クレアは、無意識に手を伸ばしていた。

(さわったら、たぶん戻れない)

 そんな予感が、一瞬だけ頭をかすめる。

 でも、もう遅かった。

 指先が、木肌に触れる。

 瞬間――

「――――っ!」

 熱くはなかった。

 凍るような冷たさでもなかった。

 もっと、別のなにか。

 指先から、眩い光が脳へ一直線に駆け上がってきた。

 「痛み」という言葉では足りない。
 「衝撃」という言葉でも足りない。

 感情、映像、音、匂い、全てが一度に頭の中へ押し込まれたみたいだった。

 視界が、真っ白に染まる。

 森も、夜空も、倒木も、全部が消えた。
 世界の輪郭が溶け、ただ光だけが残る。

 光の中で、海の底に沈むように、クレアは意識を掻き混ぜられる。

 耳の奥で、声がした。

《――見ツケタ》

 低く、深く、重なる声。

 一人の声じゃない。
 老人の声、子どもの声、男の声、女の声。
 いろんな声が幾重にも重なり、ひとつの“意思”になって響いてくる。

 古い鐘がゆっくりと鳴り響くみたいな、胸の奥を震わせる音。

 クレアは息をするのも忘れて、その声を聞いていた。

 次の瞬間――

 光の中に、映像が流れ込んでくる。

 見たことのない空。
 雲よりも高く伸びる一本の樹。
 その幹は空の青を突き破り、枝は世界の隅々まで広がっている。

 あらゆる森が、その枝葉にぶら下がっているみたいだった。
 川も、山も、風も、全部がその樹から生まれ、また還っていく。

 その樹は、世界そのものだった。

(世界樹……)

 誰かがそう言った気がした。
 自分かもしれないし、そうじゃないかもしれない。

 樹の根元には、たくさんの影が集まっている。

 人、獣、精霊みたいな存在。
 みんなが樹に触れ、祈り、笑い、涙を流している。

 それは、遠い昔の光景のようでもあり、まだ来ていない未来の場面のようでもあった。

《……われラハ、切リ離サレタ》

 声が、光の中に沈み込んでいく。
 言葉は古くて、どこかぎこちなく、でも意味ははっきりと伝わってくる。

《戦イ。欲。恐レ。ソレラガ、枝ヲ裂キ、根ヲ断チ、幹ヲ焼イタ》

 光景が変わる。

 樹が、燃えていた。

 空を貫いていた枝が、黒い炎で焼かれていく。
 根元から走る亀裂。
 世界中の森が、一斉に悲鳴を上げる。

 誰かが、刃を振るった。
 巨大な鎖が根に巻き付けられている。
 魔術陣。
 祈りとも呪いともつかない言葉。

 世界樹は、切り刻まれていく。

 枝は各地へと飛ばされ、根はちぎられて海に沈められ、幹は何本もの欠片になって、大地のあちこちに埋められた。

《世界ハ、生キ延ビタ》

 声が、続ける。

《ダガ、記憶ハ分カタレ、チカラハ断タレタ。
 根ノ一部ハ眠リ、枝ノ一部ハ失ワレ、幹ノ一部ハ――》

 光景が、現在へと戻る。

 朽ちた倒木。
 瘴気に覆われた森。
 その中で、ぽつんと澄んだ空気の泡みたいに存在する小さな空間。

 そこに、クレアが立っている。

 クレア自身を、外側から見ているような感覚。

 彼女の胸元で、古びた木製ペンダントが光っていた。
 その光は、倒木の表面に刻まれた見えない紋様と、ぴたりと重なっている。

《そコニ、“器”ガ運バレタ》

 声が少しだけ弾む。
 長い長い眠りの中で、やっと見つけた宝物を手に取った子どものように。

《虚弱ナ身体。
 合ワナイ土地。
 合ワナイ空気。
 ソレラハ、“根”ガ求メルモノト違ッタカラ》

 エルフォルト家の屋敷。
 閉ざされた窓。
 薬草の匂い。
 熱に浮かされて苦しむクレアの姿。

 それらが閃光みたいに脳裏をよぎる。

《ココハ、“合ウ”場所》

 世界が、カチリと音を立ててはまった気がした。

 今まで軋んでいた歯車が、正しい位置に戻るときの音。

《末裔》

 声が、はっきりと名前を呼ぶように響く。

《世界樹ノ“血”ヲ引クモノ》

「……末裔……?」

 クレアは、自分の声が震えているのを他人事のように聞いていた。

 ありえない。
 ありえないのに、胸の奥の灯りが歓喜で震えている。

 指先から倒木へ流れ込んでいく光と、倒木から彼女へ戻ってくる光が、渦を巻く。

《オ前ハ、虚弱デハナイ》

 その言葉は、刃物じゃなかった。

 あまりにも優しくて、あまりにもまっすぐで、だから余計に痛かった。

《“合ワナイ場”ニ、無理ヤリ根ヲ張ラサレテイタダケダ》

 思い出す。

 白い天蓋。
 閉ざされたカーテン。
 薬草の匂い。

 その全部が、自分の身体にとって“違う”ものだったというのなら。

 じゃあ、自分のこれまでの苦しみは、なんだったのだろう。

「……じゃあ、私は……」

 なにかを言おうとして、言葉にならない。
 喉が震え、涙がこみ上げる。

《ココデ、呼吸ガデキル》

 それは命令じゃなかった。
 ただの、当たり前の事実の確認。

《ココデ、根ヲ張レル。
 ココデ、チカラヲ使エル》

 倒木の表面を走る光が、クレアの身体の中に地図を描いていく。

 骨の一本一本。
 血管の一本一本。
 神経の一本一本。

 その全部が、まるで木の幹と枝と細い根の網みたいに繋がっていることを、彼女は初めて「感じた」。

 身体の中に、樹がある。
 胸の真ん中に、小さな世界樹の幼木が植えられているような感覚。

《タダ――》

 そこで、声のトーンが少しだけ変わる。
 ほんのわずかな躊躇いと、痛みが混じる。

《オ前ガ、ドコマデ“人”デイルカハ、オ前ガ選ブ》

 光の渦が、少しだけ弱まった。

《全テヲ繋ゲバ、“世界樹”ニ戻レル。
 ダガソレハ、“人”デアルコトヲ手放スコト》

 クレアは、息を飲んだ。

 漠然とした不安に、輪郭が与えられてしまった瞬間。

 世界樹になる。
 世界そのものになる。
 それは、たしかに壮大で、美しくて、正しい選択肢のように聞こえる。

 でも――

(それって、“クレア”がいなくなるってことだよね)

 マリアのぶっきらぼうな声。
 ノエルのうるさい冗談。
 村の子どもたちの笑い声。

 焚き火の匂い。
 薄いスープの味。
 井戸の縁で聞いた水音。

 そういう、ちいさくて、でも確かに自分のものになりかけている「日々」が、全部遠くに離れていく未来が一瞬頭に浮かんで、喉がぎゅっと詰まった。

《今スグ選ブ必要ハナイ》

 声が、やわらかく続ける。

《今ハ、タダ“気付ケ”》

 光景が、ゆっくりとほどけていく。

 世界樹。
 戦い。
 分割された幹と根と枝。
 朽ちた巨木。
 瘴気に覆われた森。

 そして、そこにぽつんと立つ、一人の少女。

《オ前ハ、“無能”デハナイ》

 あの屋敷で何度も投げられた言葉が、真逆の形になって彼女の胸に打ち込まれる。

《“役立タズ”デモナイ》

 肩に貼り付いていた重いラベルが、一枚一枚剥がれ落ちていくような感覚。

《タダ、マダ何モ“使ッテイナカッタ”ダケ》

 世界が、白の中でゆっくりと回転する。

 クレアは、まるで深い湖の底に沈んでいくみたいな静けさの中で、その言葉だけを必死に掴んでいた。

(私……無能じゃなかった……?)

 信じたい。
 でも怖い。

 もし信じて、また「やっぱり嘘でした」って突き落とされたら、もう立ち上がれない気がする。

 心の中で、希望と恐れが綱引きをする。
 その綱を、世界樹の声が、そっと押し戻す。

《怖ガルナ》

 その言葉は、叱るでも慰めるでもなく、ただそこに寄り添うように。

《オ前ハ、オ前ノ速サデ、選ベ》

 光が、ふっと、弱くなった。

 真っ白だった世界に、色が戻ってくる。

 朽ちた倒木。
 夜の森。
 冷たい風。
 クレアの荒い息。

 指先は、まだ木肌に触れている。
 その部分だけ、驚くほど温かかった。まるで人の体温のように。

「……は、ぁ……っ……」

 酸素を求める溺れた魚みたいに、クレアは必死に空気を吸い込んだ。
 胸が上下するたび、身体の中を何かが行ったり来たりする。

 頭がくらくらする。
 膝が笑う。
 倒れそうだった。

 それでも――足元を見れば、自分の周囲だけ、やっぱり緑が濃くなっていた。

 苔。
 芽吹いた草。
 小さな白い花。

 瘴気は、クレアを避けるように渦を巻いて、遠巻きに流れている。

「…………」

 言葉が出なかった。

 笑うには、現実味がなさすぎる。
 泣くには、まだ恐怖が勝っている。
 叫ぶには、あまりにも静かだった。

 ただ、胸の奥で、なにかが確かに切り替わった。

 世界を見ていた位置が、半歩だけ変わった感覚。

 エルフォルト家の長女でもなく。
 王都の「虚弱な厄介者」でもなく。

 世界樹の“末裔”として、ここに立っている自分。

(……どうしよう)

 素直な本音が、やっと形になった。

(私、これから、どうしたらいいの)

 その問いに、世界樹の声は、今度こそ何も答えなかった。

 代わりに、倒木の表面を撫でる風が、そっとクレアの髪を揺らす。

 まるで、「もう遅いし、一旦帰れ」とでも言うように。

 遠くで、かすかに狼の遠吠えが聞こえた。
 現実の危険が、じわじわと近づいてくる。

「……帰らなきゃ」

 掠れた声で、自分にそう言い聞かせる。

 まだ夜は終わっていない。
 森は相変わらず危険で、瘴気は彼女以外のすべてを蝕む。

 倒木から、そっと手を離す。
 木肌は、さっきより少しだけ温度が下がっていた。

 胸元のペンダントが、その代わりに熱を持つ。
 さっきまで倒木に流れ込んでいた光の一部が、そこに宿ったように感じた。

「……ありがとう、なのかな」

 自分でもよく分からない言葉が口から出る。

 礼なのか、別れの挨拶なのか。
 そのときのクレアには、まだ判断がつかなかった。

 背を向ける。
 森の奥から、ざわざわと名残惜しそうな気配が追いかけてくる。

 それでも、足は村のほうへ。

 一歩一歩、瘴気の中を戻っていく。

 さっきとは逆に、彼女の足跡のあとから、ゆっくりと緑がしぼんでいった。
 それは、まるで「ここに来た」証拠を、自分で消しているみたいに。

 森の縁が近づく。
 夜明け前の冷たい空気が、うっすらと肌を撫でた。

 村の灯りはまだ暗く、誰も外には出ていない。

 すべてが、夢だったと言い張るには、あまりにも現実的すぎる冷たさと温かさが、クレアの肌に残っていた。

 胸の奥の灯りは、もう爆発しそうなほど強くはなかった。
 ただ、小さく、でも確かに燃えている。

(私、本当に……“無能”じゃなかったの?)

 その問いの答えを、誰に聞けばいいのか分からないまま――

 クレアは、誰も知らない夜の冒険を胸の奥に隠して、静かに駐屯地へ戻っていった。
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