無能令嬢、『雑役係』として辺境送りされたけど、世界樹の加護を受けて規格外に成長する

タマ マコト

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第9話「瘴気の森、ひと晩で浄化」

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 夜と朝のあいだ――世界がまだ寝ぼけている時間帯だった。

 東の空は、墨を水で薄めたみたいに、じわりじわりと白んでいく。
 星は一つ、また一つと色を失い、鳥たちのさえずりが、まだ掠れた声で試し鳴きを始めていた。

 クレアは、そんな朝の手前を、ふらふらと歩いていた。

 瘴気の森の奥から、村へ戻る道。

 “道”と呼べるほど整ってはいない。
 昨夜、自分が感覚だけを頼りに入り込んだ獣道をなぞるように、足を運ぶ。

 寝間着の上に薄い外套をひっかけただけの格好。
 裾はところどころ泥に汚れ、膝にも草の跡がついている。

 自分でも、間違いなく「夜中に森へ迷い込んでました」という証拠そのものみたいな姿だと思う。

(怒られる……)

 真っ先に浮かんだのがそれなのが、我ながらひどく人間らしくて笑えてくる。

 マリアに見つかったら、絶対に怒鳴られる。
 ノエルには、十年分くらいネタにされる。
 村長には、間違いなく真顔で説教される。

 でも、それでも――

(戻って、ちゃんと謝らなきゃ)

 さすがに「なにもなかった顔」はできない。
 ここまで来たら、むしろきっちり怒られたほうが落ち着く。

 そんなことを考えながら、クレアはふと足を止めた。

 森の中の空気が、さっきから変だ。

 軽い。
 昨日の夕方までとは、明らかに違う。

 胸を満たす酸素の量が、感覚で分かる。
 呼吸がこんなに楽なのは、辺境に来てからも初めてかもしれない。

 振り返る。

 そこには、瘴気の森――だったものが広がっていた。

 「瘴気の森」という言葉が似合っていた、あの黒い塊。

 夜の闇や霧とは違う、どろりとした黒さ。
 木々の幹にこびりついていた汚れ。
 腐った葉と死んだ獣の臭気。

 それが今――

「……色が、違う」

 思わず、呟いていた。

 夜の闇が薄れ始めたせいだけじゃない。
 森そのものの“色”が変わっている。

 黒ずんでいた幹が、焦げ茶色を取り戻している。
 葉の一枚一枚が、湿った緑を宿し始めている。
 木々の間を流れる空気は透明で、遠くの枝の揺れまで見える。

 どろりとした瘴気の霧は……もう、どこにもなかった。

 代わりに、薄い朝靄が、地面のあたりにだけふわふわと漂っている。
 その靄は、昨日までの「触れたら病気になりそうな霧」とは違って、ただ単に“水分”の匂いしかしなかった。

 森の奥から、鳥のさえずりが聞こえる。

「……戻ってきたんだ」

 鳥たちが、森を避けなくなった。
 それだけでも、この変化がどれほど異常か、はっきり分かる。

 クレアの足元で、草が揺れた。

 小さな花が、夜露をまとったまま、ぽん、と口を開けるみたいに咲いていく。
 彼女が歩いた軌跡をなぞるように、つつましい緑と白が土の上に点々と増えていく。

「ほんとに……やっちゃったんだ、私」

 声に出した瞬間、胃のあたりがきゅうっと縮む。

 森一つ。

 たった一晩で。

 浄化。

 そんな言葉が、冗談でなく頭に浮かんでしまう。

(規格外って、こういうこと言うんだろうな……)

 自嘲するように笑って、それからすぐに顔を曇らせる。

 嬉しさと、恐怖と、実感のなさ。

 感情がぐちゃぐちゃで、自分でも整理しきれない。

「……とりあえず、戻ろう」

 立ち止まってばかりもいられない。
 今、村のほうで何が起きているか想像するだけで、じんわり汗がにじんできた。

 森の縁を抜けるとき、風がひと吹き、クレアの背中を押すように通り抜けた。

「行って来い、ってこと?」

 誰に聞かせるわけでもなく、そう呟いてから、村のほうへ歩き出す。

 ◇ ◇ ◇

 村の朝も、いつもとは違っていた。

 まだ太陽が顔を出しきっていない時間帯なのに、あちこちの家の扉がばたばたと開く音が聞こえる。

「おい、起きろ! 森が!」

「なんだよ朝っぱらから……って、え、なにあれ」

「瘴気が……ない?」

 眠そうな目をこすりながら、外へ飛び出してくる村人たち。
 寝間着のまま、子どもを抱えている母親。
 腰の曲がった老人。
 肩に上着を引っかけただけの青年。

 みんな、その足を同じ方向で止めていた。

 瘴気の森――だった場所。

 そこには、朝日を浴び始めた、普通の“森”があった。

 黒々としていたはずのシルエットは、柔らかな緑と茶色に塗り替えられている。
 枝の隙間から差し込む光が、やわらかく地面に模様を描いていた。

 しゅうしゅうと音を立てていた瘴気の霧はない。
 代わりに、鳥たちが枝から枝へ飛び移り、さえずりながら翼を震わせている。

 風下にいた村人たちが、おそるおそる深く息を吸い込んだ。

「……臭く、ない」

「胸が、痛くねえ……」

「目も、喉も、しみねえぞ……?」

 驚きと戸惑いが混ざった声が、あちこちから上がる。

 すでに服を着替え、腰に剣を下げたマリアは、駐屯地の前からその光景を見つめていた。

 隣には、髪もちゃんと整える暇なく飛び出してきたノエルが立っている。
 寝癖で跳ねた茶色の髪のまま、口をぽかんと開けていた。

「……夢?」

「いや、悪いけど、俺にそんなファンシーな夢の才能はねえ……」

 ノエルが乾いた声で返す。
 笑い事じゃないのに、口調だけはいつも通りなのが逆に異様だ。

 マリアは細めた目で森を睨み続けた。

 疑っている、というより、“見極めよう”としている顔。

「瘴気の反応は?」

 背後にいた別の兵士に問うと、彼は慌てて胸元から小さな石を取り出した。
 瘴気の濃度を簡易的に測るための魔具。
 昨日の夕方には、濃い紫の光を放っていたそれを、今かざしてみる。

 石は、うっすらと青く光っただけだった。

「……通常値です。森の外と、ほとんど変わりません」

「そんな馬鹿な」

 マリアは低く呟く。

「昨日の夕方、あれだけ濃かったんだぞ。ひと晩で消えるわけが――」

 そこで、言葉が途切れた。

 森の縁。
 村と森を隔てる、あの“見えない線”の向こうから、一つの影が歩いてくる。

 薄汚れた雑役服。
 泥にまみれた裾。
 寝間着のような薄い服の上に、ずり落ちかけた外套。

 乱れた金の髪。
 首元で光る、古い木製のペンダント。

「……クレア?」

 マリアの声には、驚きと――少しだけ、安堵が混じっていた。

 ノエルの目が、あり得ないものを見たように見開かれる。

「お、おいおいおいおい……」

 彼は思わず、マリアの袖を引っ張った。

「隊長、見えてる? 俺、寝ぼけてるわけじゃないよな?」

「残念ながら、私も同じものを見てる」

 彼らの視線の先で、クレアはぎこちなく足を止めた。

 背後には――さっきまで瘴気をたたえていた森。
 今は、朝日に照らされて、瑞々しい緑の海。

 その境界線に、彼女が立っている。

 足元の土からは、小さな草花が顔を出していた。
 白い花。
 薄紫の花。
 名前も知らない花たちが、彼女の一歩ごとに細い茎を伸ばしている。

 朝日が昇り始めた。
 地平線の向こうから、金色の光がじわりと村と森のあいだを照らしていく。

 その光が、クレアの背中を縁取った。

 光の輪郭の中で、彼女の姿が浮かび上がる。

 村人たちは、一瞬言葉を忘れていた。

「な、に、あれ……」

「クレアお姉ちゃん……?」

「森の……後ろが……」

 ざわめきが、波のように広がる。

 クレアの喉が、ごくりと鳴った。

(やばい。完全に“現場”押さえられてる……)

 逃げ道はない。
 ごまかしようもない。

 森の浄化と、自分の出入り。
 その二つが、あまりにも分かりやすすぎるタイミングで重なっている。

 マリアが、一歩前に出た。

 鋭い眼差しでクレアの全身を確認してから、低い声で問う。

「……クレア」

「は、はい……」

「怪我は?」

 予想外の問いかけに、クレアは目を瞬かせた。

「え?」

「怪我はあるかって聞いてる」

 怒鳴り声ではない。
 ただ、確認している。

「あ……だ、大丈夫です。ちょっと転んだだけで、あの、擦り傷くらいで……」

 腕を見せると、たしかにところどころに小さな傷がある。
 でも、どれも血は止まっていて、酷くはない。

 マリアはそれを見て、小さく息を吐いた。

 そしてようやく、怒りの色を目に宿す。

「“大丈夫”じゃねえよ、この馬鹿」

「ひっ」

 短い言葉に、クレアは肩をびくっと跳ねさせた。

「なんでよりによって、夜中に、瘴気の森の奥までひとりで入ってんだ。死ぬ気か」

「す、すみません……」

 その通りすぎて、反論の余地がない。

 村人たちも、ざわざわとざるを撫でるような視線を向けてくる。

「でも、クレアが森から出てきた瞬間、瘴気が……」

「さっきまで、あんなだったのに……」

 誰かがぽつりと言ったその言葉に、視線が一斉に森へ向かう。

 黒い霧は、ない。
 ただ、朝日にきらめく葉と、ゆっくりと立ち上る白い靄。

 ノエルが、髪をがしがしと掻いた。

「……なあ、隊長」

「なんだ」

「俺、聞いていい?」

「やめとけ」

「いや、無理。聞かずにいられねえ。……クレア」

 ノエルは、クレアのほうへ一歩近づいた。

 いつもみたいに軽口で誤魔化そうとしているのか、口調はわざと緩い。

 だけど、その目だけは真剣だった。

「お前、まさか……“なんかした”?」

「……!」

 クレアの心臓が、ずきん、と大きく跳ねた。

 「なんかした?」
 その問いは、あまりにも広くて、あまりにも核心だった。

 どう答えればいいか、一瞬で迷う。

 本当のことを全部話す?
 “世界樹の末裔”で、“自然に直結してて”“瘴気を食べる風が起きて”――

(ないないないないない!)

 さすがに、そんな怪しいことをいきなりぶちまける勇気はない。

 かといって、「なにもしてません」と言えば――
 それはそれで嘘臭い。

 森の浄化と、自分の帰還が、これだけ派手に同時に起きているのだから。

 喉がカラカラに乾く。
 舌が上顎に張り付くみたいで、うまく声が出ない。

 クレアは、一度ぎゅっと目を閉じた。

(どうする。どう言う。何を守る)

 世界樹が言っていた。

《オ前ハ、マダ選ベル》

 どこまで使うか。
 誰のために使うか。
 なにを守るために使うか。

(今、守らなきゃいけないのは……)

 “自分の秘密”だけじゃない。

 村。
 マリア。
 ノエル。

 そして、「普通の生活」。

 深呼吸をひとつ。
 肺に冷たい空気をいっぱい吸い込んでから、クレアはゆっくりと目を開けた。

「……ごめんなさい」

 最初に出てきたのは、謝罪の言葉だった。

「勝手に、森の中に入って……。ほんとは、いけないって分かってたのに」

 声が震える。
 でも、それは嘘をついているからではなく、言葉を選ぶのが怖いから。

 マリアが、腕を組んで見つめている。
 ノエルも口を挟まない。
 村人たちも、固唾を飲むみたいに沈黙した。

 逃げ道は、ない。

「でも……」

 喉の奥がぎゅっと痛んだ。
 それでも、続ける。

「でも、森のほうから“呼ばれてる”気がして。
 耳鳴りみたいな、頭の中に直接響く声みたいなのがして……」

 そこまでは、完全な嘘じゃない。

 事実だ。

「気づいたら、森の奥にいて……。瘴気はたしかに濃くて、怖かったけど……わたしの周りだけ、少し、楽で」

 マリアの眉がぴくりと動いた。

 ノエルが小さく息を飲む。

「そこで、朽ちた……大きな木を見つけて。
 触ったら、なんだか、すごく懐かしい感じがして……」

 どこまで言うか、慎重に線引きしながら言葉を紡いでいく。

 世界樹、という単語は、まだ飲み込んだ。

「気づいたら、眠ってて。起きたら……森の空気が、変わってて」

「変わってて、って?」

 ノエルが、思わず口を挟む。

「瘴気が、ほとんど感じられなくて。呼吸しても、喉も胸も痛くなくて。
 ……それで、あわてて戻ってきたら……」

 クレアは、森のほうをちらりと振り返った。

 緑。
 鳥の声。
 風の揺れ。

「こうなってました。……だから、その……」

 足元に視線を落とす。
 胸が苦しい。

 “自分がやった”と認めるのが怖くてたまらない。
 でも、“何もしてない”と言い張るのも、違う気がする。

「……たぶん、わたしのせい、です」

 か細い声。

 マリアの表情が、僅かに揺れた。

「“せい”という言い方は、どうなんだ」

 ノエルが、思わず突っ込む。

「むしろこれ、“功績”のほうじゃね?」

「ノエル」

 マリアが、静かに制する。

 でもその声にも、完全な否定はなかった。

 村人たちがざわつき始める。

「クレアが……?」

「ひと晩で、森を……?」

「そんなこと、あり得るのか?」

「でも実際……」

 言葉が、恐怖と期待と混乱の色を帯びて、あちこちから飛び出してくる。

 “化け物”
 “聖女”
 “加護持ち”

 そんな単語が、口に出される一歩手前で行き場を失っている空気だった。

 クレアは、それを痛いほど肌で感じていた。

(そうだよね。普通じゃないよね、これ)

 自分で自分を理解しきれていないのに、どうやって他人に理解してもらえるというのか。

 胸の奥の灯りが、かすかに揺れる。

 世界樹の声は、今は沈黙していた。
 「ここから先は、自分でやれ」とでも言われているみたいだった。

「……で」

 沈黙を破ったのは、マリアだった。

 彼女は一度、大きく息を吐き、それからクレアをまっすぐに見据える。

「勝手に森に入った件については、あとでまとめて怒る」

「ひいっ」

「“ひい”じゃない。兵士でも村人でも、あそこに夜中ひとりで入ったら、普通死ぬ。
 自分が無事だからって、それが軽くなるわけじゃない」

「……はい」

 これは、疑いようもない事実だった。

 マリアの声には、怒りだけでなく、本気で心配していた色が乗っていて――それが、クレアの胸を少し痛く、そして少し温かくした。

「ただ」

 マリアは森のほうへ視線を投げる。

「この状況を見れば、お前が“何かあった”のは否定しようがない。
 瘴気が薄れたのは、実際、ありがたい」

 その言葉に、村人たちの顔がぱっと明るくなる。

 誰もが、昨夜の不安を覚えている。
 瘴気に侵されて死んだ家畜。
 咳き込む子ども。
 遠くから聞こえた魔獣の咆哮。

 それが、「ひと晩で軽くなった」と言われれば――
 怖さより、先に安堵が出てしまうのは仕方ない。

「だから、ひとまず」

 マリアはクレアに向き直り、言った。

「……“ありがとう”だけ先に言っておく」

「え」

 あまりに想定外の言葉に、クレアの目が丸くなる。

「な、なんでマリアさんが謝謝……じゃなくて、えっと、ありが……」

「言われ慣れてなさすぎだろ、お前」

 ノエルが思わず笑いながら突っ込む。

「いや、隊長の言うとおりだよ。森がこのまま瘴気まみれだったら、俺らマジで近々詰んでたし」

「ノエル」

「だから、クレア」

 ノエルは口元だけ笑いながら、目だけは真剣なまま、クレアを見る。

「勝手に森入ったのはダメ。超ダメ。超絶ダメ」

「すみません……」

「でも、“もう大丈夫だと思います”って言葉に――ちょっとだけ、お前の自信が混ざってたの、俺は見逃してねえからな」

「えっ」

 クレアは、反射的に頬を押さえた。

 そんなつもりはなかった。
 自信なんて、とても言えない。

 ただ、「もう大丈夫になってほしい」という願いだけは、本気だった。

「だから……そうだな」

 ノエルは頭をかきながら、にやりと笑う。

「とりあえず一回分、“命の恩人”枠でチャラにしてやるよ。森の件」

「軽く言うな」

 マリアが容赦なくノエルの頭をはたく。

 ごつん。

「いってえ!」

「チャラにはならん。後でちゃんと話はする」

「ですよね」

 クレアは肩をすくめた。

 怒られるのは確定。
 でも、さっきまで想像していた“怖い怒られ方”とは、すこし違う。

 マリアの言葉にも、ノエルの軽口にも。
 そこには、“クレアがここにいる前提”があった。

 この村で、共に怒ったり笑ったりする人間としてのクレア。

 それが、たまらなく嬉しかった。

「……あの」

 おずおずと、クレアは口を開いた。

「ひとつだけ、言っておきたいことがあって」

 マリアとノエル、村人たちの視線が一斉に集まる。

 緊張で、また喉が乾いた。
 それでも、言わなきゃいけない気がした。

「わたし、自分でも……自分のことがよく分からなくなってきてて。
 森のことも、どう説明したらいいか、分からないんですけど」

 胸元のペンダントを握る。
 木の感触が、少しだけ心を落ち着かせてくれる。

「それでも、ひとつだけ確かに言えるのは――」

 言葉を探す。
 “正解”なんて分からない。
 ただ、その場で絞り出せる、精一杯。

「わたし、ここで……この村で、マリアさんたちの“役に立ちたい”って思ってるってことです。
 それだけは、本当で。……たぶん、ずっと、前から」

 エルフォルト家では、一度も口にできなかった言葉。

 「家のため」と言われ続け、「役立たずだ」と否定され続ける中で、ずっと胸の内に押し込めてきた願い。

 それを、こんな形でこぼしてしまうことになるなんて。

 マリアは、少しだけ目を見開いた。

 ノエルは「あー」と頭をかいて、顔をそらす。

 気まずい沈黙が数秒。

 それから。

「……面倒な子を拾ったなあ、私も」

 マリアは呆れたように、でもどこか柔らかく笑った。

「クレア」

「はい」

「“役に立ちたい”って言うのは勝手だ。こっちは、人手はいくらあっても困らない」

「えっと……はい」

「だから、その言葉に見合う分だけ働け。
 森をひと晩で浄化しようがしまいが、雑役は雑役だ。今日は水汲みからな」

「……はい」

 思わず、笑いそうになった。

 世界樹だの末裔だの、瘴気の浄化だの。
 そんな途方もない話をしたあとで、「水汲みから」。

 でも、その地に足のついた現実が、今は何よりありがたかった。

「ノエル」

「へい」

「クレアは今日一日、絶対にこき使うな。倒れたら意味がない」

「“絶対に”の意味分かってます?」

「分かってるから言っている」

「へいへい。じゃあ、“ほどほどに”こき使う方向で」

 そんなやり取りに、周囲の村人たちからも小さな笑いが漏れた。

 緊張が、少しずつ解けていく。
 森の異変の衝撃はまだ消えないけれど、人々の顔からは、濃い不安が一枚剥がれ落ちていた。

 クレアは、その輪の中に立ちながら、胸の奥で静かに息を吐く。

(……よかった)

 すべてが解決したわけじゃない。
 むしろ、始まったばかりだ。

 自分が何者なのか。
 世界樹の末裔として、どこまで責任を負うのか。
 この力を、誰に、どう見せるのか。

 考えなきゃいけないことは山ほどある。

 それでも。

 ひと晩で森が浄化されて、村人たちはその異変に怯えながらも安堵し、
 自分は怒鳴られながらも、ちゃんとここに立っている。

 その事実が、クレアの胸に、静かな熱を灯していた。

「……それにしても」

 ノエルが、こっそりクレアの横に並んで小声で囁く。

「“もう大丈夫だと思います”って、お前、さらっと言ったけどさ」

「え?」

「瘴気の森に向かって、その台詞は反則級だろ。
 かっこよすぎて、ちょっと惚れかけたわ」

「な、なに言ってるんですかノエルさんは!」

「冗談だよ冗談。半分くらいは本当だけどな」

「半分本当なんですか!?」

「しっ。隊長に聞こえたら殺される」

 ひそひそ話の声が、少しだけ森のほうへ逃げていく。

 その森の奥――朽ちた世界樹の分枝が眠る場所で、風がひと吹き、枝を揺らした。

 あたかも、「見ているよ」とでも言うように。

 ひと晩で浄化された瘴気の森と、
 薄汚れた雑役服のまま、その前に立つ一人の少女。

 まだ誰も、うまく言葉にできない。

 だからこそ、その場にいた誰もが――
 彼女の震える声での「もう大丈夫だと思います」を、胸のどこかに刻み込んでいた。
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