婚約破棄された悪役令嬢、復讐のために微笑みながら帝国を掌握します

タマ マコト

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第4話:裏の世界へ

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 夜の底は、想像より賑やかだった。
 ラドンに連れられて辿り着いたのは、帝都の心臓に空いた“もうひとつの脈”──古い郵便倉庫の地下に穿たれた階段で、鉄の手すりは何度も握られた跡で艶を増し、壁の煉瓦は指の節みたいに角張っていた。

「ここから先は、目で覚える」

 ラドンの声は低く、乾いていて、余計な情緒を削っていた。
 階段を降りるたび、世界が一枚ずつ剥がれていく。香、礼法、社交、拍手。残るのは、裸の情報と、呼吸と、足音。最下段に着くと、扉が二重になっていた。一枚目は鈍い鉄、二枚目は厚い木。叩き方に規則があり、ラドンは無言の和音を鳴らして、鍵穴の奥に眠る意志を起こした。

 開いた先は廊。片側には等間隔に灯が揺れ、もう片側は、暗い。暗さにも濃淡があるのだと、私は初めて知る。壁一面に打ち付けられた古い地図と新しい地図。街路、下水、地下水脈、忘れられた通路。帝都は巨大な書物で、黒翼はその余白に字を書き足していた。

「ようこそ。黒翼の『内側』へ」

 彼が言う。
 廊の先は広間に開け、そこにあるのは私の想像を超えた“規模”だった。長い机が何列も並び、紙の匂いと油の匂いと鉄の匂いが重なる。壁際では暗号士が板に粉を走らせ、別の区画では黙々と靴を磨く少年がいる。水滴の落ちる音。速記の走る音。遠くで弓を引く弦の音まで聞こえた。

「想像より……大きいのね」

「帝国が大きいからね。影は、いつだって光の分だけ伸びる」

 ラドンは歩きながら指先で軽く印を切る。すれ違う者が小さく顎を引いて応じる。礼ではない、確認だ。ここでは、礼儀は暗号に置き換えられている。

「紹介しよう。彼はウィレマイト、通信線の管理。あっちはスファレライト、記録庫の番人。暗号卓のゼノタイムは、君の癖字を三回見れば偽造できる。……そして訓練場のテフロイト、噛みつく癖があるから注意」

「噛みつく?」

「比喩だよ。多分ね」

 名前は鉱石の響きを持ち、どれも硬い。ここでは人の名さえ武器だ。ウィレマイトは色素の薄い男で、視線の焦点だけが鋭い。スファレライトは女で、指先がインクに染まり、爪の形が驚くほど整っている。ゼノタイムは痩せて骨ばり、笑うときだけ一瞬筋肉がほどける。テフロイトは背が高く、歩く前に影が歩く。

「新顔?」

 テフロイトが顎で私を示す。
 ラドンが短く頷く。「内側に入れる」

「見た目は貴族。手は?」

 テフロイトが私の両手を取る。指輪に視線が止まる。母の銀輪。
 彼は一瞬だけ眉を動かし、私の手を返すと、掌の皮の薄さを確かめるみたいに親指でなぞった。

「柔らかい。だけど骨が強い」

「骨には自信があるわ」

「言葉の骨ね」

 短い会話。短剣の交差みたいに軽い音がして、終わる。
 ラドンは私を奥へ導いた。壁の地図の端に、薄い赤い糸が縫い付けられ、幾つかの点を結んでいる。点のひとつには、私の家の名──いや、もう帝国の印が重ねられている。糸はそこから、皇宮、監査院、議会書記局へと伸び、さらに庶民街のとある菓子店に小さく結び目を作っていた。

「……線は、美しいわね」

「線にして初めて見えるものがある。君の世界には線が多すぎた。今日からは、必要な線だけを引く」

 記録庫に入ると、空気が変わった。紙が湿気を吸って膨らむ匂い。棚は背の高い兵隊のように整列し、ラベルは鉱石の粉で描かれている。スファレライトが私に手袋を渡す。

「手の油は敵。ここでだけは、素手は捨てて」

「心得たわ」

 手袋を嵌めると、指の感覚が一枚鈍くなる。皮膚で世界を直接受け止める特権を、一時的に手放す。心地よい不自由。
 スファレライトは黙って三冊の薄い綴りを取り上げ、机に置いた。監査院の内部連絡、議会の日程案、そして──先ほどラドンが見せてくれた付帯決議の原簿の写し。

「ここに、あなたの家の名前が“置かれた”痕跡がある。置いたのは人間。人がしたことは、人でほどける」

 私はページを繰る。紙の目が指先にざらりと触れ、そのたびに鼓動が速度を変える。ゼノタイムが覗き込み、目だけ笑う。

「綺麗な読み方だね。行間で呼吸してる」

「読み書きは、社交より嘘が少ないから好き」

「嘘を入れる余地は、書く側にあるんだよ」

「だから、ここでは読む」

 ページの一角に、見慣れない押印の癖があった。わずかに楕円。角度が毎回同じではない。甘い、と私は思う。甘い犯行は、甘い結果を呼ぶ。
 私は顔を上げた。

「この印、監査院の“補佐官”のもの?」

 ラドンが小さく笑う。「君が言うときだけ、疑問が答えになる」

「ヘモ……ヘミ……」

「ヘミモルファイト」

 ゼノタイムが即答する。
 私は頷く。「ええ、その人。監査院補佐官ヘミモルファイト。彼の動線が甘いのなら、そこから崩れる」

 私は地図の赤い糸の先、小さな結び目に触れた。帝都西部、パレード通りの角にある菓子店──白孔雀亭。そこが、赤の結び目だ。

「ここで、何が交わされたの?」

「まだ“何か”は確定していない。甘い匂いに紛れて運ばれるのは、砂糖だけじゃない」

 ラドンは机の端で指を二度叩く。
 ウィレマイトが、紙片を滑らせた。菓子店の納品票、裏面に微細な孔。紙笛のように、一定の風を通すと別の模様が浮くよう加工されている。凝っている。凝ったものほど、破れる。

「君に、ひとつ目の仕事を」

 ラドンが言った。広間がわずかに息を止める。テフロイトは腕を組み、ゼノタイムは鉛筆を停め、スファレライトはインク瓶の口を軽く叩く。視線が、音を立てない合図になる。

「『お手並み拝見』というやつ?」

「そう呼ばれるのは嫌いだが、意味はそうだ。軽いもの。君を測るのではなく、君にここを測らせる」

「聞くわ」

「三日後、白孔雀亭で、監査院補佐官ヘミモルファイトが“誰か”と会う。君は客として入る。座る席は窓際、三番テーブル。注文は甘くない菓子と薄い紅茶。──やることは三つ」

 彼は指を三本立てる。
 一、相手の“癖”を拾う。飲み物に手を伸ばす順序、言葉の速度、視線が逃げる角度。
 二、彼らが持ち込む包みの“重さ”を目で量る。紙の厚さ、角の潰れ、置き方。
 三、気づかれずに“支払い票”を一枚、写す。裏に孔があれば、線の位置だけでもいい。

「盗るのではなく、写す。原本は動かさない」

「写すのは得意よ。人の顔でも、言葉でも、手癖でも」

「知ってる」

 ラドンの「知ってる」は、事前に調べてきた重みがあった。黒翼にとって“知らない”は罪で、“知りすぎる”は礼儀だ。
 テフロイトが少し前に出る。

「念のため、退路を三つ教える。裏口、厨房の搬入口、そして屋根裏から向かいの屋根へ。足場はあるが、踵の高い靴はやめろ」

「分かったわ」

「服は?」

 スファレライトが目だけで私を採寸する。胸、肩、腰、歩幅。
 ゼノタイムが横から口を挟む。「“元・令嬢”の匂いを微量に残せ。完全に消すと逆に浮く」

「香は白檀を極少量。髪は下ろして、耳を半分だけ出す」

「鞄は?」

「小さめ。古びた革。金具は鳴らないもの。中に薄い紙と、折りたたみのレンズ」

 即座に返ってくる準備の語彙。すべてが用意されているわけではない。けれど、何もかもを“用意できる”体制がここにはある。
 私は胸の奥で、昨夜の壊れる音を思い出す。今、その音に薄く別のリズムが重なる。合図。号令。曲。

「セラフィナ」

 ラドンが名前で呼ぶ。その呼び方は、地面に杭を打つみたいに確かだった。

「覚悟はある?」

 愚問。
 私は椅子から立ち、外套の襟を整え、指輪に触れて、はっきりと言う。

「もう、誰にも従わない。今度はこの手で奪う」

 広間の空気が、瞬きひとつ分だけ動いた。テフロイトは口角をわずかに上げ、ウィレマイトは無言で頷き、スファレライトはインクを一滴、紙に落としてから静かに拭った。ゼノタイムは鉛筆を回し、笑わない目で私を見た。
 ラドンは、少しだけ目を細めた。それは誰に向けた笑いでもなく、誰にも見せない満足の微粒子だった。

「いい声だ。覚悟には声がある。音程が低すぎても高すぎても割れる。今のはちょうどいい」

「褒め言葉として受け取るわ」

「褒め言葉だよ。……ただし、覚悟は温かい場所でだけ鳴る。外に出れば冷える。冷えた覚悟は、折れる」

「温め方は、知ってる」

「どうやって?」

「怒りで」

「燃費が悪い。別の熱源を見つけるといい」

 私たちは目を合わせる。ラドンの瞳は透明で、底に何かが沈んでいる。彼は過去を見せない。見せないことを習慣にしている。
 それでいい。私も、これからそうする。

「訓練は?」

 テフロイトが短く問う。
 ラドンは首を振る。「今日は休ませる。明日、歩き方と“立ち方”だけ」

「立ち方?」

「人は座っていても立っている。立ち方を忘れた者から、沈む」

「ずいぶん詩人ね」

「実務だよ」

 私の口元が、勝手に笑う。
 スファレライトが私に薄い布包みを手渡した。開けると、中には──古びた革の鞄、折りたたみレンズ、薄紙、微量の白檀の小瓶。すべて、先ほどの話の通り。

「準備の早さには、敬礼が必要かしら」

「ここでは拍手の代わりに仕事で返して」

「心得た」

 私は布包みを鞄に移し、肩に掛ける。重さは、ちょうどいい。重すぎない。軽すぎない。自分の意志より、ほんの少しだけ軽い重さ。持て余さずに、でも油断すると置き忘れる重さ。
 ラドンが広間の奥、別の扉へ顎をしゃくる。扉の先から冷気が一筋漏れ、鉄の匂いが鼻を刺した。

「最後に、見せたい場所がある」

 扉の向こうは、射場だった。弓の的、ナイフの的、そして沈黙の的──無地の木板。誰かがそこに“名前”を書き、また消した跡が幾つも重なっている。
 テフロイトが短剣を取り、投げる。刃は真ん中から少し外れ、木に食い込む。抜く音が妙に甘い。彼は刃の腹で木目を撫で、微笑う。

「ここでは、憎しみは武器に変換される。変換できない憎しみは、ただの毒。飲む?」

「吐くわ」

「いいね」

 私は無地の板の前に立つ。チョークを渡される。何を書けばいい? 名前? 目的? 誓い?
 迷いは一瞬。私は板の真ん中に、短く書いた。

 “秩序の顔をした不正”

 黒翼の誰かが小さく息を呑む。ラドンだけが頷いた。

「敵の輪郭は、抽象の方が長持ちする」

「具体は?」

「明日から、君が与える」

 私はチョークを返し、手についた粉を払う。粉は皮膚の温度で消え、碑文のように指の皺に残る。
 ラドンが扉を開け、広間の明るさがまた戻ってくる。

「今日はここまで。帰る場所は?」

「ない」

「なら、ここが暫定の宿だ」

 ラドンが示した先に、簡素な寝室がいくつか並んでいた。清潔な寝台、机、洗面。窓はない。替わりに、壁に小さな鐘。緊急の合図用。
 私は寝台の端に腰を下ろし、鞄を抱えた。布が軋む音、遠くの紙の音、インクが瓶の口で鳴る音。夜はここでも生きている。

「セラフィナ」

 去り際のラドンが、ドア枠にもたれて言う。

「君は、いま“捨てる”ことと“選ぶ”ことを同時にしている。捨てきれずに持ったまま選ぶと、刃が鈍る。捨てるものを決めること。今夜の課題」

「宿題、嫌いじゃない」

「明日の朝、答え合わせはしない。けど、君の立ち方を見れば、だいたい分かる」

「観察魔」

「職業病」

 ドアが閉まる。
 静けさ。やさしい種類の静けさ。耳の奥で、昨夜の“壊れる音”がかすかに鳴る。私は目を閉じ、深く呼吸し、数える。四で吸い、四で止め、四で吐く。心拍が少しずつ指示に従い始める。
 “捨てること”──私は頭の中に棚を作り、並べる。称号、社交、虚飾、侮蔑に対する過剰な反応、誰かの視線を先回りして勝手に整える癖。
 “選ぶこと”──言葉、線、沈黙、立ち方、怒りでない熱源。私は一つひとつを手に取り、重さを確かめて、残す箱にしまう。

 母の指輪が、掌に冷たい。
 私はゆっくり外し、寝台の上に置く。銀の輪は、少しだけ光を返す。
 捨てない。けれど、縛られない。
 私は指輪に軽く触れて、囁く。

「見ていて。今度は私が、選ぶ側になる」

 眠りは浅く、しかし傷口を塞ぐくらいには深かった。
 目を開ける頃、内部の時計が正確に朝を告げ、遠くで鐘が一度だけ鳴る。私は起き上がり、髪を解き、顔を洗い、鏡のない鏡に向かって立ち方を整える。膝の角度、肩の高さ、視線の置き場。
 誰かのための立ち方ではない。
 私自身のための、立ち方。

 扉が軽く叩かれる。
 開けると、スファレライトが小箱を差し出した。昨日の鞄に合わせた、鈍い金具の留め具がついた。中には薄紙、細い鉛筆、折りたたみレンズ、白檀の小瓶、そして、白孔雀亭の簡略図。席までの歩数、視界の死角、厨房の気配の流れ。用意周到は、ここでは礼儀だ。

「ありがとう」

「魔法の言葉は、ここでは飴玉ほどしか効きません」

「飴玉、嫌いじゃない」

 彼女が小さく笑う。
 背後でラドンが言う。

「今日の訓練は三つ。“立ち方”、“歩幅”、“沈黙”。それが終わったら、服を合わせる。白孔雀亭へ行くのは三日後。……今のところ、質問は?」

「一つ。復讐の熱源の、別の燃料。昨日“見つけろ”と言った」

「見つかった?」

「たぶん」

「何」

「侮辱された秩序への執着。私の中の“間違い許せない子ども”が、まだ生きてる」

 ラドンの口元が、微かに緩む。

「燃費がいい」

「冷えにくい」

「良い選択だ」

 私は頷き、肩の力を抜く。
 踏みにじられた令嬢は、ここで“策士”へと形を変える。
 それは華やかな儀式ではない。短い号令、薄い紙、わずかな香、正確な歩幅、そして、微笑み。
 舞踏会で身についたすべてが、ここでは別の道具になる。私はそれを、ためらわずに掴む。掴んだ指に、微かな震えが残る。それは恐れではなく、加速の前の振動。

 ──手始めの仕事は、もう決まっている。
 白孔雀亭。窓際、三番。甘くない菓子、薄い紅茶。
 写す。測る。拾う。
 舞台は整えられ、照明はまだ落ちている。幕が上がる前の暗がりほど、心は鮮明になる。
 私は呼吸を整え、立ち、歩く。
 自分のために。奪うために。
 誰にも従わないために。
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