婚約破棄された悪役令嬢、復讐のために微笑みながら帝国を掌握します

タマ マコト

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第3話:黒翼との邂逅

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 道は続いているのに、行き先だけが地図から抜け落ちていた。
 帝都の外縁から再び中心へ、中心からまた外へ、私は同じ円の縁を延々となぞった。朝の白さは人を裁き、昼の明るさは人を晒し、夕暮れは人を置き去りにする。私の靴底は一日で二年分くらい擦り減った気がした。指先は母の指輪を握りっぱなしで、掌に銀色の小さな痣ができる。

 人は、急に名前を失うと、重力の中心を見失う。
 「元・公爵令嬢」が私の顔の上に薄い膜みたいに張り付き、息をするたびに内側に吸い込まれて貼り付く。剥がそうとすると痛い。剥がせないのに、剥がさなくちゃ歩けない。私は呼吸のたび、凍った膜を少しずつひきちぎる作業を続けた。

 昼の市場では声がうるさく、夜の広場では風がうるさかった。
 パンの匂いは昨日までの私を侮辱するし、香辛料の匂いは明日からの私を脅す。甘い菓子を焼く店先で立ち止まり、財布に手を入れかけて空を掴む。あぁ、そうだった。私はもう、家の帳面に名前を持たない。私が払うべき代価は、貨幣よりもっと堅いものだ。

「お嬢さん、包みましょうか?」

 店主の声は親切で、残酷だ。
 「また今度」と笑って去る。笑い方はまだ生きている。生きているのが憎らしい。

 歩き続けるうち、足の皮が剥けた。靴の縁が踵に噛みつき、血を吸って赤黒く光る。痛みは最初、鋭い針みたいだったのに、だんだんとろ火の鍋みたいに粘りついて、脳の奥を低温で煮詰め始める。思考が飴みたいに伸び、ちぎれて、また伸びる。
 広場の端で腰を下ろすと、石の冷たさが骨の裏にまで染みた。冬は石を味方につけて人を責めるのが上手い。

「座り込みは駄目だよ」

 巡回の衛兵に肩を軽く叩かれて、私は立ち上がる。礼をして、また歩き出す。
 追い立てられる羊の群れみたいに、私は人の流れに押し流される。私を知る者はもういない。私を知らない者ばかりが、私を通り過ぎていく。

 夕方、風が曲がり角で唸り声を上げた。道端のポスターが剥がれ、地面を転がる。「新しい帝国の夜明け」だなんて、今日の私には悪趣味な宣伝文句だ。私は靴でそれを押さえ、また放した。紙はくるりと裏返り、泥の模様を自慢する。

 日が落ちて、街灯の火が点り、影が長く伸びる。影は正直だ。私の内側が抜け落ちている形を、そのまま地面に写す。
 寒さが肩の骨に噛みついて、息が白く千切れる。私は外套の襟を立て、灯りの少ない路地へ入った。光がある場所では、誰かの視線が追いかけてくる。視線は刃だ。今夜は刃を減らしたい。

 細い石畳を抜けると、古い運河沿いの裏通り。水面が鈍い鋼のように固まって見える。夏にはここで音楽が鳴り、恋人たちが囁くのだろう。冬は音を喰う。喰い残しだけが、空気の隅にひやひやと残る。

 寒い。空腹。眠い。
 三拍子。舞踏会の反対側。私は壁に背を預け、ゆっくりしゃがみ込む。膝が鳴る。指輪の縁が掌をまた削る。指先の皮が薄く剥け、銀の味が口の中に蘇る。母の指輪は、慰めにも、刃にもなる。今夜は刃。私は刃の側面をそっと舐めて、血が出ないことを確認する。出ても構わない。血は、まだ私のものだ。

「……セラフィナ様?」

 風に混じって、聞き覚えのある声がした気がして、私は反射で顔を上げる。
 違う。誰もいない。フィオナがここに来るはずがない。来てはいけない。
 思い出は悪霊だ。夜になると人の形で現れ、名前を呼ぶ。振り向いたら負けだと分かっていても、振り向いてしまう。それが人間の弱さで、今夜の私の唯一の温かさだ。

 私は額をごく軽く壁に当てた。石は容赦ない。冷たさが前頭葉を刺し、視界の端で黒い斑点が増える。瞬きをすると、それは雪みたいに舞って消えた。
 眠気が襲う。眠ってはいけない。ここで寝たら、何かに奪われる。何を、とは言わない。全部だ。

「起きているのは、立派だ。けど、凍死はもっと立派だ。静かで、誰にも迷惑をかけない」

 声がした。冗談の形をしていない冗談の声。乾いた木の枝で机を叩くみたいな音色。
 私の右側、路地の影から男が一歩出る。黒い外套、目元まで落ちるフード。灯りに入った瞬間、フードの影の底で目が笑った。冷たいものが笑うと、余計に光る。
 彼の手には古い皮手袋。指の先が擦れて色が変わっている。よく使う手だ。人を殴るためか、書類を捲るためか、鍵を回すためか、刃を研ぐためか。全部かもしれない。

「誰」

 私の声は、人の声のふりをして出て、石に吸い込まれる。
 男は肩を竦める。

「誰だろうね。名前はたくさんある。君の耳に入れていいのは、一番どうでもいいやつだ。──ラドン」

 ラドン。喉の奥で転がすと、渋い金属の味がする。
 彼は片手でフードを外した。黒髪は風の形で、水面みたいに揺れる。瞳は深く、色のない琥珀のようで、笑っているのに温度が出ない。氷の下で流れる水の笑い方。

「セラフィナ・ロジウム」

 彼は私の名前を、正しく美しく発音した。忘れられた紋章を指でなぞるように。
 私は、体を壁から起こす。姿勢を整える。どんな底でも、礼儀は鎧だ。

「世間の狭さに驚くわ。私の名を、ここで」

「世間は広い。けれど、影は狭い。狭いところでは噂が速い」

「影の人?」

「そう呼ばれるのが、一番楽だ」

 彼は私から二歩手前で立ち止まり、こちらの体温を測る医者みたいに、目だけを近づける。

「君、今日、全部失った顔をしている」

「観察眼に感謝するわ」

「皮肉は熱が必要だ。君は今、熱が足りない」

「……薬でも?」

「薬より効くものがある」

 彼は手を差し伸べた。手の甲の骨が綺麗に浮いている。正確さの形をした、無駄のない手。
 私はその手を見た。伸ばすべきか、噛みつくべきか、見なかったことにするべきか。選択肢は三つ、どれも正解でどれも不正解。

「復讐したいなら」

 彼は静かに言った。私の脈よりも一拍遅い速度で。
 「君のその微笑みは、最高の武器になる」

 私の口角が、覚えていた角度で上がる。顔が勝手に従う。微笑みは反射。生存のための反射。
 ラドンの瞳に、ほんの一瞬だけ温度が乗った。珍しいものを見つけた科学者の光。けれど、すぐに氷に戻る。

「……なぜ私が復讐したいと?」

「君の笑い方は、人を刺す。刺してから撫でる。撫でてから切り離す。そういう順序を知っている人間は、愛を弔った後だ」

 肺が、勝手に呼吸を忘れかける。彼は続けた。

「帝都には二つの帝国がある。表の帝国と、影の帝国。表は法律で動く。影は情報で動く。君は表で剥ぎ取られた。なら、影で取り返せばいい」

「お誘い?」

「勧誘は嫌いだ。提示だ。取引の形でなら、君は座る椅子を見つけやすい」

「取引。条件は?」

「君の頭と、礼儀と、笑顔。君の過去と、君の怒り。君自身」

「見返りは?」

「舞台。道具。観客。防弾の幕」

 私は黙った。彼の言葉は詩のふりをした現実だ。現実は嫌いじゃない。嫌いじゃないものが今、喉を通るだろうか。
 ラドンは、私の沈黙に勝手な意味を与えない種類の男だった。彼はただ、路地の奥を顎で示す。

「ここは冷える。温かい場所で話そう。コーヒーか、スープか。君の喉が通るもの」

「毒は?」

「毒は、君が持っている」

 笑ってしまった。夜の空気に笑いがほんの少しだけ混ざる。私の笑いは軽くて、やがて石に吸われる。
 私は立ち上がろうとして、足が沈む。痛みが、苛々と針を束ねて踵に押し当てる。ラドンの手が素早く私の肘を支えた。手つきは丁寧で、感傷がない。仕事の手。

「歩ける?」

「歩くわ」

「偉い」

「子どもみたいに褒めないで」

「じゃあ、女王みたいに讃えようか?」

「まだその椅子、空いてる?」

「君が座るなら、造り直す」

 裏路地は細い糸みたいに曲がりくねって、夜の裏側へ人を連れて行く。ラドンは私より半歩前を歩き、時々振り返って私の歩幅に合わせる。
 道に寝ている酔漢が、私たちを見る。私たちは彼を見ない。猫が塀の上で背を伸ばし、月の代わりに街灯を見つめている。水溜まりは凍りかけて、割れかけた鏡みたいに歪んだ顔を映す。映っているのは私だ。少し見慣れない他人の顔。瞳の縁が赤い。頬に小さな傷。髪に夜の埃。
 私はその顔を、嫌いだと思う。けれど、たぶん、正しい。

 曲がり角の先に、古い店の看板。文字は剥げ、絵柄だけが残っている。黒い翼。
 扉を押すと、鈴が短く鳴る。中は薄暗く、木の匂いと焙煎の香りが重なっている。火は弱く、けれど確かで、骨まで冷えた私に、慎重に温度を分けてくれる。
 カウンターの向こうで、無表情の女主人がラドンを見る。視線を私に滑らせ、何も言わずに小さく頷いた。常連。保証。合言葉の代わり。

「座って」

 ラドンは奥のテーブルを指さす。壁際、背中を守れる席。私は座り、外套を膝に掛ける。指先の震えが少し収まる。
 すぐに茶色のカップが二つ置かれ、蒸気が薄く立つ。
 口元に近づける。香りが、眠っていた神経をやさしく撫でる。熱は刃物だ。正しい角度で当てれば、固まった筋肉が解ける。

「ありがとう」

「礼は仕事の邪魔にならない程度に」

「あなたは何者?」

 ラドンはカップの縁で笑った。「黒翼」

 黒翼。帝都の影の名。噂。裏付けのない証言。宮廷の悪夢。
 私はカップを置く。陶器が木を叩く音が小さく響く。

「帝国諜報の……」

「部局名はどうでもいい。役割だけ知っておけばいい。情報を集め、仕分け、売買し、時々、沈める」

「人?」

「事実」

 返答が軽くない。軽くないから逆に軽い。こういう男は嘘と真実の境界に本人ごと立っている。
 私は姿勢を正した。微笑みを整え、声を落とす。交渉の顔。舞踏会の延長線。場所が違うだけ。

「私に、何をさせたいの」

「まずは生かす」

「次に?」

「君の笑顔を、君のために使わせる」

「具体的に」

「君は、表の礼儀を知っている。人の言葉の端を摘んで、ほつれを見つける方法を知っている。人前で微笑み、背後で動かす技を知っている。君ほどの“宮廷語”の話者は稀だ。──それは影にとって、最高の触媒だ」

 宮廷語。思わず笑う。
 ラドンは肩を竦めた。「君の家が教えてくれた。君に残ったものが、君をここまで連れてきた」

「皮肉ね」

「美しい皮肉ほど、高く売れる」

 女主人がスープを置く。塩気は控えめで、骨の出汁が静かに主張する。匙を口に運ぶと、胃がやっと仕事を思い出す。体が先に現実に帰ってくる。心は、あとからゆっくり歩く。
 ラドンはそれを観察している。観察していることを隠さない。視線が刃ではなく、定規に見える。測られているのは嫌いじゃない。合うドレスを仕立てるには、採寸が必要だから。

「復讐は、長距離走だ」

 ラドンが言う。「短距離で燃やし尽くすと、燃えかすは風に笑われる」

「走る足が残っているかしら」

「残してやる」

 彼はテーブルの上に薄い封筒を置いた。差出人も宛先もない。ただ、中身の重みだけが確かだ。
 私は視線で促す。ラドンが顎で合図する。「開けて」

 封を切る。紙の感触が指の腹を擦る。中には写し。帝国議会の内部メモ。監査報告第百十二号──昨日、私に読み上げられた付帯決議の根っこ。数字の並び、署名の位置、訂正印の色。
 私は目で追う。脳が砂を噛み砕くみたいにぎりぎりと動く。あるはずのない数字が、ある。
 ラドンが低く笑う。

「美しいね、改竄って。やる側の技術が高いほど、美術品に見える。けど、君なら分かる」

「私の家の帳簿に、わざと混ぜられた負債」

「君の父の死の直後。監督官の交代直前。タイミングが良すぎる」

「犯人は?」

「君に見つけさせる。獲物は自分で選んだ方が美味しい」

 胸の奥で、乾いた音がした。昨夜から続く、あの壊れる音に似ている。違う。今のは、逆だ。何かが組み合わさる音。
 私は息を吸う。空気に熱が戻る。指輪を親指で撫でる。銀の輪は、今夜は刃ではなく、コンパスだ。

「取引しましょう」

 ラドンが片眉を上げる。
 私は笑う。ゆっくり、確かに。

「私の目的はただひとつ。奪われたものを、正しい形で取り戻す。誰の手で、いつ、どんな言葉で奪われたのか──全員に、丁寧にお返しする。あなたたちは、そのための“道具”を貸し、舞台を用意する。私は演じ、刺し、結ぶ」

「報酬は?」

「帝国の秩序を、腐っている分だけ削ぎ落とす。その過程で、あなたたちは利益を取ればいい。私は、最後に笑う」

 ラドンはしばらく黙って、ゆっくり頷く。
 「いい契約だ。契約書は要らない。証人は──」

「私の微笑みで十分」

「その台詞、好きだ」

 彼は手を差し出した。今度は、私は迷わない。手を伸ばす。掌が触れる。温度は低い。けれど、確かだ。
 握手は短く、鋭い。契約の音が、骨と骨の間で小さく鳴った。

「歓迎するよ、セラフィナ。影の帝国へ」

「案内して。私の舞台へ」

 店を出ると、夜は少しだけ薄くなっていた。東の空の黒が、ほんのわずかに縁取られて、色の名前を探している。
 ラドンは私より一歩先に立ち、路地の奥を指す。そこには、闇と、光の境目がある。
 私は歩く。踵の痛みはまだ鋭い。けれど痛みは、方向を教える標識にもなる。
 帝都は二つの帝国でできている。表と影。
 私はその境目で、そっと微笑んだ。微笑みは、剣。盾。鍵。
 そして、宣戦布告。

 ──この出会いが、帝国を揺るがす序章となる。
 私の長い夜は、ただの夜ではなくなった。ここから先、夜は舞台だ。拍手は静かに、歓声は目に見えない場所で。
 私は一歩を置く。その音が、昨日の壊れる音を押しやって、新しいリズムを刻み始める。
 鼓動。計画。微笑み。
 その三拍子で、帝国を踊らせる。
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