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第3話:黒翼との邂逅
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道は続いているのに、行き先だけが地図から抜け落ちていた。
帝都の外縁から再び中心へ、中心からまた外へ、私は同じ円の縁を延々となぞった。朝の白さは人を裁き、昼の明るさは人を晒し、夕暮れは人を置き去りにする。私の靴底は一日で二年分くらい擦り減った気がした。指先は母の指輪を握りっぱなしで、掌に銀色の小さな痣ができる。
人は、急に名前を失うと、重力の中心を見失う。
「元・公爵令嬢」が私の顔の上に薄い膜みたいに張り付き、息をするたびに内側に吸い込まれて貼り付く。剥がそうとすると痛い。剥がせないのに、剥がさなくちゃ歩けない。私は呼吸のたび、凍った膜を少しずつひきちぎる作業を続けた。
昼の市場では声がうるさく、夜の広場では風がうるさかった。
パンの匂いは昨日までの私を侮辱するし、香辛料の匂いは明日からの私を脅す。甘い菓子を焼く店先で立ち止まり、財布に手を入れかけて空を掴む。あぁ、そうだった。私はもう、家の帳面に名前を持たない。私が払うべき代価は、貨幣よりもっと堅いものだ。
「お嬢さん、包みましょうか?」
店主の声は親切で、残酷だ。
「また今度」と笑って去る。笑い方はまだ生きている。生きているのが憎らしい。
歩き続けるうち、足の皮が剥けた。靴の縁が踵に噛みつき、血を吸って赤黒く光る。痛みは最初、鋭い針みたいだったのに、だんだんとろ火の鍋みたいに粘りついて、脳の奥を低温で煮詰め始める。思考が飴みたいに伸び、ちぎれて、また伸びる。
広場の端で腰を下ろすと、石の冷たさが骨の裏にまで染みた。冬は石を味方につけて人を責めるのが上手い。
「座り込みは駄目だよ」
巡回の衛兵に肩を軽く叩かれて、私は立ち上がる。礼をして、また歩き出す。
追い立てられる羊の群れみたいに、私は人の流れに押し流される。私を知る者はもういない。私を知らない者ばかりが、私を通り過ぎていく。
夕方、風が曲がり角で唸り声を上げた。道端のポスターが剥がれ、地面を転がる。「新しい帝国の夜明け」だなんて、今日の私には悪趣味な宣伝文句だ。私は靴でそれを押さえ、また放した。紙はくるりと裏返り、泥の模様を自慢する。
日が落ちて、街灯の火が点り、影が長く伸びる。影は正直だ。私の内側が抜け落ちている形を、そのまま地面に写す。
寒さが肩の骨に噛みついて、息が白く千切れる。私は外套の襟を立て、灯りの少ない路地へ入った。光がある場所では、誰かの視線が追いかけてくる。視線は刃だ。今夜は刃を減らしたい。
細い石畳を抜けると、古い運河沿いの裏通り。水面が鈍い鋼のように固まって見える。夏にはここで音楽が鳴り、恋人たちが囁くのだろう。冬は音を喰う。喰い残しだけが、空気の隅にひやひやと残る。
寒い。空腹。眠い。
三拍子。舞踏会の反対側。私は壁に背を預け、ゆっくりしゃがみ込む。膝が鳴る。指輪の縁が掌をまた削る。指先の皮が薄く剥け、銀の味が口の中に蘇る。母の指輪は、慰めにも、刃にもなる。今夜は刃。私は刃の側面をそっと舐めて、血が出ないことを確認する。出ても構わない。血は、まだ私のものだ。
「……セラフィナ様?」
風に混じって、聞き覚えのある声がした気がして、私は反射で顔を上げる。
違う。誰もいない。フィオナがここに来るはずがない。来てはいけない。
思い出は悪霊だ。夜になると人の形で現れ、名前を呼ぶ。振り向いたら負けだと分かっていても、振り向いてしまう。それが人間の弱さで、今夜の私の唯一の温かさだ。
私は額をごく軽く壁に当てた。石は容赦ない。冷たさが前頭葉を刺し、視界の端で黒い斑点が増える。瞬きをすると、それは雪みたいに舞って消えた。
眠気が襲う。眠ってはいけない。ここで寝たら、何かに奪われる。何を、とは言わない。全部だ。
「起きているのは、立派だ。けど、凍死はもっと立派だ。静かで、誰にも迷惑をかけない」
声がした。冗談の形をしていない冗談の声。乾いた木の枝で机を叩くみたいな音色。
私の右側、路地の影から男が一歩出る。黒い外套、目元まで落ちるフード。灯りに入った瞬間、フードの影の底で目が笑った。冷たいものが笑うと、余計に光る。
彼の手には古い皮手袋。指の先が擦れて色が変わっている。よく使う手だ。人を殴るためか、書類を捲るためか、鍵を回すためか、刃を研ぐためか。全部かもしれない。
「誰」
私の声は、人の声のふりをして出て、石に吸い込まれる。
男は肩を竦める。
「誰だろうね。名前はたくさんある。君の耳に入れていいのは、一番どうでもいいやつだ。──ラドン」
ラドン。喉の奥で転がすと、渋い金属の味がする。
彼は片手でフードを外した。黒髪は風の形で、水面みたいに揺れる。瞳は深く、色のない琥珀のようで、笑っているのに温度が出ない。氷の下で流れる水の笑い方。
「セラフィナ・ロジウム」
彼は私の名前を、正しく美しく発音した。忘れられた紋章を指でなぞるように。
私は、体を壁から起こす。姿勢を整える。どんな底でも、礼儀は鎧だ。
「世間の狭さに驚くわ。私の名を、ここで」
「世間は広い。けれど、影は狭い。狭いところでは噂が速い」
「影の人?」
「そう呼ばれるのが、一番楽だ」
彼は私から二歩手前で立ち止まり、こちらの体温を測る医者みたいに、目だけを近づける。
「君、今日、全部失った顔をしている」
「観察眼に感謝するわ」
「皮肉は熱が必要だ。君は今、熱が足りない」
「……薬でも?」
「薬より効くものがある」
彼は手を差し伸べた。手の甲の骨が綺麗に浮いている。正確さの形をした、無駄のない手。
私はその手を見た。伸ばすべきか、噛みつくべきか、見なかったことにするべきか。選択肢は三つ、どれも正解でどれも不正解。
「復讐したいなら」
彼は静かに言った。私の脈よりも一拍遅い速度で。
「君のその微笑みは、最高の武器になる」
私の口角が、覚えていた角度で上がる。顔が勝手に従う。微笑みは反射。生存のための反射。
ラドンの瞳に、ほんの一瞬だけ温度が乗った。珍しいものを見つけた科学者の光。けれど、すぐに氷に戻る。
「……なぜ私が復讐したいと?」
「君の笑い方は、人を刺す。刺してから撫でる。撫でてから切り離す。そういう順序を知っている人間は、愛を弔った後だ」
肺が、勝手に呼吸を忘れかける。彼は続けた。
「帝都には二つの帝国がある。表の帝国と、影の帝国。表は法律で動く。影は情報で動く。君は表で剥ぎ取られた。なら、影で取り返せばいい」
「お誘い?」
「勧誘は嫌いだ。提示だ。取引の形でなら、君は座る椅子を見つけやすい」
「取引。条件は?」
「君の頭と、礼儀と、笑顔。君の過去と、君の怒り。君自身」
「見返りは?」
「舞台。道具。観客。防弾の幕」
私は黙った。彼の言葉は詩のふりをした現実だ。現実は嫌いじゃない。嫌いじゃないものが今、喉を通るだろうか。
ラドンは、私の沈黙に勝手な意味を与えない種類の男だった。彼はただ、路地の奥を顎で示す。
「ここは冷える。温かい場所で話そう。コーヒーか、スープか。君の喉が通るもの」
「毒は?」
「毒は、君が持っている」
笑ってしまった。夜の空気に笑いがほんの少しだけ混ざる。私の笑いは軽くて、やがて石に吸われる。
私は立ち上がろうとして、足が沈む。痛みが、苛々と針を束ねて踵に押し当てる。ラドンの手が素早く私の肘を支えた。手つきは丁寧で、感傷がない。仕事の手。
「歩ける?」
「歩くわ」
「偉い」
「子どもみたいに褒めないで」
「じゃあ、女王みたいに讃えようか?」
「まだその椅子、空いてる?」
「君が座るなら、造り直す」
裏路地は細い糸みたいに曲がりくねって、夜の裏側へ人を連れて行く。ラドンは私より半歩前を歩き、時々振り返って私の歩幅に合わせる。
道に寝ている酔漢が、私たちを見る。私たちは彼を見ない。猫が塀の上で背を伸ばし、月の代わりに街灯を見つめている。水溜まりは凍りかけて、割れかけた鏡みたいに歪んだ顔を映す。映っているのは私だ。少し見慣れない他人の顔。瞳の縁が赤い。頬に小さな傷。髪に夜の埃。
私はその顔を、嫌いだと思う。けれど、たぶん、正しい。
曲がり角の先に、古い店の看板。文字は剥げ、絵柄だけが残っている。黒い翼。
扉を押すと、鈴が短く鳴る。中は薄暗く、木の匂いと焙煎の香りが重なっている。火は弱く、けれど確かで、骨まで冷えた私に、慎重に温度を分けてくれる。
カウンターの向こうで、無表情の女主人がラドンを見る。視線を私に滑らせ、何も言わずに小さく頷いた。常連。保証。合言葉の代わり。
「座って」
ラドンは奥のテーブルを指さす。壁際、背中を守れる席。私は座り、外套を膝に掛ける。指先の震えが少し収まる。
すぐに茶色のカップが二つ置かれ、蒸気が薄く立つ。
口元に近づける。香りが、眠っていた神経をやさしく撫でる。熱は刃物だ。正しい角度で当てれば、固まった筋肉が解ける。
「ありがとう」
「礼は仕事の邪魔にならない程度に」
「あなたは何者?」
ラドンはカップの縁で笑った。「黒翼」
黒翼。帝都の影の名。噂。裏付けのない証言。宮廷の悪夢。
私はカップを置く。陶器が木を叩く音が小さく響く。
「帝国諜報の……」
「部局名はどうでもいい。役割だけ知っておけばいい。情報を集め、仕分け、売買し、時々、沈める」
「人?」
「事実」
返答が軽くない。軽くないから逆に軽い。こういう男は嘘と真実の境界に本人ごと立っている。
私は姿勢を正した。微笑みを整え、声を落とす。交渉の顔。舞踏会の延長線。場所が違うだけ。
「私に、何をさせたいの」
「まずは生かす」
「次に?」
「君の笑顔を、君のために使わせる」
「具体的に」
「君は、表の礼儀を知っている。人の言葉の端を摘んで、ほつれを見つける方法を知っている。人前で微笑み、背後で動かす技を知っている。君ほどの“宮廷語”の話者は稀だ。──それは影にとって、最高の触媒だ」
宮廷語。思わず笑う。
ラドンは肩を竦めた。「君の家が教えてくれた。君に残ったものが、君をここまで連れてきた」
「皮肉ね」
「美しい皮肉ほど、高く売れる」
女主人がスープを置く。塩気は控えめで、骨の出汁が静かに主張する。匙を口に運ぶと、胃がやっと仕事を思い出す。体が先に現実に帰ってくる。心は、あとからゆっくり歩く。
ラドンはそれを観察している。観察していることを隠さない。視線が刃ではなく、定規に見える。測られているのは嫌いじゃない。合うドレスを仕立てるには、採寸が必要だから。
「復讐は、長距離走だ」
ラドンが言う。「短距離で燃やし尽くすと、燃えかすは風に笑われる」
「走る足が残っているかしら」
「残してやる」
彼はテーブルの上に薄い封筒を置いた。差出人も宛先もない。ただ、中身の重みだけが確かだ。
私は視線で促す。ラドンが顎で合図する。「開けて」
封を切る。紙の感触が指の腹を擦る。中には写し。帝国議会の内部メモ。監査報告第百十二号──昨日、私に読み上げられた付帯決議の根っこ。数字の並び、署名の位置、訂正印の色。
私は目で追う。脳が砂を噛み砕くみたいにぎりぎりと動く。あるはずのない数字が、ある。
ラドンが低く笑う。
「美しいね、改竄って。やる側の技術が高いほど、美術品に見える。けど、君なら分かる」
「私の家の帳簿に、わざと混ぜられた負債」
「君の父の死の直後。監督官の交代直前。タイミングが良すぎる」
「犯人は?」
「君に見つけさせる。獲物は自分で選んだ方が美味しい」
胸の奥で、乾いた音がした。昨夜から続く、あの壊れる音に似ている。違う。今のは、逆だ。何かが組み合わさる音。
私は息を吸う。空気に熱が戻る。指輪を親指で撫でる。銀の輪は、今夜は刃ではなく、コンパスだ。
「取引しましょう」
ラドンが片眉を上げる。
私は笑う。ゆっくり、確かに。
「私の目的はただひとつ。奪われたものを、正しい形で取り戻す。誰の手で、いつ、どんな言葉で奪われたのか──全員に、丁寧にお返しする。あなたたちは、そのための“道具”を貸し、舞台を用意する。私は演じ、刺し、結ぶ」
「報酬は?」
「帝国の秩序を、腐っている分だけ削ぎ落とす。その過程で、あなたたちは利益を取ればいい。私は、最後に笑う」
ラドンはしばらく黙って、ゆっくり頷く。
「いい契約だ。契約書は要らない。証人は──」
「私の微笑みで十分」
「その台詞、好きだ」
彼は手を差し出した。今度は、私は迷わない。手を伸ばす。掌が触れる。温度は低い。けれど、確かだ。
握手は短く、鋭い。契約の音が、骨と骨の間で小さく鳴った。
「歓迎するよ、セラフィナ。影の帝国へ」
「案内して。私の舞台へ」
店を出ると、夜は少しだけ薄くなっていた。東の空の黒が、ほんのわずかに縁取られて、色の名前を探している。
ラドンは私より一歩先に立ち、路地の奥を指す。そこには、闇と、光の境目がある。
私は歩く。踵の痛みはまだ鋭い。けれど痛みは、方向を教える標識にもなる。
帝都は二つの帝国でできている。表と影。
私はその境目で、そっと微笑んだ。微笑みは、剣。盾。鍵。
そして、宣戦布告。
──この出会いが、帝国を揺るがす序章となる。
私の長い夜は、ただの夜ではなくなった。ここから先、夜は舞台だ。拍手は静かに、歓声は目に見えない場所で。
私は一歩を置く。その音が、昨日の壊れる音を押しやって、新しいリズムを刻み始める。
鼓動。計画。微笑み。
その三拍子で、帝国を踊らせる。
帝都の外縁から再び中心へ、中心からまた外へ、私は同じ円の縁を延々となぞった。朝の白さは人を裁き、昼の明るさは人を晒し、夕暮れは人を置き去りにする。私の靴底は一日で二年分くらい擦り減った気がした。指先は母の指輪を握りっぱなしで、掌に銀色の小さな痣ができる。
人は、急に名前を失うと、重力の中心を見失う。
「元・公爵令嬢」が私の顔の上に薄い膜みたいに張り付き、息をするたびに内側に吸い込まれて貼り付く。剥がそうとすると痛い。剥がせないのに、剥がさなくちゃ歩けない。私は呼吸のたび、凍った膜を少しずつひきちぎる作業を続けた。
昼の市場では声がうるさく、夜の広場では風がうるさかった。
パンの匂いは昨日までの私を侮辱するし、香辛料の匂いは明日からの私を脅す。甘い菓子を焼く店先で立ち止まり、財布に手を入れかけて空を掴む。あぁ、そうだった。私はもう、家の帳面に名前を持たない。私が払うべき代価は、貨幣よりもっと堅いものだ。
「お嬢さん、包みましょうか?」
店主の声は親切で、残酷だ。
「また今度」と笑って去る。笑い方はまだ生きている。生きているのが憎らしい。
歩き続けるうち、足の皮が剥けた。靴の縁が踵に噛みつき、血を吸って赤黒く光る。痛みは最初、鋭い針みたいだったのに、だんだんとろ火の鍋みたいに粘りついて、脳の奥を低温で煮詰め始める。思考が飴みたいに伸び、ちぎれて、また伸びる。
広場の端で腰を下ろすと、石の冷たさが骨の裏にまで染みた。冬は石を味方につけて人を責めるのが上手い。
「座り込みは駄目だよ」
巡回の衛兵に肩を軽く叩かれて、私は立ち上がる。礼をして、また歩き出す。
追い立てられる羊の群れみたいに、私は人の流れに押し流される。私を知る者はもういない。私を知らない者ばかりが、私を通り過ぎていく。
夕方、風が曲がり角で唸り声を上げた。道端のポスターが剥がれ、地面を転がる。「新しい帝国の夜明け」だなんて、今日の私には悪趣味な宣伝文句だ。私は靴でそれを押さえ、また放した。紙はくるりと裏返り、泥の模様を自慢する。
日が落ちて、街灯の火が点り、影が長く伸びる。影は正直だ。私の内側が抜け落ちている形を、そのまま地面に写す。
寒さが肩の骨に噛みついて、息が白く千切れる。私は外套の襟を立て、灯りの少ない路地へ入った。光がある場所では、誰かの視線が追いかけてくる。視線は刃だ。今夜は刃を減らしたい。
細い石畳を抜けると、古い運河沿いの裏通り。水面が鈍い鋼のように固まって見える。夏にはここで音楽が鳴り、恋人たちが囁くのだろう。冬は音を喰う。喰い残しだけが、空気の隅にひやひやと残る。
寒い。空腹。眠い。
三拍子。舞踏会の反対側。私は壁に背を預け、ゆっくりしゃがみ込む。膝が鳴る。指輪の縁が掌をまた削る。指先の皮が薄く剥け、銀の味が口の中に蘇る。母の指輪は、慰めにも、刃にもなる。今夜は刃。私は刃の側面をそっと舐めて、血が出ないことを確認する。出ても構わない。血は、まだ私のものだ。
「……セラフィナ様?」
風に混じって、聞き覚えのある声がした気がして、私は反射で顔を上げる。
違う。誰もいない。フィオナがここに来るはずがない。来てはいけない。
思い出は悪霊だ。夜になると人の形で現れ、名前を呼ぶ。振り向いたら負けだと分かっていても、振り向いてしまう。それが人間の弱さで、今夜の私の唯一の温かさだ。
私は額をごく軽く壁に当てた。石は容赦ない。冷たさが前頭葉を刺し、視界の端で黒い斑点が増える。瞬きをすると、それは雪みたいに舞って消えた。
眠気が襲う。眠ってはいけない。ここで寝たら、何かに奪われる。何を、とは言わない。全部だ。
「起きているのは、立派だ。けど、凍死はもっと立派だ。静かで、誰にも迷惑をかけない」
声がした。冗談の形をしていない冗談の声。乾いた木の枝で机を叩くみたいな音色。
私の右側、路地の影から男が一歩出る。黒い外套、目元まで落ちるフード。灯りに入った瞬間、フードの影の底で目が笑った。冷たいものが笑うと、余計に光る。
彼の手には古い皮手袋。指の先が擦れて色が変わっている。よく使う手だ。人を殴るためか、書類を捲るためか、鍵を回すためか、刃を研ぐためか。全部かもしれない。
「誰」
私の声は、人の声のふりをして出て、石に吸い込まれる。
男は肩を竦める。
「誰だろうね。名前はたくさんある。君の耳に入れていいのは、一番どうでもいいやつだ。──ラドン」
ラドン。喉の奥で転がすと、渋い金属の味がする。
彼は片手でフードを外した。黒髪は風の形で、水面みたいに揺れる。瞳は深く、色のない琥珀のようで、笑っているのに温度が出ない。氷の下で流れる水の笑い方。
「セラフィナ・ロジウム」
彼は私の名前を、正しく美しく発音した。忘れられた紋章を指でなぞるように。
私は、体を壁から起こす。姿勢を整える。どんな底でも、礼儀は鎧だ。
「世間の狭さに驚くわ。私の名を、ここで」
「世間は広い。けれど、影は狭い。狭いところでは噂が速い」
「影の人?」
「そう呼ばれるのが、一番楽だ」
彼は私から二歩手前で立ち止まり、こちらの体温を測る医者みたいに、目だけを近づける。
「君、今日、全部失った顔をしている」
「観察眼に感謝するわ」
「皮肉は熱が必要だ。君は今、熱が足りない」
「……薬でも?」
「薬より効くものがある」
彼は手を差し伸べた。手の甲の骨が綺麗に浮いている。正確さの形をした、無駄のない手。
私はその手を見た。伸ばすべきか、噛みつくべきか、見なかったことにするべきか。選択肢は三つ、どれも正解でどれも不正解。
「復讐したいなら」
彼は静かに言った。私の脈よりも一拍遅い速度で。
「君のその微笑みは、最高の武器になる」
私の口角が、覚えていた角度で上がる。顔が勝手に従う。微笑みは反射。生存のための反射。
ラドンの瞳に、ほんの一瞬だけ温度が乗った。珍しいものを見つけた科学者の光。けれど、すぐに氷に戻る。
「……なぜ私が復讐したいと?」
「君の笑い方は、人を刺す。刺してから撫でる。撫でてから切り離す。そういう順序を知っている人間は、愛を弔った後だ」
肺が、勝手に呼吸を忘れかける。彼は続けた。
「帝都には二つの帝国がある。表の帝国と、影の帝国。表は法律で動く。影は情報で動く。君は表で剥ぎ取られた。なら、影で取り返せばいい」
「お誘い?」
「勧誘は嫌いだ。提示だ。取引の形でなら、君は座る椅子を見つけやすい」
「取引。条件は?」
「君の頭と、礼儀と、笑顔。君の過去と、君の怒り。君自身」
「見返りは?」
「舞台。道具。観客。防弾の幕」
私は黙った。彼の言葉は詩のふりをした現実だ。現実は嫌いじゃない。嫌いじゃないものが今、喉を通るだろうか。
ラドンは、私の沈黙に勝手な意味を与えない種類の男だった。彼はただ、路地の奥を顎で示す。
「ここは冷える。温かい場所で話そう。コーヒーか、スープか。君の喉が通るもの」
「毒は?」
「毒は、君が持っている」
笑ってしまった。夜の空気に笑いがほんの少しだけ混ざる。私の笑いは軽くて、やがて石に吸われる。
私は立ち上がろうとして、足が沈む。痛みが、苛々と針を束ねて踵に押し当てる。ラドンの手が素早く私の肘を支えた。手つきは丁寧で、感傷がない。仕事の手。
「歩ける?」
「歩くわ」
「偉い」
「子どもみたいに褒めないで」
「じゃあ、女王みたいに讃えようか?」
「まだその椅子、空いてる?」
「君が座るなら、造り直す」
裏路地は細い糸みたいに曲がりくねって、夜の裏側へ人を連れて行く。ラドンは私より半歩前を歩き、時々振り返って私の歩幅に合わせる。
道に寝ている酔漢が、私たちを見る。私たちは彼を見ない。猫が塀の上で背を伸ばし、月の代わりに街灯を見つめている。水溜まりは凍りかけて、割れかけた鏡みたいに歪んだ顔を映す。映っているのは私だ。少し見慣れない他人の顔。瞳の縁が赤い。頬に小さな傷。髪に夜の埃。
私はその顔を、嫌いだと思う。けれど、たぶん、正しい。
曲がり角の先に、古い店の看板。文字は剥げ、絵柄だけが残っている。黒い翼。
扉を押すと、鈴が短く鳴る。中は薄暗く、木の匂いと焙煎の香りが重なっている。火は弱く、けれど確かで、骨まで冷えた私に、慎重に温度を分けてくれる。
カウンターの向こうで、無表情の女主人がラドンを見る。視線を私に滑らせ、何も言わずに小さく頷いた。常連。保証。合言葉の代わり。
「座って」
ラドンは奥のテーブルを指さす。壁際、背中を守れる席。私は座り、外套を膝に掛ける。指先の震えが少し収まる。
すぐに茶色のカップが二つ置かれ、蒸気が薄く立つ。
口元に近づける。香りが、眠っていた神経をやさしく撫でる。熱は刃物だ。正しい角度で当てれば、固まった筋肉が解ける。
「ありがとう」
「礼は仕事の邪魔にならない程度に」
「あなたは何者?」
ラドンはカップの縁で笑った。「黒翼」
黒翼。帝都の影の名。噂。裏付けのない証言。宮廷の悪夢。
私はカップを置く。陶器が木を叩く音が小さく響く。
「帝国諜報の……」
「部局名はどうでもいい。役割だけ知っておけばいい。情報を集め、仕分け、売買し、時々、沈める」
「人?」
「事実」
返答が軽くない。軽くないから逆に軽い。こういう男は嘘と真実の境界に本人ごと立っている。
私は姿勢を正した。微笑みを整え、声を落とす。交渉の顔。舞踏会の延長線。場所が違うだけ。
「私に、何をさせたいの」
「まずは生かす」
「次に?」
「君の笑顔を、君のために使わせる」
「具体的に」
「君は、表の礼儀を知っている。人の言葉の端を摘んで、ほつれを見つける方法を知っている。人前で微笑み、背後で動かす技を知っている。君ほどの“宮廷語”の話者は稀だ。──それは影にとって、最高の触媒だ」
宮廷語。思わず笑う。
ラドンは肩を竦めた。「君の家が教えてくれた。君に残ったものが、君をここまで連れてきた」
「皮肉ね」
「美しい皮肉ほど、高く売れる」
女主人がスープを置く。塩気は控えめで、骨の出汁が静かに主張する。匙を口に運ぶと、胃がやっと仕事を思い出す。体が先に現実に帰ってくる。心は、あとからゆっくり歩く。
ラドンはそれを観察している。観察していることを隠さない。視線が刃ではなく、定規に見える。測られているのは嫌いじゃない。合うドレスを仕立てるには、採寸が必要だから。
「復讐は、長距離走だ」
ラドンが言う。「短距離で燃やし尽くすと、燃えかすは風に笑われる」
「走る足が残っているかしら」
「残してやる」
彼はテーブルの上に薄い封筒を置いた。差出人も宛先もない。ただ、中身の重みだけが確かだ。
私は視線で促す。ラドンが顎で合図する。「開けて」
封を切る。紙の感触が指の腹を擦る。中には写し。帝国議会の内部メモ。監査報告第百十二号──昨日、私に読み上げられた付帯決議の根っこ。数字の並び、署名の位置、訂正印の色。
私は目で追う。脳が砂を噛み砕くみたいにぎりぎりと動く。あるはずのない数字が、ある。
ラドンが低く笑う。
「美しいね、改竄って。やる側の技術が高いほど、美術品に見える。けど、君なら分かる」
「私の家の帳簿に、わざと混ぜられた負債」
「君の父の死の直後。監督官の交代直前。タイミングが良すぎる」
「犯人は?」
「君に見つけさせる。獲物は自分で選んだ方が美味しい」
胸の奥で、乾いた音がした。昨夜から続く、あの壊れる音に似ている。違う。今のは、逆だ。何かが組み合わさる音。
私は息を吸う。空気に熱が戻る。指輪を親指で撫でる。銀の輪は、今夜は刃ではなく、コンパスだ。
「取引しましょう」
ラドンが片眉を上げる。
私は笑う。ゆっくり、確かに。
「私の目的はただひとつ。奪われたものを、正しい形で取り戻す。誰の手で、いつ、どんな言葉で奪われたのか──全員に、丁寧にお返しする。あなたたちは、そのための“道具”を貸し、舞台を用意する。私は演じ、刺し、結ぶ」
「報酬は?」
「帝国の秩序を、腐っている分だけ削ぎ落とす。その過程で、あなたたちは利益を取ればいい。私は、最後に笑う」
ラドンはしばらく黙って、ゆっくり頷く。
「いい契約だ。契約書は要らない。証人は──」
「私の微笑みで十分」
「その台詞、好きだ」
彼は手を差し出した。今度は、私は迷わない。手を伸ばす。掌が触れる。温度は低い。けれど、確かだ。
握手は短く、鋭い。契約の音が、骨と骨の間で小さく鳴った。
「歓迎するよ、セラフィナ。影の帝国へ」
「案内して。私の舞台へ」
店を出ると、夜は少しだけ薄くなっていた。東の空の黒が、ほんのわずかに縁取られて、色の名前を探している。
ラドンは私より一歩先に立ち、路地の奥を指す。そこには、闇と、光の境目がある。
私は歩く。踵の痛みはまだ鋭い。けれど痛みは、方向を教える標識にもなる。
帝都は二つの帝国でできている。表と影。
私はその境目で、そっと微笑んだ。微笑みは、剣。盾。鍵。
そして、宣戦布告。
──この出会いが、帝国を揺るがす序章となる。
私の長い夜は、ただの夜ではなくなった。ここから先、夜は舞台だ。拍手は静かに、歓声は目に見えない場所で。
私は一歩を置く。その音が、昨日の壊れる音を押しやって、新しいリズムを刻み始める。
鼓動。計画。微笑み。
その三拍子で、帝国を踊らせる。
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ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!?
それだけではない。
何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!!
私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。
それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。
しかも!
ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!!
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