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第4話:裏の世界へ
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夜の底は、想像より賑やかだった。
ラドンに連れられて辿り着いたのは、帝都の心臓に空いた“もうひとつの脈”──古い郵便倉庫の地下に穿たれた階段で、鉄の手すりは何度も握られた跡で艶を増し、壁の煉瓦は指の節みたいに角張っていた。
「ここから先は、目で覚える」
ラドンの声は低く、乾いていて、余計な情緒を削っていた。
階段を降りるたび、世界が一枚ずつ剥がれていく。香、礼法、社交、拍手。残るのは、裸の情報と、呼吸と、足音。最下段に着くと、扉が二重になっていた。一枚目は鈍い鉄、二枚目は厚い木。叩き方に規則があり、ラドンは無言の和音を鳴らして、鍵穴の奥に眠る意志を起こした。
開いた先は廊。片側には等間隔に灯が揺れ、もう片側は、暗い。暗さにも濃淡があるのだと、私は初めて知る。壁一面に打ち付けられた古い地図と新しい地図。街路、下水、地下水脈、忘れられた通路。帝都は巨大な書物で、黒翼はその余白に字を書き足していた。
「ようこそ。黒翼の『内側』へ」
彼が言う。
廊の先は広間に開け、そこにあるのは私の想像を超えた“規模”だった。長い机が何列も並び、紙の匂いと油の匂いと鉄の匂いが重なる。壁際では暗号士が板に粉を走らせ、別の区画では黙々と靴を磨く少年がいる。水滴の落ちる音。速記の走る音。遠くで弓を引く弦の音まで聞こえた。
「想像より……大きいのね」
「帝国が大きいからね。影は、いつだって光の分だけ伸びる」
ラドンは歩きながら指先で軽く印を切る。すれ違う者が小さく顎を引いて応じる。礼ではない、確認だ。ここでは、礼儀は暗号に置き換えられている。
「紹介しよう。彼はウィレマイト、通信線の管理。あっちはスファレライト、記録庫の番人。暗号卓のゼノタイムは、君の癖字を三回見れば偽造できる。……そして訓練場のテフロイト、噛みつく癖があるから注意」
「噛みつく?」
「比喩だよ。多分ね」
名前は鉱石の響きを持ち、どれも硬い。ここでは人の名さえ武器だ。ウィレマイトは色素の薄い男で、視線の焦点だけが鋭い。スファレライトは女で、指先がインクに染まり、爪の形が驚くほど整っている。ゼノタイムは痩せて骨ばり、笑うときだけ一瞬筋肉がほどける。テフロイトは背が高く、歩く前に影が歩く。
「新顔?」
テフロイトが顎で私を示す。
ラドンが短く頷く。「内側に入れる」
「見た目は貴族。手は?」
テフロイトが私の両手を取る。指輪に視線が止まる。母の銀輪。
彼は一瞬だけ眉を動かし、私の手を返すと、掌の皮の薄さを確かめるみたいに親指でなぞった。
「柔らかい。だけど骨が強い」
「骨には自信があるわ」
「言葉の骨ね」
短い会話。短剣の交差みたいに軽い音がして、終わる。
ラドンは私を奥へ導いた。壁の地図の端に、薄い赤い糸が縫い付けられ、幾つかの点を結んでいる。点のひとつには、私の家の名──いや、もう帝国の印が重ねられている。糸はそこから、皇宮、監査院、議会書記局へと伸び、さらに庶民街のとある菓子店に小さく結び目を作っていた。
「……線は、美しいわね」
「線にして初めて見えるものがある。君の世界には線が多すぎた。今日からは、必要な線だけを引く」
記録庫に入ると、空気が変わった。紙が湿気を吸って膨らむ匂い。棚は背の高い兵隊のように整列し、ラベルは鉱石の粉で描かれている。スファレライトが私に手袋を渡す。
「手の油は敵。ここでだけは、素手は捨てて」
「心得たわ」
手袋を嵌めると、指の感覚が一枚鈍くなる。皮膚で世界を直接受け止める特権を、一時的に手放す。心地よい不自由。
スファレライトは黙って三冊の薄い綴りを取り上げ、机に置いた。監査院の内部連絡、議会の日程案、そして──先ほどラドンが見せてくれた付帯決議の原簿の写し。
「ここに、あなたの家の名前が“置かれた”痕跡がある。置いたのは人間。人がしたことは、人でほどける」
私はページを繰る。紙の目が指先にざらりと触れ、そのたびに鼓動が速度を変える。ゼノタイムが覗き込み、目だけ笑う。
「綺麗な読み方だね。行間で呼吸してる」
「読み書きは、社交より嘘が少ないから好き」
「嘘を入れる余地は、書く側にあるんだよ」
「だから、ここでは読む」
ページの一角に、見慣れない押印の癖があった。わずかに楕円。角度が毎回同じではない。甘い、と私は思う。甘い犯行は、甘い結果を呼ぶ。
私は顔を上げた。
「この印、監査院の“補佐官”のもの?」
ラドンが小さく笑う。「君が言うときだけ、疑問が答えになる」
「ヘモ……ヘミ……」
「ヘミモルファイト」
ゼノタイムが即答する。
私は頷く。「ええ、その人。監査院補佐官ヘミモルファイト。彼の動線が甘いのなら、そこから崩れる」
私は地図の赤い糸の先、小さな結び目に触れた。帝都西部、パレード通りの角にある菓子店──白孔雀亭。そこが、赤の結び目だ。
「ここで、何が交わされたの?」
「まだ“何か”は確定していない。甘い匂いに紛れて運ばれるのは、砂糖だけじゃない」
ラドンは机の端で指を二度叩く。
ウィレマイトが、紙片を滑らせた。菓子店の納品票、裏面に微細な孔。紙笛のように、一定の風を通すと別の模様が浮くよう加工されている。凝っている。凝ったものほど、破れる。
「君に、ひとつ目の仕事を」
ラドンが言った。広間がわずかに息を止める。テフロイトは腕を組み、ゼノタイムは鉛筆を停め、スファレライトはインク瓶の口を軽く叩く。視線が、音を立てない合図になる。
「『お手並み拝見』というやつ?」
「そう呼ばれるのは嫌いだが、意味はそうだ。軽いもの。君を測るのではなく、君にここを測らせる」
「聞くわ」
「三日後、白孔雀亭で、監査院補佐官ヘミモルファイトが“誰か”と会う。君は客として入る。座る席は窓際、三番テーブル。注文は甘くない菓子と薄い紅茶。──やることは三つ」
彼は指を三本立てる。
一、相手の“癖”を拾う。飲み物に手を伸ばす順序、言葉の速度、視線が逃げる角度。
二、彼らが持ち込む包みの“重さ”を目で量る。紙の厚さ、角の潰れ、置き方。
三、気づかれずに“支払い票”を一枚、写す。裏に孔があれば、線の位置だけでもいい。
「盗るのではなく、写す。原本は動かさない」
「写すのは得意よ。人の顔でも、言葉でも、手癖でも」
「知ってる」
ラドンの「知ってる」は、事前に調べてきた重みがあった。黒翼にとって“知らない”は罪で、“知りすぎる”は礼儀だ。
テフロイトが少し前に出る。
「念のため、退路を三つ教える。裏口、厨房の搬入口、そして屋根裏から向かいの屋根へ。足場はあるが、踵の高い靴はやめろ」
「分かったわ」
「服は?」
スファレライトが目だけで私を採寸する。胸、肩、腰、歩幅。
ゼノタイムが横から口を挟む。「“元・令嬢”の匂いを微量に残せ。完全に消すと逆に浮く」
「香は白檀を極少量。髪は下ろして、耳を半分だけ出す」
「鞄は?」
「小さめ。古びた革。金具は鳴らないもの。中に薄い紙と、折りたたみのレンズ」
即座に返ってくる準備の語彙。すべてが用意されているわけではない。けれど、何もかもを“用意できる”体制がここにはある。
私は胸の奥で、昨夜の壊れる音を思い出す。今、その音に薄く別のリズムが重なる。合図。号令。曲。
「セラフィナ」
ラドンが名前で呼ぶ。その呼び方は、地面に杭を打つみたいに確かだった。
「覚悟はある?」
愚問。
私は椅子から立ち、外套の襟を整え、指輪に触れて、はっきりと言う。
「もう、誰にも従わない。今度はこの手で奪う」
広間の空気が、瞬きひとつ分だけ動いた。テフロイトは口角をわずかに上げ、ウィレマイトは無言で頷き、スファレライトはインクを一滴、紙に落としてから静かに拭った。ゼノタイムは鉛筆を回し、笑わない目で私を見た。
ラドンは、少しだけ目を細めた。それは誰に向けた笑いでもなく、誰にも見せない満足の微粒子だった。
「いい声だ。覚悟には声がある。音程が低すぎても高すぎても割れる。今のはちょうどいい」
「褒め言葉として受け取るわ」
「褒め言葉だよ。……ただし、覚悟は温かい場所でだけ鳴る。外に出れば冷える。冷えた覚悟は、折れる」
「温め方は、知ってる」
「どうやって?」
「怒りで」
「燃費が悪い。別の熱源を見つけるといい」
私たちは目を合わせる。ラドンの瞳は透明で、底に何かが沈んでいる。彼は過去を見せない。見せないことを習慣にしている。
それでいい。私も、これからそうする。
「訓練は?」
テフロイトが短く問う。
ラドンは首を振る。「今日は休ませる。明日、歩き方と“立ち方”だけ」
「立ち方?」
「人は座っていても立っている。立ち方を忘れた者から、沈む」
「ずいぶん詩人ね」
「実務だよ」
私の口元が、勝手に笑う。
スファレライトが私に薄い布包みを手渡した。開けると、中には──古びた革の鞄、折りたたみレンズ、薄紙、微量の白檀の小瓶。すべて、先ほどの話の通り。
「準備の早さには、敬礼が必要かしら」
「ここでは拍手の代わりに仕事で返して」
「心得た」
私は布包みを鞄に移し、肩に掛ける。重さは、ちょうどいい。重すぎない。軽すぎない。自分の意志より、ほんの少しだけ軽い重さ。持て余さずに、でも油断すると置き忘れる重さ。
ラドンが広間の奥、別の扉へ顎をしゃくる。扉の先から冷気が一筋漏れ、鉄の匂いが鼻を刺した。
「最後に、見せたい場所がある」
扉の向こうは、射場だった。弓の的、ナイフの的、そして沈黙の的──無地の木板。誰かがそこに“名前”を書き、また消した跡が幾つも重なっている。
テフロイトが短剣を取り、投げる。刃は真ん中から少し外れ、木に食い込む。抜く音が妙に甘い。彼は刃の腹で木目を撫で、微笑う。
「ここでは、憎しみは武器に変換される。変換できない憎しみは、ただの毒。飲む?」
「吐くわ」
「いいね」
私は無地の板の前に立つ。チョークを渡される。何を書けばいい? 名前? 目的? 誓い?
迷いは一瞬。私は板の真ん中に、短く書いた。
“秩序の顔をした不正”
黒翼の誰かが小さく息を呑む。ラドンだけが頷いた。
「敵の輪郭は、抽象の方が長持ちする」
「具体は?」
「明日から、君が与える」
私はチョークを返し、手についた粉を払う。粉は皮膚の温度で消え、碑文のように指の皺に残る。
ラドンが扉を開け、広間の明るさがまた戻ってくる。
「今日はここまで。帰る場所は?」
「ない」
「なら、ここが暫定の宿だ」
ラドンが示した先に、簡素な寝室がいくつか並んでいた。清潔な寝台、机、洗面。窓はない。替わりに、壁に小さな鐘。緊急の合図用。
私は寝台の端に腰を下ろし、鞄を抱えた。布が軋む音、遠くの紙の音、インクが瓶の口で鳴る音。夜はここでも生きている。
「セラフィナ」
去り際のラドンが、ドア枠にもたれて言う。
「君は、いま“捨てる”ことと“選ぶ”ことを同時にしている。捨てきれずに持ったまま選ぶと、刃が鈍る。捨てるものを決めること。今夜の課題」
「宿題、嫌いじゃない」
「明日の朝、答え合わせはしない。けど、君の立ち方を見れば、だいたい分かる」
「観察魔」
「職業病」
ドアが閉まる。
静けさ。やさしい種類の静けさ。耳の奥で、昨夜の“壊れる音”がかすかに鳴る。私は目を閉じ、深く呼吸し、数える。四で吸い、四で止め、四で吐く。心拍が少しずつ指示に従い始める。
“捨てること”──私は頭の中に棚を作り、並べる。称号、社交、虚飾、侮蔑に対する過剰な反応、誰かの視線を先回りして勝手に整える癖。
“選ぶこと”──言葉、線、沈黙、立ち方、怒りでない熱源。私は一つひとつを手に取り、重さを確かめて、残す箱にしまう。
母の指輪が、掌に冷たい。
私はゆっくり外し、寝台の上に置く。銀の輪は、少しだけ光を返す。
捨てない。けれど、縛られない。
私は指輪に軽く触れて、囁く。
「見ていて。今度は私が、選ぶ側になる」
眠りは浅く、しかし傷口を塞ぐくらいには深かった。
目を開ける頃、内部の時計が正確に朝を告げ、遠くで鐘が一度だけ鳴る。私は起き上がり、髪を解き、顔を洗い、鏡のない鏡に向かって立ち方を整える。膝の角度、肩の高さ、視線の置き場。
誰かのための立ち方ではない。
私自身のための、立ち方。
扉が軽く叩かれる。
開けると、スファレライトが小箱を差し出した。昨日の鞄に合わせた、鈍い金具の留め具がついた。中には薄紙、細い鉛筆、折りたたみレンズ、白檀の小瓶、そして、白孔雀亭の簡略図。席までの歩数、視界の死角、厨房の気配の流れ。用意周到は、ここでは礼儀だ。
「ありがとう」
「魔法の言葉は、ここでは飴玉ほどしか効きません」
「飴玉、嫌いじゃない」
彼女が小さく笑う。
背後でラドンが言う。
「今日の訓練は三つ。“立ち方”、“歩幅”、“沈黙”。それが終わったら、服を合わせる。白孔雀亭へ行くのは三日後。……今のところ、質問は?」
「一つ。復讐の熱源の、別の燃料。昨日“見つけろ”と言った」
「見つかった?」
「たぶん」
「何」
「侮辱された秩序への執着。私の中の“間違い許せない子ども”が、まだ生きてる」
ラドンの口元が、微かに緩む。
「燃費がいい」
「冷えにくい」
「良い選択だ」
私は頷き、肩の力を抜く。
踏みにじられた令嬢は、ここで“策士”へと形を変える。
それは華やかな儀式ではない。短い号令、薄い紙、わずかな香、正確な歩幅、そして、微笑み。
舞踏会で身についたすべてが、ここでは別の道具になる。私はそれを、ためらわずに掴む。掴んだ指に、微かな震えが残る。それは恐れではなく、加速の前の振動。
──手始めの仕事は、もう決まっている。
白孔雀亭。窓際、三番。甘くない菓子、薄い紅茶。
写す。測る。拾う。
舞台は整えられ、照明はまだ落ちている。幕が上がる前の暗がりほど、心は鮮明になる。
私は呼吸を整え、立ち、歩く。
自分のために。奪うために。
誰にも従わないために。
ラドンに連れられて辿り着いたのは、帝都の心臓に空いた“もうひとつの脈”──古い郵便倉庫の地下に穿たれた階段で、鉄の手すりは何度も握られた跡で艶を増し、壁の煉瓦は指の節みたいに角張っていた。
「ここから先は、目で覚える」
ラドンの声は低く、乾いていて、余計な情緒を削っていた。
階段を降りるたび、世界が一枚ずつ剥がれていく。香、礼法、社交、拍手。残るのは、裸の情報と、呼吸と、足音。最下段に着くと、扉が二重になっていた。一枚目は鈍い鉄、二枚目は厚い木。叩き方に規則があり、ラドンは無言の和音を鳴らして、鍵穴の奥に眠る意志を起こした。
開いた先は廊。片側には等間隔に灯が揺れ、もう片側は、暗い。暗さにも濃淡があるのだと、私は初めて知る。壁一面に打ち付けられた古い地図と新しい地図。街路、下水、地下水脈、忘れられた通路。帝都は巨大な書物で、黒翼はその余白に字を書き足していた。
「ようこそ。黒翼の『内側』へ」
彼が言う。
廊の先は広間に開け、そこにあるのは私の想像を超えた“規模”だった。長い机が何列も並び、紙の匂いと油の匂いと鉄の匂いが重なる。壁際では暗号士が板に粉を走らせ、別の区画では黙々と靴を磨く少年がいる。水滴の落ちる音。速記の走る音。遠くで弓を引く弦の音まで聞こえた。
「想像より……大きいのね」
「帝国が大きいからね。影は、いつだって光の分だけ伸びる」
ラドンは歩きながら指先で軽く印を切る。すれ違う者が小さく顎を引いて応じる。礼ではない、確認だ。ここでは、礼儀は暗号に置き換えられている。
「紹介しよう。彼はウィレマイト、通信線の管理。あっちはスファレライト、記録庫の番人。暗号卓のゼノタイムは、君の癖字を三回見れば偽造できる。……そして訓練場のテフロイト、噛みつく癖があるから注意」
「噛みつく?」
「比喩だよ。多分ね」
名前は鉱石の響きを持ち、どれも硬い。ここでは人の名さえ武器だ。ウィレマイトは色素の薄い男で、視線の焦点だけが鋭い。スファレライトは女で、指先がインクに染まり、爪の形が驚くほど整っている。ゼノタイムは痩せて骨ばり、笑うときだけ一瞬筋肉がほどける。テフロイトは背が高く、歩く前に影が歩く。
「新顔?」
テフロイトが顎で私を示す。
ラドンが短く頷く。「内側に入れる」
「見た目は貴族。手は?」
テフロイトが私の両手を取る。指輪に視線が止まる。母の銀輪。
彼は一瞬だけ眉を動かし、私の手を返すと、掌の皮の薄さを確かめるみたいに親指でなぞった。
「柔らかい。だけど骨が強い」
「骨には自信があるわ」
「言葉の骨ね」
短い会話。短剣の交差みたいに軽い音がして、終わる。
ラドンは私を奥へ導いた。壁の地図の端に、薄い赤い糸が縫い付けられ、幾つかの点を結んでいる。点のひとつには、私の家の名──いや、もう帝国の印が重ねられている。糸はそこから、皇宮、監査院、議会書記局へと伸び、さらに庶民街のとある菓子店に小さく結び目を作っていた。
「……線は、美しいわね」
「線にして初めて見えるものがある。君の世界には線が多すぎた。今日からは、必要な線だけを引く」
記録庫に入ると、空気が変わった。紙が湿気を吸って膨らむ匂い。棚は背の高い兵隊のように整列し、ラベルは鉱石の粉で描かれている。スファレライトが私に手袋を渡す。
「手の油は敵。ここでだけは、素手は捨てて」
「心得たわ」
手袋を嵌めると、指の感覚が一枚鈍くなる。皮膚で世界を直接受け止める特権を、一時的に手放す。心地よい不自由。
スファレライトは黙って三冊の薄い綴りを取り上げ、机に置いた。監査院の内部連絡、議会の日程案、そして──先ほどラドンが見せてくれた付帯決議の原簿の写し。
「ここに、あなたの家の名前が“置かれた”痕跡がある。置いたのは人間。人がしたことは、人でほどける」
私はページを繰る。紙の目が指先にざらりと触れ、そのたびに鼓動が速度を変える。ゼノタイムが覗き込み、目だけ笑う。
「綺麗な読み方だね。行間で呼吸してる」
「読み書きは、社交より嘘が少ないから好き」
「嘘を入れる余地は、書く側にあるんだよ」
「だから、ここでは読む」
ページの一角に、見慣れない押印の癖があった。わずかに楕円。角度が毎回同じではない。甘い、と私は思う。甘い犯行は、甘い結果を呼ぶ。
私は顔を上げた。
「この印、監査院の“補佐官”のもの?」
ラドンが小さく笑う。「君が言うときだけ、疑問が答えになる」
「ヘモ……ヘミ……」
「ヘミモルファイト」
ゼノタイムが即答する。
私は頷く。「ええ、その人。監査院補佐官ヘミモルファイト。彼の動線が甘いのなら、そこから崩れる」
私は地図の赤い糸の先、小さな結び目に触れた。帝都西部、パレード通りの角にある菓子店──白孔雀亭。そこが、赤の結び目だ。
「ここで、何が交わされたの?」
「まだ“何か”は確定していない。甘い匂いに紛れて運ばれるのは、砂糖だけじゃない」
ラドンは机の端で指を二度叩く。
ウィレマイトが、紙片を滑らせた。菓子店の納品票、裏面に微細な孔。紙笛のように、一定の風を通すと別の模様が浮くよう加工されている。凝っている。凝ったものほど、破れる。
「君に、ひとつ目の仕事を」
ラドンが言った。広間がわずかに息を止める。テフロイトは腕を組み、ゼノタイムは鉛筆を停め、スファレライトはインク瓶の口を軽く叩く。視線が、音を立てない合図になる。
「『お手並み拝見』というやつ?」
「そう呼ばれるのは嫌いだが、意味はそうだ。軽いもの。君を測るのではなく、君にここを測らせる」
「聞くわ」
「三日後、白孔雀亭で、監査院補佐官ヘミモルファイトが“誰か”と会う。君は客として入る。座る席は窓際、三番テーブル。注文は甘くない菓子と薄い紅茶。──やることは三つ」
彼は指を三本立てる。
一、相手の“癖”を拾う。飲み物に手を伸ばす順序、言葉の速度、視線が逃げる角度。
二、彼らが持ち込む包みの“重さ”を目で量る。紙の厚さ、角の潰れ、置き方。
三、気づかれずに“支払い票”を一枚、写す。裏に孔があれば、線の位置だけでもいい。
「盗るのではなく、写す。原本は動かさない」
「写すのは得意よ。人の顔でも、言葉でも、手癖でも」
「知ってる」
ラドンの「知ってる」は、事前に調べてきた重みがあった。黒翼にとって“知らない”は罪で、“知りすぎる”は礼儀だ。
テフロイトが少し前に出る。
「念のため、退路を三つ教える。裏口、厨房の搬入口、そして屋根裏から向かいの屋根へ。足場はあるが、踵の高い靴はやめろ」
「分かったわ」
「服は?」
スファレライトが目だけで私を採寸する。胸、肩、腰、歩幅。
ゼノタイムが横から口を挟む。「“元・令嬢”の匂いを微量に残せ。完全に消すと逆に浮く」
「香は白檀を極少量。髪は下ろして、耳を半分だけ出す」
「鞄は?」
「小さめ。古びた革。金具は鳴らないもの。中に薄い紙と、折りたたみのレンズ」
即座に返ってくる準備の語彙。すべてが用意されているわけではない。けれど、何もかもを“用意できる”体制がここにはある。
私は胸の奥で、昨夜の壊れる音を思い出す。今、その音に薄く別のリズムが重なる。合図。号令。曲。
「セラフィナ」
ラドンが名前で呼ぶ。その呼び方は、地面に杭を打つみたいに確かだった。
「覚悟はある?」
愚問。
私は椅子から立ち、外套の襟を整え、指輪に触れて、はっきりと言う。
「もう、誰にも従わない。今度はこの手で奪う」
広間の空気が、瞬きひとつ分だけ動いた。テフロイトは口角をわずかに上げ、ウィレマイトは無言で頷き、スファレライトはインクを一滴、紙に落としてから静かに拭った。ゼノタイムは鉛筆を回し、笑わない目で私を見た。
ラドンは、少しだけ目を細めた。それは誰に向けた笑いでもなく、誰にも見せない満足の微粒子だった。
「いい声だ。覚悟には声がある。音程が低すぎても高すぎても割れる。今のはちょうどいい」
「褒め言葉として受け取るわ」
「褒め言葉だよ。……ただし、覚悟は温かい場所でだけ鳴る。外に出れば冷える。冷えた覚悟は、折れる」
「温め方は、知ってる」
「どうやって?」
「怒りで」
「燃費が悪い。別の熱源を見つけるといい」
私たちは目を合わせる。ラドンの瞳は透明で、底に何かが沈んでいる。彼は過去を見せない。見せないことを習慣にしている。
それでいい。私も、これからそうする。
「訓練は?」
テフロイトが短く問う。
ラドンは首を振る。「今日は休ませる。明日、歩き方と“立ち方”だけ」
「立ち方?」
「人は座っていても立っている。立ち方を忘れた者から、沈む」
「ずいぶん詩人ね」
「実務だよ」
私の口元が、勝手に笑う。
スファレライトが私に薄い布包みを手渡した。開けると、中には──古びた革の鞄、折りたたみレンズ、薄紙、微量の白檀の小瓶。すべて、先ほどの話の通り。
「準備の早さには、敬礼が必要かしら」
「ここでは拍手の代わりに仕事で返して」
「心得た」
私は布包みを鞄に移し、肩に掛ける。重さは、ちょうどいい。重すぎない。軽すぎない。自分の意志より、ほんの少しだけ軽い重さ。持て余さずに、でも油断すると置き忘れる重さ。
ラドンが広間の奥、別の扉へ顎をしゃくる。扉の先から冷気が一筋漏れ、鉄の匂いが鼻を刺した。
「最後に、見せたい場所がある」
扉の向こうは、射場だった。弓の的、ナイフの的、そして沈黙の的──無地の木板。誰かがそこに“名前”を書き、また消した跡が幾つも重なっている。
テフロイトが短剣を取り、投げる。刃は真ん中から少し外れ、木に食い込む。抜く音が妙に甘い。彼は刃の腹で木目を撫で、微笑う。
「ここでは、憎しみは武器に変換される。変換できない憎しみは、ただの毒。飲む?」
「吐くわ」
「いいね」
私は無地の板の前に立つ。チョークを渡される。何を書けばいい? 名前? 目的? 誓い?
迷いは一瞬。私は板の真ん中に、短く書いた。
“秩序の顔をした不正”
黒翼の誰かが小さく息を呑む。ラドンだけが頷いた。
「敵の輪郭は、抽象の方が長持ちする」
「具体は?」
「明日から、君が与える」
私はチョークを返し、手についた粉を払う。粉は皮膚の温度で消え、碑文のように指の皺に残る。
ラドンが扉を開け、広間の明るさがまた戻ってくる。
「今日はここまで。帰る場所は?」
「ない」
「なら、ここが暫定の宿だ」
ラドンが示した先に、簡素な寝室がいくつか並んでいた。清潔な寝台、机、洗面。窓はない。替わりに、壁に小さな鐘。緊急の合図用。
私は寝台の端に腰を下ろし、鞄を抱えた。布が軋む音、遠くの紙の音、インクが瓶の口で鳴る音。夜はここでも生きている。
「セラフィナ」
去り際のラドンが、ドア枠にもたれて言う。
「君は、いま“捨てる”ことと“選ぶ”ことを同時にしている。捨てきれずに持ったまま選ぶと、刃が鈍る。捨てるものを決めること。今夜の課題」
「宿題、嫌いじゃない」
「明日の朝、答え合わせはしない。けど、君の立ち方を見れば、だいたい分かる」
「観察魔」
「職業病」
ドアが閉まる。
静けさ。やさしい種類の静けさ。耳の奥で、昨夜の“壊れる音”がかすかに鳴る。私は目を閉じ、深く呼吸し、数える。四で吸い、四で止め、四で吐く。心拍が少しずつ指示に従い始める。
“捨てること”──私は頭の中に棚を作り、並べる。称号、社交、虚飾、侮蔑に対する過剰な反応、誰かの視線を先回りして勝手に整える癖。
“選ぶこと”──言葉、線、沈黙、立ち方、怒りでない熱源。私は一つひとつを手に取り、重さを確かめて、残す箱にしまう。
母の指輪が、掌に冷たい。
私はゆっくり外し、寝台の上に置く。銀の輪は、少しだけ光を返す。
捨てない。けれど、縛られない。
私は指輪に軽く触れて、囁く。
「見ていて。今度は私が、選ぶ側になる」
眠りは浅く、しかし傷口を塞ぐくらいには深かった。
目を開ける頃、内部の時計が正確に朝を告げ、遠くで鐘が一度だけ鳴る。私は起き上がり、髪を解き、顔を洗い、鏡のない鏡に向かって立ち方を整える。膝の角度、肩の高さ、視線の置き場。
誰かのための立ち方ではない。
私自身のための、立ち方。
扉が軽く叩かれる。
開けると、スファレライトが小箱を差し出した。昨日の鞄に合わせた、鈍い金具の留め具がついた。中には薄紙、細い鉛筆、折りたたみレンズ、白檀の小瓶、そして、白孔雀亭の簡略図。席までの歩数、視界の死角、厨房の気配の流れ。用意周到は、ここでは礼儀だ。
「ありがとう」
「魔法の言葉は、ここでは飴玉ほどしか効きません」
「飴玉、嫌いじゃない」
彼女が小さく笑う。
背後でラドンが言う。
「今日の訓練は三つ。“立ち方”、“歩幅”、“沈黙”。それが終わったら、服を合わせる。白孔雀亭へ行くのは三日後。……今のところ、質問は?」
「一つ。復讐の熱源の、別の燃料。昨日“見つけろ”と言った」
「見つかった?」
「たぶん」
「何」
「侮辱された秩序への執着。私の中の“間違い許せない子ども”が、まだ生きてる」
ラドンの口元が、微かに緩む。
「燃費がいい」
「冷えにくい」
「良い選択だ」
私は頷き、肩の力を抜く。
踏みにじられた令嬢は、ここで“策士”へと形を変える。
それは華やかな儀式ではない。短い号令、薄い紙、わずかな香、正確な歩幅、そして、微笑み。
舞踏会で身についたすべてが、ここでは別の道具になる。私はそれを、ためらわずに掴む。掴んだ指に、微かな震えが残る。それは恐れではなく、加速の前の振動。
──手始めの仕事は、もう決まっている。
白孔雀亭。窓際、三番。甘くない菓子、薄い紅茶。
写す。測る。拾う。
舞台は整えられ、照明はまだ落ちている。幕が上がる前の暗がりほど、心は鮮明になる。
私は呼吸を整え、立ち、歩く。
自分のために。奪うために。
誰にも従わないために。
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聖女ミーシェは断罪された。
『言祝ぎの聖女』の座を聖女ラヴィーナから不当に奪ったとして、聖女の資格を剥奪され国外追放の罰を受けたのだ。
だが、隣国との国境へ向かう馬車は、同乗していた聖騎士ウィルと共に崖から落ちた。
誤字脱字があると思います。見つけ次第、修正を入れています。
恋愛要素は完結までほぼありませんが、ハッピーエンド予定です。
悪役令嬢ですが、副業で聖女始めました
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前世の小説の世界だと気がついたミリアージュは、小説通りに悪役令嬢として恋のスパイスに生きることに決めた。だって、ヒロインと王子が結ばれれば国は豊かになるし、騎士団長の息子と結ばれても防衛力が向上する。あくまで恋のスパイス役程度で、断罪も特にない。ならば、悪役令嬢として生きずに何として生きる?
そんな中、ヒロインに発現するはずの聖魔法がなかなか発現せず、自分に聖魔法があることに気が付く。魔物から学園を守るため、平民ミリアとして副業で聖女を始めることに。……決して前世からの推し神官ダビエル様に会うためではない。決して。
【完結】姉は聖女? ええ、でも私は白魔導士なので支援するぐらいしか取り柄がありません。
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誰もが憧れる勇者と最強の騎士が恋したのは聖女。それは私ではなく、姉でした。
復活した魔王に侯爵領を奪われ没落した私たち姉妹。そして、誰からも愛される姉アリシアは神の祝福を受け聖女となり、私セレナは支援魔法しか取り柄のない白魔導士のまま。
やがてヴァルミエール国王の王命により結成された勇者パーティは、
勇者、騎士、聖女、エルフの弓使い――そして“おまけ”の私。
過去の恋、未来の恋、政略婚に揺れ動く姉を見つめながら、ようやく私の役割を自覚し始めた頃――。
魔王城へと北上する魔王討伐軍と共に歩む勇者パーティは、
四人の魔将との邂逅、秘められた真実、そしてそれぞれの試練を迎え――。
輝く三人の恋と友情を“すぐ隣で見つめるだけ”の「聖女の妹」でしかなかった私。
けれど魔王討伐の旅路の中で、“仲間を支えるとは何か”に気付き、
やがて――“本当の自分”を見つけていく――。
そんな、ちょっぴり切ない恋と友情と姉妹愛、そして私の成長の物語です。
※本作の章構成:
第一章:アカデミー&聖女覚醒編
第二章:勇者パーティ結成&魔王討伐軍北上編
第三章:帰郷&魔将・魔王決戦編
※「小説家になろう」にも掲載(異世界転生・恋愛12位)
※ アルファポリス完結ファンタジー8位。応援ありがとうございます。
その高慢な鼻っ柱、へし折って差し上げますわ
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男爵令嬢リリィ・オルタンシア。彼女はオルタンシア家の庶子であったが、充分な教育を受け、アークライト学院へと入学する。
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※複数のサイトに投稿しています。
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幼くして辺境伯の地位を継いだレナータは、女性であるがゆえに舐められがちであった。そんな折、社交場で伯爵令嬢にいわれのない罪を着せられてしまう。そんな彼女に隣国皇子カールハインツが手を差し伸べた──かと思いきや、ほとんど初対面で婚姻を申し込み、暇さえあれば口説き、しかもやたらレナータのことを知っている。怪しいほど親切なカールハインツと共に、レナータは事態の収拾方法を模索し、やがて伯爵一家への復讐を決意する。
【完結】断罪された悪役令嬢は、本気で生きることにした
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乙女ゲームの悪役令嬢に転生したけど何もしなかったらヒロインがイジメを自演し始めたのでお望み通りにしてあげました。魔法で(°∀°)
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でも、わたくしも暇じゃないので魔法でね。
ヒロイン「私はホラー映画の主人公か?!」
『見えない何か』に襲われるヒロインは────
※作中『イジメ』という表現が出てきますがこの作品はイジメを肯定するものではありません※
※作中、『イジメ』は、していません。生死をかけた戦いです※
◇テンプレ乙女ゲーム舞台転生。
◇ふんわり世界観。ゆるふわ設定。
◇なろうにも上げてます。
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