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第15話:堕ちる王子
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祝祭の朝の光は、刃物みたいに細かった。
王城前庭に張られた白い天幕は、冬の空気を透かして淡く光り、列柱の陰では兵の鎧だけが小刻みに呼吸している。民衆は石畳の縁に幾重にも重なり、祈祷の旋律が天幕の内側で薄い膜のように震えた。
第五席の老人は短く祈り、予定通りに咳をひとつ──半拍、早い。私は欄間のランプを二度だけ明滅させ、彼の右斜めに歩み出る。目録の角に指先を置き、微笑みを“偶然”の形に切り取る。老いた声が驚きと共に数字を読み上げ、紙の海が一枚だけ反転して光を投げ返した。
「……この“補遺”の出所は、祈祷院と財務院、そして王城執務局の参事のサインが……」
老人の言葉に、ざわめきが石畳の目地の間を走った。私は拾い上げるみたいに低い声で、淡々と付け加える。
「献納は“匿名”でしたが、匿名の経路には孔が残ります。関税所の裏書き、孔列──十二、四、十二、六。二行目だけが反転。最終承認は“戴冠準備局”。ここで“私的献納”が公的献納に擬態した」
天幕の端で、財務院の男が袖口を握りしめる。祈祷院の古参は一歩退き、若い参事は母から借りたロザリオを強く握った。列柱の影から、王城の書記官たちの目が押し黙ってこちらを見る。
「我が名において断ずる」
第五席の老人がゆっくりと立ち上がり、杖を石に一打。乾いた音が空を割る。
「この“補遺”は無効。戴冠は延期。混入した“私金”はすべて洗い直し、献納の線は公の線へ戻す。関係各所はここに立ち会え」
民衆のざわめきが「延期」「無効」「洗い直し」という語を反芻し、やがて一様に上擦った。天幕の奥から、白と金の礼服が現れる。皇太子アウリス。
彼は整った顔をしていた。だからこそ、顔の下で揺れるものが目立つ。顎の筋、唇の端、眼差しの焦点。美徳が体温を失い、紙の像に近づいていく。
「……待て」
彼の第一声は掠れていた。二度目で音程を取り戻し、三度目には怒りを混ぜた。
「これは陰謀だ。王家の名を貶めるために、誰かが“穴”だけを集めて繋げた。僕は正しい手続きに従い、正しい祈りを──」
「“正しい祈り”に、偽の数字は混ぜられません」
私は遮らない声音で、しかし確かに遮った。紙片を上げる。孔。十二、四、十二、六──二行目だけ反転。
「匿名は、善意の仮面になり得る。けれど、仮面は正面から叩けば歪む。歪んだ跡が、ここにある」
「黙れ!」
アウリスが叫ぶ。石畳に反響した音が、彼自身の耳にも鋭かったのだろう、目がわずかに瞬く。怒りはすぐに方向を見失い、彼の足元の影を踏む。
「黙らせて構わんのだぞ!」
彼が背後の近衛に向けて声を張り上げる。近衛は動かない。動けないのではない。動かないことが正しい時があると、彼らは知っている。
天幕の外で民衆がどよめく。「黙れ」と「証拠」と「延期」が混ざり合い、祈祷の旋律は完全に破れた。アデル妃が一歩前に出て、静かな声で夫を呼ぶ。
「殿下」
その呼びかけは柔らかかった。けれど、柔らかさは時に刃より鋭い。アウリスの肩がびくりと震え、彼は妻に振り向き──振り向き切らないまま、再び私を睨む。
「おまえは誰だ。何者だ!」
私は仮面を持たない。代わりに、微笑みの角度を変えた。ラドンの視線が遠くから私の背中にまっすぐ差し込む。フィオナの皿の布がポケットで小さく擦れる。
「記録のために申し上げます。私は“セレーネ・ヘマタイト”──臨時書記官。……そして、」
私は一歩、アウリスに近づく。彼の呼吸の匂いが、昔の庭の匂いと重なる。
「セラフィナ・ロジウム」
天幕の内側の空気が、わずかに沈む音を立てた。アデルの目が瞬き、第五席の老人が杖を握り直し、近衛の視線がわずかに揺れる。民衆の波が「ああ」と低く呻き、古い名が石畳に落ちる。
「セラ……フィナ……?」
アウリスの声が、少年の高さに戻った。彼の瞳孔が開き、過去と現在が乱暴に衝突する。
「君が──君が、これを……」
「ええ」
「なぜだ。なぜ……こんなことを?」
昨夜と同じ問いが、今度は大勢の前で放たれる。
私は彼の問いを空に投げ返し、空は何も答えない。代わりに、私が答える。
「復讐よ」
短い言葉が、公開の場で刃に変わる。民衆がざわめき、詩人が耳をそばだて、祈祷院の古参は目を閉じ、財務院の男は袖口を握った指をゆっくりほどく。
アウリスは息を呑み、笑おうとして、笑い方を忘れた顔をした。
「復讐……僕に?」
「あなたの“正しさ”に。秩序の顔をした不正に。匿名の善意に。私の家を、私たちの生活を、書式の一行で壊した手に」
「僕は、知らなかった!」
「知らなかったのは罪よ。知らないことを選んだのは、もっと」
「選んでなどいない!」
「選ばなかったことが、選択になる夜があると、あなたは学ばなかった」
アウリスの頬に血が戻り、次の瞬間には引いた。彼の感情は剥き出しになり、むき出しのまま行き場を失って天幕の内側で暴れる。
「僕は君を、愛していた」
「だから、捨てた」
「捨てていない!」
「私が壊れる音を、あなたは拍手だと思った」
「違う、違う、違う!」
彼が叫ぶたび、民衆の中で“正しさ”の輪郭が少しずつ損なわれる。激情は政治に弱い。彼の美徳は今、彼自身を傷つける刃に変わっている。
アデルがもう一度声をかける。「殿下」。彼は振り返らない。振り返らないことが、彼女への最初の“断絶”になった。
「皇太子アウリス」
第五席の老人が再び杖を打つ。
「帝国は、あなたの“正しさ”だけに寄りかかるには広すぎる。あなたの座は、あなたの背骨ひとつでは支えられない。よって、“戴冠準備の全権”は剥奪される。あなたは皇太子の座を降り、調査の間、公務から離れよ」
天幕の中で、空気が一度だけ大きく沈み、次いで持ち上がる。民衆の声が波になって押し寄せ、誰かが泣き、誰かが笑い、誰かが祈る。
アウリスの膝が、音もなく折れた。
白と金の衣が石畳に触れ、霜が小さく砕ける。彼は手で支えようとしたが、支える手を忘れて、ただ崩れた。
その崩れ方は、かつて私が崩れた夜の“逆再生”に見えた。私は胸の奥で何かが軋むのを見過ごし、微笑みを正しい角度に戻した。
アウリスが顔を上げた。涙が一筋、彼の頬を伝う。泣かない男だった。泣き方を忘れた男の涙は、ろうそくの蝋みたいに不器用に落ちる。
「……それでも、君を愛している」
囁きは、私にしか聞こえないくらいの小ささだった。それでも、世界はそれを聞いたように静まり、天幕の外の風まで息をひそめた。
私は、やさしさに手を伸ばしそうになった自分の腕を、内側から掴んで止めた。
微笑みは消さない。刃は鞘から完全に抜かない。けれど、言葉は鋭くする。
「その愛は、愛ではない」
静かに、断言する。
「あなたの『愛』は、あなたの正しさの延長に私を置く行為。私の痛みを飾りにして“自分”を照らす、光源の位置の問題。あなたが愛しているのは、『愛している自分』よ」
「違う」
「違わない。もし本当に愛しているなら、あなたは“私のいない帝国”のために、いま、ここで立ち上がって、黙って降りる」
沈黙。
彼の喉が動き、言葉が砂になって崩れた。
私は最後の刃を渡す。
「アウリス・カルスティ。あなたを赦さない。あなたの“正しさ”を、私の未来から外す。あなたの『愛』を、私の辞書から削る。──これが判決」
彼の瞳の光がふっと消えた。
世界の音が遠くなり、アウリスの身体が傾く。近衛が慌てて支えに入るより早く、彼はゆっくりと、しかし確かに倒れ、天幕の内側の白が彼の視界を覆った。
失神。
最後に彼の唇がわずかに動いたけれど、言葉にはならなかった。
私は息を吐き、背を向けた。
天幕の外に一歩出るだけで、音は形を変える。民衆のざわめきは潮騒になり、冬の光は刃から布へと柔らぐ。
回廊の角、石柱の陰に、銀鼠の仮面はなかった。代わりに、ラドンの素顔があった。彼は何も言わず、私も何も言わず、しばらく互いの沈黙に肩を預けた。
やがて、彼は金属の水筒を差し出す。そして内ポケットから薄い折りたたみの金属杯を二つ開き、私に一つ手渡した。
「……本番だ」
「ええ」
ラドンが静かに水を注ぐ。透明な面が揺れ、寒気が小さく映る。彼は私を正面から見て、短く息を整えた。
「ここまでの勝利に。生き延びた指先に。君の冷たい微笑みと、僕らの影の仕事に──乾杯」
「乾杯」
二つの杯が澄んだ音で触れ合い、音は天幕の外の空へ跳ねて戻ってきた。私はひと口含み、喉に熱のような冷たさが落ちる。ラドンも一息で飲み、私たちは短く笑った。祝祭の喧騒が遠のき、一瞬だけ、私たちだけの祝福が確かな形を持った。
「おめでとう、とは言わない」
ラドンが言う。
「言わないで。まだ詰みじゃない」
「うん。王手は、入った」
私はうなずき、額にかかる髪を耳にかけた。指先がかすかに震え、ラドンの視線がそれを見て、見ないふりをする。
「……怖かった?」
「少し」
「僕も」
「嘘」
「半分はね」
水筒を返し、私はポケットの皿の布を指でつまむ。フィオナの刺繍は相変わらず不器用で、でも、それが支えになる。彼女は横で歩いている。泣くなら夜だ。
私は石畳の盤面に視線を落とす。白と黒の目地は、いま、別の順序で光っている。女王の駒は中央に立ち、王の影は薄い。
民衆のざわめきが新しい歌詞を覚え始め、王城の窓を渡る風が冷たさを少しだけ忘れた。
「行こう」
ラドンが肩で示す。
「まだ、やることがある」
「うん。詰みは、静かに」
私たちは歩き出す。
鼓動。計画。微笑み。
その三拍子に、今は薄い金属音が混ざる。空のカップが重なる、約束の気配。
“復讐”は切断ではなく、配線のやり直しだと、私は今日、改めて理解した。
彼を断罪し、彼の“正しさ”を帝国から外し、その空いた場所に“誰かの生活”を戻す。
アウリスの崩れ落ちた白の上で、私は立ち続ける。
泣かない。笑う。
刃は、まだ鞘に半分。
王手のあとに来る沈黙の形を、私はもう、怖がらない。
王城前庭に張られた白い天幕は、冬の空気を透かして淡く光り、列柱の陰では兵の鎧だけが小刻みに呼吸している。民衆は石畳の縁に幾重にも重なり、祈祷の旋律が天幕の内側で薄い膜のように震えた。
第五席の老人は短く祈り、予定通りに咳をひとつ──半拍、早い。私は欄間のランプを二度だけ明滅させ、彼の右斜めに歩み出る。目録の角に指先を置き、微笑みを“偶然”の形に切り取る。老いた声が驚きと共に数字を読み上げ、紙の海が一枚だけ反転して光を投げ返した。
「……この“補遺”の出所は、祈祷院と財務院、そして王城執務局の参事のサインが……」
老人の言葉に、ざわめきが石畳の目地の間を走った。私は拾い上げるみたいに低い声で、淡々と付け加える。
「献納は“匿名”でしたが、匿名の経路には孔が残ります。関税所の裏書き、孔列──十二、四、十二、六。二行目だけが反転。最終承認は“戴冠準備局”。ここで“私的献納”が公的献納に擬態した」
天幕の端で、財務院の男が袖口を握りしめる。祈祷院の古参は一歩退き、若い参事は母から借りたロザリオを強く握った。列柱の影から、王城の書記官たちの目が押し黙ってこちらを見る。
「我が名において断ずる」
第五席の老人がゆっくりと立ち上がり、杖を石に一打。乾いた音が空を割る。
「この“補遺”は無効。戴冠は延期。混入した“私金”はすべて洗い直し、献納の線は公の線へ戻す。関係各所はここに立ち会え」
民衆のざわめきが「延期」「無効」「洗い直し」という語を反芻し、やがて一様に上擦った。天幕の奥から、白と金の礼服が現れる。皇太子アウリス。
彼は整った顔をしていた。だからこそ、顔の下で揺れるものが目立つ。顎の筋、唇の端、眼差しの焦点。美徳が体温を失い、紙の像に近づいていく。
「……待て」
彼の第一声は掠れていた。二度目で音程を取り戻し、三度目には怒りを混ぜた。
「これは陰謀だ。王家の名を貶めるために、誰かが“穴”だけを集めて繋げた。僕は正しい手続きに従い、正しい祈りを──」
「“正しい祈り”に、偽の数字は混ぜられません」
私は遮らない声音で、しかし確かに遮った。紙片を上げる。孔。十二、四、十二、六──二行目だけ反転。
「匿名は、善意の仮面になり得る。けれど、仮面は正面から叩けば歪む。歪んだ跡が、ここにある」
「黙れ!」
アウリスが叫ぶ。石畳に反響した音が、彼自身の耳にも鋭かったのだろう、目がわずかに瞬く。怒りはすぐに方向を見失い、彼の足元の影を踏む。
「黙らせて構わんのだぞ!」
彼が背後の近衛に向けて声を張り上げる。近衛は動かない。動けないのではない。動かないことが正しい時があると、彼らは知っている。
天幕の外で民衆がどよめく。「黙れ」と「証拠」と「延期」が混ざり合い、祈祷の旋律は完全に破れた。アデル妃が一歩前に出て、静かな声で夫を呼ぶ。
「殿下」
その呼びかけは柔らかかった。けれど、柔らかさは時に刃より鋭い。アウリスの肩がびくりと震え、彼は妻に振り向き──振り向き切らないまま、再び私を睨む。
「おまえは誰だ。何者だ!」
私は仮面を持たない。代わりに、微笑みの角度を変えた。ラドンの視線が遠くから私の背中にまっすぐ差し込む。フィオナの皿の布がポケットで小さく擦れる。
「記録のために申し上げます。私は“セレーネ・ヘマタイト”──臨時書記官。……そして、」
私は一歩、アウリスに近づく。彼の呼吸の匂いが、昔の庭の匂いと重なる。
「セラフィナ・ロジウム」
天幕の内側の空気が、わずかに沈む音を立てた。アデルの目が瞬き、第五席の老人が杖を握り直し、近衛の視線がわずかに揺れる。民衆の波が「ああ」と低く呻き、古い名が石畳に落ちる。
「セラ……フィナ……?」
アウリスの声が、少年の高さに戻った。彼の瞳孔が開き、過去と現在が乱暴に衝突する。
「君が──君が、これを……」
「ええ」
「なぜだ。なぜ……こんなことを?」
昨夜と同じ問いが、今度は大勢の前で放たれる。
私は彼の問いを空に投げ返し、空は何も答えない。代わりに、私が答える。
「復讐よ」
短い言葉が、公開の場で刃に変わる。民衆がざわめき、詩人が耳をそばだて、祈祷院の古参は目を閉じ、財務院の男は袖口を握った指をゆっくりほどく。
アウリスは息を呑み、笑おうとして、笑い方を忘れた顔をした。
「復讐……僕に?」
「あなたの“正しさ”に。秩序の顔をした不正に。匿名の善意に。私の家を、私たちの生活を、書式の一行で壊した手に」
「僕は、知らなかった!」
「知らなかったのは罪よ。知らないことを選んだのは、もっと」
「選んでなどいない!」
「選ばなかったことが、選択になる夜があると、あなたは学ばなかった」
アウリスの頬に血が戻り、次の瞬間には引いた。彼の感情は剥き出しになり、むき出しのまま行き場を失って天幕の内側で暴れる。
「僕は君を、愛していた」
「だから、捨てた」
「捨てていない!」
「私が壊れる音を、あなたは拍手だと思った」
「違う、違う、違う!」
彼が叫ぶたび、民衆の中で“正しさ”の輪郭が少しずつ損なわれる。激情は政治に弱い。彼の美徳は今、彼自身を傷つける刃に変わっている。
アデルがもう一度声をかける。「殿下」。彼は振り返らない。振り返らないことが、彼女への最初の“断絶”になった。
「皇太子アウリス」
第五席の老人が再び杖を打つ。
「帝国は、あなたの“正しさ”だけに寄りかかるには広すぎる。あなたの座は、あなたの背骨ひとつでは支えられない。よって、“戴冠準備の全権”は剥奪される。あなたは皇太子の座を降り、調査の間、公務から離れよ」
天幕の中で、空気が一度だけ大きく沈み、次いで持ち上がる。民衆の声が波になって押し寄せ、誰かが泣き、誰かが笑い、誰かが祈る。
アウリスの膝が、音もなく折れた。
白と金の衣が石畳に触れ、霜が小さく砕ける。彼は手で支えようとしたが、支える手を忘れて、ただ崩れた。
その崩れ方は、かつて私が崩れた夜の“逆再生”に見えた。私は胸の奥で何かが軋むのを見過ごし、微笑みを正しい角度に戻した。
アウリスが顔を上げた。涙が一筋、彼の頬を伝う。泣かない男だった。泣き方を忘れた男の涙は、ろうそくの蝋みたいに不器用に落ちる。
「……それでも、君を愛している」
囁きは、私にしか聞こえないくらいの小ささだった。それでも、世界はそれを聞いたように静まり、天幕の外の風まで息をひそめた。
私は、やさしさに手を伸ばしそうになった自分の腕を、内側から掴んで止めた。
微笑みは消さない。刃は鞘から完全に抜かない。けれど、言葉は鋭くする。
「その愛は、愛ではない」
静かに、断言する。
「あなたの『愛』は、あなたの正しさの延長に私を置く行為。私の痛みを飾りにして“自分”を照らす、光源の位置の問題。あなたが愛しているのは、『愛している自分』よ」
「違う」
「違わない。もし本当に愛しているなら、あなたは“私のいない帝国”のために、いま、ここで立ち上がって、黙って降りる」
沈黙。
彼の喉が動き、言葉が砂になって崩れた。
私は最後の刃を渡す。
「アウリス・カルスティ。あなたを赦さない。あなたの“正しさ”を、私の未来から外す。あなたの『愛』を、私の辞書から削る。──これが判決」
彼の瞳の光がふっと消えた。
世界の音が遠くなり、アウリスの身体が傾く。近衛が慌てて支えに入るより早く、彼はゆっくりと、しかし確かに倒れ、天幕の内側の白が彼の視界を覆った。
失神。
最後に彼の唇がわずかに動いたけれど、言葉にはならなかった。
私は息を吐き、背を向けた。
天幕の外に一歩出るだけで、音は形を変える。民衆のざわめきは潮騒になり、冬の光は刃から布へと柔らぐ。
回廊の角、石柱の陰に、銀鼠の仮面はなかった。代わりに、ラドンの素顔があった。彼は何も言わず、私も何も言わず、しばらく互いの沈黙に肩を預けた。
やがて、彼は金属の水筒を差し出す。そして内ポケットから薄い折りたたみの金属杯を二つ開き、私に一つ手渡した。
「……本番だ」
「ええ」
ラドンが静かに水を注ぐ。透明な面が揺れ、寒気が小さく映る。彼は私を正面から見て、短く息を整えた。
「ここまでの勝利に。生き延びた指先に。君の冷たい微笑みと、僕らの影の仕事に──乾杯」
「乾杯」
二つの杯が澄んだ音で触れ合い、音は天幕の外の空へ跳ねて戻ってきた。私はひと口含み、喉に熱のような冷たさが落ちる。ラドンも一息で飲み、私たちは短く笑った。祝祭の喧騒が遠のき、一瞬だけ、私たちだけの祝福が確かな形を持った。
「おめでとう、とは言わない」
ラドンが言う。
「言わないで。まだ詰みじゃない」
「うん。王手は、入った」
私はうなずき、額にかかる髪を耳にかけた。指先がかすかに震え、ラドンの視線がそれを見て、見ないふりをする。
「……怖かった?」
「少し」
「僕も」
「嘘」
「半分はね」
水筒を返し、私はポケットの皿の布を指でつまむ。フィオナの刺繍は相変わらず不器用で、でも、それが支えになる。彼女は横で歩いている。泣くなら夜だ。
私は石畳の盤面に視線を落とす。白と黒の目地は、いま、別の順序で光っている。女王の駒は中央に立ち、王の影は薄い。
民衆のざわめきが新しい歌詞を覚え始め、王城の窓を渡る風が冷たさを少しだけ忘れた。
「行こう」
ラドンが肩で示す。
「まだ、やることがある」
「うん。詰みは、静かに」
私たちは歩き出す。
鼓動。計画。微笑み。
その三拍子に、今は薄い金属音が混ざる。空のカップが重なる、約束の気配。
“復讐”は切断ではなく、配線のやり直しだと、私は今日、改めて理解した。
彼を断罪し、彼の“正しさ”を帝国から外し、その空いた場所に“誰かの生活”を戻す。
アウリスの崩れ落ちた白の上で、私は立ち続ける。
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刃は、まだ鞘に半分。
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