婚約破棄された悪役令嬢、復讐のために微笑みながら帝国を掌握します

タマ マコト

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第16話:瓦礫の帝国

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 朝の帝都は、壊れた時計みたいにずれていた。
 いつも鳴るはずの鐘が一回遅れ、郵便馬車は違う道を走り、役所の窓は開いたまま閉め忘れられている。石畳の隙間からは昨日の紙切れが顔を出し、風がそれをめくっては、また戻した。人々は立ち止まって空を見上げ、空は何も言わない。沈黙は、もう説明の代わりにはならなかった。

 皇太子の失脚は、帝国の心臓にひびを入れた。
 そのひびは、静かに、でも確実に広がっている。祈祷院は祈りの数を増やし、財務院は数字の桁を三度確認し、王城は扉を重くした。けれど、“信じる”という習慣は、元の位置へ戻らない。
 噂が増え、質問が増え、目が増えた。誰もが誰かを見る。誰もが誰かに見られている。

 黒翼の広間には、地図と予定表が広がっていた。
 テーブルの上、赤と青の印が国中に散り、紐が要所をつないでいる。裁判所、検察署、監獄、皇城の出入り口、軍の宿舎。滑車みたいな要点に、黒いピンが刺さっている。
 私はその中央に立ち、深呼吸を一度。白檀は今朝は使わない。香りに頼ると、判断が柔らかくなる。

「作戦名、『瓦礫の帝国』」

 ラドンが低く言う。
 「瓦礫は、壊すための言葉ではなく、組み直すための言葉。崩れたものを、別のかたちに積みなおす。俺たちがやるのは、それだけ」

「目標は三つ」

 私は指を立て、順に示す。
 「一、司法の要衝を抑える。逮捕状、差押え、拘束命令。紙を動かす権限を確保する」
 「二、情報の流れを透明にする。秘書課、記録局、通信所。誰が何を動かしたか、紙と時刻で残す」
「三、王族の身柄を“守る”。……建前としては“保護”。暴動から守る名目で、王城内の移動を制限する。拘束の手前まで」

 ウィレマイトが電信図を指で叩く。「司法は東区の大審院から入る。長官は“数字の人間”。手続きが正しければ、扉は開く。開け方は用意した」
 スファレライトが書式の束を掲げる。「各省に回す文面は統一。“臨時監察”。署名は第五席老人。印は本物」
 ゼノタイムが笑わない笑顔で補足する。「でも、足は偽物で行く。靴底には砂を挟め。追跡されるなら、砂の匂いにしよう」
 テフロイトが短く問う。「王族、抵抗?」
 ラドンが頷く。「あり得る。だから“保護”だ。誰も血を見ない。誰も“英雄”を名乗れない。静かに動く」

「私は?」

 皆の視線が私に集まる。
 私は地図の端、裁判所から王城へ向かう細い路を指さした。
 「私は中央で合図する。合図は三つ。鐘、灯り、噂。鐘は第五席。灯りは議会回廊のランプ。噂は、吟遊詩人に前夜から仕込んだ一節。──“女王の歩幅は四拍子”。その節が聞こえたら、第一段階完了」

「女王?」

 誰かが小さく笑った。からかいではない。驚きの笑い。
 私は頷く。
 「帝国はいま、誰かの“顔”を求めている。正しい書式の上に置ける“顔”。それを、使う」
 ラドンが目だけで私を止める。「使われないように」
 「分かってる」

 作戦は昼と夜をまたいで、三つの波で進む。
 第一波──紙と印の確保。
 第二波──扉の鍵と通路の管理。
 第三波──王族の“保護”手前で止める。
 止まる勇気が、いちばん難しい。

 動く前に、私は一人で屋上へ出た。
 冬の光は弱いけれど、背中をまっすぐにするには十分だった。瓦屋根の上を風が走り、遠くで犬が吠える。
 足音。
 振り向かなくても分かる。ラドンだ。

「怖い?」

「少し」

「僕も」

「嘘」

「半分はね」

 彼は私の隣に立ち、何も触らず、何も約束しない。
 それが、今朝は助けになった。
 私は息を整え、指で空に線を引く。王城、裁判所、議会、そして、市場。四つを結ぶ細い見えない糸。
 「戻れなくなる場所がある」
 「戻らない方がいい場所もある」

 言葉はそれ以上いらなかった。私たちは階段を降り、広間へ戻る。
 作戦開始時刻。
 鐘が一度、控えめに鳴る。

 第一波。
 黒翼と、同調した官僚たちが同時に動いた。
 東区大審院、南区地方裁判所、中央検察庁。すべての受付で、同じ言葉が発せられる。「臨時監察」。
 スファレライトの書式は美しく、余白の余裕が相手の警戒を眠らせる。第五席老人の署名は、墨の乾き方まで年季が宿る。
 「提出は正午まで。事実確認のための閲覧。返却は夕刻」
 受付の事務官は顔を上げ、押印の列に目を走らせ、ため息をひとつ落として印を押す。印の音は軽い。軽い音が、帝国の重さを少しだけずらす。

 同時に、噂の一節が路地に流れた。吟遊詩人はいつもの場所に立ち、今日だけ違う歌詞を差し込む。「女王の歩幅は四拍子」。
 意味の分からない歌詞は、すぐに覚えられる。口が覚えるから、足も覚える。
 正午、私は議会回廊のランプを一度、短く点けた。
 第一段階、完了。

 第二波。
 扉は言葉より正直だ。
 王城の内扉には、鍵が三つ。兵の合図が二つ。書記の暗黙の了解がひとつ。どれかひとつが欠ければ、扉は開かない。
 私たちは欠けさせないで進む。
 テフロイトが回廊の陰で立ち、靴音だけで通る者と止める者を選び分ける。
 ゼノタイムが“偶然”の落とし物を作り、通行証を持たない欲張りを自分から退かせる。
 ウィレマイトが通信の“間”を伸ばし、「確認中」という柔らかい拒否で時間を稼ぐ。
 ラドンは、必要な扉にだけ、必要な時だけ、鍵を差し込む。鍵は音を立てないで回る。扉は誰の手かを覚えない。

 私の役目は、流れの温度を見ること。
 行列の速度、声の高さ、目の動き。
 ひとつ場違いな笑いが混じれば、手を上げて流れを変える。
 私は手を上げた。
 王城の一角、貯蔵庫と称した“抜け道”に、裏金の香りが残っていた。そこに、一枚の札。「閉鎖」。理由は簡単、「衛生点検」。
 扉は従順に黙った。
 午後、私は回廊のランプを二度、短く点けた。
 第二段階、完了。

 第三波。
 王族の“保護”手前。
 名目は「暴動の恐れ」。事実、広場には人が集まり、声が増え、歌が怒りと希望の間で揺れている。
 最後の扉の前に、アデル妃が立っていた。彼女は薄い色の外套で肩を包み、目だけで状況を理解する人の目をしていた。
 「ヘマタイト書記官」
 「妃殿下」
 「これは、何のための動きです」
 「守るためです。すべてを」
 彼女は小さく笑った。「すべては、いつも逃げる言葉ですね」
 私は頭を下げ、正面から答えた。
 「帝国を壊さないため。壊れた人を増やさないため。──殿下も、陛下も、今は“静かに”いていただく。それが唯一の安全」

 彼女の目が、私の嘘を探す。
 見つからない。
 嘘はない。建前はある。
 「分かりました。扉は開けます。でも……」
 「はい」
 「約束してください。最後に“国”という言葉で、誰かの生活を押し潰さないと」

 胸が痛んだ。
 「約束します」

 扉が開く。
 近衛が動く。
 拘束ではない。保護でもない。その中間。
 王族は“移動を制限”され、王城の内側の限られた区画へ。
 誰も叫ばない。誰も手を縛られない。
 けれど、自由は、いったん棚へ上げられた。

 外では、黒翼と同調官僚の連絡線が忙しく鳴っている。
 司法の要衝は抑えられ、逮捕状は動き、差押えは現場へ向かう。
 祈祷院の古参は自室で“体調不良”を訴え、財務院の男は文書の“紛失”を報告し、若い参事は母のもとに保護された。
 人は壊れずに済んだ。
 まだ、この段階では。

 日没。
 帝都に新しい静けさが来る。
 それは“平和”ではない。
 “停止”でもない。
 “間”だ。
 物語が次の段を上がる前に必要な、深い呼吸。

 黒翼の広間に戻ると、皆の顔に同じ色があった。疲労と、集中のあとに出る、淡い熱。
 ラドンが私の前に立つ。
 「王族、保護完了。司法、握れた。流言、抑えた」
 「民は」
 「歌ってる。怒鳴るより、いい」

 私は頷き、壁に貼られた紙を見た。
 そこには、新しい文面が控えている。
 ──臨時評議。
 帝国の中枢を、ひとときだけ“組み直す”。
 議会と司法と市民代表。
 その中心に“顔”が必要だと、皆が言う。

「顔、ね」

 私は笑ってみせた。軽く、短く。
 「女王、と呼ぶのは好きじゃない」
 「だから、使う」
 ラドンが言葉を切る。「使われないために、先に自分で使う」
 「そうね」

 そこへ、フィオナが入ってきた。頬が少し赤い。走ってきたのだろう。
 「聖堂の前、落ち着きました。歌が祈りに戻った。あなたの“約束”、一つ増えたから」
 「覚えてる」
 彼女は頷いて、私に小さな包みを渡す。皿の刺繍の布で包まれた、白い小瓶。
 「声が枯れない薬。蜂蜜とハーブ」
 「優しい」
 「毒のような優しさ。用法用量、守って」
 ラドンが横から茶化す。「医薬品の注意書きみたいだ」
 フィオナは笑い、少しだけ真顔に戻る。「あなたが“顔”になるなら、わたしは“耳”になる。外の声、拾って、あなたに渡す。都合の悪い声も、甘やかしもしない」

 私は二人を見た。
 黒翼の仲間を見た。
 どの顔にも、傷と、意地と、未来への薄い恐れがあった。
 その全部が、人間の証拠だ。

「臨時評議まで、あと一日」

 私は宣言した。
 「その間、帝都は“間”を保つ。暴力を起こさせない。情報を閉じない。司法は正しく動かす。王城には“静けさ”を置く。──そして、評議の朝、私は『顔』として立つ。名乗る言葉は、たった一つ」

「何て?」

 ラドンが問う。
 私は紙を見ずに答える。
 「“責任者”」

 静かな笑いが広間を走る。
 責任は軽くない。
 でも、言葉にしないと、いつまでも誰かの背中に貼り付いたままになる。

 夜更け。
 私は一人、王城の外壁に沿って歩いた。
 灯は少なく、巡回の足音は遠い。
 瓦礫という言葉が、足元で具体になってゆく。崩れた石、折れた木、破られた紙。
 それでも、人は歩く。
 誰かのために。自分のために。

 角を曲がると、アデル妃がいた。近衛が距離を取り、彼女は欄干に手を置いて月を見ていた。
 「ヘマタイト書記官」
 「妃殿下」
 「帝国は、瓦礫になりましたか」
 「なりつつあります。でも、瓦礫は積めます。新しい形に」
 彼女はうなずき、少し笑った。「あなたの言葉、まっすぐですね。怖いくらい」
 「曲げるのが下手で」
 「曲げないで。曲げるのは、私たちがやるから」
 彼女の目に、疲れと、奇妙な明るさが同居していた。
 「彼は……」
 「静かにしています」
 「そう。……ありがとう」
 礼の言葉は、今夜は軽くなかった。
 私は頭を下げ、足を戻す。
 背中に、彼女の小さな祈りの声が降る。「誰も、英雄になりませんように」

 広間へ戻ると、ラドンが待っていた。
 「眠れ」
「少しだけ」
「僕が見てる」
「見張られるの、嫌いじゃない」
 彼は笑わずに笑い、薄い毛布を私の肩に掛けた。
 目を閉じると、瓦礫の匂いの奥に、小さな花の匂いがあった。
 それは、未来の匂いに似ていた。

 夜明け前、私は目を開ける。
 空はまだ青くない。
 けれど、東の端が、ほんの少しだけ薄い。
 私は立ち上がり、鏡のない壁に向かって姿勢を整える。
 膝は緩めすぎない。肩はわずかに落とす。視線は相手の眉間より半寸下へ。
 立ち方は身分で、身分は鍵。
 鍵穴は、いつも人の目の高さにある。

 ラドンが起きて、私の襟を整えた。
 言葉は要らない。
 彼の指の温度が、正しい高さに私を置く。
 私は頷き、歩き出す。
 鼓動。計画。微笑み。
 その三拍子に、今は“責任”という四つ目の音が混ざっている。
 瓦礫の帝国へ。
 積みなおすために。
 誰も置き去りにしないために。
 そして、二度と、私のような人を増やさないために。
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