婚約破棄された悪役令嬢、復讐のために微笑みながら帝国を掌握します

タマ マコト

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第17話:沈黙の玉座

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 王城の中でもいちばん奥、日の当たらない小さな間。
 “保護”という名前の静かな檻。厚いカーテン、低い天井、壁に掛かった古い地図。窓は開かない。空気は清潔で、温度は一定。けれど、ここで流れているのは季節ではなく、時間を薄めた水のような静けさだ。

 扉の外に近衛。扉の内に机がひとつ。
 アウリスはその机の角に指を置いていた。指先だけが、彼の気持ちの残り火みたいに、かすかに動く。目の下には眠れていない影。髪は整えられているのに、整えた人の気配がどこにもいない。

 私は部屋に入り、扉が静かに閉まる音を背に受けた。
 何も言わない。彼も言わない。
 沈黙が一分、二分、薄い紙みたいに重なって、やっと破れる。

「……僕の生活を壊して、君は幸せか?」

 声は小さかった。怒りではなく、乾いた音。
 私は彼の足元に落ちた影を見てから、顔を上げる。

「あなたが壊した生活の、返事よ」

「返事?」

「手紙を破った人に、同じ手ざわりの紙を手渡す。破ったのはどれほど痛いか、どれほど静かに響くか、知ってもらうために」

「僕は、国のために……」

「その言い方、もう要らない」

 私は机から距離を取らない。半歩の間合い。
 正面で言う。逃げ道をつくらないために。

「あなたは“正しさ”の名前を借りて、見なくていいものを見なかった。書式の一行で、知らない誰かの朝の湯気を消した。私の家だけじゃない。見えなかった名前のほうが、ずっと多い」

 アウリスの喉が動く。言葉が浮かんで、沈んだ。
 沈んで、そのまま上がってこない。

「幸せかって訊いたわね」

 私はゆっくり続ける。
 「幸せの定義は、朝決めて夜に変える。今の私の定義は“選べること”。選べなくなった日々から、選べる日々に戻すこと。──だから、幸せに近い」

「僕は……君に、何を返せば」

「返さなくていい。あなたが返せると思っているあいだは、また誰かを壊す。あなたが“黙る”こと、それが一番役に立つ」

 彼はうなずこうとする。けれど、首が途中で止まる。
 うなずくことすら、今の彼には政治だ。
 私は深く息を吸って、吐く。白檀の香りはない。今日の私は、素の温度で立つ。

「この部屋は、あなたを守る場所であり、あなたの言葉を薄める場所。出られないのは不便。でも、不便は学習より速い先生よ。よく学んで」

 返事はなかった。
 何かを言いたげに開いた口は、すぐ閉じた。
 彼の目に溢れた水は、こぼれなかった。こぼさないことに慣れている。だから余計に、胸が痛む。
 私は背を向ける。扉の前で一度だけ振り向き、短く告げた。

「玉座は、あなたの椅子じゃない。国の椅子」

 扉が閉まる。
 廊下の空気は、部屋の空気よりすこし軽い。私は歩幅を四拍でそろえ、回廊を抜け、光の差す方へ向かった。そこが、臨時評議の会場だ。

 ◇

 評議の間は、前夜に磨かれていた。
 大きなテーブルは丸く、中央に帝都の小さな模型が置かれている。瓦礫の街路、尖塔、橋、広場。木でできた簡素な町。
 席は三つの輪で構成されていた。議会、司法、市民代表。それぞれの輪の間に“空席”がひとつずつ。隣り合う二者の言葉がぶつかったとき、空席に置かれた砂時計が話を冷やす役目を果たすという。

 第五席の老人が最初に立ち、短く祈る。「言葉が刃ではなく、橋になりますように」。
 祈祷院の鐘は鳴らない。代わりに、記録官がペンを持った。
 ラドンは司会席の陰で、黒翼の連絡線を握る。“影”の場所は、今日も変わらない。目が合う。彼は顎をわずかに動かして「大丈夫か」と訊く。私は瞬き一回で「大丈夫」と返す。

 開会。
 最初の議題は、王家の今後だ。
 議会の若い代議が立つ。「戴冠の延期に伴い、混乱が続いている。王家の責任と、これからの統治の形を明確にするべきだ」
 司法の代表が応じる。「法のうえで、皇太子の不備は確認された。『意図』ではなく『結果』が問題。したがって、全権剥奪は妥当。さらに“権限の一時凍結”を提案する」
 市民代表の女が続ける。声がよく通る。「広場では憎しみと期待が混ざっている。誰かを罰するだけの話では、すぐに憎しみが別の誰かへ移る。枠組みが要る」

 私は、その言葉を合図に立った。
 今日の私の仕事は、決めること。そして、引くこと。線を引くこと。

「提案します」

 声はまっすぐに。
 「王家は“失脚”とする。──統治から外す。血筋による優先権は認めない。代わりに『臨時統治評議』を立ち上げる。任期は一年。延長は市民投票。権限は限定。財布は透明。──そして、その『顔』を国は必要としている」

 ざわめき。
 私は続けた。

「顔というのは、命令する人ではなく、責任を名乗る人のことです。失敗したときに先に立って謝る人。決める場で最後に口を開く人。火を見張るために眠りが浅くなる人」

 静かになった。
 第五席の老人がうなずく。「誰が、その『顔』を担うのか」

「私が引き受けます」

 言い切った瞬間、空気の重さが変わるのが分かった。
 議会の何人かが驚き、司法の代表は眉を上げ、市民代表の女は笑った。「やっと言ったね」という笑み。
 ラドンは目を細めただけで、何も言わない。
 フィオナが端の席で、膝の上のハンカチをぎゅっと握った。皿の刺繍が少し歪んだ。

「あなたが『女王』だという噂が、もう広場にとどいています」

 市民代表の女が言う。
 「噂は先に走る。なら、その言葉をこちらで定義する。『女王』は、権力の呼び名じゃない。『責任者』の別名だと」

 司法の代表が書面を整える。「法的手続きに沿って、『臨時統治評議』の長を任命する決議を採る。議会からの信任、司法からの適格性承認、市民代表からの合意。三つが揃えば、成立」

「異議は?」

 老若男女、十数の視線が交差する。
 異議は出ない。
 出ないことが、軽さにならないように、私は砂時計を見た。砂は落ち続ける。時間は偏りなく過ぎる。だから、決める速度を早めすぎない。

 議決。
 票が集まり、印が押され、文書が机の上で乾いていく。
 第五席の老人が立ち、杖で床を一打。
 「ここに決する。王家は失脚。臨時統治評議を設置。長には、セラフィナ・ロジウムを任ずる。──称号は『女王』と呼ぶも呼ばぬも自由。本人が『責任者』を名乗るなら、それでよい」

 拍手は、なかった。
 代わりに、呼吸が揃った。
 それが嬉しかった。拍手より、ずっと。

 フィオナが席から立ち、ひとことだけ言う。「お願いします」。
 私はうなずく。「任せて」。
 ラドンは近づかない。距離を保ったまま、視線だけで「おめでとうと言わない」という合図を送る。
 私は笑って返す。「知ってる」。

 決定は、音もなく街へ広がった。
 広場では吟遊詩人が歌詞を変える。「女王の歩幅は四拍子。責任者の眠りは浅い」。
 市場ではパン屋が焼き上がったばかりの丸パンに「責」の字を焼印で押した。字は曲がっている。だからいい。
 子どもたちはチョークでまた盤を描き、女王の駒を中央に置いた。王の駒は端で休む。

 ◇

 夕刻。
 私は一人、玉座の間に入った。
 戴冠式の準備は、まだ何も始まっていない。布も花も、装飾もない。ただ、奥の高い段の上に、重い椅子がひとつ。
 近づく。
 座らない。
 手すりに、指を置く。木は硬く、冷たい。いくつもの手の温度を忘れて、ただ“椅子”の温度でいる。

「沈黙って、重いのね」

 呟きが、広い部屋で薄く返ってくる。
 私は椅子の前に立ち、ゆっくりと頭を下げた。誰にということもなく。
 この椅子は、物語のためにあるのではない。生活のためにある。朝の湯気、夜の灯り。無数の名もない小さな“続ける”のために。

 扉の陰に、気配。
 ラドンだ。足音を立てないで入ってくる。
 「まだ、座らないのか」
 「座るのは、準備が整ってから。式も、誓いも、順番を守る」
 「うん。順番は、信頼の背骨だ」

 彼は私の隣に並び、椅子を見上げた。
「君が座るとき、僕は視線の高さを合わせる」
「それは、約束?」
「約束は嫌いだ。けど、今はする」
「じゃあ、私も。座っても、降りても、立っていても、私は“責任者”。呼び名が変わっても、やることは変えない」

 私たちはしばらく黙って、椅子を見た。
 外では、風がカーテンを薄く揺らし、遠くで鐘がひとつ鳴った。
 私は振り返り、扉へ向かう。
 出る前に、もう一度だけ、椅子に言う。

「急がない。焦らない。驕らない。──必ず、座るときは正しく」

 ◇

 夜。
 保護室に戻ると、近衛が静かに頭を下げた。「殿下は、今夜も静かです」
 私は扉を叩き、中へ入る。
 アウリスは窓辺──窓のない窓辺──に立っていた。壁の向こうにあるはずの夜を、想像で見ている。

「決まった」

 私はそれしか言わない。
 彼はうなずいた。
 何も言えないのではなく、言わないことを選んだのだと、分かる。

「君は、幸せか?」

 同じ問い。別の声色。
 私は答える。

「今夜は、“近い”。──それで十分」

 彼は目を閉じた。
 静かに頭を下げる。それは、誰に向けた礼でもない。自分の中の何かに向けた、始末の礼だ。

 部屋を出る。
 廊下で、フィオナが待っていた。小瓶が空になっている。「声、枯れてない?」
 「大丈夫」
 「歌う?」
 「今夜は聞くだけでいい」
 彼女はうなずき、低く短い子守歌の旋律を口にした。音程は甘く曲がって、私は笑う。
 ラドンが遠くで腕を組み、目だけで「帰ろう」と言う。
 私は頷く。

 玉座は、まだ空だ。
 けれど、空のままの椅子ほど、良く働くものはない。
 その沈黙が、帝都の夜を少しだけ落ち着かせている。
 私は廊下の先の闇へ歩き、胸の奥で四つの拍を数えた。
 鼓動。計画。微笑み。責任。
 戴冠は、まだ先。
 でも、沈黙の玉座は、私たちを待っている。
 混ざらない静けさで。
 正しい順番で。
 ゆっくりと、確かに。
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