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第8話 誠実の値段
しおりを挟む王城の外に出ると、空が広かった。
息を吸うたび、喉の奥に残る痛みが少しだけ薄れる気がする。
私はあの茶会の部屋に、甘い紅茶の匂いと一緒に“線引き”を置いてきた。
王太子アレクシスの穏便という名の逃げ道。
あれに巻き込まれたら、私はまた死ぬ。
だから次。
次の一手は、味方を増やす。
それも、表の味方。堂々と並べる味方。
――ユリウス・カーヴェイン侯。
前世で最後まで私に忠誠を尽くした男。
忠誠というより、誠実さ。
誰かに媚びるのではなく、筋を通すために立つ人間。
そして、私が毒で死んだあと。
彼は失脚した。
家は潰れた。
誠実さの代償として、すべてを失った。
その“きっかけ”も、私は知っている。
宰相グラディオが仕掛けた、帳簿と署名の罠。
彼の清廉さを逆手に取った、卑怯な網。
今世では、先にその網を焼く。
馬車は王都の中心を抜け、貴族街へ入った。
石畳は滑らかになり、家の壁は高くなる。窓のカーテンの質が変わる。人の匂いが薄くなり、代わりに香水の匂いが増える。
同じ王都なのに、世界が違う。
カーヴェイン侯爵邸は、古い家だった。
新興貴族の派手さはない。庭園も、見せびらかす花より実のなる木が多い。
門番の視線が硬い。
“誰の使いか”を見極める目。
「第一王女殿下の御来訪である。通しなさい」
同行した衛兵が名乗ると、門番の顔色が変わった。
慌てて門が開き、屋敷の中へ案内される。
廊下は静かで、絨毯が足音を吸い込む。
壁に掛かった肖像画は、どれも派手な笑顔ではなく、真面目な表情ばかりだった。
この家の性格が、絵に出ている。
応接間へ通され、私は一人で待つよう言われた。
侍女も護衛も、外。
侯爵側の申し出だ。
警戒しているのだろう。王女が来るだけで、罠の匂いがする。
私はその警戒をむしろ歓迎した。
誠実な人間は、簡単に信じない。
信じないからこそ、信じたときに揺るがない。
テーブルに置かれた茶菓子は質素だった。
華やかな砂糖菓子ではなく、素朴な焼き菓子。
私は手をつけない。飲食物に手をつけないのは、もう癖になっている。
やがて、扉が開いた。
「……第一王女殿下」
低い声。
硬い声。
そして、少しだけ疲れた声。
入ってきた男は、背が高かった。
黒に近い紺の礼服。飾りは最小限。金糸よりも、布の質で勝負するタイプ。
髪は短く整えられているが、きっちりしすぎていない。
目が鋭い。鋭いけれど、冷たい鋭さではない。
“真実を見ようとする鋭さ”。
ユリウス・カーヴェイン侯。
前世の最後、私の亡骸の前で膝をつき、震える手で私の指先を握った男。
「申し訳ありません」と何度も繰り返し、最後に宰相に刃向かい、潰された男。
私は息を吸った。
胸が痛む。
でも今は、感傷に溺れない。
溺れれば、また失う。
「突然の訪問、失礼します。ユリウス卿」
私は立ち上がり、丁寧に一礼した。
彼が驚くほどの角度で。
ユリウスは一瞬だけ目を見開き、すぐに表情を戻した。
礼を返し、席に着くよう促す。
「……このような形でお会いするとは思っておりませんでした。殿下」
彼の声には、距離がある。
“殿下”という呼び方は、敬意でもあるが、壁でもある。
「私もです。ですが、今会わなければならないと思いました」
ユリウスは眉をひそめた。
「……理由を伺っても?」
直球。
遠回しな探りではなく、真正面からの問い。
彼はそういう男だ。
私は、ここで嘘をつかない。
嘘をつけば、この男は一生私を信じない。
「宰相府が、カーヴェイン家に罠を仕掛けようとしています」
ユリウスの目が鋭くなる。
椅子の背が軋むほど、身体がわずかに前に出た。
「……根拠は」
「今は言えません。ですが、数日内に“監査”の名目で帳簿を求められます。そこで、あなたの署名があるはずの書類が出てくる。けれど、それは偽物です。署名を写したもの」
ユリウスの指先が、テーブルの端を掴んだ。
彼は怒りを抑えている。
怒りより先に、警戒がある。
「殿下。失礼を承知で申し上げます。……それは、私を試しておられるのですか?」
「試す?」
「王女が侯爵家に“罠がある”と告げる。信じればこちらが動き、動けばこちらに罪が生まれる。政治の罠ではよくあることです」
なるほど、と私は思った。
前世の彼は、こういう疑いを口にしなかった。
私を信じていたから。
でも信じた結果、潰された。
だから今世の彼は、疑う。疑って当然だ。
私は頷いた。
「疑うのは正しいです。あなたはそうでなければいけない」
ユリウスの眉が、わずかに動いた。
「……殿下?」
「私は今、あなたの誠実さを欲しています。誠実な人間は、簡単に信じない。だからこそ、信じた後に折れない」
ユリウスの目が揺れる。
誠実さを褒められることはあっても、必要とされることは少ない。
誠実は“面倒”だからだ。利権を動かすには邪魔になる。
私は続けた。
「あなたが失脚する“きっかけ”を、先に潰したい」
ユリウスの顔が固まる。
「失脚……?」
その言葉が、彼の胸に引っかかったのが分かる。
彼は自分の家が強いとは思っていない。
いつ潰されてもおかしくない、と常に覚悟している。
だから“失脚”という言葉は、現実味を持つ。
「……殿下は、なぜそこまで」
彼の声が低くなる。
疑いが濃くなる。
私は、ここで決めた。
踏み込む。
怖い。
でも踏み込まないと、この男は動かない。
「私は未来を知っています」
空気が止まった。
焼き菓子の甘い匂いさえ、遠のいた気がした。
ユリウスの目が、鋭さを増す。
冗談と受け取るには、私の顔が真剣すぎるのだろう。
「……殿下。それは」
「信じなくていい。信じなくていいから、聞いて」
私は手を上げて制した。
私は感情で押す。
論理だけじゃない。
この男には、誠実さが必要だ。誠実さには感情がいる。
「私は近いうちに、毒で死にます。祝宴の夜に。遅効性の毒で、病死に見せかけられる。あなたは私を助けようとして、止められる。あなたは宰相に刃向かい、失脚する。家は潰れる」
ユリウスの顔色が変わった。
青ざめるのではなく、硬直する。
訓練された騎士みたいに、感情を凍らせる。
「……殿下。あまりに」
「荒唐無稽? 分かってる。でも、私が今ここにいる理由はそれしかない」
私は息を吸い、次の言葉を選ぶ。
これが一番大事。
「あなたは死ぬほど誠実です」
ユリウスの目が揺れた。
ほんの一瞬だけ。
でもその一瞬が、硬い壁に入った小さな裂け目だった。
誠実さを評価された経験が少ない男ほど、
この言葉に弱い。
なぜなら彼はずっと、誠実さで損をしてきたから。
損をして、それでもやめなかったから。
「……誠実、ですか」
彼が呟く。
自嘲が混じる。
誠実は褒め言葉であると同時に、馬鹿にする言葉にもなる。
“融通が利かない”
“空気が読めない”
そういう意味で使われることが多い。
「はい。あなたは折れない。曲がらない。だからこそ、折られる。……私はそれを、やめさせたい」
ユリウスは黙って私を見た。
その視線が、鋭く、深い。
嘘を見抜こうとしている。
でも同時に、希望を探している。
「殿下。もし私があなたの言葉を信じたとして……私は何をすればいい」
彼の声が、少しだけ柔らかくなった。
完全には信じていない。
でも“信じる可能性”を作った。
それが大きい。
私は頷いた。
「まず、あなたの家の帳簿を、あなた自身の手で整えてください。宰相府が介入する隙を作らない。署名はすべて二重に管理。書類はあなた以外が触れないよう封印」
「それは可能です。しかし……宰相府は強引に――」
「強引に来るでしょう。だから次。監査が来る前に、こちらから“透明性”を示す。民向けの支援の内訳を公開します。あなたの家が利権ではなく実務で動いていることを、先に世に出す」
ユリウスの眉がわずかに上がる。
彼は理解が早い。
政治が嫌いなわけではない。政治の汚さが嫌いなだけだ。
「殿下は……民意を使うおつもりですか」
「そう使う。悪い?」
「いえ。……ただ、危険です。民意は刃になります」
「刃なら、握る」
私は言い切った。
カイの言葉が、胸の底で反響する。
避けても来るなら、先に握れ。
ユリウスは小さく息を吐いた。
「殿下。私は……あなたがここまで踏み込む方だとは」
「前は違った」
私は正直に言った。
前世の私なら、こんなことはできなかった。
穏便に、穏便に、と繰り返して、毒を飲んだ。
「……殿下。最後に一つ。あなたはなぜ、私を選ぶのですか。貴族なら他にもいる。もっと強い家も」
彼の問いは、痛いほど真面目だった。
自分が選ばれる理由を求めるのではない。
“自分が足を引っ張る可能性”を恐れているのだ。
誠実な人間の恐れ。
巻き込んでしまう恐れ。
私は彼を見て、静かに答えた。
「あなたは裏切らない。裏切れない。……それが必要だから」
ユリウスの目が、また揺れる。
今度は、少しだけ赤みが差した。
怒りではない。
照れでもない。
痛みだ。
自分の性格が“必要”と言われた痛み。
「殿下は、私を買いかぶりすぎです」
「買いかぶってない。私は見た」
「見た?」
「あなたが、最後まで私の味方だったのを」
ユリウスは唇を噛んだ。
そして、ゆっくりと頭を下げた。
「……分かりました。完全には信じられません。ですが……殿下が、嘘をつく必要のない目をしているのは分かります」
その言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなる。
信じてほしい、という気持ちが叶った熱さではない。
この男が“自分の誠実さ”で判断してくれたことへの熱さだ。
「協力します。できる限り」
私は息を吐いた。
これで一つ、盤面が動く。
まだ小さな動き。
でも盤面の端が、確かに揺れた。
「ありがとう、ユリウス卿」
私は立ち上がり、もう一度礼をした。
彼も立ち上がり、礼を返す。
その動作が、儀式ではなく“同盟”に見えた。
扉へ向かう前に、私は振り返った。
「ユリウス卿。最後に」
「はい」
「あなたは誠実でいることを、恥だと思わないで」
ユリウスの目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「……殿下こそ。どうか、ご無事で」
その言葉が、前世の最後に聞きたかった言葉だった。
でも今世では、ただの願いで終わらせない。
「無事でいる。約束する」
私は屋敷を出た。
空が広い。
風が冷たい。
でもその冷たさは、毒の冷たさじゃない。
現実の冷たさだ。
馬車に乗り込み、私は窓の外を見た。
貴族街の石畳が続き、その向こうに王城が見える。
王城は相変わらず、何も知らない顔をしている。
でも私は知っている。
誠実の値段は高い。
だからこそ、支払う価値がある。
そして今世では、その値段を私が肩代わりする。
ユリウスを潰させない。
私を潰させない。
盤面は、確かに動き始めていた。
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