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第14話 初めての本気の喧嘩
しおりを挟むその日は、最初から空気が重かった。
朝ごはんの皿の上には、いつも通りのベーコンエッグと焼きたてのパン、温かいスープ。マルタの腕前に隙はない。
なのに、味がよく分からなかった。
ノワリエは、スプーンを持ったまま、スープの表面をぼんやりと見つめていた。
「……冷めるぞ」
対面から落ちてきた声に、肩がびくっと跳ねる。
「あ、うん」
アークは、いつもの席に座っていた。
いつもの黒いコート。いつもの姿勢。いつもの無表情。
だけど――“いつも通り”には見えなかった。
目の下の影が、少し濃い。
報告書の山が、いつもより乱れて積まれている。
そして何より、視線が合わない。
(昨日の……)
バルコニーでの会話が、頭の中で何度も再生される。
『アークの傍にいることだけが、私のすべてじゃないよ』
言った瞬間の、アークの顔。
胸の奥が、きゅっと痛む。
スプーンを口に運ぶ。スープの温度がちょうどいいのかどうかすら、よく分からない。
沈黙が、食卓にべったりと貼りついていた。
「……王都へ行く日程の返事を、ルキアン殿下に出さなければならない」
先に沈黙を破ったのは、アークだった。
ノワリエは思わず顔を上げる。
「殿下は、“短期滞在でも構わない”と言っている」
「……うん」
「宮廷魔導士としての正式な辞令は、しばらく保留にする、とも」
「……そう」
ルキアンらしい譲歩だと思った。
いきなり「ここに住め」とは言わず、「まずは数ヶ月、王都で働いてみないか」と。
それが余計に、決断をややこしくしている。
(お試し期間、みたいなものか……)
塔を、完全に捨てるわけじゃない。
でも、塔から“離れる”という事実は変わらない。
スプーンをカチャリと置く。
「ノワリエ」
アークの声が、少し低くなった。
その音だけで、背筋がぴんと伸びる。
「昨日の話の続きだが」
「あ……うん」
「俺は、やはり反対だ」
はっきりとした拒絶。
ノワリエの喉がひくりと動いた。
「短期滞在だとしても、王宮に住み込むのは危険だ」
「危険って……」
「君はまだ危なっかしい」
言葉が、重ねられていく。
「魔力量の制御は以前より格段に良くなったが、まだ完璧ではない。感情の揺れで魔力が乱れることもある。王宮という魔力の集まる場所で、それは致命的なリスクだ」
「……」
「それに、王宮には敵も多い」
アークの目が、わずかに細まる。
「王家を良く思わない貴族、宮廷内の権力争い、外部からの刺客。君の力を利用しようとする者だけでなく、君の存在を疎ましく思う者も必ず現れる」
「それは、分かるけど」
「君は“優しさ”で動く。そこに付け込まれれば、簡単に利用される」
ノワリエは、唇を噛んだ。
建前としては、全部正しい。
アークが言っていることは、どれも事実だ。
でも――耳に入ってくるそれらは、不思議と全部、“本当の理由じゃない”ように聞こえた。
胸の奥に、ざらっとした違和感が溜まっていく。
(それだけじゃないでしょ)
言葉にならない何かが、喉元で引っかかる。
アークは続ける。
「王宮は、君にはまだ早い」
その一言が、引き金になった。
「……ねぇ、アーク」
ノワリエは、スプーンをぎゅっと握ったまま、顔を上げた。
「それ、本当に“私のため”だけに言ってる?」
「他に何がある」
「……そっちが聞く?」
胸の奥で溜め込んできたものが、じわじわと熱を持つ。
「確かに私、まだ完璧じゃないよ。魔力だって暴れそうになるし、感情に振り回されるし、王宮のドロドロなんて全然知らない」
「なら――」
「でも!」
ノワリエは、アークの言葉を遮った。
声が、震える。
「それでも、私のこと“危なっかしい”って言って、行動全部止めるの、ずるくない?」
アークの目が、わずかに見開かれる。
「君を守るためだ」
「守るってなに?」
喉の奥が熱い。
目の奥も、じんじんする。
「私のこと、いつまで子ども扱いするの?」
ぽろっと、言葉が零れた。
自分でも驚くくらい、本音だった。
「十六になっても、魔法が評価されても、客員魔導士になっても……アークの中では、ずっと“危なっかしい子ども”のままなの?」
「そんなことは――」
「あるでしょ!」
声が上ずる。
止められない。
「私が何かやろうとするたびに、“危ない”“無茶するな”“守られろ”って。王宮も、王都も、全部“危険だからダメ”って」
涙が、じわっと滲む。
「私のやりたいこと、何ひとつ聞いてくれない」
アークの表情が、固まる。
「聞いているつもりだ」
「“つもり”でしょ」
ノワリエは、笑うしかなかった。
笑いながら、涙が一粒こぼれた。
「私ね、アークのこと、尊敬してる。恩人だし、師匠だし、一番大事な人だよ」
それは、嘘じゃない。
「だから、アークが心配してくれてるのも分かる。危ない目に遭ってほしくないって思ってくれてるのも、分かってる」
言葉をひとつひとつ握りしめるように、ノワリエは続けた。
「でも、心配してる=“私の人生全部決めていい”じゃないよね?」
短い沈黙。
アークは、拳をテーブルの上で固く握りしめた。
「決めているつもりはない」
「結果的にそうなってるの!」
声が跳ねた。
「宮廷魔導士になるかどうか、私の人生の大きな分岐点じゃん。それを“危ないからやめろ”の一言で片付けようとしてるの、どう考えてもおかしいよ!」
涙が、ぼろぼろとこぼれ始めた。
止めたくても止まらない。
「私は、アークの傍にいたい気持ちもある。でも、それだけじゃなくて……この国の力になりたいし、もっといろんな人を助けたいし、私が“役に立てる”場所があるなら、そこに行きたい」
前の世界の自分を、何度も思い出す。
役立たずと言われ続けた日々。
何をやっても「やめろ」と止められて、その先の自分を見せてもらえなかった時間。
「それを、また“危ないからダメ”って言われるの、もう嫌なんだよ……」
ぐしゃぐしゃになった顔を、ノワリエは手で隠した。
テーブルの上に、ぽたりぽたりと涙のしずくが落ちる。
アークは、その様子をじっと見つめていた。
何かを言おうとして――喉の奥で飲み込む。
胸の中で渦巻いているものが、うまく言葉にならない。
(俺は……)
ノワリエがいなければ困る。
塔の運営も、魔導研究も、王都との連絡も。その全部に、彼女の手が入っている。
だけど、それは建前だ。
それだけじゃない。
それ以外の何かが、胸の奥で暴れ続けている。
でも、その“名前”をまだ口にできない。
代わりに、別の言葉が飛び出した。
「……君は、自分のことを分かっていない」
低い声。
ノワリエは、涙に濡れた目でアークを睨んだ。
「何を?」
「君がどれだけ危険な存在かを」
アークの声が、珍しく荒れる。
「分かっていないのは君自身だ!」
食卓の空気が、一気に熱を帯びた。
ノワリエの胸が、ひゅっと縮む。
「危険って……私のこと、“危険だからどこにも出すな”ってこと?」
「違う」
「じゃあなに!」
「君の魔力は、王都の魔導士団の誰よりも大きい」
アークの言葉には、焦りのようなものが混ざっていた。
「制御だって、今は安定しているが、感情に引っ張られれば一瞬で崩れる。君が本気で暴走すれば、王宮ひとつ吹き飛ばすことだってできる」
ノワリエは、息を呑んだ。
(……そんなの)
無意識のうちに、胸を押さえる。
昔の自分と、今の自分の姿が、重なる。
大規模魔法陣。
失敗作。
役立たず。
――危険な存在。
「だから、外に出しちゃダメ?」
震える声で、ノワリエは問う。
「怖いから、塔に閉じ込めておく?」
「そう言っているんじゃない!」
アークの声が、初めて大きく弾けた。
「俺はずっと、君が“怖がらずに魔力を見られるように”訓練してきた! 君自身が、自分の力を嫌いにならないように!」
ノワリエは、一瞬だけ言葉を失った。
アークの目が、痛いほど真剣だった。
「だからこそ、王宮みたいな場所に放り込むのが怖いと言っている!」
「どうして」
「そこには、君の力を“武器”としてしか見ない連中がうじゃうじゃいる!」
アークの拳が、テーブルを叩いた。
「お前の魔力を数字でしか見ない連中だ! お前の優しさを、“利用価値”としてしか評価しない連中だ!」
ノワリエの喉に、何かが詰まった。
アークの言葉の中に、“昔の自分”が透けて見えた気がした。
戦場で兵器として扱われ、数字として評価されてきた最強魔導士。
彼自身が味わってきた“利用されるだけの人生”。
だからこそ、同じ道をノワリエに歩ませたくない、と。
それは、分かる。
分かるからこそ、苦しい。
「でも――」
ノワリエは、震えながら言い返した。
「それを決めるのは、アークじゃなくて私だよ」
アークの目が、大きく見開かれる。
「私、自分の魔力が危険かもしれないこと、ちゃんと分かってる」
胸に手を当てる。
心臓の鼓動と一緒に、魔力のざわめきが聞こえる。
「前の世界でどれだけ壊してきたか、全部は思い出せないけど……“怖い”って感覚だけは、ずっと残ってる」
だからこそ、アークの導きに必死でしがみついてきた。
怖がりながらも、“観察すること”を覚えてきた。
「でも、怖いからって、一生ここに閉じこもるのは嫌だ」
涙が、また一筋落ちる。
「怖いけど、それでも前に出たい。誰かを守る側に立ちたい。……危険かもしれないけど、自分の力を信じてみたい」
アークは、唇を噛みしめた。
「君は、信用されていないと感じているのか」
「感じてる」
即答だった。
「アークは、“自分の命が大事だから無茶するな”って言う。……それ、自分の命より大事な人に言われたら、どう思うか想像したことある?」
アークの喉が、ごくりと鳴った。
「私にとって、アークの言葉は重いよ」
ノワリエの声が、震えながらもまっすぐだった。
「“行くな”って言われたら、本当はそれだけで足が止まりそうになる」
でも、と。
「それでも、行きたいって思ってる私の気持ちを、どうして一回も聞いてくれないの」
静かな責め。
アークは、返す言葉を失った。
自分がどれだけ「守る」という言葉の陰に、己の感情を隠してきたか。
「危険だ」「利用される」「敵が多い」という建前を並べて、本当の動機を見ないふりをしてきたか。
その全部が、今、ノワリエの涙に照らし出された。
「……もういい」
ノワリエは、椅子から立ち上がった。
足が震えていたけど、それでも前に出る。
「しばらく、塔を出る」
「……何?」
空気が、凍る。
ノワリエは、拳をぎゅっと握りしめた。
「ルキアン様が、王都での短期滞在を提案してくれたから」
視線を逸らさず、アークを見る。
「それを、受ける」
アークの瞳孔が、きゅっと収縮した。
「お前は」
声が、ひどく低い。
「俺の反対を押し切るのか」
「押し切る」
ノワリエは、初めて真正面から言い返した。
「アークの気持ちを無視したいわけじゃない。でも、アークの気持ちだけを優先して、私の気持ちを全部後回しにするのも、もう嫌なの」
アークの胸の奥で、何かが大きく軋んだ。
自分が守ってきた世界の中心。
拾って、育てて、教えて、支えてきた少女。
自分にとって“世界のすべて”だった存在が、「アークの傍にいることだけが、私のすべてじゃない」と言う。
その言葉が、鋭い楔になって胸に打ち込まれていく。
「ノワリエ」
名前を呼ぶ声は、もはや怒鳴り声ではなかった。
ひどく静かで、ひどく痛い。
「それでも行くのか」
「行く」
涙でにじむ視界の中で、ノワリエは小さく笑った。
「だって、行かなかったら一生後悔するもん」
言い切ってしまうと、不思議と少しだけ楽になった。
怖い。
怖いけど。
ここで踏み出さなかったら、自分はまた“守られているだけ”の自分に戻ってしまう気がした。
「……わかった」
アークは、目を閉じた。
ゆっくりと、深く息を吐く。
「今すぐ出て行けとは言わない」
彼は、かろうじて理性を繋ぎとめるように言った。
「準備期間は必要だ。王都滞在のあいだの生活の段取りもある。……一週間だけ待て」
「一週間?」
「それで駄目だと言っているわけではない」
アークは、ノワリエを見る。
「俺自身の気持ちに整理をつける時間が欲しい」
その言葉に、ノワリエは一瞬だけ息を呑んだ。
(自分の……気持ち)
今までは、「国のため」「君のため」「塔のため」という言葉の裏に隠されていた、“アーク個人”の感情。
それを初めて口にした彼の顔は、どこか頼りなくて、初めて見るほど切なかった。
「……分かった」
ノワリエは、涙を拭って頷いた。
「一週間だけ、待つ」
それが、ふたりの妥協点だった。
でも、亀裂はもう、はっきりと入っていた。
◇ ◇ ◇
一週間は、あっという間で、やけに長かった。
塔の中の空気は、どこかぎこちない。
マルタは空気を察して、あえていつも通りに怒鳴り、エリアナは「ケンカ中の男女ほどめんどくさいものはない」と笑いながらも、ときどきノワリエの背中を撫でてくれた。
アークは、いつも通り仕事をこなし、いつも通り訓練をし、いつも通りノワリエの魔法に指摘を入れた。
でも、“いつも通り”の裏に、言葉にならない何かが揺れていた。
目が合う時間が減った。
近づいたときの距離が、半歩だけ遠くなった。
何か言いかけて、飲み込む表情が増えた。
(言ってくれないなら……もう、行くしかない)
一週間目の朝。
ノワリエは、自分の荷物をまとめていた。
着替え、魔導書、筆記具。エリアナが持たせてくれた簡易治癒薬。マルタがこっそり詰めてくれた保存食。
塔を出ると言っても、完全に“別れ”ではない。
紙の上では、あくまで「王都での短期滞在」。
でも、心の中では、それ以上の意味を持っていた。
(塔の外で、自分がどこまでやれるのか、確かめたい)
バルコニーから見える王都は、いつもと同じように光っている。
その光の中に、自分の人生の新しいページがある気がした。
階段を降りる。
一段一段が、妙に重い。
玄関ホールに出ると、マルタとエリアナが待っていた。
「……本当に行くんだねぇ」
マルタが、ため息まじりに言う。
「うん。でも、ちゃんと帰ってくるから」
「当たり前だよ。帰ってこなかったら、アーク様がこの国ごとひっくり返しに行くよ」
「やめてそれは困る」
エリアナが、少し寂しそうに笑う。
「ルキアンのところに行くからって、全部王子様に甘やかされるんじゃないよ?」
「甘やかされないよ。あの人、仕事は容赦ないし」
「ならいいけど」
エリアナは、ノワリエをぎゅっと抱きしめた。
柔らかい香り。温かい体温。
「怖くなったら、いつでも帰っておいで」
「……うん」
「怖くなくても、帰っておいで」
耳元で囁かれて、ノワリエは鼻の奥がつんとした。
マルタは、腕を組んだままニヤニヤしている。
「アーク様のこと、ちゃんと殴ってきな。心の中でね」
「マルタさん!」
「だってさ、あの人もこのまま引き下がるタイプじゃないでしょ」
その言葉に、ノワリエは一瞬だけ胸が締め付けられた。
(……来てくれるかな)
最後の一週間。
アークは、「待つ」と言っただけで、「行くな」とはもう言わなかった。
それが逆に、不安だった。
玄関の扉に手をかける。
その前に――どうしても、ひとりだけ、顔を見ておきたかった。
「アークは?」
ノワリエが問うと、マルタが少し目をそらした。
「書斎にいるよ」
「いつも通りね」
「いつも通りだねぇ」
エリアナが小さく笑う。
「行ってきな。最後くらい、ちゃんと喧嘩してきなさい」
「……喧嘩、多くない?」
「仲がいい証拠だよ」
そういうものなのかもしれない。
ノワリエは、小さく息を吸って、階段を駆け上がった。
◇ ◇ ◇
書斎の扉は、半分だけ開いていた。
ノワリエは、そっとノックする。
「アーク」
「……入れ」
中から、疲れたような声が返ってきた。
扉を押し開ける。
机の上には、相変わらず書類が山積みだ。その中に、例の水色の封筒が一枚だけ、きちんと開封されて置かれていた。
(……読んだんだ)
ノワリエは、胸の奥で小さくつぶやく。
アークは、机に肘をつき、手で目元を覆っていた。
髪は少し乱れ、いつもより影が濃い。
眠れていないのだと、一目で分かった。
「準備は終わったのか」
アークが、手を下ろさないまま問う。
「うん。一応、最低限だけ」
「そうか」
短い会話。
沈黙が落ちる。
ノワリエは、喉の奥がきゅっと締め付けられるのを感じながら、一歩踏み出した。
「アーク」
「何だ」
「私、行くね」
それだけでも、涙が出そうになる。
「王都で、ちゃんと仕事して、ちゃんと自分の力試してみる」
「……ああ」
アークの返事は、ひどく小さかった。
「怖くなったら、すぐ戻ってくるから」
本心だった。
逃げ帰ることだって、恥ずかしいことじゃない。
でも、その“逃げ道”を自分で用意しておかないと、怖くて一歩も動けないから。
アークは、ようやく顔を上げた。
金の瞳が、まっすぐノワリエを捉える。
その目には、いくつもの感情が渦巻いていた。
心配。
怒り。
諦め。
そして――言葉にならない何か。
「……そうか」
彼は、かろうじて微笑みに似たものを浮かべようとした。
うまくいかなかった。
口元が震えた。
「気をつけろ」
それだけ。
それだけで、ノワリエの胸は限界だった。
「うん……」
涙が視界を滲ませる。
本当は、「行くな」と言ってほしかったのかもしれない。
でも、それを言われたら、本当に足が動かなくなってしまう。
だから、これでいい。
これでいいはずなのに――こんなに苦しいのは、どうしてだろう。
「……じゃあ」
声が、掠れる。
「行ってきます」
くるりと背を向ける。
視界の端で、アークが何か言いかけて、飲み込む気配がした。
足が止まりそうになる。
でも、止まったら終わりだと思って、そのまま扉を開けた。
廊下に出る。
階段を降りる。
一段一段、塔との距離が離れていく。
(……ごめん)
心の中で、何度も謝った。
(でも、これだけは譲れないんだ)
◇ ◇ ◇
玄関の扉を開けると、外の空気が冷たく頬を撫でた。
フェルネウスの塔の前の坂道。
そこに、一台の馬車が止まっていた。
深い青の車体。王家の紋章。
手綱を握っている御者の後ろから、ひょいと覗き込むようにして現れた顔。
「……来ると思っていたよ」
白金に近い銀髪。
淡い青の瞳。
王太子ルキアン・フロースは、静かに微笑んだ。
「ルキアン……様」
ノワリエは、驚きと、少しの安心で胸がいっぱいになった。
「迎えも出すって言っただろう? 君がその気になったときは、すぐに来るって」
「いや、言ってなかったけど」
「言ってないだけだよ」
さらっと言われて、思わず笑ってしまう。
馬車の扉が開かれる。
ルキアンは、手を差し出した。
「行こう、ノワリエ」
その手を見た瞬間、胸の奥がずきりと痛む。
あの日、王宮の庭で言われた言葉が甦る。
『君の“優しさ”が欲しいんだ。この国にも、この僕にも』
ルキアンの顔は、期待に満ちている――
はずなのに。
「……」
ノワリエは、ふと違和感を覚えた。
ルキアンの笑みは、たしかに柔らかい。
でも、その目の奥には、喜びよりも別の色が浮かんでいた。
寂しさ。
罪悪感。
不安。
いくつもの感情が混ざっていて、とても“勝ち誇った顔”には見えない。
「ルキアン?」
「何?」
「……嬉しくないの?」
思わず、本音が漏れた。
君の提案を、私は受ける。
本来なら、もっと嬉しそうにしてもいい場面のはずだ。
ルキアンは、少し目を細めた。
「嬉しいよ」
静かに答える。
「君が、自分で決めた道を歩き出そうとしていることも。王宮に来てくれることも」
でも、と。
「……同時に、少しだけ怖い」
その告白は、驚くほど素直だった。
「君が、ここに来ることで、何かを失うかもしれないから」
ノワリエの胸が、ぎゅうっと締め付けられる。
「何かって……」
「アークとの関係も」
ルキアンは、塔のほうへちらりと視線を向ける。
ノワリエも、つられて振り返った。
フェルネウスの塔は、いつも通りそこに立っている。
窓から、誰かがこちらを見ている気配はない。
なのに、視線を感じた。
アークの気配は、見えなくても分かる。
「君が塔を出ることは、僕にとっても、“望んだまま”というわけじゃない」
ルキアンの声が、少し苦くなる。
「君がここに来るってことは、君があの人と喧嘩したってことだから」
その通りだった。
ノワリエは、唇を噛む。
「……ごめん」
「君が謝ることじゃない」
ルキアンは、首を振った。
「君は君の選択をしただけだ。僕も、王太子として、自分の選択をしている」
その表情には、年齢以上の重さが宿っていた。
「ただ……」
彼は、差し出した手をそのままにして、続ける。
「僕は、アークみたいに“手放せない”って言える勇気はないけど」
ノワリエの心臓が、ドクンと鳴る。
「君がここに来てくれたことを、喜びだけで終わらせられるほど、器用でもないんだ」
寂しそうな微笑み。
勝者の顔じゃない。
誰も勝っていないし、誰も負けていない。
ただ、それぞれが、それぞれの痛みを抱えているだけ。
「……行ってもいい?」
ノワリエは、震える声で問った。
本当は、自分のほうが聞かれなきゃいけない立場なのに。
ルキアンは、少し驚いたように目を瞬かせ、それから頷いた。
「君が、“行きたい”なら」
その答えは、アークと違っていた。
「行くな」とは言わない。
「危ない」とも言わない。
ただ、「君が決めたなら」と受け止める。
それが、優しさでもあり、残酷さでもあった。
ノワリエは、深く息を吸った。
そして、ルキアンの手を取る。
その瞬間、背中に、刺すような視線を感じた気がした。
振り向かなかった。
振り向いたら、足が止まってしまうから。
(アーク……)
心の中で、もう一度謝る。
(私、行くね)
馬車の中に足を踏み入れる。
扉が閉まる音が、塔との間にひとつの線を引いた。
◇ ◇ ◇
フェルネウスの塔の最上階。
書斎の窓辺に、アークはひとり立っていた。
王家の紋章の入った馬車が、坂道を下っていくのが見える。
荷物を抱えた黒髪の少女が、その中に座っているのが、目に浮かぶようだった。
拳を握る。
爪が掌に食い込む。
本当は、追いかけたかった。
階段を駆け下りて、「行くな」と言って、彼女の手を引き戻したかった。
でも、それはできなかった。
(俺が……)
窓ガラスに映る自分の顔が、ひどく情けない。
(俺が、“守ること”に逃げたからだ)
危険だから。
利用されるから。
敵が多いから。
建前を並べて、自分の本当の動機から目を逸らし続けた。
“彼女を手放したくない”。
そのひと言を、どうしても言えなかった。
弟子だから。
恩人だから。
家族だから。
そういう言葉に押し込めて、そこからはみ出す感情を見ないふりをしてきた。
だけど。
ノワリエが涙目で叫ぶ姿を見たとき。
『私のこと、いつまで子ども扱いするの?』
『私のやりたいこと、何ひとつ聞いてくれない』
その言葉が、鋭く胸に刺さった。
相手の未来を守るためだと信じていた行動が、相手の可能性を奪っていたかもしれない事実。
それを突きつけられたとき――
(俺は)
アークは、ようやく目を閉じた。
静かに、深く、自分の胸の奥へ潜っていく。
塔に拾ったとき。
赤ん坊の彼女を抱き上げた瞬間、不思議と魔力の荒れが静まった感覚。
幼い彼女が、初めて火を灯したときの笑顔。
王都の街並みを見て、きらきらと目を輝かせていた横顔。
負傷した見習いを救おうとして、必死で魔力を制御していた震える手。
“守られているだけ”から一歩踏み出した彼女の背中。
群青のドレスに身を包み、ルキアンの前で胸を張っていた姿。
涙を浮かべながらも、「アークの傍にいることだけが、私のすべてじゃない」と言った表情。
ひとつひとつの記憶が、胸の中で重なり合う。
どれも、ただの“弟子”に向ける感情じゃない。
どれも、ただの“恩義”で済ませられる想いじゃない。
「……」
アークは、ゆっくり目を開けた。
窓の外には、もう馬車の姿はない。
夕陽が、塔の石壁を赤く染めている。
静かな部屋の中で、アークは初めて、自分の感情を言葉にした。
「……これは」
喉から、掠れた声が零れる。
「恩義なんかじゃない」
ノワリエへの負い目。
拾ってしまった責任。
育てた義務。
そんなものの下に隠していた、本当の核。
「僕は――」
言葉が、ひと呼吸遅れて出てくる。
重くて、怖くて、でももう誤魔化せない。
「彼女を、愛している」
静かな告白。
誰もいない部屋。
誰にも聞かれないはずの言葉。
だけど、それを口にした瞬間、胸の中の何かが、少しだけほどけた。
同時に、別の痛みが鋭く走る。
愛している。
だから、手放したくない。
でも、愛しているからこそ、彼女の選択を否定し続けることはできない。
矛盾する感情が、アークの中で激しくぶつかり合う。
拳を再び握りしめる。
(どうすればいい)
守ることと、縛ることの境界線。
恩人と、男の境界線。
師弟と、それ以上の関係の境界線。
その全部が、ぐちゃぐちゃに混ざっていた。
でも――
(もう、逃げない)
自分の感情から目を逸らしてきたツケは、すでに払わされている。
ノワリエを傷つけてしまった。
彼女は塔を出て行った。
それでも、遅すぎると分かっていても。
(次に会ったときは)
アークは、静かに誓った。
(ちゃんと言葉にする)
愛している、と。
行かないでほしい、と。
それでも行くなら、隣で支えたい、と。
――フェルネウスの塔に、ひとり残された最強魔導士は、ようやく“ただの一人の男”としての自分を認めたのだった。
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追放の夜、庶民出身の唯一の女性聖騎士レイアは、王太子派の陰謀によって冤罪を着せられ、王宮から無慈悲に捨てられる。
雨の中をさまよう彼女は、生きる理由すら見失ったまま橋の下で崩れ落ちるが、そこで彼女を拾ったのは隣国ザルヴェルの“黒狼王”レオンだった。
冷徹と噂される獣人の王は、傷ついたレイアを静かに抱き上げ、「お前はもう一人じゃない」と連れ帰る。
こうして、捨てられた聖騎士と黒狼の王の出会いが、運命を揺さぶる物語の幕を開ける。
悪役令嬢の独壇場
あくび。
ファンタジー
子爵令嬢のララリーは、学園の卒業パーティーの中心部を遠巻きに見ていた。
彼女は転生者で、この世界が乙女ゲームの舞台だということを知っている。
自分はモブ令嬢という位置づけではあるけれど、入学してからは、ゲームの記憶を掘り起こして各イベントだって散々覗き見してきた。
正直に言えば、登場人物の性格やイベントの内容がゲームと違う気がするけれど、大筋はゲームの通りに進んでいると思う。
ということは、今日はクライマックスの婚約破棄が行われるはずなのだ。
そう思って卒業パーティーの様子を傍から眺めていたのだけど。
あら?これは、何かがおかしいですね。
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