役立たずの魔女、転生先で最強魔導士に育てられ、愛されて困ってます

タマ マコト

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第14話 初めての本気の喧嘩

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 その日は、最初から空気が重かった。

 朝ごはんの皿の上には、いつも通りのベーコンエッグと焼きたてのパン、温かいスープ。マルタの腕前に隙はない。

 なのに、味がよく分からなかった。

 ノワリエは、スプーンを持ったまま、スープの表面をぼんやりと見つめていた。

「……冷めるぞ」

 対面から落ちてきた声に、肩がびくっと跳ねる。

「あ、うん」

 アークは、いつもの席に座っていた。

 いつもの黒いコート。いつもの姿勢。いつもの無表情。

 だけど――“いつも通り”には見えなかった。

 目の下の影が、少し濃い。

 報告書の山が、いつもより乱れて積まれている。

 そして何より、視線が合わない。

(昨日の……)

 バルコニーでの会話が、頭の中で何度も再生される。

『アークの傍にいることだけが、私のすべてじゃないよ』

 言った瞬間の、アークの顔。

 胸の奥が、きゅっと痛む。

 スプーンを口に運ぶ。スープの温度がちょうどいいのかどうかすら、よく分からない。

 沈黙が、食卓にべったりと貼りついていた。

「……王都へ行く日程の返事を、ルキアン殿下に出さなければならない」

 先に沈黙を破ったのは、アークだった。

 ノワリエは思わず顔を上げる。

「殿下は、“短期滞在でも構わない”と言っている」

「……うん」

「宮廷魔導士としての正式な辞令は、しばらく保留にする、とも」

「……そう」

 ルキアンらしい譲歩だと思った。

 いきなり「ここに住め」とは言わず、「まずは数ヶ月、王都で働いてみないか」と。

 それが余計に、決断をややこしくしている。

(お試し期間、みたいなものか……)

 塔を、完全に捨てるわけじゃない。

 でも、塔から“離れる”という事実は変わらない。

 スプーンをカチャリと置く。

「ノワリエ」

 アークの声が、少し低くなった。

 その音だけで、背筋がぴんと伸びる。

「昨日の話の続きだが」

「あ……うん」

「俺は、やはり反対だ」

 はっきりとした拒絶。

 ノワリエの喉がひくりと動いた。

「短期滞在だとしても、王宮に住み込むのは危険だ」

「危険って……」

「君はまだ危なっかしい」

 言葉が、重ねられていく。

「魔力量の制御は以前より格段に良くなったが、まだ完璧ではない。感情の揺れで魔力が乱れることもある。王宮という魔力の集まる場所で、それは致命的なリスクだ」

「……」

「それに、王宮には敵も多い」

 アークの目が、わずかに細まる。

「王家を良く思わない貴族、宮廷内の権力争い、外部からの刺客。君の力を利用しようとする者だけでなく、君の存在を疎ましく思う者も必ず現れる」

「それは、分かるけど」

「君は“優しさ”で動く。そこに付け込まれれば、簡単に利用される」

 ノワリエは、唇を噛んだ。

 建前としては、全部正しい。

 アークが言っていることは、どれも事実だ。

 でも――耳に入ってくるそれらは、不思議と全部、“本当の理由じゃない”ように聞こえた。

 胸の奥に、ざらっとした違和感が溜まっていく。

(それだけじゃないでしょ)

 言葉にならない何かが、喉元で引っかかる。

 アークは続ける。

「王宮は、君にはまだ早い」

 その一言が、引き金になった。

「……ねぇ、アーク」

 ノワリエは、スプーンをぎゅっと握ったまま、顔を上げた。

「それ、本当に“私のため”だけに言ってる?」

「他に何がある」

「……そっちが聞く?」

 胸の奥で溜め込んできたものが、じわじわと熱を持つ。

「確かに私、まだ完璧じゃないよ。魔力だって暴れそうになるし、感情に振り回されるし、王宮のドロドロなんて全然知らない」

「なら――」

「でも!」

 ノワリエは、アークの言葉を遮った。

 声が、震える。

「それでも、私のこと“危なっかしい”って言って、行動全部止めるの、ずるくない?」

 アークの目が、わずかに見開かれる。

「君を守るためだ」

「守るってなに?」

 喉の奥が熱い。

 目の奥も、じんじんする。

「私のこと、いつまで子ども扱いするの?」

 ぽろっと、言葉が零れた。

 自分でも驚くくらい、本音だった。

「十六になっても、魔法が評価されても、客員魔導士になっても……アークの中では、ずっと“危なっかしい子ども”のままなの?」

「そんなことは――」

「あるでしょ!」

 声が上ずる。

 止められない。

「私が何かやろうとするたびに、“危ない”“無茶するな”“守られろ”って。王宮も、王都も、全部“危険だからダメ”って」

 涙が、じわっと滲む。

「私のやりたいこと、何ひとつ聞いてくれない」

 アークの表情が、固まる。

「聞いているつもりだ」

「“つもり”でしょ」

 ノワリエは、笑うしかなかった。

 笑いながら、涙が一粒こぼれた。

「私ね、アークのこと、尊敬してる。恩人だし、師匠だし、一番大事な人だよ」

 それは、嘘じゃない。

「だから、アークが心配してくれてるのも分かる。危ない目に遭ってほしくないって思ってくれてるのも、分かってる」

 言葉をひとつひとつ握りしめるように、ノワリエは続けた。

「でも、心配してる=“私の人生全部決めていい”じゃないよね?」

 短い沈黙。

 アークは、拳をテーブルの上で固く握りしめた。

「決めているつもりはない」

「結果的にそうなってるの!」

 声が跳ねた。

「宮廷魔導士になるかどうか、私の人生の大きな分岐点じゃん。それを“危ないからやめろ”の一言で片付けようとしてるの、どう考えてもおかしいよ!」

 涙が、ぼろぼろとこぼれ始めた。

 止めたくても止まらない。

「私は、アークの傍にいたい気持ちもある。でも、それだけじゃなくて……この国の力になりたいし、もっといろんな人を助けたいし、私が“役に立てる”場所があるなら、そこに行きたい」

 前の世界の自分を、何度も思い出す。

 役立たずと言われ続けた日々。

 何をやっても「やめろ」と止められて、その先の自分を見せてもらえなかった時間。

「それを、また“危ないからダメ”って言われるの、もう嫌なんだよ……」

 ぐしゃぐしゃになった顔を、ノワリエは手で隠した。

 テーブルの上に、ぽたりぽたりと涙のしずくが落ちる。

 アークは、その様子をじっと見つめていた。

 何かを言おうとして――喉の奥で飲み込む。

 胸の中で渦巻いているものが、うまく言葉にならない。

(俺は……)

 ノワリエがいなければ困る。

 塔の運営も、魔導研究も、王都との連絡も。その全部に、彼女の手が入っている。

 だけど、それは建前だ。

 それだけじゃない。

 それ以外の何かが、胸の奥で暴れ続けている。

 でも、その“名前”をまだ口にできない。

 代わりに、別の言葉が飛び出した。

「……君は、自分のことを分かっていない」

 低い声。

 ノワリエは、涙に濡れた目でアークを睨んだ。

「何を?」

「君がどれだけ危険な存在かを」

 アークの声が、珍しく荒れる。

「分かっていないのは君自身だ!」

 食卓の空気が、一気に熱を帯びた。

 ノワリエの胸が、ひゅっと縮む。

「危険って……私のこと、“危険だからどこにも出すな”ってこと?」

「違う」

「じゃあなに!」

「君の魔力は、王都の魔導士団の誰よりも大きい」

 アークの言葉には、焦りのようなものが混ざっていた。

「制御だって、今は安定しているが、感情に引っ張られれば一瞬で崩れる。君が本気で暴走すれば、王宮ひとつ吹き飛ばすことだってできる」

 ノワリエは、息を呑んだ。

(……そんなの)

 無意識のうちに、胸を押さえる。

 昔の自分と、今の自分の姿が、重なる。

 大規模魔法陣。

 失敗作。

 役立たず。

 ――危険な存在。

「だから、外に出しちゃダメ?」

 震える声で、ノワリエは問う。

「怖いから、塔に閉じ込めておく?」

「そう言っているんじゃない!」

 アークの声が、初めて大きく弾けた。

「俺はずっと、君が“怖がらずに魔力を見られるように”訓練してきた! 君自身が、自分の力を嫌いにならないように!」

 ノワリエは、一瞬だけ言葉を失った。

 アークの目が、痛いほど真剣だった。

「だからこそ、王宮みたいな場所に放り込むのが怖いと言っている!」

「どうして」

「そこには、君の力を“武器”としてしか見ない連中がうじゃうじゃいる!」

 アークの拳が、テーブルを叩いた。

「お前の魔力を数字でしか見ない連中だ! お前の優しさを、“利用価値”としてしか評価しない連中だ!」

 ノワリエの喉に、何かが詰まった。

 アークの言葉の中に、“昔の自分”が透けて見えた気がした。

 戦場で兵器として扱われ、数字として評価されてきた最強魔導士。

 彼自身が味わってきた“利用されるだけの人生”。

 だからこそ、同じ道をノワリエに歩ませたくない、と。

 それは、分かる。

 分かるからこそ、苦しい。

「でも――」

 ノワリエは、震えながら言い返した。

「それを決めるのは、アークじゃなくて私だよ」

 アークの目が、大きく見開かれる。

「私、自分の魔力が危険かもしれないこと、ちゃんと分かってる」

 胸に手を当てる。

 心臓の鼓動と一緒に、魔力のざわめきが聞こえる。

「前の世界でどれだけ壊してきたか、全部は思い出せないけど……“怖い”って感覚だけは、ずっと残ってる」

 だからこそ、アークの導きに必死でしがみついてきた。

 怖がりながらも、“観察すること”を覚えてきた。

「でも、怖いからって、一生ここに閉じこもるのは嫌だ」

 涙が、また一筋落ちる。

「怖いけど、それでも前に出たい。誰かを守る側に立ちたい。……危険かもしれないけど、自分の力を信じてみたい」

 アークは、唇を噛みしめた。

「君は、信用されていないと感じているのか」

「感じてる」

 即答だった。

「アークは、“自分の命が大事だから無茶するな”って言う。……それ、自分の命より大事な人に言われたら、どう思うか想像したことある?」

 アークの喉が、ごくりと鳴った。

「私にとって、アークの言葉は重いよ」

 ノワリエの声が、震えながらもまっすぐだった。

「“行くな”って言われたら、本当はそれだけで足が止まりそうになる」

 でも、と。

「それでも、行きたいって思ってる私の気持ちを、どうして一回も聞いてくれないの」

 静かな責め。

 アークは、返す言葉を失った。

 自分がどれだけ「守る」という言葉の陰に、己の感情を隠してきたか。

 「危険だ」「利用される」「敵が多い」という建前を並べて、本当の動機を見ないふりをしてきたか。

 その全部が、今、ノワリエの涙に照らし出された。

「……もういい」

 ノワリエは、椅子から立ち上がった。

 足が震えていたけど、それでも前に出る。

「しばらく、塔を出る」

「……何?」

 空気が、凍る。

 ノワリエは、拳をぎゅっと握りしめた。

「ルキアン様が、王都での短期滞在を提案してくれたから」

 視線を逸らさず、アークを見る。

「それを、受ける」

 アークの瞳孔が、きゅっと収縮した。

「お前は」

 声が、ひどく低い。

「俺の反対を押し切るのか」

「押し切る」

 ノワリエは、初めて真正面から言い返した。

「アークの気持ちを無視したいわけじゃない。でも、アークの気持ちだけを優先して、私の気持ちを全部後回しにするのも、もう嫌なの」

 アークの胸の奥で、何かが大きく軋んだ。

 自分が守ってきた世界の中心。

 拾って、育てて、教えて、支えてきた少女。

 自分にとって“世界のすべて”だった存在が、「アークの傍にいることだけが、私のすべてじゃない」と言う。

 その言葉が、鋭い楔になって胸に打ち込まれていく。

「ノワリエ」

 名前を呼ぶ声は、もはや怒鳴り声ではなかった。

 ひどく静かで、ひどく痛い。

「それでも行くのか」

「行く」

 涙でにじむ視界の中で、ノワリエは小さく笑った。

「だって、行かなかったら一生後悔するもん」

 言い切ってしまうと、不思議と少しだけ楽になった。

 怖い。

 怖いけど。

 ここで踏み出さなかったら、自分はまた“守られているだけ”の自分に戻ってしまう気がした。

「……わかった」

 アークは、目を閉じた。

 ゆっくりと、深く息を吐く。

「今すぐ出て行けとは言わない」

 彼は、かろうじて理性を繋ぎとめるように言った。

「準備期間は必要だ。王都滞在のあいだの生活の段取りもある。……一週間だけ待て」

「一週間?」

「それで駄目だと言っているわけではない」

 アークは、ノワリエを見る。

「俺自身の気持ちに整理をつける時間が欲しい」

 その言葉に、ノワリエは一瞬だけ息を呑んだ。

(自分の……気持ち)

 今までは、「国のため」「君のため」「塔のため」という言葉の裏に隠されていた、“アーク個人”の感情。

 それを初めて口にした彼の顔は、どこか頼りなくて、初めて見るほど切なかった。

「……分かった」

 ノワリエは、涙を拭って頷いた。

「一週間だけ、待つ」

 それが、ふたりの妥協点だった。

 でも、亀裂はもう、はっきりと入っていた。

   ◇ ◇ ◇

 一週間は、あっという間で、やけに長かった。

 塔の中の空気は、どこかぎこちない。

 マルタは空気を察して、あえていつも通りに怒鳴り、エリアナは「ケンカ中の男女ほどめんどくさいものはない」と笑いながらも、ときどきノワリエの背中を撫でてくれた。

 アークは、いつも通り仕事をこなし、いつも通り訓練をし、いつも通りノワリエの魔法に指摘を入れた。

 でも、“いつも通り”の裏に、言葉にならない何かが揺れていた。

 目が合う時間が減った。

 近づいたときの距離が、半歩だけ遠くなった。

 何か言いかけて、飲み込む表情が増えた。

(言ってくれないなら……もう、行くしかない)

 一週間目の朝。

 ノワリエは、自分の荷物をまとめていた。

 着替え、魔導書、筆記具。エリアナが持たせてくれた簡易治癒薬。マルタがこっそり詰めてくれた保存食。

 塔を出ると言っても、完全に“別れ”ではない。

 紙の上では、あくまで「王都での短期滞在」。

 でも、心の中では、それ以上の意味を持っていた。

(塔の外で、自分がどこまでやれるのか、確かめたい)

 バルコニーから見える王都は、いつもと同じように光っている。

 その光の中に、自分の人生の新しいページがある気がした。

 階段を降りる。

 一段一段が、妙に重い。

 玄関ホールに出ると、マルタとエリアナが待っていた。

「……本当に行くんだねぇ」

 マルタが、ため息まじりに言う。

「うん。でも、ちゃんと帰ってくるから」

「当たり前だよ。帰ってこなかったら、アーク様がこの国ごとひっくり返しに行くよ」

「やめてそれは困る」

 エリアナが、少し寂しそうに笑う。

「ルキアンのところに行くからって、全部王子様に甘やかされるんじゃないよ?」

「甘やかされないよ。あの人、仕事は容赦ないし」

「ならいいけど」

 エリアナは、ノワリエをぎゅっと抱きしめた。

 柔らかい香り。温かい体温。

「怖くなったら、いつでも帰っておいで」

「……うん」

「怖くなくても、帰っておいで」

 耳元で囁かれて、ノワリエは鼻の奥がつんとした。

 マルタは、腕を組んだままニヤニヤしている。

「アーク様のこと、ちゃんと殴ってきな。心の中でね」

「マルタさん!」

「だってさ、あの人もこのまま引き下がるタイプじゃないでしょ」

 その言葉に、ノワリエは一瞬だけ胸が締め付けられた。

(……来てくれるかな)

 最後の一週間。

 アークは、「待つ」と言っただけで、「行くな」とはもう言わなかった。

 それが逆に、不安だった。

 玄関の扉に手をかける。

 その前に――どうしても、ひとりだけ、顔を見ておきたかった。

「アークは?」

 ノワリエが問うと、マルタが少し目をそらした。

「書斎にいるよ」

「いつも通りね」

「いつも通りだねぇ」

 エリアナが小さく笑う。

「行ってきな。最後くらい、ちゃんと喧嘩してきなさい」

「……喧嘩、多くない?」

「仲がいい証拠だよ」

 そういうものなのかもしれない。

 ノワリエは、小さく息を吸って、階段を駆け上がった。

   ◇ ◇ ◇

 書斎の扉は、半分だけ開いていた。

 ノワリエは、そっとノックする。

「アーク」

「……入れ」

 中から、疲れたような声が返ってきた。

 扉を押し開ける。

 机の上には、相変わらず書類が山積みだ。その中に、例の水色の封筒が一枚だけ、きちんと開封されて置かれていた。

(……読んだんだ)

 ノワリエは、胸の奥で小さくつぶやく。

 アークは、机に肘をつき、手で目元を覆っていた。

 髪は少し乱れ、いつもより影が濃い。

 眠れていないのだと、一目で分かった。

「準備は終わったのか」

 アークが、手を下ろさないまま問う。

「うん。一応、最低限だけ」

「そうか」

 短い会話。

 沈黙が落ちる。

 ノワリエは、喉の奥がきゅっと締め付けられるのを感じながら、一歩踏み出した。

「アーク」

「何だ」

「私、行くね」

 それだけでも、涙が出そうになる。

「王都で、ちゃんと仕事して、ちゃんと自分の力試してみる」

「……ああ」

 アークの返事は、ひどく小さかった。

「怖くなったら、すぐ戻ってくるから」

 本心だった。

 逃げ帰ることだって、恥ずかしいことじゃない。

 でも、その“逃げ道”を自分で用意しておかないと、怖くて一歩も動けないから。

 アークは、ようやく顔を上げた。

 金の瞳が、まっすぐノワリエを捉える。

 その目には、いくつもの感情が渦巻いていた。

 心配。

 怒り。

 諦め。

 そして――言葉にならない何か。

「……そうか」

 彼は、かろうじて微笑みに似たものを浮かべようとした。

 うまくいかなかった。

 口元が震えた。

「気をつけろ」

 それだけ。

 それだけで、ノワリエの胸は限界だった。

「うん……」

 涙が視界を滲ませる。

 本当は、「行くな」と言ってほしかったのかもしれない。

 でも、それを言われたら、本当に足が動かなくなってしまう。

 だから、これでいい。

 これでいいはずなのに――こんなに苦しいのは、どうしてだろう。

「……じゃあ」

 声が、掠れる。

「行ってきます」

 くるりと背を向ける。

 視界の端で、アークが何か言いかけて、飲み込む気配がした。

 足が止まりそうになる。

 でも、止まったら終わりだと思って、そのまま扉を開けた。

 廊下に出る。

 階段を降りる。

 一段一段、塔との距離が離れていく。

(……ごめん)

 心の中で、何度も謝った。

(でも、これだけは譲れないんだ)

   ◇ ◇ ◇

 玄関の扉を開けると、外の空気が冷たく頬を撫でた。

 フェルネウスの塔の前の坂道。

 そこに、一台の馬車が止まっていた。

 深い青の車体。王家の紋章。

 手綱を握っている御者の後ろから、ひょいと覗き込むようにして現れた顔。

「……来ると思っていたよ」

 白金に近い銀髪。

 淡い青の瞳。

 王太子ルキアン・フロースは、静かに微笑んだ。

「ルキアン……様」

 ノワリエは、驚きと、少しの安心で胸がいっぱいになった。

「迎えも出すって言っただろう? 君がその気になったときは、すぐに来るって」

「いや、言ってなかったけど」

「言ってないだけだよ」

 さらっと言われて、思わず笑ってしまう。

 馬車の扉が開かれる。

 ルキアンは、手を差し出した。

「行こう、ノワリエ」

 その手を見た瞬間、胸の奥がずきりと痛む。

 あの日、王宮の庭で言われた言葉が甦る。

『君の“優しさ”が欲しいんだ。この国にも、この僕にも』

 ルキアンの顔は、期待に満ちている――

 はずなのに。

「……」

 ノワリエは、ふと違和感を覚えた。

 ルキアンの笑みは、たしかに柔らかい。

 でも、その目の奥には、喜びよりも別の色が浮かんでいた。

 寂しさ。

 罪悪感。

 不安。

 いくつもの感情が混ざっていて、とても“勝ち誇った顔”には見えない。

「ルキアン?」

「何?」

「……嬉しくないの?」

 思わず、本音が漏れた。

 君の提案を、私は受ける。

 本来なら、もっと嬉しそうにしてもいい場面のはずだ。

 ルキアンは、少し目を細めた。

「嬉しいよ」

 静かに答える。

「君が、自分で決めた道を歩き出そうとしていることも。王宮に来てくれることも」

 でも、と。

「……同時に、少しだけ怖い」

 その告白は、驚くほど素直だった。

「君が、ここに来ることで、何かを失うかもしれないから」

 ノワリエの胸が、ぎゅうっと締め付けられる。

「何かって……」

「アークとの関係も」

 ルキアンは、塔のほうへちらりと視線を向ける。

 ノワリエも、つられて振り返った。

 フェルネウスの塔は、いつも通りそこに立っている。

 窓から、誰かがこちらを見ている気配はない。

 なのに、視線を感じた。

 アークの気配は、見えなくても分かる。

「君が塔を出ることは、僕にとっても、“望んだまま”というわけじゃない」

 ルキアンの声が、少し苦くなる。

「君がここに来るってことは、君があの人と喧嘩したってことだから」

 その通りだった。

 ノワリエは、唇を噛む。

「……ごめん」

「君が謝ることじゃない」

 ルキアンは、首を振った。

「君は君の選択をしただけだ。僕も、王太子として、自分の選択をしている」

 その表情には、年齢以上の重さが宿っていた。

「ただ……」

 彼は、差し出した手をそのままにして、続ける。

「僕は、アークみたいに“手放せない”って言える勇気はないけど」

 ノワリエの心臓が、ドクンと鳴る。

「君がここに来てくれたことを、喜びだけで終わらせられるほど、器用でもないんだ」

 寂しそうな微笑み。

 勝者の顔じゃない。

 誰も勝っていないし、誰も負けていない。

 ただ、それぞれが、それぞれの痛みを抱えているだけ。

「……行ってもいい?」

 ノワリエは、震える声で問った。

 本当は、自分のほうが聞かれなきゃいけない立場なのに。

 ルキアンは、少し驚いたように目を瞬かせ、それから頷いた。

「君が、“行きたい”なら」

 その答えは、アークと違っていた。

 「行くな」とは言わない。

 「危ない」とも言わない。

 ただ、「君が決めたなら」と受け止める。

 それが、優しさでもあり、残酷さでもあった。

 ノワリエは、深く息を吸った。

 そして、ルキアンの手を取る。

 その瞬間、背中に、刺すような視線を感じた気がした。

 振り向かなかった。

 振り向いたら、足が止まってしまうから。

(アーク……)

 心の中で、もう一度謝る。

(私、行くね)

 馬車の中に足を踏み入れる。

 扉が閉まる音が、塔との間にひとつの線を引いた。

   ◇ ◇ ◇

 フェルネウスの塔の最上階。

 書斎の窓辺に、アークはひとり立っていた。

 王家の紋章の入った馬車が、坂道を下っていくのが見える。

 荷物を抱えた黒髪の少女が、その中に座っているのが、目に浮かぶようだった。

 拳を握る。

 爪が掌に食い込む。

 本当は、追いかけたかった。

 階段を駆け下りて、「行くな」と言って、彼女の手を引き戻したかった。

 でも、それはできなかった。

(俺が……)

 窓ガラスに映る自分の顔が、ひどく情けない。

(俺が、“守ること”に逃げたからだ)

 危険だから。

 利用されるから。

 敵が多いから。

 建前を並べて、自分の本当の動機から目を逸らし続けた。

 “彼女を手放したくない”。

 そのひと言を、どうしても言えなかった。

 弟子だから。

 恩人だから。

 家族だから。

 そういう言葉に押し込めて、そこからはみ出す感情を見ないふりをしてきた。

 だけど。

 ノワリエが涙目で叫ぶ姿を見たとき。

『私のこと、いつまで子ども扱いするの?』

『私のやりたいこと、何ひとつ聞いてくれない』

 その言葉が、鋭く胸に刺さった。

 相手の未来を守るためだと信じていた行動が、相手の可能性を奪っていたかもしれない事実。

 それを突きつけられたとき――

(俺は)

 アークは、ようやく目を閉じた。

 静かに、深く、自分の胸の奥へ潜っていく。

 塔に拾ったとき。

 赤ん坊の彼女を抱き上げた瞬間、不思議と魔力の荒れが静まった感覚。

 幼い彼女が、初めて火を灯したときの笑顔。

 王都の街並みを見て、きらきらと目を輝かせていた横顔。

 負傷した見習いを救おうとして、必死で魔力を制御していた震える手。

 “守られているだけ”から一歩踏み出した彼女の背中。

 群青のドレスに身を包み、ルキアンの前で胸を張っていた姿。

 涙を浮かべながらも、「アークの傍にいることだけが、私のすべてじゃない」と言った表情。

 ひとつひとつの記憶が、胸の中で重なり合う。

 どれも、ただの“弟子”に向ける感情じゃない。

 どれも、ただの“恩義”で済ませられる想いじゃない。

「……」

 アークは、ゆっくり目を開けた。

 窓の外には、もう馬車の姿はない。

 夕陽が、塔の石壁を赤く染めている。

 静かな部屋の中で、アークは初めて、自分の感情を言葉にした。

「……これは」

 喉から、掠れた声が零れる。

「恩義なんかじゃない」

 ノワリエへの負い目。

 拾ってしまった責任。

 育てた義務。

 そんなものの下に隠していた、本当の核。

「僕は――」

 言葉が、ひと呼吸遅れて出てくる。

 重くて、怖くて、でももう誤魔化せない。

「彼女を、愛している」

 静かな告白。

 誰もいない部屋。

 誰にも聞かれないはずの言葉。

 だけど、それを口にした瞬間、胸の中の何かが、少しだけほどけた。

 同時に、別の痛みが鋭く走る。

 愛している。

 だから、手放したくない。

 でも、愛しているからこそ、彼女の選択を否定し続けることはできない。

 矛盾する感情が、アークの中で激しくぶつかり合う。

 拳を再び握りしめる。

(どうすればいい)

 守ることと、縛ることの境界線。

 恩人と、男の境界線。

 師弟と、それ以上の関係の境界線。

 その全部が、ぐちゃぐちゃに混ざっていた。

 でも――

(もう、逃げない)

 自分の感情から目を逸らしてきたツケは、すでに払わされている。

 ノワリエを傷つけてしまった。

 彼女は塔を出て行った。

 それでも、遅すぎると分かっていても。

(次に会ったときは)

 アークは、静かに誓った。

(ちゃんと言葉にする)

 愛している、と。

 行かないでほしい、と。

 それでも行くなら、隣で支えたい、と。

 ――フェルネウスの塔に、ひとり残された最強魔導士は、ようやく“ただの一人の男”としての自分を認めたのだった。
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