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第13話 “恩人”と“男”の境界線
しおりを挟むその話は、招待状の束の中に紛れていた。
フェルネウスの塔、最上階の書斎。
アークの机の端に、不自然なほどきっちり積まれた封筒の山。その一番上に置かれていた封筒だけ、少し色が違っていた。
白ではなく、淡い水色。
封の蝋には、王家の紋章と――その隣に、ルキアン個人の印章。
「……ねぇアーク」
ノワリエは、半分掃除、半分偵察のつもりで書類の山を片付けていた手を止めた。
「この一番上のやつ、まだ開けてないの?」
「開けていないから、封がされている」
「そういう返し求めてないんだけど」
呆れながらも、ノワリエは封筒をじっと見つめる。
「なんか、これだけ雰囲気違うよ。普通の招待状じゃないっぽい」
紙の質も、蝋の色も、いつもの「式典」「懇談会」と書かれたものとは違う。もっと厚くて、慎重に扱われるべき手紙の“匂い”がした。
アークは、ちらりと視線を投げるだけで、すぐに報告書に目を戻した。
「内容は、聞いている」
「え、聞いてるのに開けてないの?」
「口頭で説明を受けた」
「説明されても“正式文書は読め”ってルキアン言いそうだけど」
「言われた」
「ほらね!!」
ノワリエは、封筒を両手でひらひらと振る。
「ねぇ、何の話なの。何でそんなに避けてるの」
「君にはまだ関係のない話だ」
「今いちばんその言い方が関係ありそうなんだけど!?」
睨んでも、アークは顔を上げない。
その真剣な横顔に、ノワリエの胸がざわりと揺れた。
(……絶対、私に関係あるやつだ)
嫌な予感は、だいたい当たる。
◇ ◇ ◇
その答えを知ったのは、王宮の庭だった。
客員魔導士としての定期報告のために、ノワリエは久しぶりに王都エルディアへ来ていた。
業務報告書の提出と、障壁の調整案の説明を一通り終えたあと。
「少し、庭を歩かない?」
ルキアンがそう言ったのは、ごく自然な流れだった。
王宮の裏庭。
一般の客が入れない、王族用の静かな庭園。真ん中に大きな樹が一本立っていて、その下に石のベンチが置かれている。
風が柔らかくて、空気が甘い。
ノワリエは、少し緊張しながらも隣を歩いた。
「最近はどう?」
ルキアンの問いは、いつも通り穏やかだった。
「魔導士団との合同訓練、うまくやれてる?」
「うーん、まあまあ。火の出力は褒められたけど、やりすぎって怒られた」
「それ褒めてない」
「でも、治癒のほうはエリアナに“筋いい”って言われたんだよ。あと、アークには“数字上の成果は出ている”って」
「言い方ァ」
くだらないやりとりに、少しだけ緊張がほどける。
ルキアンは、木漏れ日の中で笑った。
少年ではなく、青年になった王太子。
笑顔は前より少し落ち着いていて、そのぶん“作り物”感が減っている。
「アークは、相変わらず?」
「相変わらず、仕事しすぎ。招待状開けないし」
「ああ、あれね」
ルキアンは、ため息をひとつついた。
「本当は今日、その話をしたくてさ」
「やっぱり私、関係あるやつなんだ」
ノワリエは、胸の奥がきゅっとなるのを感じた。
大きな樹の下のベンチに並んで座る。
ルキアンはしばらく黙っていた。葉の揺れる音だけが落ちてくる時間。
やがて、彼は口を開いた。
「ノワリエ」
「うん」
「今、君は“客員魔導士”って立場だよね」
「うん。塔に住んでて、必要なときだけ王都に呼ばれるやつ」
「そう」
ルキアンは、青い瞳でノワリエを見る。
まっすぐで、逃げ道がない。
「……本当はね」
少し声が落ちる。
「僕は、君を“客員”じゃなくしたい」
言葉の意味を理解するまで、一瞬かかった。
「えっと、それって……」
「正式な“宮廷魔導士”として、王宮に迎えたい」
核心。
言葉の中心が、ノワリエの胸に突き刺さる。
「この国の魔導防衛の中枢に、君の力が欲しい。塔から呼び出すんじゃなくて、王宮の中で、僕のすぐ側で働いてほしい」
ノワリエは、口をぱくぱくさせた。
(宮廷魔導士……)
それは、魔導士にとってひとつの“到達点”だ。
名誉、権限、責任。王都の防衛、対外戦争、研究。重要な場面のほとんどに関わることになる。
客員と違って、一時的な協力者じゃない。王宮に籍を置き、王家と運命を共にする立場。
「そんな……私なんかが?」
思わず出た言葉は、昔の自分の癖の残骸みたいだった。
ルキアンは、少し眉を寄せる。
「君なんか、じゃない」
低く、はっきりと否定される。
「君だから、だよ」
胸の奥がドクンと鳴った。
「魔力の量も、質も、応用力も。アークが認めてる時点で、普通じゃないのは分かってる。……でも、僕が一番欲しいのは、君の“優しさ”なんだ」
「……優しさ?」
あまりにも素直な単語に、ノワリエは瞬きをした。
ルキアンは、視線を空に向ける。
大きな樹の枝の隙間から、青空が見えた。
「この国は、今、戦争をしていない。表向きはね。でも、政治も、外交も、全部が静かな戦いみたいなものだ」
「うん」
「国を守るために、冷酷にならなきゃいけない場面が、たくさんある。誰かの犠牲を、数字に変えて判断しなきゃいけない場面が」
彼の声は、淡々としていた。
淡々としているぶん、その重さがそのまま伝わってくる。
「僕は王太子だから、そういう決断から逃げられない。……だからこそ」
ふっと、視線がノワリエに戻る。
「君みたいな人が、側にいてほしい」
青い瞳が、揺れていた。
「誰かのために無茶をして、怒られても、“でもやってよかった”って笑える人が」
「っ」
胸の奥が、じん、と熱くなる。
あの日、廊下でカイルを助けたときのこと。
自分では無茶だと思った。でも、そのときの「ありがとう」が、今もノワリエの支えになっている。
そういう行動を、ルキアンはちゃんと見ていた。
「政治的な意味も、もちろんあるよ」
ルキアンは、苦く笑う。
「君が宮廷魔導士になれば、アークの塔とのパイプはより強くなる。外からの牽制にもなるし、王宮の魔導布陣も強化される。……そのあたりは、側近たちがうるさいくらい計算してる」
「だろうね」
ノワリエも、そこは分かる。
客員のままより、宮廷の一員として囲い込んだほうが、政治的には安定する。自分自身が、“駒”として見られることも増えるだろう。
「でもね」
ルキアンは、少しだけ声を落とした。
「僕個人としては」
“王太子”ではなく、“ルキアン”としての言葉。
「君の優しさが欲しいんだ」
そのときの彼の目は、ひどく真っ直ぐで、ひどく脆かった。
「この国にも、この僕にも」
風が止まった気がした。
ノワリエは、息をするのを忘れた。
(ルキアン……)
彼がどれだけ“完璧”を演じてきたか。どれだけ自分の感情を削って、“正しい王太子”であろうとしてきたか。
それを少しだけ知っているから、その言葉の重みも分かってしまう。
「君に、“ここにいてほしい”って、ちゃんと言っておきたかった」
ルキアンは、照れもせずに続けた。
照れを感じる余裕なんて、本当はないのかもしれない。
「君が王宮に来てくれたら、きっとこの場所は、もう少しあったかくなる」
「……」
嬉しかった。
本当に。
誰かから必要とされること。
自分の優しさを、力として求められること。
前の世界では、絶対にあり得なかったことが、今ここで起きている。
自分なんて、役に立たない。ただの失敗作。
そう言われ続けた魂に、「君の優しさが欲しい」と言ってくれる人がいる。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
でも。
同時に。
ぞわり、と背中を撫でる冷たいものがあった。
(アークから、離れる……?)
宮廷魔導士になる。
それはつまり、生活の拠点が塔から王宮に移るということだ。
フェルネウスの塔ではなく、王宮の一室。
最強魔導士の隣ではなく、王太子の隣。
アークは――どう思うだろう。
あの人のいない朝。
あの人のいない訓練場。
バルコニーで横に立つ人が、別の誰かに変わる未来。
(そんな想像、したくない)
自分でも驚くほど、即座にそう思ってしまった。
「……今すぐ答えを出せとは言わない」
ルキアンは、ノワリエの揺れを見て取ったように微笑んだ。
「アークにも、ちゃんと話しておいて」
「うん……」
「君がどうしたいかを、一番に考えてほしい」
その言葉は、優しい。
優しいからこそ、残酷だった。
◇ ◇ ◇
塔に戻ったその夜、ノワリエはしばらくアークの顔を見られなかった。
夕食のときも、魔導書の整理をしているときも、なんとなく距離を取ってしまう。
目が合うと、さっきルキアンに言われた言葉が浮かんでしまうから。
「君の“優しさ”が欲しいんだ」
(……私、どうしたいんだろ)
フェルネウスの塔のバルコニー。
いつもと同じ夜の風。
違うのは、自分の胸の中だけ。
ルキアンの話を、アークにしなきゃいけない。
それは分かっているのに、口が重い。
「ノワリエ」
名前を呼ばれて、びくっと振り向く。
アークが、バルコニーの入口に立っていた。
月明かりに照らされた横顔。
昼間よりも表情が読みにくい。
「今日の報告は、どうだった」
「えっと……魔導障壁の調整案、ほとんどうまくいってた。あと、次の防衛計画の資料も渡されたよ」
「そうか」
いつも通りの会話。
でも、その先に続く言葉は違った。
「それと」
アークが、わずかに視線を逸らす。
「ルキアン殿下から、何か話はあったか」
心臓が、どくん、と跳ねた。
「……うん」
逃げられない。
ノワリエは、手すりをぎゅっと掴んだ。
「アーク、あのね」
息を吸って、吐く。
「私を、“客員”じゃなくて、“宮廷魔導士”として王宮に迎えたいって」
夜風が止まった。
アークの表情が、すっと固まるのが見えた。
「正式な辞令を出す前に、アークに話を通したって。……でも、書類はまだ机の上」
「……そうか」
短い返事。
金の瞳の奥で、何かがゆっくりと動いている。
「君は、その提案をどう思う」
アークの声は、いつもより少し低かった。
「嬉しかった?」
「……うん」
嘘はつけなかった。
「認められた気がして。私の魔法も、優しさも」
「優しさ?」
「“君の優しさが欲しい、この国にも、この僕にも”って」
ルキアンの言葉をそのまま繰り返した瞬間、自分で自分の胸を刺したみたいに痛くなった。
アークのまぶたが、わずかに震える。
沈黙。
長い、長い沈黙。
ノワリエは、怖くて顔を上げられなかった。
「……アーク?」
耐えきれずに名前を呼んだとき。
アークは、短く息を吐いた。
そして。
「――断れ」
その一言は、刃みたいに鋭かった。
「……え?」
頭が真っ白になる。
聞き間違いだと思いたかった。
でも。
「その話は、断れ」
はっきりと、同じ言葉が繰り返された。
ノワリエの喉がきゅっと詰まる。
「なんで……」
「理由が必要か」
「必要だよ!」
声が、震えた。
「私、ずっと“役に立ちたい”って言ってきたよね? この国にも、誰かのためにも。……宮廷魔導士になれば、もっとちゃんと役に立てるかもしれないのに」
「塔の中だけでは、役に立てていないと?」
「そういう意味じゃない!」
言葉が絡まる。
胸の奥が、熱くて苦しい。
「塔でも、ちゃんと頑張ってる。でも、王宮に行けば、もっと広い世界を見られる。もっと多くの人を守れるかもしれない」
前の世界では、守れるどころか、壊す存在だった。
今は違う。
守れる側に立てる可能性がある。
それを、自分の手で閉じたくなかった。
なのに。
「それでも断れ、と言うの?」
「ああ」
アークの声は、静かだった。
怒鳴り声じゃない。
諭す声でもない。
感情を必死で押し殺したときの、平坦すぎる声。
ノワリエの目に、じわりと涙が滲んだ。
「……そんな顔で言わないでよ」
初めて、アークの言葉が怖いと思った。
「どうしてそんなに、私がどこかへ行くのを嫌がるの」
「君はまだ十六だ」
「それ関係ない!」
「ある」
切り捨てるように返される。
「宮廷魔導士は、君が思っている以上に自由がない。王宮に縛られ、政治に縛られ、失敗は許されない。君の“優しさ”は、いつかそれに潰される」
「それでも、やってみたいって言ったら?」
ノワリエは、涙をこらえた。
視界がにじんで、アークの顔がぼやける。
「私、役に立てるならやってみたい」
喉が痛い。
それでも続けた。
「アークの傍にいることだけが、私のすべてじゃないよ」
言った瞬間、自分の胸を殴りつけたみたいな痛みが走った。
本当は。
アークの傍にいたい気持ちだって、嘘じゃない。
でも、それだけに自分の人生全部を捧げるのは違うと思った。
恩人として、師匠として、大事な人として。
それでも、自分の未来を自分で選びたい。
アークの目が、揺れた。
いつも冷静な金の瞳が、はっきり揺れていた。
(あ……)
その揺れを見た瞬間、ノワリエの胸は別の意味でも締め付けられた。
(私、今……)
この人を傷つけてる。
分かってしまうから、余計に苦しかった。
「ノワリエ」
名前を呼ぶ声が、少し掠れていた。
「君は、俺が君に“ここにいてほしい”と言ったら、縛られたと感じるか」
「……」
以前、バルコニーで。
「僕は、簡単には手放せないだろうな」と、彼は言った。
あのときは、その言葉の重さから目を逸らした。
今、その続きを突きつけられている。
「お前は、俺の弟子だ」
アークは、言葉を選びながら続けた。
「俺が拾って、育てて、魔法を教えてきた。……今さら、そういう関係だけで済ませられないのは、自分でも分かっている」
胸の奥が、ぎゅうっと締め付けられる。
“恩人”と“男”。
その境界線が、今目の前で曖昧になっていく。
「それでも」
アークは、拳を握りしめた。
指の骨が浮き出るほど強く。
「君が、俺の知らない場所で傷ついていくのを、黙って見ていることはできない」
「……アーク」
「宮廷魔導士になるということは、そういうことだ」
ノワリエは、首を振った。
「私だって、子どもじゃない」
涙が一筋、頬を伝う。
「痛いことも怖いことも、全部避けて生きるなんてできないって、分かってる。……アークがそうやって生きてきたのも、知ってる」
最強魔導士として、戦場でずっと前線に立ってきた人。
守られる側じゃなくて、守る側として。
「だから、私も」
声が震えた。
「守られているだけじゃない“生き方”を、選びたいんだよ」
アークの表情が、初めて崩れた。
眉が寄り、口元が歪む。
胸の奥のどこかを、誰かにぎゅっと握られているみたいな顔。
(あ……)
見てはいけないものを見てしまったような罪悪感と、それでも目を逸らせない自分の残酷さ。
全部が混ざって、涙が止まらなくなる。
「……そうか」
アークは、低く呟いた。
「君にとっては、塔だけが世界ではないと」
「うん」
「俺の隣にいることだけが、全てではないと」
「……うん」
言葉にすると、改めて自分の残酷さが浮き彫りになる気がして、ノワリエは視線を落とした。
「分かった」
アークは、深く息を吐いた。
それは諦めにも、覚悟にも聞こえた。
「すぐに答えを出す必要はない。殿下にも、そのように伝える」
それは、向き合うのを一時的に先送りにするだけの言葉。
でも、今それ以上のことを言えば、どちらかが壊れてしまう気がした。
ノワリエは、涙を拭いながら、小さく頷いた。
その夜。
フェルネウスの塔のバルコニーには、いつもと同じ星が瞬いていた。
でも、その星空の下で揺れているものは、もう元には戻れない場所まで来てしまっていた。
“恩人”と“男”。
“弟子”と“女の子”。
その境界線が、じわじわと溶けて混ざり合っていく音が、胸の奥でずっと鳴り続けていた。
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