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第17話 痛みの配分
しおりを挟む恐れは、私の中で重層の紙だった。湿った薄紙が幾重にも重なっていて、触れるだけで指がふやける。上にある紙は甘く柔い。下へ潜るほど、繊維が固く、古い鐘の粉を含んでいる。私はその束の端を、呼吸の拍でなぞった。
「――“恐れ”を差し出す」
言った瞬間、胸の刻印が小さく鳴り、喉の裏で黒い花が微かに開いた。だが私は、束を一気に裂かない。全部を失えば、私は速すぎる刃になる。刃は鞘がなければ、誰より先に、自分の手を切る。
「配る、か」
セラが扇を半ばだけ開き、私の顔を覗き込む。目の奥に、肯定と警戒と、少しの喜びが同居している。
「配分する。私の恐れを、世界に薄めて散らす。全部は渡さない。上澄みだけ、風に混ぜる」
「やってごらん。配分の匙加減を誤ると、あなたがあなたを壊すわよ」
「壊れたら、拾って」
「拾う役は、そこにいる」
扉の外縁で、風がふと止む。ヴァルトの青が、地下の灰に深く沈む。彼は多くを言わない。ただ、私にだけ見せる頷きを一つ置いた。私はその短い答えを、胸骨の裏で何度も反芻する。
「ガルド! 入口を押さえろ、押さえたまま吠えろ! 抜くのは声だ、牙はしまっとけ!」
「任せろォ!」
「ロラン、暴徒の刃は落として、膝を折らせろ。殺すな、見せるな、静かに黙らせろ」
「了解」
地上の音が薄く伝ってくる。吠え、叫び、祈り。エリナの祈りは静かだ。声に甘さはなく、塩のように淡い。彼女が両手を胸に組むたび、聖堂の隅で怯える子どものすすり泣きが少しだけ収まる。祈りは光ではない。温度だ。彼女の祈りは、体温に似ている。
私は心臓の前――灰の輪の中心、空白の縁で膝をついた。指先で胸の刻印に触れる。痕は熱く、けれど痛みではない。私の中の黒い花は、まだ香らないが、開けば香りそうに潤んでいる。
「配るわ」
宣言は誰に向けたでもなく、世界への合図。私は右手を喉の内側へ――比喩ではない、正確にそこへ――差し入れる。音のない場所で、黒い花弁を何枚か分ける。花弁は現実の指にも触れ、冷たい露を含んでいた。私はそれらを掌で包み、ふっ、と息で散らす。
花弁は霧になって広がった。
聖堂の天井の黄金に触れて薄く光り、
割れた鐘の軸を撫でて音をひとつ和らげ、
石の毛細血管を伝って、街の曲がり角に座る老人の背を撫で、
火の近くで肩をすくめる女の首筋を温め、
剣を握った若者の手の震えを、自分の震えからほんの一分だけ貸し出す。
恐れは、毒にも薬にもなる。
私は、自分の余剰分を、必要な場所へ薄めて置いた。
胸の内側で、痛みが分割される。
幼い日の怯えが、霧のようにほどけ、廊下の角に貼りついていた影が、きれいに剥がれ落ちる。
代わりに、骨の中に空白が生まれる。軽い。
軽さは危険だ。私は踵の裏で床の感触を確かめ、軽さに錘を載せるつもりで、指先を空白へ伸ばした。
「リュシア」
ヴァルトが一語だけ呼ぶ。呼び声が、鞘だった。私は頷く。
「行く」
空白に、手を入れる。
冷たさはなく、熱すぎもしない。
無の触感。
指の節が、存在の薄い場所を掻き分けて進む。
封印陣の輪が、内側から私の指に触れ、確かめる。
――認める。
灰の線は私の魔力を“針”として受け取り、
ほどけかけた境界の縫い目に、ひと目、ひと目と刺さり始めた。
世界の悲鳴が、骨を掃く。
耳ではなく、骨膜に直接擦り付けられる音。
風景が目を覆い、目蓋の内側で白い火花が散る。
「まだだ、外縁保持!」
セラが叫ぶ。扇が開き、聖紋の輪郭を半音ずらす。
ラザロが輪の回転を計算で弱め、支柱の角度を指で正す。
ガルドの吠えは、地上の混乱を押さえる枷になり、
ロランの刃が柄尻で顎を打って、殺さずに眠らせる。
エリナの祈りは、その眠りに毛布を掛ける。
私は縫う。
魔界と人界の境を、黒い糸で。
糸は私の魔力で、魔力の芯は、私の“恐れ”の空白で。
空白はよく伸び、よく馴染み、よく凍える。
凍えを指先の熱で温め、温みすぎたところは息で冷やす。
縫い目は生き物だ。生き物に針を入れるのだ。
「……速い」
セラが呟く。
速すぎる、という音色ではない。
“危ういほど正確”という、嫌な褒め方。
恐れが薄いから、躊躇がない。
躊躇がないから、指は迷わない。
迷わない指は、正しい場所へ届くが、その先を覗き込みたくもなる。
「窓、深く行きすぎるな」
ヴァルトの声が、鞘を重くする。
私は“うん”と短く返し、針の角度を一度だけ浅くした。
世界の悲鳴が、少し離れる。
離れた分だけ、別の悲鳴が近づく。
私の名前を呼ばない声。
人間でも魔族でもない、境の粒のざわめき。
古い神が目を細め、こちらを見ている気配。
「見ないで」
私は空白に囁く。
囁きは、旧い石に吸い込まれる。
吸い込まれた言葉は、抑えられた笑いに変わって戻ってきた。
“お前が窓だ”。
窓の注文は、聞く。
古い神は、今はそれで納得している。
恐れを配った代償は、確かに来た。
私は大胆だ。
骨が軽く、針は跳ねる。
跳ねる針は、時に楽しくなる。
楽しい針は、深く刺さりたがる。
――ダメ。
私は自分の手首をもう片方の手で軽く押さえ、速度を半歩落とした。
半歩落とすだけで、縫い目の呼吸が整う。
呼吸が整えば、境は自分で閉じようとする。
私は手伝うだけだ。独りでやらない。
“救う”は中毒になる。
だから、“手伝う”に言い換える。
「エリナ、そこ。人々を広場の中央へ。端は危ない」
「はい」
祈りの声が移動し、広場の騒ぎが一方向に流れる。
ガルドの吠えがそちらへ背を押し、ロランの足が見えない棒で足払いをし、派手さのない転倒を増やす。
転んだほうが、生きる夜もある。
私は縫う。
針目は百、二百。
指の先の感覚が薄れ、痺れが肩へ上がる。
花弁はまだ残っている。
けれど、無駄に使わない。
“痛みの配分”は、私だけのものではない。
世界も、痛みの税を払うべきだ。
私は、世界から“少しだけ”徴収する。
鐘楼の根から、石の古い痛みを。
聖堂の黄金から、装飾の重みを。
信徒の膝から、祈りの代わりの倦怠を。
それらを合わせ、縫い目への潤滑にする。
「殿下、回転が落ちています。あと七割」
ラザロの声は数字で祈る。
セラが輪郭をさらに半音下げ、聖油の膜を逆流させる。
ヴァルトは風を殺し続け、外縁に立つ私兵たちの怒声を、聖堂の外へ撫でつける。
「リュシア」
名が落ちる。
私は針を止めず、顎だけで返事をした。
ヴァルトの声は硬くならない。
彼は、私が“危ういほど大胆”になっているのを知っていて、それでも、信じるほうを選ぶ。
信じることは放置ではない。
見ている。
呼べば、入ってくる。
呼ばなくても、入ってくる。
番は、ずるい。
封印陣の中心――空白の芯に、最後の継ぎ目が見えた。
そこは、元から弱かった場所だ。
人間が境を箱にしたときに、無理に折った角。
角はいつだって、最初に壊れる。
私は針先をそこへ向け、躊躇を、短剣の刃の厚みほどだけ足した。
恐れの配分を、ほんのひと匙、戻す。
そうしないと、指が“楽しく”なる。
楽しいは、時に犯罪だ。
「いくよ」
誰にともなく告げ、私は最後の一目を刺した。
空白が呼吸を止め、
灰の輪が一瞬だけ反時計回りに鳴り、
釘の頭が沈み、
鐘の根が、深く――深く――うなった。
世界の悲鳴が、骨の奥で反転した。
白い光が視界を弾き、
黒い花が胸の内側でいっせいに開き、
私の中の“自己保存の鈴”が一瞬、鳴らない。
落ちる――と、思った。
床は遠のき、重力は陳腐になり、
私は針だけの存在になって、
縫い目の間に、するり、と滑り込もうとした。
「リュシア!」
遠雷。
ヴァルトの声。
名を呼ぶ音が、白い爆ぜの中で色を取り戻す。
私は指先で空白を離し、
背中に誰かの腕の確かさを感じ、
重力が、帰ってきた。
視界はまだ白い。
白は、音を飲む。
飲まれながら、私は自分の内側で、配分表を確認する。
恐れ――上澄みは風に与えた。
芯は残した。
躊躇は刃の厚みぶん、戻した。
甘さは減った。
代わりに、見通しが増えた。
危うい。
でも、今夜はそれでいい。
「残り二割! 持ちます!」
ラザロの声。
セラの扇が最後の聖紋を撫で切り、
ガルドが吠え、
ロランが息を吐き、
エリナの祈りが、毛布をもう一枚増やす。
私は白の中で目を閉じ、
骨に手を当て、
最後の針目が、ちゃんと結ばれていることを確かめた。
――世界の悲鳴は、もう、歌に戻れる。
白がゆっくり薄れ、
暗と金の輪郭が戻ってくる、その刹那まで。
私は、配った痛みの行き先を、ひとつ、ひとつ、追いかけ続けた。
そして、呼吸を、ひとつ。
吸う。
吐く。
自分の鈴が、もう一度、鳴るのを待ちながら。
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