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第6話:第一の自爆、取り巻きの舌が滑る
しおりを挟む正義の熱は、燃やすほどに酸素を食う。
酸素がなくなると、人は息苦しくなる。息苦しくなると、焦る。
焦ると――喋る。
王宮大広間の中央。赤絨毯の上は、いつの間にか“裁きの道”になっていた。
左右に並ぶ貴族席、後方に押し込まれた民衆、壁沿いに立つ衛兵。
視線が全部、ひとつの場所へ集まっている。
リシェル・ノワゼルは、その視線の中心にいながら、燃えていなかった。
扇子を閉じ、背筋を伸ばし、微笑みの角度を崩さない。
怒らない。叫ばない。泣かない。
その“何もしなさ”が、逆に会場の焦りを煽っている。
「――証人を呼べ!」
王太子アデリオスの声が響く。
彼は勝っている顔をしている。勝っている顔は、だいたい脆い。
人は勝っているとき、自分の足元を見ないから。
衛兵が一人の令嬢を連れてくる。
ドレスは淡い桃色。髪には宝石。頬は上気。目はきらきらしている。
そしてその目の奥に、焦りがある。
ミレーヌ・サラフィア。
彼女は“取り巻き”として有名だった。フィオナの影として笑い、王太子の周りで甘い言葉を拾って生きるタイプ。
でも今日の彼女は、影じゃなくて“舞台”に出されている。
舞台に立った影は、光に溶けるか、焦げるか、どちらかだ。
ミレーヌは一礼し、声を張る。
「サラフィア伯爵令嬢ミレーヌ、証言いたします!」
声が高い。高い声は自信に見える。
でも彼女の指先が、ドレスの布をきゅっと掴んでいる。
掴むことで震えを隠している。
フィオナは壇上の少し後ろで、涙を滲ませながら頷いた。
“よく言ったわ”という顔。
でもその目は、ミレーヌを見ていない。
目は民衆を見ている。観客を見ている。
ミレーヌはそれに気づいていない。
気づいていないから、必死になる。
必死な人間ほど、口が軽い。
「私はこの目で見ました!」
ミレーヌは胸に手を当て、わざとらしく震える。
「リシェル・ノワゼル様が、聖女フィオナ様の儀式に必要な道具を……奪ったのです!」
ざわっ。
会場の空気が、一瞬だけ引っかかった。
民衆の側から、「え?」という声が漏れた。
貴族の側からは、別の種類のざわめきが起きる。
“その言い方、大丈夫?”というざわめき。
理由は単純だった。
儀式の道具は、王宮の管理品だ。
出し入れには記録が残る。管理文官の印、倉庫番の印、立会人の署名。
それを“奪った”と言うなら、その記録が矛盾する。
矛盾は、穴だ。
穴は、埋めるほど目立つ。
リシェルは、扇子で口元を隠しながら、ミレーヌを見た。
視線は柔らかい。
でもその柔らかさは、砂糖じゃない。刃を包む絹だ。
カイエンが背後で、ほとんど息だけで言う。
「……言い過ぎです。自分で崖に寄っている」
「寄せてあげましょう」
リシェルは小さく答える。
声は甘いのに、内容は冷たい。
アデリオスはざわめきを押し潰すように、声を張った。
「続けろ、ミレーヌ!」
命令の声。
勝ちを急ぐ声。
ミレーヌは王太子の声に背中を押される。
押されると、彼女の中の“欲”が顔を出す。
――褒められたい。
――認められたい。
――主役になりたい。
影のままでは嫌だ。
だから彼女は、声をさらに大きくした。
「道具がなければ儀式は行えません! フィオナ様は困っておられました! なのにリシェル様は――」
ミレーヌはここで一度、息を吸った。
吸った息が、甘い香水と興奮で揺れる。
「――『私がそれを持っている』と、笑って!」
会場が沸いた。
民衆は怒りを燃やし、貴族は眉をひそめる。
この証言は、ドラマとしては最高だ。
悪役令嬢が余裕で笑い、聖女が苦しむ。
わかりやすい。気持ちいい。
だからこそ、危ない。
わかりやすい物語は、すぐ崩れる。
リシェルは、わずかに首を傾げた。
「……私が?」
その一言だけ。
否定でもなく、反論でもなく、確認。
確認は刃だ。軽い言葉なのに、深く刺さる。
ミレーヌは一瞬、言葉を詰まらせた。
目が泳ぐ。
“この人、怖い”という本能が頭をもたげる。
でも彼女は、怖さに負けたくない。
怖さに負けたら、フィオナに見捨てられる。アデリオスに見られない。
だから彼女は――余計なことを言う。
「そ、そうです! それに……道具が消えたことは、記録にも……」
ミレーヌは唾を飲み込み、続けた。
「記録係には、もう手を回しましたし!」
――しん。
会場の音が、いっせいに死んだ。
音楽が止まったわけじゃない。
グラスが割れたわけでもない。
ただ、人の“熱”が一瞬で冷えた。
冷えた空気は、痛い。
皮膚を切る。
アデリオスの頬が、ぴくりと引きつった。
フィオナの涙が、わずかに止まった。
止まってから、急いでまた滲む。
その“急いで”が、ばれる。
民衆の中の誰かが、ぽつりと言った。
「……手を回したって」
「え? 買収ってこと?」
「公正な審問じゃなかったの?」
ざわめきが、今度は正義の方向を変える。
正義はいつも、いちばん“声が大きいところ”に流れる。
ミレーヌは、自分が何を言ったのか理解していない顔をした。
理解した瞬間、顔色が白くなり、唇が震える。
やっと気づいた。
でも気づくのが遅い。
「ち、違……! い、今のは……」
「ミレーヌ」
フィオナが初めて、鋭い声で名前を呼んだ。
鋭さが隠しきれない。
聖女の声ではなく、上役の声だ。
その一音で、ミレーヌの心が折れかける。
折れかけた心は、さらに言い訳を増やす。
「だって……! フィオナ様が……! 殿下が……!」
ミレーヌは泣きそうになりながら、必死に言葉を探す。
探せば探すほど、穴は広がる。
アデリオスが前に出た。
笑顔を作ろうとする。
でも顔の筋肉が言うことを聞かない。怒りと焦りが勝つ。
「証言が乱れたな」
彼は笑いながら言ったつもりだった。
でも笑いは硬い。ガラスみたいに硬い。
「ミレーヌは動揺しているだけだ。重要なのは、道具が消えたという事実――」
「事実、ですか」
リシェルが口を開いた。
声は小さい。
けれど不思議と、会場の端まで届く。
熱が冷えたあと、人は静かになる。静かになった場所には、よく通る声が刺さる。
リシェルは一歩だけ前へ出る。
赤絨毯の上で、影が伸びる。
「道具は王宮の管理品」
リシェルは淡々と言う。
「出し入れの記録が残りますわね。――そして今、証人が“手を回した”と口にしました」
アデリオスが顔を歪める。
「揚げ足取りはやめろ!」
「揚げ足ではありません」
リシェルは微笑んだ。
蜜みたいに甘いのに、冷たい。
「足元が崩れているだけです」
ざわめきが、また大きくなる。
民衆の正義が、迷い始める音。
迷いは弱さじゃない。思考の始まりだ。
ミレーヌは泣き崩れそうになり、フィオナの方を見た。
助けて、という目。
でもフィオナは、視線を逸らした。
その瞬間、ミレーヌの中で何かが割れた。
「……っ」
彼女は息を呑み、歯を食いしばる。
そして、思わずリシェルを睨んだ。
睨みながらも、涙が落ちる。
その涙は柔らかい。ミレーヌの涙は、まだガラスじゃない。
ただの弱さの涙だ。
リシェルは、その涙に少しだけ目を細めた。
ほんの少しの哀れみ。
でも同情ではない。
“そうなるよね”という理解。
リシェルは扇子を閉じた。
ぱち、と乾いた音が鳴る。
そして、丁寧に一礼する。
頭を下げる角度が美しい。背筋が折れない。
礼儀が完璧すぎる。
その礼が、逆に会場を追い詰めた。
――あれだけの場で、あれだけ罵られても、品位を崩さない。
――なのに、裁く側は買収を口にした。
――どちらが“貴族”なのか。
空気が、言葉にならない比較を始める。
アデリオスの声が上擦る。
「……次だ! 次の証人を呼べ!」
彼は場の流れを変えたくて仕方がない。
だが一度冷えた空気は、簡単には温まらない。
フィオナは涙を拭いながら、優しい声を取り戻そうとする。
「皆さま……どうか、誤解なさらないでください。公正な審問です。私は――」
言葉が、わずかに詰まる。
“公正”という単語が、さっきミレーヌに砕かれたからだ。
その瞬間、エルナが背後で小さく息を吐いた。
「……第一の自爆、きたね」
声は小さいのに、嬉しそうに震えている。
「自分で言っちゃった。しかも“手を回した”って」
カイエンが静かに頷く。
「刃は、握る者の手を切りました」
「まだ浅いわ」
リシェルは小さく言う。
「でも浅い傷でも、血は出る。血の匂いは、群れを変えるのよ」
ヴァルトが少しだけ目線を動かし、周囲の貴族たちの反応を見た。
彼らは言葉にしない。
貴族は言葉より先に、損得で動く。
今夜の損得が、少しだけ揺らいだ。
リシェルは再び、舞台の中心を明け渡すように半歩下がった。
自分の言葉で攻めない。
相手の言葉で崩れる。
それが彼女の戦い方。
アデリオスは焦りを隠すために怒りを使う。
フィオナは焦りを隠すために涙を使う。
ミレーヌは焦りを隠すために言い訳を使う。
焦りは甘い。
甘いから、人は飲む。
飲めば飲むほど、酔って、自分の舌が軽くなる。
リシェルは微笑んだ。
蜜のように甘く、氷のように冷たい微笑みで。
「……ねえ、皆さま」
彼女は心の中でだけ囁く。
声に出さないのが、品位だ。
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――重くなった嘘は、自分の足を引っ張る。
――さっき、あなたがたは自分で“重さ”を口にした。
見えない糸は、もう一段きつく絡まっていた。
彼らはまだ気づかない。
気づかないまま、次の一歩を踏み出す。
踏み出すほど、沈む。
そして会場のどこかで、誰かが小さく言った。
「……ほんとに、裁かれるべきなのは、誰なんだろうな」
その疑問が生まれた時点で、舞台はもう彼らのものじゃない。
第一の自爆は、派手じゃない。
でも確かに、音を立てた。
ぱきり、と。
ガラスがひび割れるみたいに。
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