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第7話:第二の自爆、王太子の資金が臭う
しおりを挟む第一の自爆が起きたあと、会場の空気は変わった。
熱はまだ残っている。正義の熱はしつこい。
でもその熱の底に、冷たい水が一滴落ちたみたいな感触がある。
――公正って言ってたよね?
――手を回したって、今言ったよね?
疑問が生まれると、人は“次”を見る目になる。
次を見る目は、演出に騙されにくい。
そして演出に騙されにくい観客は、舞台側にとって一番厄介だ。
アデリオスは、その厄介さを肌で感じていた。
王太子という肩書きの鎧を着ていても、視線の温度は誤魔化せない。
ざわめきが「賛同」から「確認」に変わる音は、耳に刺さる。
「……次の証言だ」
アデリオスは声を硬くして言う。
「余計な混乱は不要。秩序を保て」
秩序。
その単語を使う人間は、だいたい秩序を失いかけている。
リシェル・ノワゼルは、扇子を閉じたまま静かに立っていた。
微笑みは変わらない。
変わらないことが、さらに相手を焦らせる。
フィオナは涙を拭いながら、慈悲深い顔を貼り直している。
貼り直している時点で、それは“顔”であって“心”じゃない。
そして――“表”が動き出す。
ヴァルト・グラディスが、騎士団の副団長として、広間の端から中央へ歩いてくる。
歩幅は大きい。動きは無駄がない。
けれど、目立ちすぎないように、視線は伏せ気味。
彼は今夜、剣を振るう役じゃない。秩序を守る役だ。表の役だ。
ヴァルトの横には、見慣れない文官が一人。
痩せぎみで、眼鏡の奥の目が細い。手には革の帳簿を抱えている。
見るからに“数字の人”だ。数字の人は、嘘に弱い。嘘は数字に滲むから。
リシェルは、その文官を見て、ほんの少しだけ笑みを深めた。
誰にも気づかれない程度の、蜜の揺れ。
カイエンが背後で囁く。
「……連れてきましたね」
「ええ」
リシェルは小さく答える。
「断罪が監査に変わる音がする」
「殿下が嫌がるでしょう」
「嫌がるほど、焦るわ」
ヴァルトは壇上に近づく前に、衛兵に低い声で何かを指示した。
衛兵が頷き、会場の端の動線が微妙に変わる。
通路が一本、静かに確保される。
“誰か”が逃げやすい道ではなく、“誰か”が運ばれやすい道。
つまり、秩序を乱した者を確保するための道。
それに気づく人は少ない。
でも気づく人は、気づく。
貴族の目は、そういうところだけ妙に鋭い。
「……騎士団が本気だ」
「副団長が出てきたぞ」
そんな囁きが起こる。
アデリオスの眉が、わずかに動いた。
王太子の権威の中に、騎士団が“公”として割り込んできた瞬間だ。
権力者は自分の舞台に、別の権力が立つのを嫌う。
「ヴァルト副団長」
アデリオスは笑顔を作った。
作れていない笑顔。
「秩序の維持、ご苦労」
「職務です」
ヴァルトは余計な愛想を見せない。
愛想を見せると、味方扱いされる。
味方扱いされると、法の剣が鈍る。
ヴァルトは淡々と続ける。
「先ほど証人が“記録係に手を回した”と発言しました」
会場がざわりと揺れる。
触れてほしくないところを、堂々と触った。
「もし王宮管理品の記録に不備があるなら、それは国家の管理責任です。確認が必要です」
ヴァルトの声は低い。低い声は逃げ場を削る。
「ここに帳簿官を連れております。形式に則り、確認を」
“確認”。
その言葉は刃ではない。
でも刃より怖い。
刃は避けられる。確認は避けにくい。
フィオナが小さく息を呑む。
アデリオスが一瞬だけ言葉を失う。
「……今それをする必要はない」
アデリオスは強引に笑った。
「これは道具の有無を論じる場ではなく、リシェルの罪を裁く場――」
「罪を裁くなら、証拠が必要です」
ヴァルトは淡々と言う。
「証拠が“管理記録”に関わるなら、確認は必要です」
正論。
正論は、言われる側にとって毒だ。
毒は顔色を変える。
アデリオスの頬が、微妙に引きつる。
しかし彼は王太子だ。ここで弱みを見せるわけにはいかない。
「……勝手にしろ」
吐き捨てるように言った。
「だが、場を乱すな」
ヴァルトは一礼し、帳簿官に目配せした。
帳簿官が革の帳簿を開き、指先でページをめくる。
ページの音が、異様に大きい。
会場の空気が静まり、紙が鳴るだけで緊張が走る。
その間――“裏”も動いていた。
エルナは、会場の端の陰影の濃い場所を縫うように歩いていた。
侍女の顔。控えめな動作。誰にも気づかれない“背景”の動き。
だけど彼女の目は、獲物を探す猫のそれだ。
彼女が狙うのは、王太子派閥の貴族たち。
特に、資金の流れに関わる連中。
自分で金を回した者ほど、噂に弱い。
噂は刃より細く、だからこそ首に巻きつく。
エルナは、グラスを運ぶふりで一人の伯爵の横を通り過ぎる。
「……ねえ、聞いた?」
囁き声。
彼女は“誰かと話してるふり”をするのが上手い。
会話の相手は、いない。
でも言葉だけは、耳に落ちる。
「資金の出所、バレそうだって。王太子殿下の周り、今やばいらしいよ」
伯爵の肩が、ぴくりと動いた。
それだけで十分。噂は刺さった。
次にエルナは、別の貴族夫人の背後で囁く。
「闇商人の名前、出回ってるって……。帳簿官が動いてるってさ」
夫人の扇子が一瞬止まる。
扇子が止まるのは、心が止まった証拠。
噂は恐怖を育てる。
恐怖は、仲間割れを呼ぶ。
「……誰が漏らしたのよ」
「あなたじゃないでしょうね?」
「私は知らないわ。あなたは?」
小声の会話が増える。
増えるほど、空気が荒れる。
そして荒れた空気は、壇上まで届く。
帳簿官がページをめくる音が止まった。
彼は顔を上げ、躊躇いがちにヴァルトへ目配せした。
“何かある”目だ。数字の人間の目は嘘をつかない。
ヴァルトは口を開く。
「管理記録上、道具は倉庫から出ています」
ざわっ。
「しかし、立会人の署名が不自然です。通常、二名の署名が必要ですが――一名分しか記録がありません」
会場がざわつく。
薄い疑問が、濃い疑惑になる瞬間。
アデリオスが声を張る。
「それがどうした! 署名の不備など、些細なことだ!」
些細なこと、という言葉は、たいてい致命傷の前振りだ。
フィオナが涙を浮かべたまま、慈悲の声を出そうとする。
「皆さま……どうか……」
だがその声は、今は届かない。
空気が数字を求めている。
涙より帳簿のほうが強い夜が、たまにある。
エルナが会場の端で小さく笑った。
彼女の笑いは意地悪じゃない。
“ほら、来た”という確信の笑い。
その確信は、壇上のアデリオスにも伝わっている。
彼は焦った。
焦ると、人は声を荒げる。
荒げた声は、また空気を乱す。
「黙れ! これは正義の裁きだ!」
アデリオスは怒鳴った。
怒鳴ることで、支配しようとした。
支配できると思い込んだ。
その瞬間。
彼の袖口から、一通の手紙がふわりと落ちた。
白い紙じゃない。
少し黄ばんだ紙。
封蝋は黒。
そこに押された印章は――王宮の紋ではない。
闇商人の印章。
薄汚れた獣の紋。
見た者が、思わず目を背ける類の印。
手紙は床に落ち、赤絨毯の上でやけに目立った。
落ちた瞬間の音は、紙一枚のはずなのに、妙に大きく聞こえる。
沈黙。
近くにいた衛兵が反射的に拾い上げた。
拾い上げた瞬間、衛兵の動きが止まった。
固まる。
人が固まるとき、それは“見てはいけないものを見た”ときだ。
衛兵の目が、アデリオスを見た。
次に、ヴァルトを見た。
次に、周囲を見た。
逃げ道を探す目。
会場が、一段ざわつく。
ざわつきは、さっきの正義の熱とは違う。
もっと生々しい。もっと現実的。
――臭う、というざわつき。
「……あれ、何?」
「黒い封蝋?」
「見たことある……闇市の……」
「え、殿下の袖から……?」
噂が、言葉になって飛び交う。
飛び交う言葉は刃だ。
刃は、今度はアデリオスに向いた。
アデリオスの顔が、真っ赤になる。
怒りか、羞恥か、恐怖か。
全部混ざった色。
「それを――寄こせ!」
彼は衛兵に手を伸ばす。
伸ばす手が、震えている。
ヴァルトが一歩前に出た。
動きは速い。
でも剣は抜かない。
抜かないことが、今夜の“表”だ。
「殿下」
ヴァルトの声は低い。
「それは、国家の監査対象です。確認のため――」
「黙れ!」
アデリオスは怒鳴った。
「余計なことをするな! これは……私の――」
言いかけて、止まる。
止まった瞬間、会場が“聞いた”空気になる。
人は途中で止まった言葉を、勝手に補完する。
――私の金だ。
――私の取引だ。
――私の秘密だ。
補完は、真実より強い。
フィオナが焦って前に出た。
「殿下……落ち着いて……」
慈悲の声を作ろうとする。
でも声が震える。
ガラスの涙が、また硬くなる。
リシェルは、その様子を“気づかないふり”で見ていた。
気づかないふり。
それは無関心じゃない。
無関心に見せかけた、最も残酷な観察だ。
彼女は微笑む。
ただ微笑む。
誰も助けない。
誰も責めない。
ただ、崩れる瞬間を見届ける。
その甘い無関心が、アデリオスの心臓を締めた。
――こいつは、笑ってる。
――俺が落ちるのを、笑ってる。
そう思った瞬間、彼はさらに焦る。
焦れば焦るほど、自分で自分の首を絞める。
エルナが柱の影で、口元を押さえて笑いそうになった。
笑いを堪えるのに必死な顔。
「……やっば。落ちた」
エルナが小さく言う。
「自分で落とした。袖から」
「臭いが出たな」
カイエンが低く答える。
「資金の臭いは、隠しても漏れます」
ヴァルトは衛兵から手紙を受け取り、帳簿官に目配せした。
帳簿官の顔色が変わる。
数字の人間が、紙の匂いに震えている。
アデリオスは息を荒げた。
正義の舞台が、監査の舞台に変わってしまった。
彼の脚本が、勝手に書き換わっていく。
「……これは違う」
アデリオスは言い訳を探す。
「私は……私は……」
言葉が出ない。
出ないとき、人は怒りを使う。
でも怒りも、もう効かない。
会場のざわめきが、確信の匂いに変わっていく。
闇商人の印章が押された手紙。
王太子の袖。
帳簿官。
不自然な署名。
すべてが一本の線で結びつき始める。
リシェルは、その結び目を“自分で”作らない。
作らないからこそ、強い。
勝手に結ばれた結び目は、誰のせいにもできない。
彼女は扇子を閉じ、丁寧に一礼した。
礼儀正しい所作で、まるで祝賀の主役に祝福を捧げるみたいに。
「……殿下」
リシェルは甘く言う。
「お手紙、落とし物ですわね」
その一言が、刃だった。
落とし物。
たったそれだけの言い方で、アデリオスの秘密が“みっともない偶然”に格下げされる。
会場の誰かが、笑いそうな息を漏らした。
笑いはまだ小さい。
でも笑いが生まれた瞬間、権威は死に始める。
ヴァルトが低く宣言する。
「秩序維持のため、確認の場を設けます。衛兵、通路を確保しろ」
衛兵が動く。
“表”が、完全に握った。
アデリオスは、その動きに飲まれながら、リシェルを睨んだ。
睨む目は憎しみ。
でも憎しみは、追い詰められた者の最後の飾りだ。
リシェルはただ微笑む。
蜜のように甘く、氷のように冷たい微笑みで。
第二の自爆は、もっと臭かった。
金の臭い。
隠しても漏れる、腐った甘さの臭い。
そして誰もが、ようやく気づき始める。
この夜、裁かれるべきなのは――
舞台の真ん中に立っている“悪役令嬢”ではない。
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