11 / 20
第11話:王都の噂が反転する夜
しおりを挟む噂は、風だ。
花びらみたいに軽くて、指でつまめないくせに、顔を叩く。
そして風は、向きが変わると一瞬で世界の匂いを変える。
王宮の“祝賀”――いや、あの崩れた断罪劇から数日。
王都はまだ、あの夜の余韻を舌の上で転がしていた。
甘い。苦い。焦げ臭い。
どの味が本物か、誰もまだ決められない。
でも決められない間に、人は喋る。
喋ることで自分の不安を薄める。
不安は薄まらないのに、喉だけが渇くから、さらに喋る。
昼の王都。市場。噴水広場。馬車通り。
あらゆる場所で、噂が走っていた。
「ねえ聞いた? 聖女さまの奇跡、床に仕込みがあったって」
「王太子殿下、闇商人の手紙落としたらしいよ」
「え、じゃあ裁かれるの、悪役令嬢じゃなくて殿下の方?」
「でもあの悪役令嬢……すごかったよね。泣きもしないで、優雅に」
“優雅に”。
その単語が、リシェルの名前に絡み始めた。
社交界の噂は、夜になるとさらに速い。
貴族のサロンは、噂の温室だ。
紅茶と酒と菓子と、同じくらい噂が盛られる。
ノワゼル伯爵邸にも、招待状が雪みたいに届いていた。
慰めの言葉。謝罪の言葉。探りの言葉。
全部が紙の顔をして、同じ匂いをしている。
リシェルはそれを、机に積んだまま触れなかった。
触れないのは拒絶じゃない。
触れれば鎖になると知っているからだ。
その夜。
ノワゼル伯爵邸の書斎は、灯りを落としていた。
窓の外の王都の明かりが、薄い金色の霧みたいに漂う。
遠くで馬車の音。笑い声。犬の吠え声。
世界は今日も勝手に動いている。
リシェルはソファに座り、扇子を膝の上に置いていた。
隣でエルナが、無言で封筒を数えている。
数える手は早い。
でもその目は、落ち着いていない。
過去の尾行の件から、彼女は“影”の匂いに敏感になっている。
「……多すぎ」
エルナが吐き捨てるように言った。
「これ全部、手紙? 人って暇なの?」
「暇なんじゃないわ」
リシェルは微笑んだ。
「怖いの。だから書くの。紙に押しつければ、怖さが軽くなると思ってる」
「軽くなんないのにね」
「うん」
扉の影が揺れ、カイエンが入ってきた。
いつものように音がない。
影が歩いて、影が礼をする。
「リシェル様」
「どうだった?」
リシェルは顔を上げる。
彼女の声は、淡い紅茶の温度。
カイエンは短く報告した。
「噂の流れが変わっています。……速い」
「速いでしょうね」
「はい。“悪役令嬢”が、“不当に貶められた令嬢”へ」
カイエンは言葉を選ぶように続けた。
「“怖いほど優雅な被害者”とも」
エルナが鼻で笑う。
「怖いほど優雅って何それ。褒めてんのか貶してんのか、どっちだよ」
「両方」
リシェルはさらりと言った。
「人は褒めるときも貶すときも、相手を縛りたいのよ」
カイエンの視線が、机の上に積まれた招待状に落ちる。
彼の眉がほんのわずかに動く。
警戒と、苛立ちと、心配の混ざった動き。
「……今は、味方が増えるのでは?」
カイエンが言う。
「貴女にとって、悪いことではないはずです」
エルナも、少しだけ頷きかけた。
あの断罪の夜、味方の少なさが怖かった。
味方が増えるなら、安心できる。
普通は、そうだ。
でもリシェルは、少しだけ笑みを薄くした。
薄くした笑みは、夜の底みたいに静かだ。
「悪くないことが、良いこととは限らない」
「……?」
エルナが首を傾げる。
「どういうこと?」
リシェルは答える前に、紅茶を注いだ。
湯気が立つ。
湯気が立つと、空気が少しやわらかくなる。
やわらかくしないと、言葉が刺さりすぎるから。
「噂が反転するのは簡単よ」
リシェルは淡々と言う。
「悪役が被害者になって、被害者が偽物になって、正義が迷子になる。……でもね」
彼女はカップを持ち上げ、指先の白さを月明かりに透かした。
「次に来るのは、救いじゃないわ」
「え?」
エルナの声が上ずる。
リシェルは微笑む。
蜜みたいに優しい声で、言う。
「崇拝よ」
その単語は、甘い。
でも甘さの中に、毒がある。
「崇拝は期待を生む。期待は鎖になる」
リシェルは言葉を噛み砕くように続けた。
「“可哀想な令嬢”として、私を持ち上げる。持ち上げたら、次は“私に何かしてほしい”って望む。……私はそれが嫌」
エルナが眉を寄せる。
「でもさ、嫌って言っても……味方は必要じゃん」
「必要よ」
リシェルは否定しない。
「でも、味方を作るために鎖を受け取るつもりはない」
カイエンが静かに、確信を帯びた声で言った。
「貴女は、許されたいわけではないのですね」
その言葉は、図星だった。
図星なのに、責めていない。
理解しているだけの声。
リシェルは微笑む。
その微笑みは、夜の蜂蜜みたいに濃い。
「許しも断罪も、同じ鎖よ」
彼女は淡々と言った。
「許されるってことは、“相手が裁く権利を持つ”ってこと。私はその構造が嫌」
カイエンの瞳がわずかに揺れる。
彼は剣を握る人間だ。
裁きの構造の中で生きてきた。
でも彼女は、その構造自体を切り捨てようとしている。
「私はただ、嘘に触れたくないだけ」
リシェルは言う。
「触れたくない。握りたくない。……嘘は、触ると匂いがつくから」
エルナが小さく息を吐いた。
「……めんどくさい人」
「褒め言葉?」
「半分ね」
エルナは肩をすくめた。
「でも、わかる。持ち上げられるのって、落とされる前提だもん」
リシェルは、ほんの少しだけ目を細める。
エルナが“わかる”と言ったことが、彼女にとっては小さな救いだった。
救いは鎖ではない。
ただ、同じ方向を見るだけでいい。
カイエンは窓の外を見た。
王都の灯りが、ゆっくり揺れている。
噂が走る夜は、灯りが落ち着かない。
「……崇拝が始まれば、貴女を狙う者も増えます」
カイエンが言う。
「嫉妬、羨望、利用……」
「知ってる」
リシェルは笑う。
「だから嫌なのよ。崇拝は、私を“人形”にする。人形は便利だから、みんな触りたがる」
エルナが不機嫌そうに言った。
「触らせなきゃいい」
「触られないようにするには、冷たくなるか、消えるしかない」
リシェルは淡い声で答える。
「でも私は、冷たくなりすぎたくない。消えたくない」
その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が少しだけ温かくなる。
リシェルは自分で言ったことに、ほんの少し驚いた顔をした。
彼女は普段、望みを口にしない。
口にすると、鎖になるから。
でも今夜は、味方がいる。
味方の前なら、鎖にならない形で言える。
カイエンは一歩近づき、低い声で言った。
「では、どうします」
「噂は放っておく」
リシェルは即答した。
「正義の風向きも、崇拝の風向きも、どちらも私のものじゃない。私が握るのは、私の言葉だけ」
「言葉?」
エルナが首を傾げる。
「嘘に触れない、という言葉」
リシェルは微笑む。
「私はそれを守る。守れば、勝手に崩れる人は崩れる」
そのとき、廊下の方で小さな物音がした。
カイエンの目が一瞬鋭くなる。
でもすぐに緩む。
使用人が湯を運んでいるだけの音だった。
それでも、カイエンは言った。
「……夜の噂は、刃です」
「刃は、握る者の手を切る」
リシェルは笑う。
「彼らは今、私を守るつもりで刃を握る。でも守る刃は、いつか私にも向く。……だから私は距離を取る」
エルナがうーん、と唸った。
「つまり、味方が増えても喜ばない?」
「喜ばないわけじゃない」
リシェルは少しだけ柔らかく言う。
「ただ、喜び方を選ぶの。私は“救われた顔”をしたくない」
「なんで?」
「救われた顔をすると、誰かが“救ってやった”顔をするでしょう?」
リシェルは微笑む。
「私は、その顔が嫌い。あの顔は、次に必ず“見返り”を要求する」
エルナは口を尖らせた。
「……大人って嫌」
「大人じゃなくても嫌よ」
リシェルは笑った。
窓の外、王都の夜風が、カーテンをわずかに揺らした。
風は噂を運ぶ。
噂は人の心を運ぶ。
運ばれた心が、明日また別の言葉を産む。
リシェルはカップを置き、扇子を閉じた。
ぱち、と小さな音。
その音が、決意の印みたいに響いた。
「明日、私は外に出るわ」
エルナが目を丸くする。
「は? 今この状況で?」
「だからこそ」
リシェルは淡々と言う。
「噂が私を“像”にする前に、私は私のままで歩く。像は鎖になる。歩く人間は鎖になりにくい」
カイエンが低く頷いた。
「お守りします」
「ええ」
リシェルは微笑む。
「あなたが影でいる限り、私は光に縛られない」
エルナは渋い顔をして、でも小さく笑った。
「……ほんと、変な人」
「そう?」
「うん。でも……嫌いじゃない」
その言葉は軽い。
でも軽い言葉ほど、胸に残る。
王都の噂は反転した。
悪役令嬢は被害者になり、被害者は疑われ、正義は迷子になった。
でもリシェルは、救いを求めない。
許しも断罪も同じ鎖だと知っているから。
彼女が欲しいのは、ただ一つ。
嘘に触れないこと。
そのために、甘く微笑み、冷たく距離を取り、今日も静かに夜を越える。
風が変わる夜。
鎖が増える夜。
それでも彼女は、扇子を閉じる音で自分を保っていた。
2
あなたにおすすめの小説
修道女エンドの悪役令嬢が実は聖女だったわけですが今更助けてなんて言わないですよね
星井ゆの花(星里有乃)
恋愛
『お久しぶりですわ、バッカス王太子。ルイーゼの名は捨てて今は洗礼名のセシリアで暮らしております。そちらには聖女ミカエラさんがいるのだから、私がいなくても安心ね。ご機嫌よう……』
悪役令嬢ルイーゼは聖女ミカエラへの嫌がらせという濡れ衣を着せられて、辺境の修道院へ追放されてしまう。2年後、魔族の襲撃により王都はピンチに陥り、真の聖女はミカエラではなくルイーゼだったことが判明する。
地母神との誓いにより祖国の土地だけは踏めないルイーゼに、今更助けを求めることは不可能。さらに、ルイーゼには別の国の王子から求婚話が来ていて……?
* この作品は、アルファポリスさんと小説家になろうさんに投稿しています。
* 2025年12月06日、番外編の投稿開始しました。
聖女を追放した国が滅びかけ、今さら戻ってこいは遅い
タマ マコト
ファンタジー
聖女リディアは国と民のために全てを捧げてきたのに、王太子ユリウスと伯爵令嬢エリシアの陰謀によって“無能”と断じられ、婚約も地位も奪われる。
さらに追放の夜、護衛に偽装した兵たちに命まで狙われ、雨の森で倒れ込む。
絶望の淵で彼女を救ったのは、隣国ノルディアの騎士団。
暖かな場所に運ばれたリディアは、初めて“聖女ではなく、一人の人間として扱われる優しさ”に触れ、自分がどれほど疲れ、傷ついていたかを思い知る。
そして彼女と祖国の運命は、この瞬間から静かにすれ違い始める。
婚約破棄された聖女様たちは、それぞれ自由と幸せを掴む
青の雀
ファンタジー
捨て子だったキャサリンは、孤児院に育てられたが、5歳の頃洗礼を受けた際に聖女認定されてしまう。
12歳の時、公爵家に養女に出され、王太子殿下の婚約者に治まるが、平民で孤児であったため毛嫌いされ、王太子は禁忌の聖女召喚を行ってしまう。
邪魔になったキャサリンは、偽聖女の汚名を着せられ、処刑される寸前、転移魔法と浮遊魔法を使い、逃げ出してしまう。
、
【完結】全てを後悔しても、もう遅いですのよ。
アノマロカリス
恋愛
私の名前はレイラ・カストゥール侯爵令嬢で16歳。
この国である、レントグレマール王国の聖女を務めております。
生まれつき膨大な魔力を持って生まれた私は、侯爵家では異端の存在として扱われて来ました。
そんな私は少しでも両親の役に立って振り向いて欲しかったのですが…
両親は私に関心が無く、翌年に生まれたライラに全ての関心が行き…私はいない者として扱われました。
そして時が過ぎて…
私は聖女として王国で役に立っている頃、両親から見放された私ですが…
レントグレマール王国の第一王子のカリオス王子との婚姻が決まりました。
これで少しは両親も…と考えておりましたが、両親の取った行動は…私の代わりに溺愛する妹を王子と婚姻させる為に動き、私に捏造した濡れ衣を着せて婚約破棄をさせました。
私は…別にカリオス王子との婚姻を望んでいた訳ではありませんので別に怒ってはいないのですが、怒っているのは捏造された内容でした。
私が6歳の時のレントグレマール王国は、色々と厄災が付き纏っていたので快適な暮らしをさせる為に結界を張ったのですが…
そんな物は存在しないと言われました。
そうですか…それが答えなんですね?
なら、後悔なさって下さいね。
悪役令嬢に仕立て上げたいなら、ご注意を。
潮海璃月
ファンタジー
幼くして辺境伯の地位を継いだレナータは、女性であるがゆえに舐められがちであった。そんな折、社交場で伯爵令嬢にいわれのない罪を着せられてしまう。そんな彼女に隣国皇子カールハインツが手を差し伸べた──かと思いきや、ほとんど初対面で婚姻を申し込み、暇さえあれば口説き、しかもやたらレナータのことを知っている。怪しいほど親切なカールハインツと共に、レナータは事態の収拾方法を模索し、やがて伯爵一家への復讐を決意する。
婚約者を奪われるのは運命ですか?
ぽんぽこ狸
恋愛
転生者であるエリアナは、婚約者のカイルと聖女ベルティーナが仲睦まじげに横並びで座っている様子に表情を硬くしていた。
そしてカイルは、エリアナが今までカイルに指一本触れさせなかったことを引き合いに婚約破棄を申し出てきた。
終始イチャイチャしている彼らを腹立たしく思いながらも、了承できないと伝えると「ヤれない女には意味がない」ときっぱり言われ、エリアナは産まれて十五年寄り添ってきた婚約者を失うことになった。
自身の屋敷に帰ると、転生者であるエリアナをよく思っていない兄に絡まれ、感情のままに荷物を纏めて従者たちと屋敷を出た。
頭の中には「こうなる運命だったのよ」というベルティーナの言葉が反芻される。
そう言われてしまうと、エリアナには”やはり”そうなのかと思ってしまう理由があったのだった。
こちらの作品は第18回恋愛小説大賞にエントリーさせていただいております。よろしければ投票ボタンをぽちっと押していただけますと、大変うれしいです。
偽聖女として私を処刑したこの世界を救おうと思うはずがなくて
奏千歌
恋愛
【とある大陸の話①:月と星の大陸】
※ヒロインがアンハッピーエンドです。
痛めつけられた足がもつれて、前には進まない。
爪を剥がされた足に、力など入るはずもなく、その足取りは重い。
執行官は、苛立たしげに私の首に繋がれた縄を引いた。
だから前のめりに倒れても、後ろ手に拘束されているから、手で庇うこともできずに、処刑台の床板に顔を打ち付けるだけだ。
ドッと、群衆が笑い声を上げ、それが地鳴りのように響いていた。
広場を埋め尽くす、人。
ギラギラとした視線をこちらに向けて、惨たらしく殺される私を待ち望んでいる。
この中には、誰も、私の死を嘆く者はいない。
そして、高みの見物を決め込むかのような、貴族達。
わずかに視線を上に向けると、城のテラスから私を見下ろす王太子。
国王夫妻もいるけど、王太子の隣には、王太子妃となったあの人はいない。
今日は、二人の婚姻の日だったはず。
婚姻の禍を祓う為に、私の処刑が今日になったと聞かされた。
王太子と彼女の最も幸せな日が、私が死ぬ日であり、この大陸に破滅が決定づけられる日だ。
『ごめんなさい』
歓声をあげたはずの群衆の声が掻き消え、誰かの声が聞こえた気がした。
無機質で無感情な斧が無慈悲に振り下ろされ、私の首が落とされた時、大きく地面が揺れた。
【完結】聖女と結婚ですか? どうぞご自由に 〜婚約破棄後の私は魔王の溺愛を受ける〜
綾雅(りょうが)今年は7冊!
恋愛
【表紙イラスト】しょうが様(https://www.pixiv.net/users/291264)
「アゼリア・フォン・ホーヘーマイヤー、俺はお前との婚約を破棄する!」
「王太子殿下、我が家名はヘーファーマイアーですわ」
公爵令嬢アゼリアは、婚約者である王太子ヨーゼフに婚約破棄を突きつけられた。それも家名の間違い付きで。
理由は聖女エルザと結婚するためだという。人々の視線が集まる夜会でやらかした王太子に、彼女は満面の笑みで婚約関係を解消した。
王太子殿下――あなたが選んだ聖女様の意味をご存知なの? 美しいアゼリアを手放したことで、国は傾いていくが、王太子はいつ己の失態に気づけるのか。自由に羽ばたくアゼリアは、魔王の溺愛の中で幸せを掴む!
頭のゆるい王太子をぎゃふんと言わせる「ざまぁ」展開ありの、ハッピーエンド。
※2022/05/10 「HJ小説大賞2021後期『ノベルアップ+部門』」一次選考通過
※2021/08/16 「HJ小説大賞2021前期『小説家になろう』部門」一次選考通過
※2021/01/30 完結
【同時掲載】アルファポリス、カクヨム、エブリスタ、小説家になろう
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる