悪役令嬢と呼ばれた私に裁きを望むならご自由に。ただし、その甘露の罠に沈むのはあなたですわ。

タマ マコト

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第12話:黒幕の影、グレイオスが近づく

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 崩れる音がすると、必ず寄ってくるものがある。
 瓦礫を片づける人じゃない。
 瓦礫を拾って、宝石みたいに磨こうとする人だ。

 王太子派閥が揺れた。
 あの夜の手紙、導線、買収の失言。
 噂は王都を駆け、貴族たちは距離を取り、忠誠は薄い紙みたいに剥がれ始めている。

 こういう時に動くのは、正義の人間じゃない。
 “勝てる匂い”を嗅ぎつける人間だ。

 グレイオス・ダルマント。
 策略家。
 貴族でもあり、商人でもあり、政治家でもある。
 立場を着替えるのが上手い男。
 着替えるたびに、顔まで変わるタイプ。

 彼が動いたのは、偶然じゃない。
 偶然に見せるのが、彼の技術だ。

 その日の午後、リシェル・ノワゼルは王都のサロンに招かれていた。
 ここは貴族の茶会――表向きは優雅な交流。
 裏は噂の取引所。
 香りのいい紅茶と、香りの悪い情報が同じテーブルに並ぶ場所だ。

 リシェルは夜色のドレスに、控えめな黒い石の髪飾り。
 いつも通り整った姿で、いつも通り微笑んでいた。
 微笑みは甘い。
 でも甘さは、口に入れた瞬間じゃなく、飲み込んだあとに刺さる。

 エルナは侍女として背後に控えている。
 目は鋭く、顔は無愛想。
 最近、彼女は人混みが嫌いになった。
 尾行の記憶が、影を濃くしてしまったから。

 カイエンは影にいる。
 いるのに見えない位置。
 見えないのに、空気が守られている位置。
 それが彼の居場所だ。

 サロンの主催者が、笑顔でリシェルを迎えた。

「ノワゼル伯爵令嬢、ようこそ。お噂は……ええ、もう本当に、心が痛みます」
 心が痛いと言いながら、目がきらきらしている。
 痛みは物語のスパイスだから。

「ご配慮、感謝いたします」
 リシェルは礼儀正しく返す。
 同情も、崇拝も、受け取らない温度。

 そこへ――男が近づいてきた。

 背が高い。
 銀に近い金髪。
 視線が滑らかで、笑みが上手い。
 上手い笑みは、心を開かせる。
 開いた心から、欲が覗く。

「初めまして、リシェル・ノワゼル嬢」
 男の声は柔らかい。
 柔らかいのに、芯がある。
「グレイオス・ダルマントと申します。あなたに一度、ご挨拶したかった」

 エルナの指先が一瞬だけ動いた。
 “危ない匂い”に反応した時の癖。
 リシェルはそれを見て、扇子をほんの少しだけ揺らす。
 合図。落ち着け、という合図。

「ダルマント卿」
 リシェルは微笑みながら一礼した。
「お名前は存じ上げております。王都で知らぬ者はいませんわ」

「光栄です」
 グレイオスは軽く頭を下げ、すぐに視線を上げる。
 視線を上げるのが早い。
 早い人間は、相手の反応を食べて生きる。

「あなたの噂も、耳にしています」
 グレイオスは穏やかに言う。
「不当な断罪。巧妙な罠。……それでも優雅に立ち続けた令嬢」

 その言葉は甘い。
 褒め言葉の形をしている。
 でも匂いが違う。
 蜜の匂いだ。取り込むための蜜。

 リシェルは笑う。
 受け取ったふりをする笑い。
 でも心は受け取らない。
 受け取らない笑いが、いちばん相手を焦らせる。

「噂というものは、風ですもの」
 リシェルは淡々と言う。
「風に名前をつけても、形は変わりますわ」

「だからこそ、風を操る者が必要です」
 グレイオスはすぐに続けた。
 言葉が滑らかだ。滑らかすぎる。
「あなたは賢い。私はあなたの賢さが好きだ。……私と組めば、誰もあなたを裁けない」

 それは誘いというより、提案の顔をした命令に近い。
 “組めば”の裏に、“組め”がある。

 エルナが唇を噛んだ。
 嫌な甘さ。
 闇組織が使う甘さと似ている。
 褒めて縛って、期待で縛って、断れなくするやつ。

 リシェルは、断らない。
 肯定もしない。
 ただ、礼儀正しく微笑んだ。

「……そうですの」
 たったそれだけ。
 相槌。
 でも空っぽの相槌。
 空っぽの相槌は、人を不安にする。
 不安になった人間は、もっと喋る。

 グレイオスは微笑みを深くした。
 “刺さった”と思ったのだろう。
 刺さってないのに、刺さったと勘違いする。
 その勘違いが、欲を引き出す。

「王太子派閥は崩れる」
 グレイオスは声を落とす。
 秘密の音。
「崩れた瓦礫は、誰かが片づける。だが私は違う。瓦礫を利用して、新しい秩序を作る」

 秩序。
 彼はそれを“支配”と言わない。
 支配は嫌われる。
 秩序は好かれる。
 言葉の衣替えが上手い。

 リシェルは目を細める。
 微笑みは変えない。
 変えないから、相手は“聞いてくれてる”と錯覚する。

「新しい秩序、ですか」
 リシェルはゆっくりと繰り返す。
 繰り返しは、相手を気持ちよくさせる。
 “理解された”と勘違いする。

「そう」
 グレイオスは頷く。
「あなたはその象徴になれる。被害者でありながら、誰より強い。民衆はあなたを求める。貴族はあなたを恐れる」

 エルナが小声でぼそっと言った。
「……勝手に決めんな」
 小声すぎてグレイオスには届かない。
 でもリシェルには届く。

 リシェルは扇子で口元を隠して、微かに笑った。
 味方の反抗は、蜜より甘い。

「象徴って、重いですわね」
 リシェルは淡々と言う。
「私は軽いものが好きですの。風とか、紅茶の湯気とか」

 グレイオスの笑みが、ほんの一瞬だけ歪んだ。
 軽いものが好き、という言い方は、彼の“重い支配”を遠回しに嫌がっている。

 でも彼は気づかないふりをする。
 気づかないふりをする人間は、自分の計画に酔っている。

「軽いものだけでは、世界は動かない」
 グレイオスは優しく諭す口調になる。
 諭す口調は、“上”に立つ口調だ。
「あなたはもう、ただの令嬢ではない。あなたは器だ」

 器。
 その言葉は甘いようで、冷たい。
 人を人ではなく“入れ物”にする言葉。

 リシェルの微笑みは、変わらない。
 けれど瞳の奥の温度が、ひとつ下がった。

「器、ですか」
「そう。君は私の器だ」
 グレイオスはさらりと言った。
 さらりと言ったからこそ、傲慢が滲む。
「君の優雅さと、君の知性と、君の“黒”は、私の秩序にふさわしい」

 エルナが今度ははっきりと眉を吊り上げた。
 拳が握られる。
 過去の闇組織の言い方と同じだ。
 “お前は道具”という言い方。
 それを上品な言葉で包んだだけ。

 カイエンの気配が、ほんの少しだけ濃くなる。
 影が刃を研ぐ匂い。
 でも彼は動かない。
 動けば、相手の思うつぼになるからだ。

 リシェルは、断らない。
 否定もしない。
 ただ、相手に喋らせる。

 彼女は微笑み、ほんの少し首を傾げた。

「……ダルマント卿は」
 リシェルはゆっくり訊く。
「私を裁かない、とおっしゃいましたね」

「裁かない。守る」
 グレイオスは即答した。
「君を裁ける者など、私が許さない」

 許さない。
 その言葉は、守りの顔をした支配だ。
 守ると言いながら、決定権を奪う。
 そういう男の匂い。

 リシェルは、その匂いを吸い込んで、甘く微笑んだ。
 蜜の匂い。
 でも彼女の蜜は毒を含む。
 毒は今、まだ垂らさない。
 相手がもっと喋って、もっと自分で穴を掘るまで待つ。

「……素敵ですわ」
 リシェルは言った。
 素敵、という言葉が空っぽだと、彼は気づかない。

 グレイオスの目が細くなる。
 喜びの目。
 勝った気になる目。

「君は理解が早い」
 彼は満足げに言った。
「だから私は君が欲しい。……王太子が崩れた後、混乱が起きる。民衆は新しい光を求める。そこで君が立てば、世界は――」

 グレイオスは語る。
 語れば語るほど、欲が出る。
 欲が出れば、隙が出る。
 隙が出れば、破滅の種になる。

 彼は気づかない。
 今自分が、自分の野望を、他人の耳に丁寧に置いていることに。

 リシェルはただ微笑み、相槌を打つ。
 相槌は甘い。
 甘いから、彼はもっと喋る。

「君は、私の秩序の女王になれる」
 グレイオスの声が、陶酔に濡れる。
「君が微笑めば、誰も逆らえない。君が黙れば、誰も言い訳できない」

 リシェルは一瞬だけ、まぶたを落とした。
 その瞬きは短い。
 でもその短さに、“拒絶”が含まれている。

 ――あなたは私を理解していない。
 ――私は誰の秩序にもなりたくない。
 ――私は鎖が嫌いなの。

 けれど彼女はそれを口にしない。
 口にした瞬間、彼の甘い言葉の舞台に乗ってしまうから。

 代わりに、礼儀正しく微笑む。

「……今夜は、良いお話をありがとうございました」
 それは終わらせる言葉。
 でも拒絶じゃない。
 拒絶じゃないふりをすることで、相手を油断させる。

 グレイオスは満足げに頷いた。

「また会おう、リシェル嬢」
 彼は手を取ろうとする。
 リシェルは一歩だけ、自然に距離を取った。
 距離を取るのが優雅すぎて、拒絶に見えない。

 グレイオスは気づかない。
 気づかないまま、甘い笑みを残して去っていく。

 彼が去った瞬間、エルナが吐き捨てるように言った。

「……あいつ、無理」
「わかる」
 リシェルは小さく笑った。
「でも、いいわ。よく喋ってくれた」

「なんで止めなかったの?」
「止めたら、彼は黙る。黙ると厄介よ」
 リシェルは淡々と言う。
「喋る人間は、自分で穴を掘る。穴を掘った場所は、星が覚える」

 カイエンが静かに言った。

「……危険な男です」
「ええ」
 リシェルは微笑む。
「だから近づいたの。危険は、近くで見た方が形がわかる」

 エルナが眉をひそめる。

「近づくのが怖くないの?」
「怖いわよ」
 リシェルはさらりと答えた。
「でも怖いからこそ、私の方から距離を測るの。測らないと、いつの間にか鎖が巻きつく」

 カイエンは頷く。
 影の騎士は、鎖の音に敏感だ。

 リシェルは扇子を閉じた。
 ぱち、と小さな音。
 その音は、“次の段階”の合図みたいに静かだった。

 グレイオスは気づかない。
 自分の甘さに酔っているから。
 「君は私の器だ」と言った傲慢が、すでに破滅の種だと気づかない。

 種は、土に埋めなくても芽を出す。
 欲という土が、そこらじゅうにあるから。

 そしてリシェルは、その芽が出る瞬間を、甘い沈黙で待つ。
 蜜の黒は、毒を急がない。
 毒は、最後に一滴でいい。
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